2016年4月13日水曜日

戦国時代の摂津国池田氏に関わる寺社

現代社会のように、個人の生命と財産を守る権利や義務が客観的には遠く、多分に主観的であった時代には、個人の基本的人権を守るためには集団に属する外無く、そういう社会単位の中で、精神的な欲求を満たす様々な要素が存在します。それは、現在社会よりも深くて広く、それを求める苦しい時代だったためとも感じます。あらゆる階層でそれらは求められ、全国に通じるブランド力を持つ要素から、土着の要素まで、様々な宗教的要素が摂津池田家の支配地域内にあります。当時の社会を理解する上でも、宗教的要素を考察することは欠かせないと思います。
 その領域には非常に古い歴史を持つ遺物が多く残りますので、それらを当時、どのように感じ、利用していたかも理解できたらと思います。
 また、池田家との関係を持つ宗教施設には、当然密接な関係にもありますので、情報網としての役割や同時に有事には軍事施設(拠点)としても機能した事でしょう。現に江戸時代には、そのような役割を寺は持っています。
 それぞれの成り立ちや経緯から、その可能性について考えてみたいと思います。ここでは、細郷の外側の地域の要素を取り上げます。

各項目の出典は、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。


◎ご注意とお願い:
 『改 訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。ま た、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の 消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企 画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ 宜しくお願いいたします。


◎曹洞宗 塩増山 大広寺(池田市綾羽)
  • 五月山の中腹にある。曹洞宗。塩増山と号し本尊は釈迦如来。大広寺略記(寺蔵)によると、応永2年(1395)のちに総持寺(現石川県鳳至郡門前町)の住持となった天厳宗越の開山という。文明年間(1469-87)池田城主池田充正は当時の住持祥山に帰依、諸堂宇を再建し、さらに五月山上に望海亭を建て修禅の場とした。当寺の創建を充正と伝えるのは、その遺徳をたたえ開基として奉祀してきたことによる。山号について「摂津名所図会」は「むかし此山中に池あり。潮の満干あして海水の如し。当寺を創建の時池を埋み、其旧蹟を遺して山号を塩増山という」と記す。
     天正3年(1575)池田知正(重成)は織田信長の石山本願寺(跡地は現中央区)攻めに出陣したが、その留守中に家臣の荒木村重に池田城を支配され、当寺は伊丹(現兵庫県伊丹市)に移転させられた。その地は後に大広寺町となったという(大広寺略記)。慶長の初め知正により旧地の現在地に復興された。同9年(1604)に知正、翌10年に甥で養子の三九郎が没し、当山に葬られた。知正の弟で三九郎の父池田光重は同年両人の画像を寺に納め、さらに同14年には追善菩提のため梵鐘を寄進している。
     塔頭に泉福院・明悟院・陽春庵があったが、明治8年(1875)泉福院は大阪に、同11年明悟院は豊中(現豊中市)に移転、陽春庵は陽春寺と改称し独立した(大阪府全志)。墓地上段の歴代住持の墓塔の傍らに知正と三九郎の墓である五輪塔が2基ある。それに並んで天文・慶長年号の一石五輪塔が多数あり、墓地の西口には「乾逆修永禄7年甲子3月15日」の刻銘のある花崗岩製地蔵石仏が立つ。本堂玄関前の血天井は前掲略記によると、永正5年(1508)池田落城の際、池田家菩提寺である当山に城主貞正以下が逃げ込み、自刃した血の痕の縁板を天井に用いたものという。
     なお当山は古くから文人墨客とのかかわりがあり、文明12年には京都南禅寺僧で詩人としても有名な景三が祥山の依頼で望海亭記(寺蔵)を著し、永正頃連歌師牡丹花肖柏が止宿、池田氏一族に連歌の愛好者を生んだ。下って文化元年(1804)田中桐江撰文の牡丹花隠君遺愛碑が建てられ、文政9年(1826)の肖柏の300年忌には山川正宣によって牡丹花翁三百年忌懐旧和歌一巻(寺蔵)が当寺に納められた。【地名:大広寺】

◎大広寺村(伊丹市宮ノ前)
  • 伊丹郷町を形成する15ヵ村の一村。郷町から中山寺(現宝塚市)へ向かう街道に位置する。地名の由来は摂津池田村の大広寺を荒木村重の時代に移転させたことにちなむ。有岡落城後に寺は池田に戻った(「穴織宮拾要記」伊居太神社蔵)。文禄伊丹之図に村名がみえ、寛文9年(1669)の伊丹郷町絵図には村はなく、大広寺畠が載る。村高は天和3年(1683)頃の摂津国御料私領村高帳では伊丹内大広寺畑として高40石余。元禄郷町でも伊丹町(村)と一括だが、享保20年(1735)の摂河泉石高調や天保郷帳では伊丹町から分離されて高44石余。ただし天保郷帳には「伊丹町之内」と注記されている。領主の変遷は初め幕府領、寛文元年近衛家領、延宝3年(1675)に幕府領に戻り、天和元年京都所司代稲葉正通領になるが同3年再び幕府領に戻り、貞享3年(1686)武蔵忍藩領、文政6年(1823)幕府領に戻り、明治維新を迎えた(伊丹市史)。宝暦5年(1755)の付込帳(伊丹市立図書館蔵)では家数は百姓7・水呑8・店借45。(後略)。【地名:大広寺村】

◎大広寺末 曹洞宗 向泉山 自性院(池田市渋谷)
  • 池田村の東に位置し、北東は畑村に接する。渋谷村は五月山から南に連なる大地上にあり、村の南西端を能勢街道が通る。上渋谷村と称したこともある(元禄郷帳)。慶長10年(1605)の摂津国絵図に村名がみえ、高247石余。元和初年の摂津一国高御改帳では、幕府領村上孫左衛門預であるが、その後麻田藩領となり幕末に至る。(中略)。ところで、上渋谷村は古くは南畑村と称し畑村と一村であったという伝承があること(大阪府全志)、産土神は畑村の天満神社であること、上渋谷村集落が畑村の西畑集落と連なり一村の観を呈することから、南畑の地が畑村から分立して成立した村と推定されている。当村は台地上村落であることから、農耕には溜池灌漑が重要な役割を果たした。年不詳の増補御領地雑事記(森本家蔵)には多くの池が記される。天文元年(1532)大広寺の六世雪岫の創立と伝える曹洞宗自性院がある。【地名:渋谷村】
  • 創建は天文元年。大広寺六世雪岫大和尚禅師(せっしゅうだいおしょうぜんじ)の開山と伝えられています。始祖は玄那莫道大和尚禅師(げんなばくどうだいおしょう)で、本堂裏に昭和6年六世建立の歴代住職墓碑があります。村寺として、上渋谷の人々の篤い信仰からの寄進による建立であったと思います。
     現在の本堂は阪神大震災で全壊に近い被害を受け、平成15年12月に再建されたものです。この時に古い遺物が大分散逸したようです。もとは東側の墓地の場所に本堂・庫裏があって、西側は雑木林が鬱蒼と茂っていました。南側に以前の三門が残されていて往時が偲ばれます。現在の境内は広く明るく、新しい「観音石像」で摂北第25番札所となっています。両脇は達磨大師・天元大師木像が安置されています。
     ひと際目立つ巨木が有名な「カイズカイブキ」で池田市の史跡・名勝・天然記念物の指定を受けています。創建の頃、当時珍しかったこの木が植えられました。寺と共に500年近く経て来た生命力に感動します。説明板には350年と書かれています。幹の太さは根元が約4メートル、高さは約13メートル、枝は14メートル程も茂っています。春には花を咲かせ実をつけます。
     関西では生垣や庭木に良く使われる樹木です。自然環境が変化する中で、巨木の今後の生育が心配されます。無住の時代があって、現在の住職は10世に当たります。【改訂版 池田歴史探訪:自性院】
  • 渋谷村は、経緯があってその村名に落ち着いたらしいが、「渋谷」と名付ける理由もまたあったはずで、それが何であるのかは解らない。同村は、その経緯からすると、南畑村から上渋谷村の名を名乗る事を経ていたらしいが、戦国時代の年記未詳であるが、永禄11年と推定される2月3日付の史料に、渋谷対馬守なる人物が確認できる。これは池田城主の池田勝正が、摂津国垂水庄南郷目代今西宮内少輔への音信で、「渋対(渋谷対馬守某)」が使者に立っている。渋谷姓は、幕府関係社にも居るため、その系統の人物の可能性もあるがしかし、可能性としては畑村の渋谷氏の可能性が高いように思える。
     畑村の中に「渋谷」にゆかりを持つ何かがあって、それが村の名前に変わっていったのではないかとも思われる。渋谷対馬守という有力者にちなむものかもしれないが、詳しくはわからない。渋谷氏については、この1点の史料しか、今のところ見出せていない。後に台頭する荒木村重は、基本的に前政権の人材を登用しない傾向であり、村重の活動で見られないという事は、池田氏政権で用いられた土着の人物であったのかもしれない。
     また一方で、畑村には、荒木姓も多い。これも何か気になるところでもある。もしかすると、鉱物の採掘などの関係があったかもしれない。
     畑や渋谷は、五月山からの古道が通じていて、高山方面などの奥地へ繫がっており、南北に通じる近世の巡礼道と呼ばれる道と交差する。山と里との結節点ともなっている。この道は、人の行き来も多かったらしく、その要素もあって人が集まり、村が大きくなったようである。他方、その事は戦国時代においては、要所であり、有力者が輩出される素地もあり得たと考えられる。【俺】

◎大広寺末 曹洞宗 圓通山 吉祥寺(池田市畑)
  • 渋谷村の北東に広がる大村で南北に長い。北部は五月山から北東に連なる山地帯。集落はその南の山麓部に点在する。文禄3年(1594)9月浅野弾正の行った検地帳写(奥村家文書)によると、村高356石余で名請人は138人。同検地は畑村一村でなされているが、当時から集落は東西二つに分かれており、「在西」「在東」と記した記録もある(同文書)。慶長10年(1605)摂津国絵図には東畑村・西畑村合わせて356石余と記すが、江戸時代を通じ行政的には常に畑村一村で扱われている。しかし、実質的には東畑・西畑の区別があったことは奥村家文書などに明らかで、村域が広かったこともあってか庄屋2・年寄4・百姓代2という村役人構成をとっている(同文書)。
     元和初年の摂津一国高御改帳では幕府領村上孫左衛門預196石余、旗本山田清大夫知行160石となっているが、その後麻田藩領となり幕末に至る。(中略)。
     「摂津名所図絵」は村内名所として石積滝(石澄滝)、秦山の喬松三株をあげる。この喬松は衣懸松で、呉織(くれは)と穴織(あやは)の二女が絹をこの松にかけ、干したとの伝承をもつ。産土神は天満宮で、文禄4年に再建され、この時同社の宮座が結成された。この再建のため村の32軒の者が草山を財源にあて、その年貢代として永定米一軒2合1勺を弁納することにし、この子孫および分家が宮座株となった。(中略)。
     曹洞宗吉祥寺は、天文21年(1552)大広寺六世雪岫の弟子正治の創立。同宗西福寺は天正5年(1577)僧門仙の創立という。【地名:畑村】
  • 山手線バス停「畑」下車、少し東へ行くと山側に地蔵さんがあって、坂道を登ったところに吉祥寺があります。「西福寺」「自性院」と共に大広寺末の禅寺がまとまっています。「西畑」「東畑」「渋谷」それぞれ一村一寺となっています。昔は寺を通じて寺社奉行が寺の管理と村人の支配や訴訟を司っていました。
     吉祥寺も東畑の村寺として、村人によって維持されてきました。当寺の開山は室町時代後期、天文21年(1552)大広寺六世雪岫禅師の弟子、僧・正恰(せいこう)と伝えられています。ご本尊は阿弥陀仏坐像となっています。同じ禅寺でも釈迦牟尼仏(西福寺)や観世音菩薩(自性院)とご本尊が違います。
     本堂正面に掲げられている瑞光殿の額は当寺の古い歴史を語っています。戦国時代・江戸時代を経て、450年間戦乱や無住職の時代もあって現在に至っています。【改訂版 池田歴史探訪:吉祥寺】

◎大広寺末 曹洞宗 玉蔵山 西福寺(池田市畑)
  • 石垣のある高台に禅寺らしい飾りけのない簡素な佇まいに心が落ち着きます。西畑・東畑村の村寺として住民が長い間、親しみ守り立てて来た暖かさを感じます。境内に村の子ども達が集まって、鬼ごっこやチャンバラごっこなどをして騒ぐ様子が目に見えるようです。
     開山は天正5年(1577)、大広寺の明仙大和尚禅師と伝えられます。ご本尊は釈迦牟尼仏両脇に道元禅師・瑩山禅師(けいさんぜんじ)木像が安置されています。【改訂版 池田歴史探訪:吉祥寺】
  • 玉蔵山と号し、曹洞宗の総持寺末で、釈迦牟尼仏を本尊に天正5年(1577)の創立で、天保10年(1839)の再建であります。大正11年(1922)に火災に遭って焼失しましたが、同年に再建して今日に至っております。門前の枝垂れ桜は美しい花を咲かすと云われています。【池田市内の寺院・寺社摘記:西福寺】

◎真言宗 待兼山 高法寺(池田市綾羽)
  • ただいま編集中。少々お待ち下さい。

◎浄土真宗 本願寺派 大西山 弘誓寺:ぐぜいじ(池田市綾羽)
  • ただいま編集中。少々お待ち下さい。

◎日蓮宗 京都本満寺末 瑞光山 本養寺(池田市綾羽)
  • 日蓮宗。瑞光山と号し、本尊は十界大曼荼羅。応永年中(1394-1428)の創建と伝え、寺蔵の近衛様御殿御由緒書によると、関白近衛道嗣の子で、京都本圀寺の第5世日伝の嫡弟玉洞妙院日秀の創建という。当寺諸記録によると、室町時代には「近衛様御寺」とよばれ、江戸時代には六代将軍徳川家宣の御台所熙子(天英院)が、近衛基熙の女であることから、将軍家より寺領が寄進され、また熙子の妹功徳池院脩子を妃とした閑院宮直仁親王からも上田一反余を寄進されている。元禄4年(1691)から同8年にかけて、壇越大和屋一統の援助により再建された。現在の堂宇はその時のもの。本堂安置の応永8年銘の日蓮像は、後小松天皇の帰依があつかったという。境内に日蓮が鎌倉松葉谷で開眼供養をしたと伝える鬼子母神を祀る鬼子母神堂、大和屋一族で酒造家西大和屋の主人でもあり、安政2年(1855)「山陵考略」を著した山川正宣の墓がある。なお、当寺は「呉春の寺」と俗称されるが、天明2年(1782)文人画家で池田画壇に大きな影響を与えた四条派祖松村月渓が寄寓、呉羽の里で春を迎えたことにより呉春と改名したことに由来する。彼の襖絵が残る。【地名:本養寺】
  • 井戸の辻から「呉春酒造」の前を過ぎ、「稲束家」を左手に五月山の麓近く足下に「本養」の道標が地中に半分埋まっている細い路地を左へ入ると「本養寺」があります。
     当寺は酒造家「西大和屋」山川氏の菩提寺であると共に「呉春寺」とゆかりの深いお寺です。創建は室町初期、応永16年(1409)近衛前関白左大臣道嗣の末子「日秀上人」の開山とされる由緒ある古刹で、創建時は広大な敷地に多くの塔頭(庵)を有する池田屈指のお寺でした。しかし、荒木村重の伊丹「有岡城」築城に伴って伊丹へ移転させられ、天正7年(1579)有岡城落城で再び池田に還ったとの説もありますが、記録は残っていません。一説では9世が伊丹に「本泉寺」を建立した記録があります。いずれにしても天正年間の移り変わりを経て、次代の歴史を歩むことになりました。
     元禄7年(1694)には本堂が再建され、同14年(1701)には庫裡が再建されました。やがて天明2年(1782)京都から「川田田福」を頼って「松村月渓(呉春)」がやってきて、この本養寺に寄寓し7年間を過ごしました。
     その間の呉春の活躍と影響は、池田の文化に大きな花を咲かせました。本養寺には呉春の襖絵や屏風など数々の作品が残されています。呉春は、与謝蕪村、川田田福をはじめ、日初上人、荒木蘭皐、井関左言、稲束太忠、山川星府、桃田伊信、松村景文などと交際を広め多方面の文化を育みました。その後も西大和屋山川家は本養寺を檀那寺として尽くして第11代目中興の祖と云われる「山川正宣」は町の国学者として偉大な功績を池田に残しました。荒木梅閭、荒木李𧮾、阪上竹外、阪上呉老、井上遅春、山川星府、松下一扇などと交際し、リーダーとして影響を与えました。
     門脇の傍らに元禄12年(1699)建立の「南無妙法蓮華経」の名号法界塔があり、その横には「歯痛止地蔵堂」があります。書院の(宝永5年(1708)建立)呉春の襖絵「若松と鶴」。また松鶴の間、柴狩の間の「欄間」は貴重なものです。
     墓地には「山川正宣」(1790 - 1863:74歳歿)の墓、俳人「山川星府」の墓、俳人「阪上呉老」の墓があります。現在の本堂は、平成7年に再建されました。【改訂版 池田歴史探訪:本養寺】
  • 綾羽町は、安永6年(1777)の池田村惣百姓連印證によりますれば、「寺垣内」と呼んでいました。地内町と呼ばれ綾羽町となっております。日蓮宗に属しておりまして「瑞光山」と号し、院を洞妙と呼んでいます。本尊は、一塔両尊四天日蓮上人であります。応永16年(1409)5月洛陽本圀寺第5世「日伝」の嫡弟玉洞院日秀(近衛前関白従一位左大臣道嗣の子)当地に来錫(?)の際、時の道俗(僧侶と普通の人)貴賤が一宇を創立しました。即ち日秀上人の開山であります。
     近衛家より天正10年(1582)に現境内及び寺内町の宅地7反歩(1反は約992平方メートルで、約300坪)余を、又閑院宮八百姫上田一反歩余を各霊牌に附して寄進しております。現在の境内は500坪余でありますが、本堂、庫裡、書院、玄関、鐘楼堂、四足門、薬医門、刹堂、祖師堂、妙見堂などがあります。
     元禄4年(1691)の檀頭の山川㽵右衛門など外一統が協力して本堂及諸堂内改築に着手し、同8年落成しておりますが、更に明治41年から大正2年までの間に大修理を施して、殆ど旧観をを呈するに至りました。開山より現在に至るまで、実に40数代であり、約500年を経て悠々ご隆昌と聞いております。
    ◎勝手門
    元和年間(1615 - 1623)に徳川家康の娘聟の松平忠明は、夏の陣の後の大坂再建を計画し、その内で寺院の整理を行いました。畢境(つまり)真宗寺のみを町中に止め、その他は周辺部に全部移して「寺のみの町」を造ろうとりました。こうして出来上がったその一つの寺町である谷町八丁目に日蓮宗の本長寺も含まれましたが、昭和40年に天王寺〜天満橋〜北大阪と続く新道路の拡張工事のために当初からの門が破棄されることとなりました。その寸前に当本養寺の難波瑞竜師が貰い受けて、勝手門にされたという経緯があります。
     即ち大阪から移建されて入れ替わっているのですが、従前より在ったものより却って古い建築物でありましたので、気付かれる人も少なく、上記の理由を知っている人も余り無いのではないでしょうか。そして形式は、薬医門で本瓦葺に板蛙股を置き、正面蛙股下には貫を突してありますが、その全てに桃山風が残っています。
    ◎当寺は酒造家で有名な東・西大和屋の菩提寺でありまして、境内の東書院は大和屋の一建立にかかります。寺域には大和屋一門の墓所があります。東大和屋の山川星府と西大和屋の第11代の主人公であった山川正宣については「人物」で記述します。
    ◎蕪村の門人で、月渓と号して絵画と俳句をよくしました。松村呉春が若かりし時、俳友井筒屋庄兵衛と称した呉服商の川田田福の世話で、西大和屋の食客となっていた頃、一時期この寺の東書院に寄寓して、天分の丹青を練り、後日四条派の揺籃をなしたと云う由縁の寺であります。
     呉春の在池田時代の号は、存白・存允白と称して、世人は、在池田時代の創作を「池田呉春」と呼んでおりました。そして当時には呉春の大作襖絵の「めくり」が保存されておりまして、過去に調査された結果が、池田市史に記載されております。「めくり」は非常に汚損されていて、墨絵の淡彩が赤黒く焼けていて、もはや紙そのものの「ゆう(本質)」を失っていて、触ると粉々となる仕末の模様が記されております。
     同寺には立派な涅槃図が保管されております。即ち、紙本着色、本紙の幅1メートル90センチ、天地2メートル64センチですから相当の大作です。裏には各時代の由来書が沢山あって、それを纏めますと大体下記の様になると記されています。
    1. 寛永20年(1643) 軸の損傷で表具のやり直し
    2. 元禄3年(1690) 要修理のため大和屋一門及び菊屋などの女性ばかりから募財して完了
    3. 天保8年(1837) 3度目の修理を山川屋などが費用を受け持って完了
    この絵は弘治元年(1555)に土蔵入道浄久(18才)によって描かれ、同人から寄進されたものです。 【池田市内の寺院・寺社摘記:本養寺】

◎浄土宗 不断山瑞雲院 西光寺(池田市新町)
  • 浄土宗。不断山と号し、本尊は阿弥陀如来。寺伝によると、天文15年(1546)京都知恩院の徳誉光然の嫡弟で、万里小路秀房の子息満誉祐円が諸国造化の途次当地に止宿、一宇を建立したのに始まる。元禄9年(1696)誠誉のとき諸堂の再建がなされたという。「蓮門精舎旧詞」には「不断山西光寺起立不知、開山善蓮社満誉上人和尚、生国姓氏等不知」とある。山号は、この地にもと一草堂があり、念仏を唱える者があとを絶たない事より不断堂と俗称されていたことによると伝える。本堂前には浄瑠璃「関取千両幟」で知られる力士猪名川政右衛門の墓碑があり、「旭誉円月岳映禅定門」と法名を刻す。また墓地には江戸時代の池田の文人墨客の墓が多数ある。境内に十王堂がある。【地名:西光寺】
  • 西光寺は旧「西国巡礼」に沿って、池田の名酒「緑一」吉田酒造の酒蔵と隣り合う主要街道にあって、道行く人の絶えないメインストリートでした。門前には「右能勢街道・左篠山道」(現在の位置は逆)の道標があって往時が偲ばれます。
     当寺は古くは「不断堂」と呼ばれていました。このお堂に念仏を唱え参るひとが絶えなかったという意味でしょう。
     西光寺となったのは天文15年(1546)京都総本山知恩院の第27世徳誉大僧正の弟祐圓和尚が信徒と共に再建されて名付けられました。現在の本堂は元禄10年(1697)に修理され、文政5年(1822)に再建されたものです。ご本尊は、阿弥陀如来立像でm鎌倉時代の運慶・快慶など慶派の作と伝えられています。脇侍に、姿勢菩薩・観音菩薩が安置される、いわゆる阿弥陀三尊です。
     庫裏は阪神大震災で被害を受けて再建されていますが、以前の建物は元禄12年(1699)のもので書院の「落とし掛け」や「欄間」は建築上傑出したものでした。現在の庫裏に当時の欄間が残されています。本堂の他に十王堂(地獄閻魔大王・十王信仰)、地蔵堂、八幡社、愛宕大権現などの建物がありましたが、その一部が残されています。
     西光寺は文人墨客の往来や町屋との繋がりが深く、墓地には著名人の墓碑が数多くあって、それを物語っています。酒造家の鍵屋・大和屋をはじめ、稲束家の菩提寺として寺は支えられてきました。表境内東側には名力士「猪名川政右衛門」、漢学者「樟蔭翁(山口正養)」、西側には俳人「阪上稲丸(呉服絹の編者)」と大和屋歴代の大きな五輪塔の墓碑があります。また、庫裏の裏側墓地の無縁仏塔群の中に、荒木蘭皐(あらきらんこう)、荒木李𧮾(りけい)、荒木梅閭(ばいろ)の墓があります
     荒木蘭皐は著名な仏教学者富永仲基(とみながなかもと)の弟で11歳の時、酒造家鍵屋の荒木平兵衛の養子となりました。その後、蘭皐は、儒学者田中桐江(たなかとうこう)の門人として学び、その子の李𧮾や梅閭という偉才を育て、池田の文化に多大の功績を残しました。それぞれの人物についての説明は、この頁では省きましたが、ぜひ名前だけは覚えていただきたいと思います。
     ちなみに荒木平兵衛は、荒木村重の直系5代目に当たる人です。墓地は大広寺にあります。【改訂版 池田歴史探訪:西光寺】

◎浄土宗 柳林山 栄根寺(川西市寺畑) ※今は栄根寺遺跡史跡公園になっている。
  • 栄根寺(えいこんじ)は、柳林山と号する浄土宗寺院の跡。聖武天皇の勅願所として建立されたという。文安年間(1444-49)作という栄根寺縁起(大阪府池田市西光寺蔵)によれば行基の開基、多田満仲らが信仰したといい、本尊の鎌倉期の霊験談が記される。中世には多田院に棟別銭を納めるなど同院の勢力下にあった(→栄根村)。
     戦国期に荒木氏の伊丹城落城のとき本堂・伽藍が焼失したが、寺基は残り、寺領も継続された。豊臣秀吉の時代に寺領を召し上げられて、次第に衰退していった。境内除地は東西55間・南北54間で、薬師堂・阿弥陀堂・地蔵堂がある(天保3年「寺畑村明細帳」寺畑部落有文書)。
     寺跡に残された薬師堂には平安時代前期の様風を伝える硬木一材の薬師如来座像があり、県指定文化財。平成7年(1995)の兵庫県南部地震によりこの薬師堂も壊滅するが、薬師如来ほか19体は損害を免れ、市の文化財資料館に保管されている。【地名:栄根寺跡】
  • 栄根寺の現在は川西市花屋敷1丁目にある浄土宗寺院、山号は桜林山。縁起によれば、753年(天平勝宝5)聖武天皇の夢想により行基に命じて薬師堂と薬師如来を作らせたのがはじまりという。最近発掘調査により寺畑1丁目の栄根寺廃寺の境内から白鳳・奈良時代の瓦等が多数出土しており、奈良時代の建立が確認される。本尊薬師如来坐像(県指定文化財)は平安時代の作。縁起は、源満仲による再興と、本尊の霊験談を伝えている。中世後期には、12町歩余の当寺領の反銭を、多田院が徴収している。天正年間(1573~1592)の兵火で荒廃し、1631年(寛永8)から西光寺(現池田市)の支配をうけ、留守僧をおくだけの寺となった。執筆者: 熱田公【Web版尼崎地域史事典『apedia』
  • 西光寺は荒木村重の末裔である池田に戻った荒木氏が檀家となっている関係の深い寺でもある。その西光寺が、村重の家系の荒木氏の縁故地である栄根一帯の栄根寺を早い時期に関わりを持ったことは大変興味深い。全く縁も所縁もないはずはないだろう。この事は、伝承にある荒木村重と池田家の関係を実証する一つの証拠でもあるように思われる。【俺】

◎浄土宗 知恩院末 竹原山・玉蓮院 法園寺(池田市綾羽)
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◎あわん堂(池田市上池田)
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◎浄土宗 医王山 神願院 寿命寺(池田市西本町)
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◎真言宗 多羅山 若王寺 一乗院(池田市鉢塚)
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真言宗 鉢多羅山 若王寺 釈迦院(池田市鉢塚)
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◎真言宗 別格本山 清光山 常福寺(池田市神田)
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◎伊居太神社:いけだじんじゃ(池田市綾羽)
  • 五月山の西麓部に鎮座。祭神は「日本書紀」応神天皇37年・41年条にみえ、日本に機織・裁縫の技術を伝えた工女の一人穴織大神といい、ほかに応神天皇・仁徳天皇を祀る。「延喜式」神名帳の河辺郡七座のうちの「伊居太神社」に比定される。旧郷社。社伝によると応神天皇41年渡来して以降穴織は、呉織とともに機織・裁縫に従事、同時にその技術の指導に努めたが、応神天皇76年9月両工女は没した。仁徳天皇は両工女の功に対して、その霊を祀る社殿を建立、穴織の社を秦上社、呉織の社を秦下社と称したのが当社の始まりという。
     その後も代々天皇の崇敬を受け、延暦4年(785)には桓武天皇の勅により社殿が再建され、応神・仁徳両天皇が相殿として祀られるようになったという。
     延長年間(923-931)には兵乱で社地を失ったが、天禄年間(970-973)多田満仲が再興、以来武将の社殿修造が続いたといわれる。後醍醐天皇は宸翰を秦上社と秦下社に与え、以来秦上社は穴織大明神と称し、秦下社は呉服大明神というようになったと伝える。
     下って慶長9年(1604)豊臣秀頼の命によって片桐且元が社殿を造営した(大阪府全志)。同座地は旧豊嶋郡域で、前述の式内社伊居太神社の河辺郡とは矛盾する。これについて「摂津志」は「旧、在河辺郡小坂田に(中略)池田村旧名呉織里、以固有呉織祠也。中古遷建本社于此、因改里名曰伊居太又改社号曰穴織」と、もともとは河辺郡小坂田(現兵庫県伊丹市)にあったが、中古、当地に遷祀されたとの伝えを記す。一説に、その時期は南北朝時代で池田氏によって遷祀されたという(「穴織宮拾要記」社蔵)。なお現兵庫県尼崎市下坂部に式内社伊佐具神社に隣接して伊居太神社があり、当社が現在地に移されたのち神輿渡御が行われたという御旅所の塚口村(現尼崎市)に近いことから、この地域に鎮座地があったともいわれる(川西市史)。
     末社として両皇大神宮・猪名津彦神社などがある。伊名津彦神社などがある。猪名津彦神社は文化12年(1815)に字宇保の稲荷社(現猪名津彦神社)の床下の石窟より出てきた骨を納めて祀ったといわれている。例祭は10月17日。古くは1月14・15日の両日、長い大綱で綱引きを行ったといわれている。本殿は全国で例のない千鳥破風三棟寄せの造りである。境内には観音堂があったが、栄本町に移転。本尊として十一面観音像が祀られていた。なお呉服神社の近くに姫室とよばれる古墳があったが、これは穴織を葬った地と伝えている。【地名:伊居太神社】
  • 伊居太神社蔵の『穴織宮拾要記(あやはのみやじゅうようき)』にある記述に、「九月塚口村(現尼崎市塚口)へ御輿祭礼ニハ四十二人ハ家々之将束騎馬にて出る、両城主(池田・伊丹)ハ警護之供也。此祭事ハ清和天皇御はじめ被成候。天正之兵乱二御旅所も焼はらい神領も取りあげられ田ニ成下され共当ノ字所之者池田山と云名残りより、其後世治り在々所々ニ家作り、四年めニ九月十七日麁相成御輿を造り、池田・渋谷・小坂田としてむかし之総て還幸をなす所ニ、伊丹やけ野ひよ鳥塚と云所ニて所之百姓大勢出、むかし之勝手ハ成間敷と云、喧嘩してはや太鼓打棒ニて近在より出、御輿打破られ帰り、是より止ニ成り...(以下略)」
     この記述をみるかぎり、9月は塚口村への御輿の御渡りは清和天皇の時代からの重要な祭事で、当時の有力者池田氏と伊丹氏等が後援して、42軒の神人が騎馬装束で供をするならわしであったのが、荒木村重の乱で御旅所が焼き払われ神領も取り上げられた。だが、塚口には池田山という字名も残っているので、世間も治まって4年目になるので(天正9年:1581)新たに御輿をつくり、復興最初の神事として9月17日、塚口の池田山をはじめ、昔の習わしに従って所々の地を回り、伊丹の南のひよ鳥塚(現伊丹市伊丹6丁目)までやってくると、付近の百姓が出て、早太鼓を打ち鳴らし近在の人々を大勢集め棒などで御輿を打ち壊し従供等と喧嘩となり、以前のような勝手なふるまいを許さないと神幸を妨害した。結果それ以後神幸は実施されなくなってしまった。
     清和天皇は別として、天正の乱あたりからおおよそ60年後に書かれたと思われるので、かなり信頼してもよいのではないかと思う。伊居太神社にとっては、塚口神幸は重要な意味があったのだろう。(後略)。【池田郷土研究 第17号:伊居太神社と池田山古墳】 
  • 現池田市の伊居太神社は、麻田 茂氏の研究によれば、(1)式内伊居太神社の原鎮座地は、塚口の池田山ではないか。(2)阿知使主等が停泊した地は、古代海が伊丹段丘の東側猪名川沿いに深く入り込んだ地(伊丹には絲海の名が残る)塚口の池田山付近が考えられる。(3)池田山古墳は猪名川水系古墳群で最古。(4)伊居太神社の祭神は塚口古墳群(猪名川水系古墳群)を築造した氏族集団の祖が池田山古墳の主。(5)古代猪名川水系の両岸は同一生活圏。、としている。【池田郷土研究:「伊居太神社と池田山古墳」:麻田 茂】 
  • 猪名川を圧迫するように東から西へ張り出した五月山の山麓に伊居太神社が立地し、池田の町の防衛上も重要な場所にある。伊居太神社のすぐ西側の眼下に街道を通し、この街道はすぐ北にある木部付近で能勢・妙見・余野街道(摂丹街道)と分岐する。逆に言えば、北部地域からの街道が伊居太神社眼下で合流する。
     また、伊居太神社からは、五月山山上へ通じる山道が3本程ある。池田城からも伊居太神社への道がある。その途次に、的場と云われた場所がある
     中世の戦国領主にとっての祭祀の場所は必ず必要であるし、その主催者としての素養も地域を束ねるには必要とされていた事が近年の研究では注目されてもおり、戦国時代に大きな勢力を持つに至った池田氏にとっても、同様であったであろう事が推察できる。そういった関係もあってか、室町時代と伝わる寺宝も多く所蔵している。その中に、眉間部分を鉄砲で撃ち抜かれたような穴が開いた、錆びた雑賀兜がある。こういった寺宝がある事から見ても、池田城主とのつながりをうかがえるし、当社の宮司は、池田城主の家臣と伝わる家柄でもある。
     ただ、荒木村重の乱(天正元年頃と同6年〜7年)で火災などに見舞われ、それ以前にあったかもしれない文書などは残っていないのが悔やまれる。
    追記:神社蔵の兜は、鎧兜を研究している研究者にも有名な兜であるが、神社側はこれを「朝鮮兜」として展示している。一見して判るし、これは朝鮮兜の類いではない事を断言できるが、なぜそのように表記するか尋ねたところ、韓国の研究者が神社を訪ねたおり、この兜を朝鮮兜だとしたところから、以来そのようにしているとの事だった。
     それを聞いた筆者は、色々な意味で、恐ろしさと憂いを感じた。この兜は、歴史群像シリーズ 図説 戦国時代の実戦兜にも載録されているが、そこでも朝鮮兜では無いと断言している。【俺】
  • 小括として、伊居太神社は、河辺郡尼崎に近い池田山古墳あたりまで謂われを持ち、当時もそれらを意識していたと思われる事から、この根源(核)である伊居太神社の命脈を池田家に持つことは、関連地域の領有や関わりの根拠になり得、それを保持する意味は十分にある。
     池田勝正の時代、尼崎本興寺に宛てて禁制(永禄8年10月15日付)を下す程の実力を持つようになる。こういった転機で、地域に様々な影響力を持ちやすくなるようになるのだろうと思う。池田氏側に、その正当化の種を元々持っている訳なのだから。
     その後に興る、荒木村重の勢力は池田氏時代の要素を否定せずに抱え込む事で、穏やかに領地を拡げていく事ができる。そういった経緯は、荒木村重の乱によって、徹底的に破壊され、伊居太神社や春日社などの関係社は、その後に再び元の姿に戻そうとしたようだが、時代と諸権力(権威)がそれを許さず、池田・荒木氏が統治した時代、世の移り変わりを『穴織宮拾要記』が記録しているのではないかと思う。春日社も池田ブランドを利用して、失地回復図ったのではないかと思われる。【俺】

◎小坂田村:おさかでんむら(大阪空港敷地内となり現在住所表記なし)
  • 猪名川左岸の氾濫原にあり、中村の東に位置する。北は豊島郡今在家村・宮之前村(現大阪府池田市)、東は同郡麻田村(現同府豊中市)。「延喜式」神名帳に載る河辺郡「伊居太神社」はもと当村内に鎮座していたが、南北朝期に摂津池田に移転したとも(「拾要記」伊居太神社文書)、文和3年(1354) に当村内に同社末社を勧請したとも伝承する(享保4年「伊居太神社棟札」正智寺蔵)。当村の伊居太神社の祭神は「日本書紀」応神天皇条にみえる機織技術を 伝えた渡来縫工女の穴織で、穴織の実名小坂が地名の由来と伝承する(前掲棟札)。足利尊氏が同社を再興した頃、小坂田は荒地になっていたともいう(「穴織宮拾要記」)。豊島北条の条里が敷かれ、かつては条里遺構がよく残り五の坪などの小字もあった(享保16年「村絵図」小坂田文書)。
     文禄3年 (1594)矢島久五郎によって検地が行われたという(「上知に付庄屋日記」小坂田文書)。慶長国絵図に村名がみえ、高305石余、初め幕府領、元和元年 (1615)旗本太田領、寛永11年(1634)太田康茂が改易になり幕府領に戻ったと思われる。寛文2年(1662)旗本服部氏(貞仲系)に300石が分知されて相給となり、明治維新を迎えた(伊丹市史)。(中略)。
     明治15年(1882)の戸数52、人口262(呉布達丙七号)。産土神は伊居太神社。 伊居多神社とも書き穴織大明神と称した。浄土真宗本願寺派正智寺と正福寺があった(前掲村明細帳)。正智寺は寛永14年正西の代に木仏免許、正福寺は同年 教西の代に木仏・寺号免許という(末寺帳)。
     昭和11年(1936)からの大阪第二飛行場の建設で大部分が敷地になり、同15年からの拡張に伴い住民は移転した。かつての集落は現在の空港ビル付近にあたる。伊居太神社は現池田市の同名社に合祀、正智寺は同市井口堂3丁目に移転した。【地名:小坂田村】
  • この小坂田村にも荒木姓があり、この村の移転の折、桑津村に移ったとの事。その荒木さんにお話しを聞く機会があり、荒木村重について伝わっている話しを聞いた。有岡城での戦いの時(天正6年の謀反の時か)、有岡からの途中、小坂田で馬を替えて池田へ向かった。、との話しが伝わっているらしい。また、地面を掘ると、かわらけや須恵器のようなものがたくさんあって、それを投げ割って遊んでいた。、との体験談もお聞きした。その時にメモは取らず、自分の記憶に頼っているため、若干記憶違いがあるかもしれないが、色々と戦国時代の言い伝えもあるらしい。場所的に西国街道と能勢街道の等距離にあり、村の規模も比較的大きいため、小坂田村は重要な役割を持っていたのかもしれない。

◎塚口村と池田山古墳(尼崎市塚口本町)
  • 塚口村は、森村の北に位置し、北は御願塚村(現伊丹市)。字名に安堂寺・明神・又太郎免・楽馬・上慶長・下慶長・西塩辛・東塩辛・山廻・花折があった。中世から塚口御坊(現真宗興正派正玄寺)の地内町として栄えた。
     文明15年(1483)9月に本願寺蓮如が有馬温泉(現神戸市北区)での湯治の帰路に猪名野・ 昆陽池(現伊丹市)を経て神崎に向かっているが、その途中塚口に立ち寄り、「塚口ト云フタカキトコロニ輿ヲタテ、遠見シケルホドニ、アマリノオモシロサ ニ、シバラク休憩シケリ」と述べている(「本願寺蓮如摂州有馬湯治記」広島大谷派本願寺別院文書)。蓮如との関係は明確ではないが、正玄寺は応永16年(1409)創建の寺伝を持ち、文明3年7月に本堂が焼失、同6年に経豪が下向して再建されたと伝える。塚口には同寺を中心として碁盤目状の道筋が通り、方2町の周囲をめぐる土塁と濠の一部が現存しており、戦国期以降に発達した地内町と同様の景観を今に伝えるが、成立に至る経過や町の様相、一向一揆との関係などは不詳。かつて城山・城ノ内の地名があったという。
     天正6年(1578)11月に荒木村重が籠城する有岡城(現伊丹市)を包囲する織田信長方の陣所の一つに塚口郷がみえ(「中川氏御年譜付録」大分県竹田市立図書館所蔵)、12月11日には丹羽長秀らが同郷に砦を築いて在番する事が定められた(信長公記)。丹羽長秀らの軍勢が配置され、翌7年4月の配置替えの際にも同様に陣所となっている(中川氏御年譜付録)。9月27日には織田信長が陣中見舞いのため塚口の長秀の陣所に立ち寄った(信長公記)。有岡城落城後の同8年には信長から禁制が下付され(同年3月日「織田信長禁制」興正寺文書)、同 10年10月には、山崎合戦に勝利した羽柴秀吉が禁制を与えている(同月18日「羽柴秀吉禁制」同文書)。(後略)。【地名:塚口村】
  • 池田山古墳のあった塚口一帯は、その名の通り、かつては大小の古墳が点在し、大正年間でも20余基を数えた。そのうち最大のものが当墳で、市街地化によってほとんどが姿を消し、当墳も昭和13年(1938)頃には痕跡すらとどめなくなった。大正末年の記録では南西向きの前方後円墳で、全長約71メートル、後円部径約52メートル、前方部の幅約25メートル。一部に周濠の跡を残す。主体部は竪穴式石室であったらしい。鏡・刀剣・土器などが出土し、5世記前半の築造。【地名:池田山古墳】

◎下坂部村:しもさかべむら(尼崎市下坂部)
  • 久々知村の東に位置し、古代部民坂合部の居住地であったかと推定されている(尼崎市史)。文安2年(1445)の興福寺東金堂庄々免田等目録帳(天理大学附属天理図書館蔵)に雀部寺領として大嶋庄・浜田庄とともに下坂部庄がみえ、田数は62町7反小であった。(中略)。
     当地の伊居太神社の社名は「延喜式」神名帳に河辺郡の小社としてみえる。旧豊島郡域の大阪府池田市綾羽2丁目に同名社があり、「摂津志」はもとは河辺郡小坂田村(現伊丹市)にあったものが中古池田の地に遷祀されたとの伝えを記す。この説は有力であるが、同社が池田に移されたのち神輿渡御が行われたという御旅所が当地に近い塚口であることから、当地を小坂田に比定し、本来の鎮座地であったとする説もある(川西市史)。【地名:下坂部村】

◎五月山愛宕神社(池田市綾羽)
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◎天満宮(池田市畑)
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星の宮(池田市建石町)
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八坂神社(池田市神田)
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池田住吉神社(池田市住吉)
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◎五社神社(池田市鉢塚)
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2016年4月10日日曜日

戦国時代の摂津国池田氏の支配及び軍事に関わる周辺の村々

戦国時代という、後世のその名付けの通り、日常的に武力行使の政治解決が行われていた時代には、政治的機構と設備、体制は軍事と一体化しているため、分けることが難しいのですが、かといって一緒にしてしまうと、膨大になってしまい、思考と理解の集中が効率的では無くなるので、一旦、分けて考えることにしたいと思います。
 以下、摂津池田氏に関わりの深い村々について、ご紹介して、考えていきたいと思います。理解が進む中で、これらの要素を一体化させて、当時の世界を理解できるようになればと思います。

各項目の出典は、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。


◎ご注意とお願い:
 『改 訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。ま た、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の 消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企 画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ 宜しくお願いいたします。


◎宇保村:うほむら(池田市宇保町)
  • 池田村の南東部にある字名。承元2年(1208)3月19日の女清原氏田地売券案(勝尾寺文書)に「在豊嶋北条宇保十九条二里卅四坪内」とみえるのが早く、嘉禄2年(1226)11月18日の有馬淡治田地売券(同文書)・同3年10月12日の土師恒正田地売券案(同文書)にもみえる。このうち嘉禄2年の売券の端裏書に「くれはのたのけん」とあり、また同3年の売券案には売地である「宇保十九条卅四坪之内」の四至に「限南呉庭寺地」がみえ、宇保村は呉庭庄に含まれる地であった事が知られる。中世後期、池田氏の本拠地として池田に町屋ができ発展してくる頃には宇保村の名は史料に登場しなくなる。近世、池田村の中の字名としてもみえるが、宇保町・宇保村の呼称はみえない。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)では宇保に庄屋1、職業無記載(百姓と思われる)32戸で、農村地帯となっている。安永9年(1780)の書上写(小西家文書)では宇保分として139石4斗6升9合が記される。【地名:宇保村】
  • (前略)。坂上氏の先祖は、この猪名津彦神社の祭神「阿知使主・都加使主」で、池田の呉織・穴織伝説の織姫を呉の国から招いて仁徳天皇に奉った人物です。この様な由来で宇保は坂上氏の拠点となって来たのでしょう。宇保にはもと坂上氏の菩提寺「禅城寺」があって、「池田の観音さん」として有名でした。
     この地には猪名津彦を葬ったと思われる横穴石室の円墳と小さい祠がありました。今も境内に巨石や300年を越える樹木の切り株が残っています。文化2年(1805)石棺が開けられると、中には朱に染まった遺物が発見されました。伊居太神社の神官がこれを持ち帰って、境内に埋葬しなおしました。
     長い年月が経過して伊居太神社に預けられていた古墳の御神体は、昭和33年(1958)髙床式本殿と拝殿が建てられて再び御神体が勧請されて祭られたのが、現在の社殿です。巨石のいくつかは石垣に利用されました。戦後伊居太神社の神輿が、建石町衆によって宇保の猪名津彦神社まで巡幸した事もありました。
     お祭りは伊居太神社の夏越祭・秋例祭に合わせて行われています。(中略)。神社の再建も地車も祭りも全てが地元宇保の方々の努力によって、行事として伝承され、歴史上有重要な史跡として保存されてきました。【改訂版 池田歴史探訪:猪名津彦神社】
  • 中世後期に、摂津国内で大きな勢力に成長した池田家中で、「宇保」の名字を冠する人物が確認される事から、宇保を根拠地とする豪族が居たことは確実である。また、摂津国春日社領垂水西牧神供米方々算用帳には、池田氏から荒木村重に統治の実権が移っても宇保氏の給分が見えるし、村重が没落した後の村重の二男村基などの音信にもその名が見える事から、宇保氏は代々非常に信頼される関係を築いていたとも想像される。宇保対馬守某は、村重の使いとして先方を訪ねる程の信頼を受けている。村重は旧池田家体制の人材を基本的に用いない方針だったと思われる中で、珍しい例でもあろう。ただ、天正4年あたりからは、領土拡張の中で人材不足からか、徐々に登用の傾向にはあるようだ。
     さて、宇保氏の根拠地である宇保は、江戸時代にも池田郷と一体化したような感覚を持つ地域でもあり、いわば、池田郷の南の触覚のような存在とでもいえるだろう。南から北上してくると、宇保を経たり、至近の道を通って池田郷に入ることとなる。また、宇保は、少々小高くもあり、周囲への視界も開けている。そういう立地に城や館城のようなものを備えていた事と思われる。【俺】

◎栄根村と栄根寺跡:さかねむらとえいこんじあと(川西市栄根及び寺畑)
  • 小花村の南西、最明寺川下流域の左岸に位置する。壱之坪の地名がある。「住吉大社神代記」に「河辺為奈山」は「坂根山」とも号すると記され、東は猪名川と公田、南は公田、西は御子代国の境の山、北は公田と羽束国の境を限るという範囲であるが、河辺・豊島両郡の山をすべて為奈山と称するともいう。また昔、大神が土蜘蛛を討って坂の上に宿寝をしたので坂寝山と名付けたという。
     [中世]正中2年(1325)閏正月日の小戸庄地頭代覚円申状(武田健三氏所蔵文書)に「栄根村」とみえ、領家預所弁房と当庄名主源八らは弁房の兄多田院政所代土肥孫九郎や多田院御家人らと徒党を組み、小戸庄内の当村にある地頭居所を襲って刃傷・強盗に及んだと地頭代は訴えている。正平7年(1352)2月12日の後藤基景軍忠状(後藤文書)によると、赤松則祐について後藤基景が、同6年9月伊川城(神戸市西区)を出て須磨城(現同市須磨区)・神呪寺(現西宮市)の戦いを経て、29日坂根と稲野で南朝方と合戦している。なお稲野は古代にみえる為奈野の地名を継承するものであろう。
     永和元年(1375)多田加納村々として「丹後脇 栄根寺領 二十家・西畑 栄根寺領 五十六家」が多田院に棟別銭を納めており(同年7月25日「諸堂造営料棟別銭村注文」多田居神社文書)、地内の栄根寺が同院の勢力下にあったことが知られる。応永4年(1397)から同9年にかけて、栄根寺は多田院と借物・沽却田について争っているが、多田院の理が認められている(同5年6月13日「京極氏奉行人連署奉書」・同9年3月14日「左衛門尉某遵行状」同文書など)。文明18年(1486)の多田庄段銭結解状(同文書)によれば、多田庄新田分のなかに栄根寺領一二丁五反半(うち現作七丁五反半)がみえ、五貫八二文を納付。
     永正3年(1506)の多田庄段銭結解状(同文書)では田数の変化は無いが、一貫六七三文を納付している。この栄根寺領田が坂根にあったものか明らかではない。なお天文-弘治年間(1532-58)頃に丹波八上(現篠山市)の波多野一族の荒木氏が小戸庄栄根に移り、のち池田勝正に仕えるようになったという(「荒木略記」内閣文庫蔵)。(後略)。【地名:栄根村】 
  • 栄根寺(えいこんじ)は、柳林山と号する浄土宗寺院の跡。聖武天皇の勅願所として建立されたという。文安年間(1444-49)作という栄根寺縁起(大阪府池田市西光寺蔵)によれば行基の開基、多田満仲らが信仰したといい、本尊の鎌倉期の霊験談が記される。中世には多田院に棟別銭を納めるなど同院の勢力下にあった(→栄根村)。
     戦国期に荒木氏の伊丹城落城のとき本堂・伽藍が焼失したが、寺基は残り、寺領も継続された。豊臣秀吉の時代に寺領を召し上げられて、次第に衰退していった。境内除地は東西55間・南北54間で、薬師堂・阿弥陀堂・地蔵堂がある(天保3年「寺畑村明細帳」寺畑部落有文書)。
     寺跡に残された薬師堂には平安時代前期の様風を伝える硬木一材の薬師如来座像があり、県指定文化財。平成7年(1995)の兵庫県南部地震によりこの薬師堂も壊滅するが、薬師如来ほか19体は損害を免れ、市の文化財資料館に保管されている。【地名:栄根寺跡】
  • 現在は川西市花屋敷1丁目にある浄土宗寺院、山号は桜林山。縁起によれば、753年(天平勝宝5)聖武天皇の夢想により行基に命じて薬師堂と薬師如来を作 らせたのがはじまりという。最近発掘調査により寺畑1丁目の栄根寺廃寺の境内から白鳳・奈良時代の瓦等が多数出土しており、奈良時代の建立が確認される。 本尊薬師如来坐像(県指定文化財)は平安時代の作。縁起は、源満仲による再興と、本尊の霊験談を伝えている。中世後期には、12町歩余の当寺領の反銭を、多田院が徴収している。天正年間(1573~1592)の兵火で荒廃し、1631年(寛永8)から西光寺(現池田市)の支配をうけ、留守僧をおくだけの寺となった。執筆者: 熱田公【Web版尼崎地域史事典『apedia』

◎久代庄と久代村:くしろのしょうとくしろむら(川西市久代)
  • 久代庄は、猪名川左岸にあった中世の庄園。庄名は近世の久代村に継承される。貞応2年(1223)3月日の蔵人所牒案(東洋文庫所蔵弁官補任裏文書)に「久□(代)庄内いまいち並豊島市」とみえ、当庄の市を含む摂津国・河内国の諸市・津などに対して、書物を入れる櫃を朝廷の納殿に年貢として造進させるため国司・領家・地頭・神人らの濫妨を停止し、檜物を扱う商人の往反の煩いをなくすよう命じている。
     弘安元年(1278)10-12月の勘仲記紙背文書中の某申状によれば、久代村で尚高入道が濫妨をなし、百姓を責めるので、もはや滅亡しつつあるという。先師・祖師宛置くところの仏事云々ともあるので、寺院の支配下にあったものか。南北朝内乱時、当地は南朝方が支配し、正平7年(1352)紀伊国を本拠とする小山隆長に「久志呂庄」が安堵されている(同年3月24日「後村上天皇綸旨」小山文書)。文明14年(1482)頃のものと思われる摂津国寺社本所領並奉公方知行等注文(蜷川家文書)によると、久代村は京都北山霊鷲寺領で、当知行の注記がある。室町末期も久代村は同寺の支配下であった(「久代村古記録」吉川家文書)。享徳2年(1453)の段銭配当田数は16町6反280歩、文明18年、明応3年(1494)はもとに24町5反で、文亀3年(1503)の即位、永正16年(1519)の公方御成、永禄2年(1559)の御殿修理など、しばしば課された段銭や棟別銭の配符や納切符が写されている。天文12年(1543)には「徳政之御礼不足」について3貫文を「追打」されている。
     また「久代村惣社」は春日社で、同3年3月21日に柱立棟上があり、願人は久代東大隅守平豊実・久代中加賀守平光家、地下老衆神主(4人)、御当若衆15人・東条老衆2人であった。久代東・久代中は地侍級の者かと思われるが、地下老衆などの信仰組織があったことが注目され、2町余の堂宮田、2町9反大の祭礼田もあり、所在地・面積・斗代と配分先・作人名などを記した記録もみられる。春日社の信仰組織は同時に惣の組織であったのかもしれない。これらの文書類は江戸時代に筆写・整理されて伝わっている。【地名:久代庄】
  • 久代村は、久代庄から近世には久代村として継承される。村は加茂村の南に位置し、上之台(台地)と里(平地)に分かれる。「摂津国風土記」逸文(中臣祓う気吹く抄)に「河辺の郡、山木の保。籤稲の村」とみえ、このクシシロは当地が遺称地とされる。仁徳天皇の代に津直沖名の田で、もとの名は柏葉田といったが、罪の代償に差出す田として田串を立てたので、籤稲の名がついたという。中世の久代庄の遺称地。
     天正8年(1580)8月、織田信長は当地を池田信輝の嫡子之助の所領として宛行っている(川西市史)。慶長絵図に「久我村」とみえ、高528石余、元和3年(1617)の摂津一国御改帳では「久代村」とあり、同4年の高528石余のうち永荒当川成48石余で、取箇307石余のうち36石余は神田村(現大阪府池田市)出作分で、また75石は大豆納とされている(「免状」「年貢皆済状」吉川家文書)。(中略)。元禄5年(1692)の久代村寺社改帳(吉川家文書)に春日大明神社(現春日神社)、法華宗真門院久成院・一向宗覚正寺(現浄土真宗本願寺派)・同宗徳通寺(現真宗大谷派)がみえる。【地名:久代村】
  • 久代村にある春日社の祭神は天児屋根命・天津児屋根命。旧村社。北東の低地にあったが、江戸時代に移したと伝える。本殿(寛政3年修理)は安土桃山時代の余風を残す江戸時代初 期の建築とみられ(川西市史)、県指定文化財。元禄5年(1692)の久代村寺社改帳(吉川家文書)に春日大明神社とみえ、除地は東西90間・南北60間 で、天文3年(1534)の勧請とし、神主は宮座大老(32人)より順に勤め祭祀をつかさどると記す。久代新田村は寛永4年(1627)当社の分霊を勧請しているが、神主は久代村宮座が支配していた(宝暦11年「久代新田氏神宮座氏子争論申合書」同文書)。【地名:(久代)春日神社】

◎久代新田村(川西市東久代)
  • 久代村の東、猪名川の右岸に位置する。天正年間(1573-92)猪名川左岸の神田村(現大阪府池田市)の多数の百姓と久代村の少数の百姓により開発されたことから、文禄3年(1594)の神田村検地帳では同村の新田高66石余と登録された(川西市史)。寛永2年(1625)の改で94石余。文禄3年の本田畑(久代)・新田畑(新田分)は寛永2年までは免状一紙の下札であったが、改以後は免状が分紙(久代村と久代新田分)で交付されたという(以上「久代村古記録」吉川家文書)。慶長国絵図では久代村に含まれるものと考えられる。正保郷帳では高94石余。延宝6年(1678)の検地高112石余。元禄3年(1690)に再び検地が行われ、高192石余で、本高94石余が158石余に引き上げられた(久代村古記録)。さらに新開が進み、天保郷帳では高354石余。領主の変遷は久代村(高3石余分)と同様。氏神春日大明神は久代村春日神社より勧請、久代村宮座17人が支配、境内の立木による小社の建立や勧進興行をめぐって久代新田の氏子と争論となるが、宝暦11年(1761)落着した(吉川家文書)。現在は廃社。【地名:久代新田村】
  •  池田家はこの久代庄の代官職を得て、久代村と深く関わっている。久代村の侍衆は、池田氏の被官となっているらしく、池田家中の「大西殿」や池田正弘が、久代村の侍分と思われる田舟備後守佐賀に久代村宮分などの儀について「申付」をしている事から、上下関係があった事がわかる。また、庄内の段銭徴収の明細に「城殿江御礼」「殿ヨリ御出シ分」とみえ、これらは池田氏を指すと考えられる。また、久代庄の給人・段銭徴収明細などの中に「飯尾分」「大広寺分」「刀根山江うけ取ノ礼」などとあり、池田氏に関すると思われる人物や組織、場所が見られる。
     池田氏・荒木氏の没落後、新たな社会秩序の中で近世時代に移るが、このように池田氏との関わりの深い土地柄でもあるために、久代村の開発が、「池田の人々」も関わって行われるようになる。【俺】

◎刀根山(豊中市刀根山)
  • ただいま編集中。少々お待ち下さい。



2016年4月9日土曜日

戦国時代の摂津国池田城と支城の関係を考える

どこで、どのように確認すれば良いのかわからないまま、個人的には「城」というのは、軍事・政治的に展開するためには、本城と支城で構成されている事が、必要不可欠であったと考えています。更に踏み込んだ言い方をすると、「郡」単位を支配領域に持つ、いわゆる戦国領主にとっても、それは当然の原理であっただろうと思います。

上は天皇から、下は名主・諸座構成員に至るまで、日本国中隅々に下達、また、徴集、動員を行うには、制度・仕組みが無ければ維持させる事ができません。これが機能していなければ、社会の永続はあり得ません。

そして、特に戦国時代末期の頃を見てみると、地域毎の特徴はあると思いますが、その中にも組織を維持する仕組みが無ければ、生きていけません。ましてや戦国時代ですから、「軍事」という直接的に生き死にをかけた行動も必要です。
 人間は、一人では絶対に生きる事ができず、必ず帰属しなければなりません。また、組織に属していても、それ以上に大きなチカラに対する時には、共同してそれに対処しようとします。
 人間が他の動物と違うところは、それを可能にする意思疎通・伝達能力を持つ事にあります。人間の歴史は、正にそれの記録ではないかと思います。

ちょっと前置きが長くなりましたが、そういう摂理から考えて、摂津国豊嶋郡を中心とし、近隣の数郡を支配下に置く池田氏ともなれば、本拠である池田城が単体で存立していたはずが無いと考えています。永禄11年秋には摂津守護を幕府から正式に任じられているのですから、その時点では既に、そういう規模と実力を持つ家だった事は間違いありません。
 池田氏と血縁関係にあったりする氏族の本拠地や支配地にある政所はもちろんの事、軍事的に必要な要地を領内各所に置いていた、と個人的には考えています。
 特に軍事的に、池田城の支城の事について考えてみると、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『大阪府(兵庫県)の地名』が基本的な資料になるように思います。

一方で、池田という都市そのものの維持・増殖行動にも注目すべき点があるのではないかと思います。都市そのものの生態というか、都市が活力を持ち続けるための、主導者(役)としての池田氏の立場という要素もあったように思います。
 池田は街道を多く交差させる都市でもあり、それらと共存、また、利用する行動特性もあったと考えられ、日常的には産業・商業利用もされていたでしょうから、重要拠点にあたるところは、池田氏が縁組みするなどして、特別な関係を築いていたのではないかと思います。
 
その他、見聞きしたり、個人的に考えるところも加えて、以下に思索として、まとめてみたいと思います。前述のように、何を以て本城と支城の連携機能とするか、や範囲も難しいところですが、今は感覚的な部分も含めて、取りあえず池田城の支城群として上げてみます。その他、関係の深い周辺の村々や寺社を分けてご紹介したいと思います。
 これらは、北側は細河地域全域、南側の領域感覚としては、箕面川から北側の範囲。西側は猪名川を越えて、平井の段丘のあたりを想定しています。

先ずは、『日本城郭全集』『日本城郭大系』『○○(県名)の地名』に紹介されている城から見てみます。なお、出典は日本城郭全集が【全集】、日本城郭大系【大系】、○○(県名)の地名【地名】、自己調査【俺】、その他【書名・出典名】としておきます。

◎望海亭跡(池田市綾羽)
  • 望海亭の記

    摂津池田村に寺有り。大広と云う。前の総寺祥山禅師之を主る。師、目は雲霄を視、機は仏祖を呑み、曹洞下の老尊宿なり。其の俗譜を論ずれば、則ち日本国管領畠山源君の葭莩なり。華と謂ふべし。池田筑後の守藤充正、夙に師の風を欽び攸を相て創基せるもの、此の寺是なり。山を負ひ海に瀕し、殿宇翼如たり。而して亭を山頂に置き、偏して望海と云う。先に是余等持の官寺に居り、師某人を以て介と為し、亭記を作らんことを求む。夫れ望海楼なる者は、白傅の唐に於ける、東坡の宋に於ける、惟肖の本朝に於ける文は以て賑ひ、詩は以て貼る。千古の佳話なり。余未だ嘗て身ら歴て之を目撃せず、縦い其の萬が一を髣髴すと雖も、小社の阿房を賦すや笑ふべし。求むるに随ひ辭するに随ひ、茲に年有り。庚子のの夏、師適々事以て洛に入り、一日余が小補の斗室に訪ね、話次いで又亭記及び、求めて已まず。是に於て就きて亭の望海と為せし所以を詳らかにするなり。亭南に面し、南は乃ち滄海なり。而して天王の浮圖雲間に層出し、住吉の松原波底に鼓動す。東南に跨ぐ者三州、曰く紀、曰く泉、曰く河、斯に咽喉す。呉綾蜀錦、盬鐵銜艫相逐ふ者は、商売の往来なり。官租軍給、粟麥連檣絶えざる者は、行使のの運漕なり。紅粧翠蓋、盃盤狼藉、青蒻綠蓑、煙雨勃窣、太守水嬉を張くるなり。漁翁鈎瀬を下るなり。野老謳歌して水田漠々たり。市人言語して城府潭々たり。摂人の其の楽しみを楽しむなり。沙鴎翔びて岸柳暗く、宿雁驚きて渚蓮に飛ぶ。夜潮月を吹き銀山鐵壁前に粉砕し、海市雪を映じ、珠宮貝闕、上に湧現するが若きに至っては、亭上の四時なり。亭上の朝暮なり。之を欄檻の上に翫び之を袵席の間に接するは、蓋し偉観なり。余師の説く所を聞き、寸歩を移さずして此の亭に優遊す。紅塵の萬頃の滄波と為るか、滄波の十丈の紅塵と為るか、得て知らざるのみ。余に一説あり、洞上に最上乗の禅有り。名付けて寶鏡三昧と云う。嗚呼、水天際無く一波起らず、滄海は豈一面の寶鏡に非ずや、此の亭は豈一箇の鏡臺に非ずや。海中有る所の色像、豈胡来古現、漢来漢現に非ずや。師は此の三昧に入り、機に応じ物に接し、遠くは曹山の洞水を取り、近くは永平の峨山を取り、五位功勲、三種滲漏、皆鏡中より流出し、天を蓋ひ、四来の学者をして、此の光影を弄び、同に三昧を証せしむ。亦た大ならずや。言未だ既らずして師起ちて袵を斂め、亭記成れりと云う。
     文明12年6月吉日書す。前の等持 横川の叟景三。
     
    望海亭廃せられて既に久し。記も亦た其の原本を失う。星霜再び移らば、即ち名勝復た伝ふる由無し。故に旧圖に據り故趾を求め、石を建て記を勒し、以て不朽を要むと云う。
     古の深山の庵の跡をしも 千代まで見よと残す石碑
                            邑人 山川正宣誌
                            大阪 呉策書
    【池田郷土研究 第18号 大廣寺望海亭碑文小考:吉田靖雄】

◎池田城下の家老屋敷群(池田市旧市街地)
  • 一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
    ※■=欠字
    【穴織宮拾要記 末(抜粋)】

◎八幡城:はちまんじょう(池田市伏尾町)
  • 伏尾の北方、東野山の山頂にある。東西南の三面を久安寺川に囲まれ、北方は低地で濠渠も形をしており、これを城山という。頂上に平坦地があり、周囲870メートル余、武烈天皇崩御の際、丹波国桑田郡にあった仲哀天皇5世の孫大和彦主命を迎えようとして、迎えの武士が桑田に向かったが、王は捕り方の兵と誤解、逃れて東能勢止々呂美の渓谷を下りて、東野山に来て住んだ。その後、1世の孫猪名翁に至って、行基菩薩を迎えて久安寺を建立した。
     後、承平天慶年間(931-46)、多田源満仲の家臣藤原仲光がここに館を築いて居住した。また、元弘年間(1331-33)には、赤松播磨守則祐はこの地に砦を設けて拠った事がある。【全集:八幡城】
  • 『摂陽群談』によれば、伏尾にある古刹久安寺(聖武朝神亀2年、僧行基開創)山内に築かれた山城で、多田満仲の臣藤原仲光が在城と伝える。遺跡は東野山山頂部にあり、土壇が存在したという。【大系:八幡城】
  • 吉田村の北東にあり細郷の一村。北東は下止々呂美村(現箕面市)。村のほぼ中央を久安寺川(余野川)が南流し、並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域のほとんどは山林で、集落は街道沿いに点在する。「摂津名所図会」には「寺尾千軒」と称したとあり、久安寺を中心に発達した村であることを伝える。慶長10年(1605)摂津国絵図には伏尾村と久安寺門前村が記される。元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余のうちに含まれ、幕府領長谷川忠兵衛預。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では石高264石余で幕府領。以後幕府領として幕末に至る。なお享保20年(1735)摂河泉石高帳に久安寺除地17石余が記される。高野山真言宗久安寺・同善慶寺がある。善慶寺は宝暦4年(1754)播州加古川の称名寺内に創建されたが、のち現在地の久安寺宝積院の旧地に移ったものである。【地名:伏尾村】

◎東山砦(池田市東山町)
  • 中河原村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、ほぼ並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域の東部は五月山に連なる山地で西部に耕地が広がる。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕末まで幕府領として続く。村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると541石余。植木栽培が盛んであった。曹洞宗東禅寺は、行基創建伝承をもち、慶長9年僧東光の再興という。真宗大谷派円成寺は天文14年(1545)西念の創建という。【地名:東山村】
  • 正棟-池田民部丞、属足利義澄公、忠信篤実無二心、永正5戊辰年夏、大内義興、細川高国等、攻池田城、正棟固守数日、防之術尽城陥、于時託泰松丸、貽謀正能父子、隠同国有馬谷、5月10日正棟登城自殺、東山密葬、謚円月光山居士 ○正重-池田勘右衛門、後号監物、民部丞、生害之時、与母共父之首隠、従城裏山伝移東山村、大山谷之口山林埋葬、密請僧吊、隠住山脇源八郎。【山脇氏系図:昭和26年7月 林田良平假写】
  • 第十代城主池田知正は勝正の弟で久左衛門、のち民部丞を経て備後守となった。(中略)。知正は嗣子がなかったので、弟光重の子幼名於虎丸の三九郎を養子にしていた、知正歿後三九郎が家督を継いで豊臣秀頼に仕えたが、慶長10(1605)年7月28日僅か18才で歿した。大広寺に墓が残る。
     知正の弟光重は、弥右衛門と称した、知正、三九郎相次いで歿したので、東山村にいた光重がその家督を継ぎ、秀頼に仕えて備後守となった。(後略)。【城主池田氏略記:林田良平】
  • 東山村は、細郷六ヵ村(伏尾・吉田・東山・中河原・古江・木部)の中では最も大きな石高を持ち、集落も最も大きい。また、地理的にも、五月山の北側の斜面の守りで、山上の尾根道へ繫がる何本かの山道を持ち、ここからは比較的緩やかに上る事ができる。更に、村の眼下を走る摂丹街道、北の水平方向には妙見街道がよく見える。
     池田城の裏を固め、重要街道を押さえるためには、東山村は非常に重要であったため、ここの有力者山脇氏と池田氏は深く結びついていて、池田姓を名乗る一族扱いであった。伝承や言い伝えでは、最後の自主的な池田氏の当主知正と東山村に居た光重は兄弟であったとしている事から、知正も山脇系池田氏だったのであろう。重要な地を得るため、池田家中から血の濃い人物が山脇氏と姻戚関係を持ったのだろう。
     そんな環境にあるので、東山村自体が館城のように機能していたと思われ、村の中央には広場のような場所(クルマのすれ違いのために近年拡げられたらしいが...)もあって、独特の構造ももっているように見受けられる。村そのものも大きく、細郷の中心的な村でもあった。もっとも、村同士の交流はあまり無いらしいが...。【俺】

◎木部砦:きべとりで(池田市木部町)
  • 天文年間(1532-54)に池田氏が拠った所といわれている。池田市の北方にあり、阪急バスにて池田駅より約7分で行ける。ここは古くは城辺(きべ)という地名で呼ばれており、今は田圃になって見るべきものはないが、「城ヶ前」「土居」と呼ばれる高地があって、土地の人はこれを城地であったと伝えており、周囲およそ100メートルばかりの地である。【全集:木部砦】
  • 城ヶ前・土居という地名があるが、遺構は全く残っていない。『摂津志』は神田・今在家・利倉等の諸砦と共に天正6年の織田信長による荒木村重討伐と関わらせているが未詳。【大系:木部砦】
  • 池田村の北にあり、細郷の一村。村の東部は五月山の山麓にあたり、西部に耕地が広がる。西側を猪名川が南流し、村の西辺で北西辺を南西流してきた久安寺川を合流する。池田村より北上してきた能勢街道は村の西部ほぼ中央で余野道(摂丹街道)を分岐。集落は能勢街道沿いに点在、とくに池田村に近い地は木部新宅と称し、町場化していた。慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和元年の摂津一国高御改帳では細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳では村高275石余で、うち仙洞御領89石余・幕府領185石余、元禄郷帳以降はすべて幕府領。享保17年(1732)の家数63(うち屋敷持本百姓45・水呑6・借屋8・寺2・庵2)・人数329、牛12(下村家文書)。木部新宅は、宝永6年(1709)12軒の建家が認められたのに始まる。享保10年には16軒に増えていたが、4軒の取払いが命じられた。しかし、嘆願によって草履・草鞋・煮売り以外は営業しないという条件で仮小屋が認められた。寛政3年(1791)には、木部新宅の魚屋3軒が池田村の魚屋株仲間から訴えられ、廃業させられるという出入も起こっている(下村家文書)。当地は池田村への北からの入口にあたるため、池田商人との争いを繰り返しながらも町場化が進んでいった。紀部神宮・臨済宗妙心寺派超伝寺・曹洞宗永興寺・曹洞宗松操寺がある。【地名:木部村】

◎神田砦:こうだとりで(池田市神田)
  • 神田の東方、小字菅井にあり、今は田畑あるいは宅地となっている。地名は城垣内の名を残している。天正年間(1573-91)、池田城主勝正の甥池田備後守が居住していた。池田城陥落の後も備後守は当城にいたが、慶長9年(1604)3月18日、卒去してより廃城となった。【全集:神田砦】
  • 城垣内の地名を残すが、遺構は全く存しない。『摂津志』では「神田今在家に堡は倶に池田氏保之」とし、『大阪府全志』では「天正年中池田勝正の臣池田備後守の守」る所とし、備後守死去の慶長9年3月18日以降、放棄されたとする。また、『北豊島村誌』では、池田弥右衛門尉光重の拠った所とするなど、諸説あるが、なお未詳。【大系:神田砦】
  • 八坂神社は、猪名川左岸、早苗の森に鎮座。祭神は素戔嗚尊。旧神田村社。(中略)。神宮寺であった常福寺蔵の慶長16年(1611)の奥書のある清光山常福寺縁起によると天元元年(978)の創建。社伝によると、天正7年(1579)織田信長の伊丹城攻撃の兵火にかかり焼失、それ以前は不明という。慶長15年、池田豊後守光重がその嫡子の成人を祝って当社を再建、現存の本堂はその時に建立されたもので、一間社流造、檜皮葺の桃山時代の様式を伝え、国指定重要文化財。(後略)。【地名:八坂神社】
  • 常福寺は、高野山真言宗。清光山と号し、本尊は千手観音。慶長16年(1611)の奥書を持つ清光山常福寺縁起(寺蔵)によると、天平3年(731)の開創で、行基が自作の千手観音を安置したという。当寺二世の海然大徳は、真言密教を極め、種々の法験を示したといい、寺伝によるとその法験によって天元2年(979)現在の八坂神社の祭神(縁起は牛頭天王とする)が降臨したという。その後、同社の神宮寺として隆盛したようで、長徳4年(998)一条天皇は勅願所とし、現寺号を下賜。承保2年(1075)白河天皇は源頼義に命じ、正安3年(1301)には後伏見天皇が北条貞時に命じてそれぞれ堂宇を修補させたという。天正6年(1578)10月、伊丹城の城主荒木村重が織田信長にそむいた時、常福寺衆徒は荒木氏に同心し籠城との流言が広まったため、翌7年寺領没収され、堂舎も焼き払われた。その復興に尽力したのは池田備後守光重で、慶長11年本堂が再建され、以後仏供料として50石下付したという。寺蔵文書中に慶長7年3月17日付けの光重自筆除地免状がある。慶長15年の棟札(「池田市史」所引)には珠徳院・西之坊・玉蔵坊などの支院がみえるが、江戸時代には玉蔵院・珠徳院・西福院があった。玉蔵院は明治37年(1904)新潟に移り、他の二院は同41年当寺に合併された(大阪府全志)。境内北の土蔵前に「願主 右衛門尉藤原景正 正応六」と刻した花崗岩製宝篋印塔の基礎があり、当寺梵鐘は天和2年(1682)の黄檗僧高泉の銘がある。(後略)。【地名:常福寺】

◎今在家城(池田市豊島南)
  • 北今在家の西南にある。天文より天正年間(1532-91)まで、池田城の支城として池田氏の一族が守備していた。【全集:今在家城】
  • 城の内・城の淵という地名があるが、遺構はまったく残っていない。『摂津志』に「神田今在家に堡は倶に池田氏保之」とあり、天正6年の織田信長による荒木村重討伐と関わらせているが未詳。【大系:今在家城】
  • 神田村の南東にあり、東は轟木村。西は川辺郡下河原村(現兵庫県伊丹市)。村のほぼ中央を西国街道(山陽道)が東西に通り、村の西部で南西流から南流に方向を変えた箕面川と交差する。19世記初頭の山崎通分間延絵図に、この辺りの箕面川に「平日水ナシ」と記され、橋も架けられていない。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると村高561石余で、うち392石余が麻田藩領、259石余が旗本船越三郎四郎永景領。麻田藩領は元和年間(1615-24)以降のことで、幕末まで続く。船越領は慶長4年(1599)以来と推定され、寛文10年(1670)にはうち209石余が分家三郎四郎景通に分知され、以後当村は麻田藩・船越本分家の相級地となり、幕末に至る。なお、享保20年(1735)摂河泉石高調は、麻田藩領を東今在家村、船越本分家領を西今在家村と記す。東今在家村については「摂津名所図会」にもみえ、行政村としてではなく、東西の今在家村の区別があったと思われる。(後略)。【地名:今在家村】

◎西市場城(池田市豊島北)
  • 西市場にあって、東西180メートル、南北157メートル、周囲700メートルの地域が城址で、現在は畑地あるいは宅地となって、なんら見るべきものはない。しかし、地形やや高く、南北西の三面に水田を巡らして暗渠の状をなしている。土地の人はこれを堀と呼んでいる。当城は、観応年間(1350-51)、瓦林越後守が築いて拠った城地という。【全集:西市場城】
  • 『北豊島村誌』には「西市場の西、役場の北方、現在”濠”と呼ばれている一段低く細長き田によって囲まれている地がそれか」とあり、周濠を回した館城かと思われるが、現在ではまったく消失。『摂津志』には「瓦林越後守所拠」とあるが、その歴史については未詳。【大系:西市場砦】
  • 神田村の東にあり、村の南側を箕面川がほぼ西流。(中略)。元文元年(1736)成立の豊島郡誌(今西家文書)によると、当村にある市場古城に観応年間(1350-52)瓦林越後守が拠ったという。地名は中世の定期市に由来すると考えられるが史料上の確認は得られていない。(後略)。【地名:西市場村】

◎豊嶋中之島城?(池田市住吉)
  • 西市場村の東にあり、村の北境を箕面川が南西流する。元和年間(1615-24)以降、麻田藩領。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると村高70石余。溜池に寛永14年築造という丁田池があった。浄土真宗本願寺派の正光寺がある。【地名:中之島村】
  • 以前、2001年に「池田中之島城?」として記事を書いたが、その頃は核心に至らず、提起的な形で文を終えた。それを今の時点で再び取り上げてみたい。その記事の中でも触れているが、中之島村は、江戸時代の後半に村を移動して現在地にある。元あった場所は、轟木村の北側の箕面川の脇(あられのトヨス工場付近)で、ここが度々水害の被害を受けるので、より高地の現在地に村を移した。
     この場所は、待兼山の丘陵が標高を下げながら、西に張り出した台地の西端に立地する。中之島村にある正光寺は、陸軍参謀本部陸地測量部の明治18年の輯製図では、村の北側に独立的に描かれている。
     ちなみに、江戸時代になると、西国街道周辺の池田市南側にあった村は、ほとんどが麻田藩領となって、池田村と切り離されてしまい、文化的な分断が永年続いた。
     それらの事を併せて考えると、旧地に城があったかどうか検討すると、水害被害を受けやすい場所に常設の軍事的拠点を作るかどうかは若干いぶかしむところがある。また、西市場城・今在家城との位置関係が近すぎるように思える。
     しかしながら、地図をよく見ると、稜線が続く部分に人工的な方形に加工されたような50メートル四方の場所があるので、ここを少し高くして、施設などをそこに備えていたとすれば、その目的としては、北側にある才田村(出在家村)・尊鉢村からまっすぐ南へ伸びる道に対するものだったかもしれない。この道は、能勢街道から石橋村を経ずに、小坂田村や原田村へ通じる幹線でもある。
     一方、正光寺の位置に城跡があった場合は、東市場村を意識し、そこへの道に対する目的があったのではないかと思われる。
     もし、西市場・今在家・中之島に城があった場合、今在家と中之島は、箕面川の南にあって、防御力としては低くなるが、2つの城で相互補完する目的があったかもしれない。そういう観点では、城を作る理由は無くも無いだろう。また、関所や管理施設も兼ねたような、政治的な意味合いを持った、施設だったかもしれない。どちらの推定地も左程の距離は無く、東西に300メートル程の差である。どちらにあったとしても、目的は変わらないだろう。【俺】
    ※参考ページ:池田城関係の図録(池田中之島城?)

◎加茂城(川西市加茂)
  • 加茂城は旧加茂村字「上加茂」にある。一帯に「城屋敷」「城垣内」などの小字名があり、伝承では荒木義村(吉村)の居城という。義村は「荒木系図」によると、村重の父で、信濃守を称し、摂津池田六人衆の一人であった。天正6年(1578)に荒木村重が有岡城に籠もった時、織田信長がこれを攻めるため、嫡男の三位中将信忠をここに配置したと『信長公記』にある。そして信忠転戦後の翌年4月には、塩川国満・伊賀七郎・伊賀兵左衛門らがこれを守っていた。【大系:加茂城】
  •  栄根村の南、最明寺川下流域の大地上に古くから開けた上加茂村と、東部の猪名川沿い平地部の下加茂から成なる。(中略)。上加茂にある中世城館の跡は、加茂城とよばれ、付近に城屋敷・城垣内などの字が残るが、遺構は残らない。伝書では荒木義村の居城という。義村は村重の父とされる。天正6年の有岡城攻めの時に「賀茂」は織田方の付城の一つで、当初は織田信忠の陣所となるが、翌年4月には塩川国満・伊賀七郎・伊賀平左衛門らが入城している(信長公記)。【地名:賀茂村】

◎原田城(豊中市原田元町)
  • ただいま編集中。少々お待ち下さい。




2016年3月26日土曜日

中岡嘉弘氏著 改訂版 池田歴史探訪(寺社・史跡・遺跡見所のすべて)という本

中岡嘉弘氏は、私と同じく池田郷土史学会の会員でもあり、池田の郷土史について、色々と教えていただいています。中岡さんは1930年のお生まれで、京都のご出身。1950年代から池田にお住まいです。
 京都出身という事もあるのだと思いますが、生活の中で身についた歴史的知識というものがあるので、池田の歴史についても広く、深く観察されています。その広さと深さに私は溺れるばかりですが、お話しをお聞きすると、色々勉強になります。
 また、中岡さんは、ライオンズクラブにも所属され、地域活動にも熱心に取り組んでおられます。私も出来る範囲で見習いたいと思いますが、追いつくことはできなさそうです。

その中岡さんが2009年(平成21)に出版された、改訂版 池田歴史探訪(寺社・史跡・遺跡見所のすべて)は、その集大成ともいえる本で、自ら取材された池田市内各所の寺社・史跡・遺跡が網羅されています。平凡社から刊行された大著、日本歴史地名大系ともまた違った、地元目線の詳細な記述ですし、本を片手に地域の文化財を気軽に訪ねられるように、記事内容・装丁なども工夫されています。
 この年、池田市は市制70周年を迎えた年で、その記念としてもふさわしい内容です。この3年前に、池田歴史探訪(寺社・史跡・遺跡見所のすべて)を出版されています。

最近また、池田歴史探訪を読み直していて、改めてその凄さを感じている次第です。

残念ながら、どちらも今は品切れで、手に入れることが難しいのですが、図書館などでご覧いただけますので、是非ご一読下さい。
 このサイトでも、池田勝正と関係する記事を抜粋してご紹介できるように準備をしてみたいと思います。ネットを通して、中岡さんの取材力で池田の文化力が伝わったらいいなと願っています。ご期待下さい。


中岡嘉弘著 改訂 池田歴史探訪



2016年3月20日日曜日

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(はじめに)

古江橋を経て多田へ続く道(1970年頃か)
政治的問題を解決するため、武力行使が一般化していた戦国時代には、摂津国豊嶋郡細河庄(郷)は、摂津国人池田氏にとっても重要な地域でした。
 しかし、そういう場所でありながら、研究や解明がほとんど進んでいません。今も池田市域内は文化圏が3つに分かれているような感覚があります。北部の細河、中央の池田、南の石橋、という感覚です。
 この感覚は、実のところ、物理的な根本的要素が大きく変わっていない事から、昔も今もそんなに変質していないかもしれません。北の細河地域は、池田との間に五月山が楔のように存在する事から、どうしても行き来が阻害され、気持ちというか、感覚的に文化の乖離ができていきます。実際、近代の池田市の地域構成史を見てもそれが分かります。
 しかし、戦国時代となれば、そうも言ってられません。直接的な生死にも関係しますし、利益や権利、生活を侵されないように、互いに結束する事が必要になります。そんな中で、木部村で頭角を現す下村氏や東山村の山脇氏といった勢力は、池田氏とも関係を深くしていきます。それもやはり、必然の事であったと考えられます。

既に発表されている大阪府の地名1 -日本歴史地名大系28-(平凡社刊)などの通説や池田市史での見解も参考にしなあら、私が見聞きした事も加えて、この細河地域と池田城(池田氏も含む)について、考えてみたいと思います。

以下の要素について、それぞれご紹介し、まとめてみたいと思います。


摂津国豊嶋郡細河庄(郷)とその村々及び社寺
細河庄内の木部村と武将下村氏について
細河庄内の東山村と武将山脇氏について
◎細河庄内を通る街道
◎細河庄と周辺
◎細河庄での牡丹の花卉栽培

【参考】
戦国時代の摂津国池田城と支城の関係を考えてみる
戦国時代の摂津国池田氏の地域支配及び軍事に関わる周辺の村々
戦国時代の摂津国池田氏に関わる寺
戦国時代に池田市の木部町にあった木部城
 

【出典】
写真:グラフいけだ1970年12月 特集:ふるさとのみちしるべ
   発行:池田市役所 / 編集:市長室・秘書課広報係


2016年3月17日木曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(三好三人衆方に復帰後の池田衆の動き)

元亀元年6月の池田家内訌後、当主勝正を放逐し、特別な旧誼もある三好三人衆方へ復帰した。三好方にとって、この事は大利であった。港のある摂津国尼崎方面から、いくつかの要所を押さえれば池田領内を利用して、そのまま丹波国とも連絡がつけられるようになった。また、池田衆の将軍義昭政権からの離脱は、摂津国内に居た三人の守護職の拠点地域を東西に分断し、幕府・織田信長方の連絡も断つ事が可能な状況となった。三好三人衆側から見ると、池田領内を通る複数の街道へも監視や管理ができるようになる。
 この重要な地域に大勢力を持っていた池田衆は、双方の権力(武力)から重要視されていた。したがって、池田家が三好三人衆方に加担するにあたり、当然、様々な条件が提示されたり、池田衆側からも何らかの条件を求める事があっただろうと思われる。家と集団を存続させるべく、然るべき保証を得るなどし、行動していたと考えられる。

元亀2年8月、池田衆は摂津国嶋上郡の郡山方面で、守護の一人である和田伊賀守惟政と会戦して大勝。千里丘陵の東側から山城国境まで勢力を拡大するなどした。池田衆は三好三人衆方に加わった事で、勢力を更に伸長させる事となった。
 しかし、家政(かせい:家の政治)の岐路で重大な決意をし、家運を開いた池田衆であったが、この頃は合議的家政運営という状況だった事と上位を常に頼る伝統的な身分的特性もあって、上位の分裂に巻き込まれ、再び家中の意見が分かれて騒動となってしまった。そして遂に、この分裂で池田家は将軍義昭の京都(西国)落ちと共に、解体となってしまった。

<参考史料>
1548年(天文17)------------
8月12日 三好長慶、同名政長の排除を細川晴元・近江守護六角定頼に求める
      ※三好長慶(人物叢書)98頁など
1570年(永禄13・元亀元)------------
6月26日 三好三人衆方三好長逸・石成友通など、摂津国池田へ入城との風聞が立つ
      ※言継卿記4・425頁など
7月    三好三人衆方池田民部丞某、山城国大山崎惣中へ禁制を下す
      ※島本町史(史料編)443頁など
8月13日 摂津守護伊丹忠親、三好三人衆・池田勢等と摂津国猪名寺附近で交戦
      ※群書類従20(合戦部:細川両家記)634頁
9月    三好三人衆方池田民部丞某、摂津国多田院に禁制を下す
      ※川西市史4(史料編1)456頁など
11月5日 三好三人衆方池田民部丞某、摂津国箕面寺に禁制を下す
      ※箕面市史(資料編2)414頁など
1571年(元亀2)------------
6月24日 三好三人衆方摂津国池田衆、摂津国有馬湯山年寄中へ宛てて音信
      ※兵庫県史(史料編・中世1)503頁など
8月28日 摂津国郡山(白井河原)合戦
      ※高槻市史3(史料編1)438頁など
11月8日 三好三人衆方摂津国池田三人衆、摂津国豊島郡中所々散在へ宛てて禁制を下す
      ※箕面市史(資料編2)411頁など
1572年(元亀3)------------
3月14日 京都吉田神社神官吉田兼見、三好三人衆方池田三人衆荒木村重へ音信
      ※兼見卿記1(続群書類従完成会)37頁など
1573年(元亀4・天正元)------------
3月14日 将軍義昭、摂津国人池田遠江守某へ内書を下す
      ※戦国期三好政権の研究97頁、高知県史(古代中世史料)651頁など
4月4日  将軍義昭方本願寺光佐、越前守護朝倉義景への音信で池田遠江守について触れる
      ※本願寺日記・下・611頁など
4月6日  織田信長方荒木村重など、将軍義昭側近曽我助乗など宿所へ宛てて音信
      ※人文研究(第48巻)1030頁など
4月28日 将軍義昭方池田清貧斎正秀など、織田信長衆塙(原田)直政等へ起請文を提出
      ※織田信長文書の研究・上・630頁など
1574年(天正5)------------
8月19日 足利義昭方甲斐守護武田勝頼、同摂津国人池田遠江守某へ音信
      ※高知県史(古代中世史料)966頁など




2016年3月16日水曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(内訌の様子とその後の勝正の動き)

織田信長は、阿波・讃岐国の大名三好氏の勢力が西から迫る事は早くから想定しており、金ヶ崎城から京都へ戻った時には、暫くとどまって、その動きを観察していたらしい。
 しかし、信長にとっての最大の誤算は、近江国の姉川方面での決戦が見え始めた重要な時に、摂津国池田家中で内訌が起きた事であった。この事により瀬戸内海と京都が寸断され、逆に京都へ三好勢が直接進攻できる状況となった。また、この池田家内訌に影響を受けた原田家など近隣諸家も、池田家に同調する動きが見られた。

池田家内訌の原因は何であったのか。金ヶ崎城から京都へ戻った信長は、不穏な状況と向き合うにあたり、万一の場合に備えて、主立った国衆や勢力から人質を取った。
 しかし、これが感情的な反発の引き金となり、池田家中に鬱積した不満に火をつけたのではないかとも考えられる。将軍義昭に対して、「無理を重ねて尽くしても、信用されていない。」と、池田の多くの人々が考えたのかもしれない。また、誰を人質に出すかで議論が紛糾した可能性もある。
 そして池田家当主である勝正は、家中の不満を鎮める事ができず、勝正親派であった家老2人を失い、城を出る事となった。勝正は、その後も幕府方として行動し、間もなく豊嶋郡内の原田城を攻撃するなどして、幕府方に身を寄せつつ、池田家惣領復帰を目指して活動したと考えられる。

<参考史料>
1569年(永禄12)------------

11月21日 堺商人今井宗久、三好三人衆勢の動きを将軍義昭側近細川藤孝などへ通報
       ※堺市史5(続編)918頁など
1570年(永禄13・元亀元)------------
5月     幕府・織田信長、京都とその周辺の主要な人々から人質を取る
       ※大日本史料10・4・556頁(毛利家文書)、信長公記(新人物往来社)103頁など
6月2日   阿波足利家擁立派三好三人衆方の牢人衆、堺へ集まる
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)189頁など
6月18日  将軍義昭側近細川藤孝など、畿内御家人中へ宛てて音信
       ※大日本史料10・4・525頁(武徳編年集成)など
6月18日  摂津池田城内で内訌が起こる
       ※言継卿記4・424頁、多聞院日記2(増補 続史料大成)194頁など
6月26日  摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
       ※言継卿記4・425頁など
7月6日   幕府・織田信長勢、摂津国吹田城を落とす
       ※言継卿記4・428頁など
8月10日  流浪中の公卿近衛前久、薩摩国島津貴久へ畿内の状況について音信
       ※近世公家社会の研究22頁など
8月25日  摂津国豊島郡原田内で内訌があり、城が焼ける
       ※言継卿記4・440頁など
8月27日  摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
       ※池田市史(史料編1)81頁、ビブリア52号155頁(二條宴乗記)など
1571年(元亀2)------------
8月2日   摂津守護池田勝正、摂津国原田城へ入る
       ※池田市史(史料編1)82頁など
1572年(元亀3)------------
1月4日   本願寺坊官下間正秀、近江国十ヶ寺衆中へ宛てて畿内の様子を音信
       ※大阪狭山市史2(古代・中世史料編)631頁など
4月16日  摂津守護池田勝正勢、河内国交野方面へ出陣
       ※大阪狭山市史2(古代・中世史料編)631頁、信長公記(新人物往来社)125頁など
11月6日  将軍義昭、側近上野秀政へ池田家の扱いについて内書を下す
       ※戦国期三好政権の研究98頁、高知県史(古代中世史料)652頁など
1574年(天正2)------------
4月2日   足利義昭方池田勝正、本願寺勢に加わる
       ※続群書類従29下(永禄以来年代記)270頁など






2016年3月15日火曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(金ヶ崎の退き口から第二次浅井・朝倉攻め(姉川合戦)に至るまで)

越前国の南西の防衛は、敦賀郡にある天筒山が最も重要と考えられている。そのため、天筒山を要塞化し、更に木ノ芽峠までも要塞化して防衛に力を注いでいたらしい。その天筒山から海側に伸びた尾根の先端に有名な金ヶ崎城がある。
 この要塞を池田勝正を含む幕府・織田信長の軍勢は、海と陸から攻め、遂に落とした。同時に、天筒山城と補完関係にある疋壇城も攻囲(交通の遮断も)して落した。

筆者が考えるように、地元の研究者も、敦賀郡へ幕府勢が入る時、2つのルートを進軍しただろうと考えられている。敦賀平野を攻めるには、いくつかの口の一つから侵攻するのでは、大軍であっても難しい。また要所で、必要な軍勢を分割して充てるためにも、大軍の用意は不可欠であったと考えられる。
 他方、この時の幕府軍(織田信長)の動きを詳しく見ると非常に慎重で、用意も周到である。京都や岐阜にも控えの兵を多数用意もしている。更に、信長の陣中に飛鳥井氏や日野氏などの公家も同行していた。しかも飛鳥井家は、若狭守護武田家と伝統的に親密な間柄にあり、人選も考え抜かれて決められているらしい。
 それらの事から、信長は噂通りに浅井氏の離反が確認できると、すぐに退却したのだと思われる。この時は状況不利とも見て、体制を立て直す事を決め、殿軍として池田勝正などを置いて一旦退いたが、同方面の勢力と「決戦」を行う用意は、始めから想定されていた事と考えられる。またその事は、官軍に弓を引いた既成事実を作らせる事ともなっただろう。
 故に、それら各々を別の要素と捉えるよりも、一連の動きとして見る方が、実際の動きに合致しているように思われる。その意味で「姉川の合戦」は、第二次浅井・朝倉攻め、と捉える事が可能だと考えられる。
 
<参考史料>
1569年(永禄12)------------

4月    三好三人衆方越前守護朝倉義景、若狭・越前国境の金ケ崎城などを改修する
      ※越州軍記(朝倉義景のすべて)など
1570年(永禄13・元亀元)------------
4月26日 幕府・織田信長の軍勢、越前国天筒山・金ヶ崎城などを落とす
      ※信長公記(新人物往来社)103頁など
4月28日 幕府衆諏訪俊郷など、山城国人革島一宣へ兵船徴用などについて音信(奉書)
      ※福井県史(資料編2)45頁など
4月28日 幕府・織田信長の軍勢、越前国金ヶ崎からの撤退始まる
      ※信長公記(新人物往来社)103頁など
4月30日 将軍義昭側近一色藤長、織田信長衆蜂屋頼隆などへ音信
      ※大日本史料10・4(武家雲箋)400頁など
5月1日  公卿山科言継、日野輝資などへ帰洛の労いを伝える
      ※言継卿記4・412頁など
5月4日  将軍義昭側近一色藤長、丹波国人波多野秀信へ朝倉氏攻めなどについて音信
      ※大日本史料10・4・358+401頁など
5月9日  織田信長、兵を率いて京都を出陣
      ※言継卿記4・414頁、信長公記(新人物往来社)104頁など
6月4日  幕府・織田信長勢、近江国野洲にて交戦
      ※言継卿記4・420頁など
6月6日  織田信長、若狭守護武田氏一族同苗信方へ音信
      ※福井県史(資料編2)722頁など
6月17日 将軍義昭、近江国人佐々木(田中)下野守へ御内書を下す
      ※大日本史料10・4・526頁など
6月19日 将軍義昭、池田家内訌の深刻化で再び近江国出陣を延期
      ※言継卿記4・424頁
6月27日 将軍義昭、近江国出陣を延期(実質的中止)
      ※言継卿記4・425頁など
6月28日 近江国姉川合戦







2016年3月14日月曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(軍事行動の目的と池田家の役割)

近年の、中・近世における交通・物流研究の深化により、戦国時代の権力についても多角的な視点が示めされるようになってきている。また、中世後期は「戦国時代」とも呼ばれ、政治の一部として「武力」が、政治問題の解決方法に用いられていた。軍事的な視点では、節目となる大きな戦争が既に知られている。しかし、それはまだ、その時代の部分的世界の理解であるように思える。
 元亀元年4月、朝廷からも信任された官軍としての幕府軍は、朝倉氏を攻めるために、越前国へ向かった。それは周到に用意され、進軍中に改元も行われている。また、その数も30,000〜50,000という大軍を動員し、その中、池田勝正は3,000名を率いて従軍した。これは、幕府軍の中でも中核ともいえる組織規模(一団)である。

この、話し合いを考慮しない朝倉征伐の目的は、勿論、その本拠地である一乗谷へ侵攻する事であるが、それに加えて政権離反の兆しがある浅井氏の動向確認、また、未完でもある近江国制圧と若狭国内乱の平定も目的にしていたと考えられる。更に、それによる若狭湾から湖北各津を経た京都・奈良・大坂への流通掌握も重要であった。

朝倉氏征伐は、京都を中心とした軍事・経済・交通など、複合的な課題を総合的に解決するための行動であったと考えられる。また、朝倉義景によって拉致されたとする、若狭守護家の武田孫犬丸(元明)の解放も目的の中に組み込まれていたのかも知れない。
 これらの目的に対して池田家は、幕府・織田信長から大きな期待をかけられるに見合う規模と実力、畿内近国でのブランド力を備えていたといえる。

<参考史料>
1568年(永禄11)------------

4月8日   近江国菅浦関係者らしき善応寺など、近江国人浅井長政一族木工助某へ音信
       ※日本中・近世移行期の地域構造64頁など
8月     足利義昭擁立派越前守護朝倉義景、若狭守護武田元明を若狭国から拉致する
       ※朝倉義景(人物叢書)64頁など
8月18日  近江国菅浦惣中、織田信長方近江国人浅井長政一族木工助某へ音信
       ※日本中・近世移行期の地域構造65頁など
11月12日 幕府奉行衆松田頼隆など、若狭国賀茂庄名主百姓中へ宛てて音信
       ※福井県史(資料編2)529頁など
12月12日 幕府・織田信長方浅井久政など、近江国人朽木元綱へ起請文を提出
       ※浅井氏三代(人物叢書)195など
1569年(永禄12)------------
6月23日  近江国人浅井氏、幕府・織田信長方から離反するとの噂が立つ
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)135頁など
1570年(永禄13・元亀元)------------
1月23日  織田信長、摂津守護池田勝正など諸大名へ触れ状を発行
       ※姫路市史8(史料編:古代・中世1)591頁など
3月6日   織田信長、公家の領地旧記の調査を命じる
       ※言継卿記4・396頁など
3月12日  近江国人浅井久政、近江国黒田など御寺地下人中へ宛てて音信
       ※大日本史料10・4・403頁など
4月20日  織田信長幕府軍として、京都を出陣
       ※言継卿記4・407頁など
4月28日  正親町天皇、禁裏・石清水八幡にて戦勝の祈祷を行う
       ※言継卿記4・410頁など
6月20日  織田信長、近江国菅浦へ禁制を下す
       ※大日本史料10・4・532頁など







2016年3月13日日曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(諸役負担、軍事負担、一部の権利返上)

池田衆のそれまでの経緯と実力から、「郡」単位の領知(本拠の豊嶋郡を中心に)を上位権力から認められるまでになっていた。
 そして池田衆は将軍義昭政権において、摂津守護職を任される事となった。この時、池田衆の郡単位での様々な役の経験と地域求心力は、他の地域でも有効だったと思われるが、実際には様々な困難に出くわす事となったのかもしれない。地域の最上位権力である国の守護となると、それまでとは全く異なる環境も多く、政治・軍事的に、政策を進めるも退くも、自分を守る術が身についていない。
 また一方で、将軍となった足利義昭は永年、僧として生活しており、その将軍就任については特異な例でもあった。そのため、政権を安定させる事ができず、敵対勢力との闘争や諸利権の整理が困難で、常に波乱であった。それからまた、敵対勢力や要地制圧のために、西は播磨・但馬国、北は越前国へ軍事動員され、中でも播磨国へは、夏と秋の連続で出陣している。
 更に、京都での将軍御所などの建設や禁裏の補修など、中央政治への奉仕に駆り出される役にも、守護職として義務を果たさねばならなかった。
 池田衆は将軍義昭政権を支えるべく、守護職という歴代最高の社会的地位を得たが、義務としての課役もこれまでとは比べものにならない量となった。軍事的負担や諸役負担はもとより、権益の一部返上なども行っており、池田家中では、それらの負担の増大に池田家中の人々は耐え難くなっていたように察せられる。

<参考史料>
1563年(永禄6)------------

3月30日  三好方池田勝正、摂津国箕面寺岩本坊へ宛てて音信
       ※箕面市史(資料編2)413頁など
1565年(永禄8)------------
10月15日 三好方三好方池田勝正、摂津国尼崎本興寺に禁制を下す
       ※兵庫県史(史料編・中世1)449頁など
11月23日   三好方池田勝正、京都東寺へ禁制を下す
       ※東寺百合文書(9編910册622頁)など
1567年(永禄10)------------
5月22日  三好三人衆方池田勝正、大和国薬師寺へ禁制を下す
       ※奈良県史18・408(薬師寺文書)頁など
1569年(永禄12)------------
正月     摂津守護池田勝正、播磨国鶴林寺並びに境内へ禁制を下す
       ※兵庫県史(史料編・中世2)432頁など
1月27日  京都二条武衛陣へ将軍邸の新造に着工
       ※言継卿記4・305頁など
4月15日  京都妙覚寺にて摂津衆など集い、公事について事務(打ち合わせ)を行う
       ※言継卿記4・326頁など
8月19日  幕府・織田信長方朝山日乗、播磨国庄山城より戦況等を毛利元就他へ音信
       ※龍野市史(史料編1)663頁など
10月23日 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族正詮などへ堺五箇荘押領について音信
       ※堺市史5(続編)914頁など
10月26日 摂津守護池田勝正など幕府勢、再度播磨国へ出陣
       ※池田市史(史料編1)81頁など
1570年(永禄13・元亀元)------------
3月15日  禁裏の紫宸殿の瓦工事がほぼ終わる
       ※言継卿記4・398頁など
3月18日  奈良興福寺多聞院英俊、将軍義昭の新第を見物する
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)174頁など






2016年3月12日土曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(池田衆の実力)

池田家は、摂津国内屈指の規模を持つ勢力で、それについては様々な史料でも確認できる。それは、交通の発達による流通も含め、その時代性に見合う地の利と中世的社会全体の発展があり、五畿内中の有力都市に成長した事と無縁ではない。
 都市・交通・物流・農産品の生産などが複合的に、より地の利の豊かな地域へ求心力をもたらした結果、発展した池田が歴史の表舞台で活躍した。

永禄12年正月、織田信長が美濃国岐阜に戻った隙を衝いて、三好三人衆勢が京都本圀寺に起居していた将軍義昭を襲撃する事件(本圀寺・桂川合戦)が起きた。これに池田勝正など、摂津三守護が急遽応戦し、事無きを得た。この時、特に功のあった勝正一族で同苗の紀伊守入道清貧斎正秀が信長から賞されている。

一方、後世の伝承で、この時に勝正が役目を省みず池田へ逃げ帰ったとするものがあるが、これらは全て事実無根である事が当時の史料から確認できる。残念ながら、その虚像が今も一般に広く定着している。
 更に付け加えると、勝正は第14代室町将軍義栄政権でも活躍した。勝正は、その政権樹立にも大きな役割りを果たしていたのだった。

池田家の歴史上、勝正の時代に大きな飛躍があり、直接的支配地や影響力を及ぼす領域が拡大した。様々な歴史的事実を見れば、それは疑いない事であるが、それについて当時のキリスト教宣教師の記録が、詳らかに報じてくれてもいる。
 それから、勝正が摂津守護となった事に伴い、その居所である池田城にも変化をもたらしたであろう事は想像に難く無い。労務のための人材、そしてその仕事場や居場所が必要となる。また、社会的な地位にともなう形式と格式をともなった建物や使用品も必要となる。幕府を支えるべく、摂津国守護所としての池田城は、必然的にそれまでとは違う変化を遂げた事と思われる。それはまた、広域的に見れば、京都を守る拠点(都市)としての役割もあったのだろうと考えられる。


<参考史料>
1539年(天文8)------------
閏6月13日 将軍義晴、摂津国人池田筑後守など有力国人へ御内書を送る
       ※摂津市史(資料編1)379頁など
1564年(永禄7)------------
10月頃   宣教師フロイスの編書『日本史』に摂津池田家が紹介される
       ※フロイス日本史3(中央公論社)P192頁など
1566年(永禄9)------------
5月30日  足利義栄擁立派三好義継被官池田勝正、堺へ出陣
       ※大阪狭山市史2(史料編:古代・中世)615頁など
1567年(永禄10)------------
5月17日  足利義栄擁立派三好三人衆方池田勝正勢、奈良油坂の西方寺に布陣
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)13頁など
1568年(永禄11)------------
1月17日  足利義栄擁立派三好三人衆方池田衆、奈良多聞城の付城へ入る
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)50、ビブリア62号60頁(二條宴乗記)など
7月15日  将軍義栄方池田清貧斎正秀、公卿近衛家を訪問
       ※言継卿記4・255頁など
1569年(永禄12)------------
1月5日   足利義栄擁立派三好三人衆勢、将軍義昭の宿所本圀寺を襲撃
       ※言継卿記4・299頁など
1月6日   摂津守護池田勝正など、将軍義昭救援のため山城国乙訓郡西岡方面へ到着
       ※言継卿記4・300頁など
1月8日   摂津守護池田勝正、西岡勝龍寺城へ帰城
       ※言継卿記4・301頁など
1月10日  織田信長、池田勝正一族清貧斎正秀を褒賞
       ※信長公記(新人物往来社)93頁など
1月12日  摂津国池田へ避難中の将軍義昭側近細川輝経、将軍義昭へ参候
       ※ビブリア62号63頁(二條宴乗記)など
1572年(元亀3)------------
11月19日 織田信長衆木下秀吉、将軍義昭側近曾我助乗へ池田衆が幕府方となった事について音信
       ※兵庫県史(史料編・中世9)432頁など
1573年(元亀4・天正元)------------
3月12日  将軍義昭方池田某(知正?)、義昭へ参侯
       ※耶蘇会士日本通信・下・248頁など





2016年3月11日金曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(はじめに)

筆者は池田郷土史学会の会員で、平成23年(2011)7月10日に「浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-」と題して、研究発表を行いました。この年、大河ドラマで「江〜姫たちの戦国〜」を放映中でしたので、それに沿った内容で、池田勝正の関わりを紹介しようとの考えで企画しました。

史実として、越前朝倉攻めには池田勝正が従軍しており、その軍勢の中核的勢力として活躍しました。中心部分は「越前朝倉攻め」ですが、そこに至る経過とその環境、また、その事が、池田家の内訌につながったという要素を一つの線上にまとめて説明しました。

以下は、その時のレジュメの内容です。その後に気付いた事なども若干補足したり、ウェブ用に横書き体裁に変換して、皆さんのご参考になればと思い、公開したいと思います。
 
【摂津守護職として、将軍義昭・織田信長政権を支える】
 ◎池田衆の実力
 ◎諸役負担、軍事負担、一部の権利返
【浅井・朝倉攻め】
 ◎軍事行動の目的と池田家の役割
 ◎金ヶ崎の退き口から第二次浅井・朝倉攻め(姉川合戦)に至るまで
【池田家内訌】
 ◎内訌の様子とその後の勝正の動き
 ◎三好三人衆方に復帰後の池田衆の動き
【補足】

2016年3月4日金曜日

1570年(元亀元)の「金ケ崎の退き口」の池田勝正の退路

このテーマについて、長い間考えているのですが、最近ちょっと福井県小浜市を訪ねる機会があって、いくつか購入した資料を見ていると、再度考えるヒントが色々ありましたので、この機に少し思索をしてみたいと思います。

今も勝正の退路を見極める事ができずにいるのですが、私の頭の中には以下のような要素がバラバラにあります。なかなか整理が進んでいません。


『朽木村史(通史編)』90頁にある図より
(い)池田勝正は摂津守護として従軍しているため、幕府軍としての立場であった。そのため、その軍勢の中枢部分におり、織田信長やそれに従軍した公卿の飛鳥井氏や日野氏の護衛任務も兼ねていた可能性もある。軍勢は幕府や錦の旗を立てて進んだと思われる。
 なお、将軍義昭側近であった明智光秀も将軍名代的なカタチで、幕府軍の中に居たと思われる。なお、軍勢の配分は不詳で、更なる研究が必要。

(ろ)京都を出た軍勢は、琵琶湖西岸を進み、近江国高島郡へ入って田中城を本営に宿泊。そこから、軍勢は二手に分かれて、一隊は七里半街道(敦賀へ)を、一隊は九里半街道を進み、信長自身が居る本体は九里半街道を進んでいるため、この本隊に勝正も居ただろうと考えられる。
 田中城から朽木・熊川を経由して国吉城へ向かう道程で進んだと思われる。もちろん、常に本隊の前には、必ず斥候が出ているし、政治的な対応を行うための前触れも出ている。

(は)越前国敦賀に入り、金ケ崎城・天筒山城を攻撃する時、信長は若狭・越前国境の城である国吉城に居り、ここに公卿衆などの本隊もあったらしい。信長はここに2日間留まっている。
 金ケ崎城・天筒山城を総攻撃する頃の4月25日に信長は、国境を越えて花城山城に進み、続いて妙顕寺へ陣を進めた可能性があり、その翌26日、金ケ崎城・天筒山城を落とした。この攻城に池田勝正も参加していたいと思われる。

(に)4月27日、幕府・織田勢は、金ケ崎城・天筒山城から2〜3里(約8〜12キロメートル)ほどの至近距離にある、木ノ芽峠の城を攻め、これに徳川家康が従軍していたらしいが、池田勝正は前線に出ず、金ケ崎城の本陣に居て、信長や公卿衆などを守る役目を持っていた可能性もある。しかし、2〜3里では、至近距離であるため、前線に出ていた可能性も無くは無い。このあたりの所は、もう少し調べる必要がある。

(ほ)信長が越前朝倉氏攻めを中止し、撤退を決めた4月28日、池田勝正は将軍側近明智光秀、織田信長側近の木下秀吉と共に、金ケ崎城・天筒山城を固めて、撤退戦に移ることとなり、この時点で、摂津池田衆は敦賀に居たことは確実である。
 それについて史料を改めて読んでみると、明智光秀と木下秀吉は、周辺の状況を把握するため、場所は不明ながら小浜や朽木、熊川などに残り、徳川家康や池田勝正などが京都に戻った可能性も高いように思われる。

(へ)織田信長との同盟を破棄した近江国人浅井長政は、近江国内一帯に警戒線を張ったことから、敦賀から近江国北部の街道は封鎖され、若狭国西部からの道で撤退せざるを得なくなる。時間が経つ程に状況が不利となるため、先ず、織田信長や公卿衆が先に京都へ戻ることになり、少人数で逆に目立たせないように工夫をして、急遽敦賀を出たらしい。
 越前・若狭国境の関峠を越えれば、堅牢な国吉城があって、追っ手が来てもそこが最初の防衛線となる。信長一行は少人数であるために、機動力はあるが、襲われればひとたまりも無いため、味方の領内を通り、道中の安全には確実な方法を選んでいる。
 若狭国熊川には奉公衆の沼田氏、同国大飯には同本郷氏、同国遠敷郡後瀬山には若狭守護武田氏、近江国高島郡には奉公衆朽木氏が居て、これらの領内を移動し、一旦は、朽木に入って、更にそこから近江国内をなるべく通らず、そこから京都への最短路である、針畑越から京都へ戻ったと思われる。

(と)遅れて京都を目指す、池田勝正など殿軍は、同じ道程を辿ったと思われる。若しくは、いくつかの道に分散させて戻ったかもしれない。
 軍記物にあるように、朝倉・浅井の追っ手や近江国人の一揆による襲撃は、無いとは思えないが、事実としては左程深刻なものでは無いと見られる。撤退路には、諸方に幕府加担者が居り、そこが拠点となって何段も食い止める方策になっている。また、朝倉勢が一乗谷を大挙出陣したのは、5月11日頃であり、「金ケ崎の退き口」の時点で大軍に包囲されるような状況になかった事は、当時の判断にもあった筈である。現実にあったのは「かもしれない」や「恐れがある」予測段階だっただろうと思われる。
 一方、池田勝正などの殿軍は、敦賀から京都へ戻るが、これも近江国内の通過は極力避けて、熊川から朽木領内を経由して、針畑越えを選んだと思われる。この針畑越えは、この時の徳川家康の通過を伝えている。また、針畑越の街道も朽木氏の勢力が及んでおり、要所に城がある。朽木氏領内で1日分の補給さえ考慮すれば、2日程で京都へたどり着ける。
 ただし、『鯖街道』(向陽書房刊)によると、平成10年頃だろうか、小浜市泉町から京都の出町柳まで、全長約80キロメートルの針畑越を走破する競技が行われ、100余名が全員完走して、一着のランナーはなんと、8時間3分でゴールしたとの事。時速10キロメートルの計算になる。馬などを乗り継げば、かなりの短時間で往来できる可能性は、この事実からも推測できる。
 針畑越の街道は、当時でも主要道であったらしく往来も盛んだったため、多分、江戸時代でいうところの伝馬制度になっていたと思われます。こういう軍事的な大動員があるなら、要所ではそのための追加策も講じられていたでしょう。
 
(ち)殿軍がいつ戻ったのかは、ハッキリした史料はなく、不詳であるが、5月1日頃には戻っていたのではないかと思われる。この日、念のために将軍居所である、二条城に兵糧を入れたりして、防戦の準備をしたとの記述が見られる。また、もしかすると明智光秀は朽木に留まって、情報収集などを行っていたかもしれない。また、織田信長は、各地の京都周辺の情報収集、分析、準備を終えて、5月9日に京都から岐阜へ向けて出発している。それまでには、越前国からの撤収や手配は、少なくとも終えているものと考えられる。

(り)何よりもこの越前朝倉攻めは、近江国人浅井長政が、当時の噂通りに幕府方の行動に背くかどうかの確認の意味も含められていたと考えられる。そのため、撤退する事も予め行動の要素の中に入っていたと思われる。ルートも予め決められていたというか、必然的そこしか選択肢がない状況にもなっただろう。
 急に決めた事をこれ程の数の軍勢を、こうも簡単に移動させる事は難しいだろう。織田信長の行動を見ると、用意は周到に行われており、「姉川の合戦」までの事は、一連の構想や計画に入っていた事と思われる。

何となく、書いている内にだんだんと輪郭が浮かんで、断定的になっているようなところはありますが、状況から考えて、あまり複雑な経路を取らずに、危険な道を選ばず、最短で京都へ戻ることを考えただろうと思います。
『朽木村史(通史編)』86頁にある図より
信長の朽木越えの動向について、朽木氏の家臣であった長谷川家に伝わる『長谷川家先祖書』*には、28日、信長公は保坂より朽木越えの街道に入り、慕谷(ししだに)を通行され、その時、朽木河内守元綱公が警固の兵を召し連れて道案内をされたので、信長公は無事に下市の圓満堂に着いて休憩され、元綱公より接待を受けられました。その際、隣家の長谷川惣兵衛茂元(茂政)が、お茶とお菓子を献上したところ、信長公は履いていた鹿革製のたちつけ(はかまの一種)と銀製の箸一対を下さいました。当家では今日まで、家宝として持っています。、との旨の記述があるようです。
 また、その下市から北に進んだところに、現在の県道23号線との分岐点があり、このあたりを三ツ石と呼んだそうですが、このあたりに「信長の隠れ岩」*と伝わるところがります。同時に、ここにも朽木氏関連の城がありました。
 この県道23号線の先には針畑越の街道と合流します。途中に長泉寺やこの辺りにも朽木氏の関連城郭があります。上記の図を参照下さい。
※朽木村史(通史編) -滋賀県高島市刊-より
 
こういった伝承や当時の史料などから総合的に考えてみると、信長は朽木から南へは進まず、針畑超えを選んで、京都へ入ったものと思われます。多分、勝正など殿軍も同じような道を選んだ事でしょう。
 それから、小浜と朽木は大変結びつきが強く、朽木氏と若狭武田氏も親交があったと思われます。若狭武田氏は、幕府とも強い結びつきがありますので、朽木氏とは代々結びつきは強かったはずです。ですので、こういった要素は、この信長の行動や勝正など殿軍の行動も必然性を与えていたはずだと思います。

後世の脚色が強い「金ヶ崎の退き口」のドラマチックな記述は、嘘だと思います。これは、以前も書きましたが、信長は非常に慎重な武将で、退路も考えて行動しています。朽木と高島郡を押さえる事は、若狭とも関連します。加えて、この撤退戦直後の史実として、5月17日に高島郡の有力豪族(高島七頭の一家)が、信長の配下となる旨を伝えて来ますし、同月6日に明智光秀・丹羽長秀を若狭国の武藤氏の元へ派遣したりしています。『信長公記』の記述では、この時も針畑越えを使ったとあります。

信長が撤退の最中にギリギリの賭けをする程ならば、このような事は出来ないし、起こりません。この見立て、いかがでしょうか?詳しくは、他の朝倉攻めに関する記事もご覧いただければと思います。


【オススメ】
滋賀県高島市から発行されている朽木村史(通史編・資料編)は、素晴らしいです。これで、5,000円(税別)とは大変お得です。朽木の全てが分かると言っても過言ではありません。こちらの方面の歴史を知りたい方は、是非お買い求め下さい。
◎高島市の公式ページ
 http://www.city.takashima.lg.jp/www/contents/1435818305138/index.html





2016年3月2日水曜日

河内飯盛城に三好長慶が入った理由を考える

近年、河内国飯盛城跡を国の史跡として指定を受けるべく、その機運が盛り上がる中で見られる、「飯盛城は日本の首都だった」との解釈なのですが、私のこれまでの理解ではそういう発想がなかったので、ある意味では衝撃的でした。

摂津国人池田勝正を見ていく上では、どうしてもその上位権力の動きを見る必要がありますので、当然ながら、三好政権についても詳しく見る必要があります。
 追いかけている年代は、勝正が生まれてから死亡するまでの期間として1530年(享禄3)〜1578年(天正7)の約50年間で、その前後2年づつくらいを加えて対象にして見ています。

それで、ちょっとこの記事を書く段階ではうろ覚えなのですが、享禄年間頃かそれより前、畠山氏の争いの中で、河内国の統治権利が南北に分割された政治決着があり、この前例を以て、その後の動きがあるように捉えていました。
 木沢長政の上位権力である畠山在氏が、その河内北半国守護格のようになり、その重臣であった木沢長政が飯盛山城に拠点を構え始め、長政はそういった権力の境目に、色々と城を築いていたと理解していました。信貴山城・二上山城などもそうですね。
 それを契機として、河内国が南北に分断したこと自体、競う本質が出来た事になるので、どちらも相手が弱体化すれば、統一しようとする動きがいわば摂理に変化したように思います。

私はこの前例が、織田信長の時代にも見られ、争いの種、政治の概念にもなっていたと見ています。

それと、河内と大和国境は、地域を越えて国人の結びつきが強く、いつ敵味方に分かれるか判らず、微妙な紛争地域でしたので、ここを監視する必要があります。飯盛城・信貴山城・二上山城あたりは、そういった目的の城と考えていました。

もちろん、河内飯盛城のポテンシャル(素質)は、戦争の時代には、どうしても取っておくべき要地ではあったのですが、それに加えて、河内・大和国境の人間の結びつきがあって、ここに三好長慶が入って、それらを監視していたと考えていました。
 永禄2〜3年にかけて、幕府方として河内畠山家内訌に介入し、終いには畠山家を機能停止させてしまう事になったのですが、三好長慶に対抗する周辺勢力が、畠山家の残党と結びつき、これに抵抗をしていました。また間もなく、畠山氏のこの動きに近江守護の六角氏も加担する動きを見せ、同じ、反三好連合ができあがり、大和国も不穏な状態が続いていました。
 ちなみに六角氏は、管領細川晴元と三好長慶の抗争で、晴元の隠居と引き替えにその嫡子六郎(昭元)の管領就任を条件に和睦しましたが、長慶はこれを実行せず、手元に置いて軟禁状態にした事から、両家は良い関係にありませんでした。畠山氏は、この六角氏と結びつき、その領内に一時期、匿われていたようです。

そういった事情から、戦争の新たな局面を迎えたため、永禄4年に長慶は、息子の義興に当主を譲り、いわば隠居して、後援の体制を作り、それまで居た芥川山城から飯盛城に移り、奈良の松永久秀と共に、河内・大和国の対策に乗り出します。また、政権内での現代の管区のような受け持ちも、そういう区分けされた概念で、河内を南北に分けて統治を行っていたと思います。
 ですので、体制としては当主が三好義興なのですから、ここが首都(首都という発想ならば...)だと思っていました。義興が京都へ出仕し、長慶がそれを助ける体制だと見ていました。長慶は、大和の制圧により、畠山氏残党の勢いを削ぐ次の目標を立てていたのではないかと思います。

先日の「落語と城トーク」のシンポジウムトークを聞いていると、「飯盛城の石垣は、東側に多く、見せる城としては、東に向いていた」との見解が示されていた事からも、多聞山城についてもそういった向きはありますので、それぞれの城は同じ目的があったと感じました。大和国を囲むように、一貫した同じ方策(政策)を行っていたと思います。
※もちろん、飯盛城の東側に多く見られる石垣は、全て長慶の生きていた時代なのか、その後なのか、どういう段階を経ていったのかを明らかにする必要はあるのですが...。

そんな中、長慶の跡取りである義興の急逝、続いて長慶の急逝。続いて、三好三人衆と松永久秀の内訌があって、大和国制圧の目的は達せられませんでしたが、その後の将軍義昭政権でも、結局は同じ考え方、政策、軍事行動を行っており、今、飯盛城の位置づけを強調して「日本の首都だった」としているところは、何となく違和感を持ちながらも、そういった側面での事だったと、個人的にはやはり思うのです。
 現に、将軍義昭政権下では、河内国を二つに分けて、北部を三好義継、南部を畠山昭高へ与えて、それぞれ両守護としています。これは、先例に習うと共に、概念が既に出来ているために、交渉の落としどころとしても使えたのだろうと思います。

更に更に、三好義継が討伐された天正元年(1573)、その権力の欠所に荒木村重が任命され、摂津国を中心としながら、京都周辺の織田政権浸透に尽力した、と個人的には考えています。
 脇田修氏の研究では、河内国南部には、土地や権利の差し出し的な把握が行われていますが、北部は荒木村重が討伐されるまで行われていないようで、これはやはり、そういった権力の境目があったことを示していると思います。
※これについて詳しくは「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について」をご覧下さい。


2016年2月28日日曜日

落語と城トーク(週風亭昇太×中井均×河内飯盛城)に参加して

摂津池田城跡に関する埋蔵文化財の破壊を、あるべきものをあるべくように向けるか。それについての思索の参考に、落語と城トーク(週風亭昇太×中井均×河内飯盛城)に参加してきました。

日時:平成28年(2016)2月28日13:30から16:00
会場:大東市民会館キラリエホール
主催:大東商工会議所 商業部会
共催:大東市・NPO法人摂河泉地域文化研究所・大東のざき観光ステーション
後援:大東市商業連合会

この催しは、大東商工会議所商業部会が飯盛城を国史跡指定推進事業を推進しており、それについて、大東市市制施行60周年プレイベントとして、飯盛城国史跡指定推進プロジェクトの位置付けて行われました。

催しの冒頭に、商工会議所の商工部会長の挨拶があり、この一連の取り組みの意図の説明があり、それによると、大東市は近年、人口の減少が見られ、それに伴う商工業の衰微もおきている為、この取り組みで、いわゆる活性化たる賑わいの核にしていきたい趣旨もあるとの事でした。もちろん、市政としての内憂外患の打破にも期待しているようです。
 細かく書くと、色々あるのですが、大東市を上げての取り組みでもあり、市長自らもそれに理解を傾けて取り組んでいるようでした。いずれにしても、地域を上げての取り組みにしていこうとの熱意は感じられました。

個人的には、大和川開削後の歴史上で非常に重要な位置付けでもあった、平野屋会所跡の保存活動に失敗し、文化不毛地帯だと思っていた大東市でしたが、市長の交代で流れが大きく変わったと感じるきっかけにもなりました。


大東市で開催の落語と城トークの会場の様子

河内飯盛城は、現在、国の史跡登録に向けて、積極的に活動しています。ここ数年で答えは出ると思いますし、多分、指定は受けることになると思います。飯盛城は随分前から、それに価する遺跡だとの評価はされており、また、このところの国の省庁移転の取り組みで、文化庁が京都へ移る可能性が高まっている事もあって、周辺環境の色々な高まりもそれには好都合となるでしょうね。

会場は満員で、定員600名を上回っていたと思います。平均年齢が高かったのが気になったところですが、文化財への理解を広げるイベントになった事は確かだと思います。
 中でも、飯盛城についての「城トーク」コーナーがあり、週風亭昇太さんのコメントがすばらしく、会場の空気を一変させたと感じました。城好きで知られた昇太さんの、ある日の出来事を上げられてのお話です。

落語会の前に地元の城を見たくて、早めに現地に入られてタクシーに乗って、そこへ向かおうとした時のやり取りで、

昇太:
「◯◯まで行ってください。ちょっとお城跡を見たいんです。」
運転手:
「あそこに行っても何も無いよ。」
昇太:
「ちょっと、行ってみたいんです。」(...そりゃあ、何も残っていないかもしれないけど、何もないという今も見たいし、普通の人には気づかれない痕跡を見たいんだけどな...。)
運転手:
「ほんとに何もないよ。本当にこの街には何もなくて、だから人も居なくなって寂れる一方なんだよ。」
昇太:
「ん〜、難しい問題ですよね。私ちょっと城が好きなので、すいませんけど、兎に角行ってください。」

みたいな事があったようなんです。しかし、これについて、昇太さんが考える、文化財や遺跡に対する想いをコメントされ、それについて、私も感動しました。

昇太:
「そのタクシーの運転手さんは、家族とか、自分の子供にもこの街には何もない。だから何もできない。っていってるのかもしれません。でも、大人が子供にそういう事を言い続けるから、その子供もそう思ってしまって、地域を知るきかっけとか、それにつながる希望とかもいっしょに無くしてしまうんです。
 だから、大人がそんな事を子供にいってはいけないんです。知らないのなら、何も言わない方がマシだと思います。そんな事よりも、自分が少しでもそういうことを知って、ここには何があった、昔、こんな偉い人がいて、みんなを助けたんだよっていう、そういう言い伝えとか、地域の事(歴史)を中心に親子がつながる方が、よっぽど日常が楽しいと思うんです。」

といった、趣旨のことを発言され、私は本当に感動しました。その通りです。
 残念ながら、昇太さんが体験されたような事が、どちらかといえば普通です。私も常にそれを体験していて、悲しいくらいに普通です。食って、寝て、遊ぶだけの都市、現代生活になりつつあるのは非常に残念です。

このコメントが会場におられる人々に響いたのか、大きく頷く方も居て、その後のコメントも心の耳でコメントを聞いている方が増えたような感じにもなったように思います。会場の雰囲気は一変したように見えました。

細かなところは色々あったのですが、全体の結果としては、企画意図は遂げられていたのではないかと思います。これを機に、文化財への理解が進めばいいなと、心から願っています。



2016年2月27日土曜日

中世の摂津国大坂周辺の地形について(東大阪に残る昔の川(新開池・深野池)の跡)

江戸時代の宝栄元年(1704)の大和川付け替えで、流路が変わり、現在のような風景になったのですが、今もそれ以前の川と池の境目が残っています。結構な段差があるところもあって、それらの痕跡をその当時の地図と見比べると面白いです。

先に紹介した、大東市立歴史民俗資料館が発行する常設展示案内パンフレットに紹介されている中世の流域復元図を元に、池・川の痕跡を写真でご紹介します。地図の中に、a〜eまでの地点を入れてあり、それに相対して以下に写真を示します。

大和川付け替え前の川の流路

 a地点(古箕輪八幡神社付近):
東大阪市古箕輪にある古箕輪八幡神社は少し高くなっていて、このあたりから北に落ち込んでいます。北への見通しが利くため、戦前は陸軍の用地だったようで、今もそれを記す石標が残っています。
 江戸時代から戦後、昭和30年くらいまで、このあたりに舟が着き、港のようになっていました。また、この近くにある藤五郎橋あたりは、水位を調整するパナマ運河のような閘門がありました。

東大阪市古箕輪の古箕輪八幡神社の段差

b地点(加納2丁目付近):
東大阪市加納2丁目の旧集落の鎮守宇波(うわ)神社西側の段差です。ここは現在、戸建住宅の建築中で、次第に見えなく、気づきにくくなるでしょう。左側は、宇波神社の地車保管庫です。
 このあたりが段丘の最北端にあたり、水深もあった事から船着場だったようです。宇波神社は、写真の段差よりも更に上で、この段丘の一番高い所にあります。万が一の水害の被害を受け無いよう、村の人々の想いが伝わります。

 
戸建住宅のための擁壁は1メートル以上ある


c地点(今米1丁目付近):
今米1丁目付近の旧吉田川の川筋跡です。今はもう川はありませんが、大きな川だったようです。このあたりも結構な段差が残っています。 すぐ南には川中村が隣接していて、ここは、大和川付け替えに尽力した中甚兵衛公のご子孫(甚兵衛公兄の系統)が今もお住いです。中甚兵衛公には、大正3年に従五位が贈られています。江戸時代で言えば、ちょっとした大名が受ける位階です。中世でも通用する、高い位です。

今米1丁目付近の入り組んだ段差

d地点(水走2丁目付近) :
東大阪市水走2丁目付近は旧集落で、大津神社があります。この神社は式内社で、平安時代にまとめられた神社の叢書に出てくる、古い神社です。
 神社には、大津神社由緒として「当社は延喜式神名帳に載せられている古社にして、御祭神は大歳神(おおちしのかみ)の御子大土神(おおすなのかみ:土之御祖神:すなのみおやのかみ)で、字宮森に鎮座するとあります。創建の年月は詳らかではないが、伝説によれば、天児屋根命(枚岡神社の御祭神)の乳母津速比賣(つはやひめ)ともいわれています。
 社名よりして古代当地は、湖沼時代に沿岸地域での港津として重要な交通上の拠点として発展してきた地と推察されます。平安時代から室町時代の中世にかけての集落が営まれた水走遺跡と合わせ、土豪水走氏が河内の一つの拠点として拓き発展してきたものと考えられる。」と石碑に刻まれ、紹介文があります。
 古水走村は、吉田川の東岸に位置し、すぐ南には奈良街道が通っていますので、交通の要衝でもあったでしょう。


東大阪市水走にある大津神社

e地点(吉田本町付近) :
東大阪市吉田本町付近は、今も地形が少し高くなっていて、その半島のようになった地形の上を古い道が通っています。d地点の大津神社から200メートル程南にある吉田本町郵便局のすぐ西側は、写真のような断崖です。2メートルくらいはあろうかと思います。湖だった頃、水深は結構深かったのだろうと思います。

東大阪吉田本町郵便局の西側あたり

f地点(稲葉1丁目付近):
玉串川が北上して分岐すると、東に注げば吉田川になります。玉串川は西側に注いで行きますが、その川筋跡が残っています。稲葉1丁目付近の段差がそれで、写真のように、結構高さがあります。写真の右手前にある道を行くとすぐに、稲葉神社があり、樹木の右手には近畿自動車教習所があるところの段差です。

近畿自動車教習所の南側境界のあたり


g地点(吉田1丁目の花園商店街付近):
東大阪市吉田1丁目の花園商店街の中を府道15号線が通っていますが、商店街なので、車の通行は難しい雰囲気なのですが、通れなくは無いです。しかし、商店街が賑わっていた頃は、朝晩以外は買い物客が行き交っていたでしょうし、日中は無理だったでしょうね。そういう所に府道が設定されているのは、昔からの大動脈だったからです。
 そんな道の脇が断崖です。ここも2メートルくらいはあります。玉串川から吉田川になる分岐点のあたりです。川に沿って道があり、駅ができたので、その道が商店街になったようです。
 このあたりの実際は、なだらかに高低差がついているのですが、写真の場所は生活の都合上、削ってしまって垂直な角が出ています。幸か不幸か、そのために、高さが見た目にも分かり易くなっていますね。


東大阪市の花園商店街に沿った断崖



他にも色々あるのですが、今回はこのくらいにしておきます。また追い追い、増やしていきたいと思いますので、どうぞご期待ください。
 当たり前のいつもの景色も、その理由を知れば、とても興味深く、見え方も全く変わります。今回ご紹介した池・川跡は、先人が豊かな地域づくりの為に開いた痕跡でもあり、確実に今に繋がっている事なのです。

日常の何気ない凸凹ですが、面白いでしょ?

【関連記事】
東大阪市箕輪・古箕輪にある八幡宮のルーツを考えてみる

2016年2月13日土曜日

池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (その3:個人的な感想)

池田勝正という人物を調べてみて、「歴史」というものについて考える時、私は、決して社会の中の一分野であるべきでないと思うようになりました。
 先人の社会は不完全な部分があるように見えますが、そこには原則や真理、また、その営みの連続が現在にも繋がっているのですから、同じ失敗をする事の無いように、私たちの有効的な智恵として、歴史を捉えるべきだと感じます。

一般的には、歴史の全てを知る必要はありません。しかし、代表的な事は知っておいた方が良いと思います。また、大き過ぎるものよりも身近で手軽なものになるべく接するのが良いと思います。
 地域の文化財は、国宝や重要文化財(確かにすばらしい)よりも庶民的で、地域性があったり、創意工夫があるものも多いのです。そして、地域の文化財も国宝や重要文化財と同じように、何百年もの歴史を持ちながら、しかもお金をかけずに、すぐ近くで触れられます。

人間は生まれてから、現時点に至るまで、色々な経験を得ます。悪い事も良い事も、色々と経験し、事の善悪を判断するようになり、その中から、自分のあるべき方向を見い出します。同じ失敗をせぬよう、これまでの自分の経験を生かして、行動します。これは、その人の時間の重なりであり、歴史であるといえます。

さて、みなさん。もし、同じ失敗ばかりする人が居た時、その人を見てどう思うでしょうか?過ぎてから気付き、事前に問題をよく考えずに行動してばかりで、より良い結果が生まれるでしょうか?これまでの経験や人との繋がりの中でよく考え、一番良い方法を選ぶのが最善の筈ですよね。

日本の国や地域の社会とて、個人のこういった行動と同じです。

今は国家制度としての教育(学校)があり、自由に学べる社会ではありますが、結局、それがために分野化され、細分化された「歴史」というものが、社会の役に立たなくなりつつあるのではないかと感じています。
 私は、いわゆる「歴史」というものをそのように見たり、感じたりしています。地域(国にも)には、地域の歴史があり、それが地域の性格を形成しています。また、色々な状況(環境)に影響を受けて、絶妙な均衡を保ちながらカタチ作られています。
 
地域とその歴史を知る事は、よりよい未来の選択のため。また、その個性を知る事は、よりよい発展のため。それらを知るためには、科学に裏付けられた公平な歴史を残して(記録や調査)おかなければなりません。
 そういう環境を経ることで、その向こうに、心のよりどころとすべき、優しく豊かな社会が見えるのだと思います。





池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (その2:歴史研究が進む中で期待される地域史)

最近、中世時代の研究が進んで様々な分野の解明成果が発表されています。中世は社会が乱れ、移動も少なからずあり、また、戦乱で史料が亡くなっており、まとまった史料がありません。それ故に断片的で散在する史料の検証は進みませんでした。
 このために勝者側の比較的まとまった史料だけが研究対象となってしまい、実際にその権力を支えた地域の人々の実態は埋もれていました。
 しかし、その両方を比較検討する事で、その当時の実像が明らかになりつつあります。これは科学的歴史を継承する観点では、大変なレベルアップです。これまではやや推定を含む感情的・創作的な傾向が強かったため、誤解も多くありました。
 そういった研究が進むにつれて、地域史は大変重要度を増し、注目される環境にあります。地域史は、その地域にとってもより良い発展のための基礎データともなり、また、旧社会制度の解明にも役立ち、より広域の様々な分野に対する研究にも役立っています。それは、日本国内だけではなく、世界規模に及ぶ事もしばしばです。一地域の歴史ではあるのですが、それは「世界共通概念」が凝縮された歴史でもあるのです。

そんな中にあって、地域の歴史はやはり、地域の人々にしか見えて来ない性質がある事を知らなければなりません。その地域に住まなければ、やはりその地域の事はわかりません。逆にいえば、大きな世界の答えが、小さな地域の出来事と相対していることも多くあるのです。地域史は大きな可能性を秘めていると感じています。
 しかしながら、現代は移り変わりが、急すぎる程急です。山も川も丘も、あっという間に変形し、消滅します。こういう現代だからこそ、なお、地域史の発展の基礎は、その地域の人々の目と志しが重要となっているのです。なにしろ、地域の核となるべき人(住民)も、移動が当たり前の時代ですから。

かく言う、この私もそうなのですから。地域史という分野は、風前の灯なのかもしれません。





池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (その1:池田勝正の真実を知るための在野研究)

(1)池田勝正の真実を知を知るための在野研究
池田筑後守勝正の実像を知るには摂津国人である池田家そのものの歴史をひもとく事が必要です。研究者などによる学問の発展により、その当時の記録には摂津池田家の記述が頻出している事がわかってきました。しかし、摂津池田家についてのまとまった研究というのは、なぜか現在も皆無です。
 人物・特産・出来事・交通など様々な分野でも少なく無い資源を持つ池田ですが、その中興的な基盤を作った摂津池田家の研究が殆ど無いというのは、非常に残念な事です。
 
そんな理由から、実質的な最後の当主である池田勝正について調べ始めました。しかし、勝正について、現在伝わっているものは、事実無根のものが多く、勝正没後に作られた、ある意図を帯びた作為的なものばかりです。それらは、自家の正統性を主張するために生み出された創作です。

歴史というものは、勝者の歴史とも言われる事がありますが、現代科学の発展した今を生きる私たちは、「事実はどうであったのか」を検証し、これまでの伝承を補正・整理しながら未来へつなげる事もしておくべきだと考えます。この後も持続的にこの試みが成されれば、きっと大きな成果が上がる事でしょう。

この私の試みは、小さなものですが、未来への役に立つなら、それが目的の到達点であり、大変嬉しく思います。私が先人の研究から得たように、私も何らかの継承ができればと願っています。


池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (はじめに)

池田市は常々、「歴史のまち・文化のまち」と自分自身を形容する事が多いのですが、私個人はそれに対して少々懐疑的です。
※最近は、その環境を鑑みて、ついにそれを標榜しなくなりつつもあります。

昭和の末期、図書館で見る資料を見れば、その頃の池田市教育委員会は、大変意欲的に文化財の保存と活用に向き合っていました。それが今はどうか。何が違い、そうさせているのか。
 詳しくは、池田市埋蔵文化財発掘調査概報を図書館などで、ご覧いただけたらと思います。書いてある事と実際がどうなっているのかが判ります。

さて、今の池田市のルーツともなった中心部地域については、全国的にも注目される要素が沢山あります。その地域については、しっかりとした考えと計画をもって進めてもらいたいものです。

今は代替わりの時期です。また、時代そのものも変わりつつある、その真っ只中です。これまでとは違う日本になっていきますが、過去を知る必要が無いとは思えません。また、過去がどうであったか、その先に生きる科学的事実を市民(子孫)に伝えなくていいとも思いません。
 個人的に思うことですが、こういう地域の歴史に熱心に取り組む自治体というのは、現代生活にも、非常に活力があるように思います。その逆の地域は、色々な問題解決も膠着状態で、勢いが無く、寂れているところが多いように感じています。

どんどん街並みは変わり、技術も変わり、嗜好も変わります。いつまで経っても昭和のままのルールと手法。これで、変化のスピードに適うはず無いのです。

私は思います。「食って、寝て、遊ぶ」だけの文化って、先進国として自慢できますか?それはすばらしい事ですか?
※現実生活を否定している事ではないので、それはおわかりいただけると思います。

私が2005年頃に書いた、池田勝正を研究して学んだ文化財について、感じたことを以下にご紹介し、そういう世界(感じ方や考え方)も知っていただけたらと思います。

(1)池田勝正の真実を知るための在野研究
(2)歴史研究が進む中で期待される地域史
(3)個人的な感想



2016年2月11日木曜日

1570年(元亀元)6月の摂津池田家内訌は織田信長の経済政策失敗も一因するか。

近頃の日本の株価平均の急速な下落とか、中国の経済状態やヨーロッパの事などの世界的な経済・金融の動きについて、討論番組を見ていてふと、気づいた事があります。

これまでにご紹介した「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:三 経済政策)」にも自分が書いた事なのですが、将軍義昭政権の初期の段階で、織田信長は経済政策に失敗しています。
 日本の歴史としては、織田信長の執った政策は、日本の政治史発展に大きな貢献をした事は明かですが、しかし、当時を生きる人にとっては、大波乱の時代でもあった訳です。

写真1:池田市細川地域から出土した古銭
詳しくは、上記のページをご覧いただければと思いますが、言いたい事の核として部分的に取り上げると、「それからまた、石高制と貫高制を考える上で重要な、織田信長による「撰銭令」がある。この政策は、市場の悪銭(ニセ銭も含む価値の著しく低い銭。国内私鋳銭等。)の整理と規定であるが、信長は永禄12年2月28日に本令、翌月16日に追加を京都で施行。この時、貨幣の代りとして米を用いる事を禁止し、悪銭の価値基準をも設けていた。また、金・銀の比価も示した。」と記述しているところがあります。
 池田家の内訌は、この翌年の6月ですから、加担する政権の経済的な失敗が見えてくる時期でもあったと思います。もちろん、池田家内訌の理由がこの一つの要素だけでは無く、他にも色々あるのですが、経済的な要因は、今も昔も変わらず、判断するための大きな要素になります。

こう言う背景要素もあって、先鋭的で、性急な判断に迫られるような事が起きた場合、議論は紛糾し、刃傷沙汰に至りやすくなるものと思われます。そういった中で、1570年(元亀元)6月の池田家内訌に至ったのでは無いかと、ふと、思いつきました。

写真2:出土した古銭の代表例
この、気づきというか、ヒントはまた広い視点持をちつつ、深く掘り下げてみたいと思います。

【写真1】昭和46年4月2日に、吉田町310番地で市道の拡張工事中に出土した古銭で、写真のような状態で発見された。古銭は、年号による種類では48種類、書体による選別では93種類で、分類不能なものは555枚。総合計18,317枚。発見された古銭の年代の開きは約800年。
※出典はグラフいけだNo.18 (1972年2月) より。
【写真2】開元通宝は、西暦621年に初鋳された唐銭で、この発見の中では最も古い。永楽通宝は、西暦1411年に鋳造され始めた明銭で、室町時代の日明貿易によって大量に入り始め、江戸時代初頭まで流通した。織田信長はこの永楽通宝を旗印にもしている。
※出典は同上。



2016年2月3日水曜日

中世の摂津国大坂周辺の地形について(はじめに)

中世の摂津国大坂周辺は、江戸時代の宝栄元年(1704)の大和川付け替えで、現在のような流路になるまでは少し風景は違っていました。当然、その付け替え以前は、交通を始め、様々な要素が、その後とは違います。摂津池田衆の家運が最盛期だった室町時代末期頃も、その事を踏まえて見ていく必要があります。
 この大和川付け替えについては、大東市立民俗資料館で判りやすく学ぶことができます。また、淀川の治水の歴史については、枚方市にある淀川資料館で詳しく見ることができます。現在の災害の無い、豊かな生活を送ることができるのは、壮絶とも言える先人の努力のおかげである事がよくわかります。
 淀川資料館では、近現代に功労のあった、外国人技師のエッセル、デ・レイケ、沖野忠雄技師、大橋房太郎大阪府議の志には、本当に感動します。特に大橋府議は、献身的な努力を生涯に渡り続けられ、水害で苦しむ人々を減らすべく、尽力されました。何しろ、私の生まれ育った「放出(はなてん)」出身の偉人です。出身が庄屋の身分であったにも関わらず、亡くなる時には借家住まいとなって、私財も全て注ぎ込んで、大阪府民のために働かれた方です。葬儀は府葬で、その見送りには多くの人が感謝を捧げたとの事です。
 感情移入してしまいました。淀川資料館も機会があれは、是非、見学してみて下さい。淀川は身近なのに、知らない事ばかりでした。学校で教える事も無いと思いますので、是非お子さんを連れて、見学をされて、淀川縁でお弁当でも食べて、のんびり楽しんでみてはいかがでしょうか。
 
以下の図は、大東市立歴史民俗資料館が発行する常設展示案内パンフレットに紹介されている中世の流域復元図です。


大和川付け替え前の川の流路

 
さて、以下に散文的に昔の大坂周辺の川や池についてのコラムを増やしていきたいと思います。どうぞお楽しみに。

東大阪に残る昔の川(新開池・深野池)の跡
戦国時代に河内国河内郡へ移住した信州の人々(大和川付け替え前の地形を探る)
・大東市に残る昔の川の跡



2016年1月25日月曜日

ミニシンポジウム「天下人三好長慶と飯盛城」を聴講して、城について考えた事

去る平成28年1月24日、大東市で「天下人三好長慶と飯盛城」についてのミニシンポジウムがあり、学術的な見地から、以下の項目でお話しがありました。

◎天下人三好長慶と飯盛城 (天野 忠幸氏)
◎飯盛城跡を国史跡に (中西 裕樹氏)

飯盛山山頂から南西方面を望む
今回は私にとって特に中西氏のお話しに興味を持ちました。中西氏は、プレゼンテーションソフトのパワーポイントを使って、ビジュアル的に説明され、一般市民向けに理解しやすいように工夫されていました。
 内容は、飯盛城を中心として、それに関する近隣の城などの比較を含めて、特徴を説明し、その存在意義を説明されていました。また、レジュメには、三好長慶の永禄4年頃の支配領域図と共に、その域内にある城と、その外周にある重要な城が載せられていて、その図を元に城の説明が進んでいきました。

個人的には、こういった城の配置や大きさについて、それぞれ単体で存立しているものでは無く、連携機能を元に考えられたものだろうと感じています。また、誰(地域)と敵対するかによって、組み合わせが変わっていくものとも思います。
野崎観音寺(城跡)から北西を望む
いわゆる、本支城関係がこれにあたり、敵の居る方向によって城の配置と、本城を置く場所も変わり、それに相対して支城の連携も変わると思います。

例えば、永禄4年頃には、南河内の畠山氏勢力が、三好長慶に敵対していましたので、それに向かうための人員配置と城の置き方となります。加えて、畠山氏に連動勢力が、紀伊・大和・近江国などにあり、その後背勢力にも対応するために飯盛城・信貴山城(高安城・二上山城・立野城含む)・多聞城・鹿背山城が拠点となり、その周囲の支城と連携した地域防衛(攻撃も)体制を構築するといった感じではないかと感じています。
 他方、拠点には重要(政権中枢)人物が入っていますので、それぞれが連絡・連携できる状態で、相互補完もできるようになっていたのだろうと思います。「面」で防御するイメージというと判りやすいでしょうか。
北条集落から飯盛城跡を望む
飛行機の無い時代の戦争は、「後詰め」が非常に大きな役割を果たします。これは、「将棋」のやり方をイメージをすると判りやすいと思いますが、駒1つだけを意識しても、攻めも守りもできません。駒同士が、如何に連携しているかが駒を動かす理由になります。何重にも関連した手を打てば、相手は崩しようがありません。

私は城の配置や機能(役割分担)も、基本的にはそのように考えられていると思います。ですので、連絡を取り合うための施設が必ず城内や隣接して存在しと考えています。例えば、狼煙や鉦、鏡の光を使う、旗などを使った方法で周辺の城と連絡を取るような施設があったと思います。ですので、そういった城から視界が利く方向は、連絡を取る必要があった城と、敵を見張る事ができる方角(仮想敵の方向へ開けている)だったと思います。

それから街道は、敵の流れを止めつつ、物や人の移動など、自軍に都合良く使うために工夫をしておかないといけません。そういった事も考慮された本支城の構築だったろうし、軍勢が集まる拠点としても、本城というのは、重要であったのではないでしょうか。
個人的に考える本支城の関係と広域地域ネットワーク
戦国時代も後期になると、人の数、物資の量も飛躍的に多くなりますし、それに加えて迅速に移動させる必要が出てきます。

ですので、私の考える城の配置は、政権中枢の人物が、地域支配を行う本城を持ち、地域支配のためのグループ化が行われた人物がそれぞれの支城を持つ。そしてそれらのグループ同士が、互いに連携して、広域のネットワークを持ちながら、より広い面の軍事支援補完を行うというカタチになっていると思います。
 ですので、人の立場と役割が、そのまま城の機能と大きさになっていくのだろうと考えています。まあ、ある意味、それが自然な成り行きだとも思います。重要なところに重要人物が居て、その城も大きいというのは...。

この頃の城については、そのように考えたりしているのですが、シンポジウムの質問の時間には、それについて訊いてみなかったのですが、またいつか、専門家でもある中西氏などに訊いてみようと思います。



2016年1月24日日曜日

池田四人衆の事について(はじめに)

摂津国人池田氏が、近年概念化されつつある郡単位を支配する戦国領主となる成長過程で、当主を補佐するための官僚機構を創設した事は、非常に大きな意義があったと思われます。池田家は他の国人と違ってこの点が大きく異なり、これが成長のスピードを高め、勝正が当主となる頃には、近隣勢力とは比較にならない程の差になったと考えられます。

池田四人衆とは、守護職家でいえば、守護代のような、近世大名の組織体制でいうところの家老のような、当主と同等の権力を持つ執政機構といえるのだろうと思います。
 四人衆は、勝正が当主の時代から見ると先々代の信正の代に創設されたと考えられます。これは信正が、管領である細川晴元の重臣で、その側に仕えるために京都の屋敷に居住していた事から、本拠である池田城に当主の分身を置くために考え出された体制のようです。
 四人衆はその名の通り4名で構成され、個人的には、その内の2名は京都で当主の補佐を行い、一方の2名は池田に居て、本拠地の管理を行ったものと考えています。

その後、池田家が大きな勢力に成長して行く過程で、離合集散を引き起こしながら、管領機構である四人衆自体が当主と対立する程の「権力体」になってしまいます。皮肉な事に、池田家を成長させた官僚機構が、滅亡の原因となってしまったとも言えます。

以下、池田四人衆について書いた項目をまとめてみました。また、少しずつ記事を増やしていきたいと思います。論文的に、体系的な書き方もできていけたらと考えています。



2016年1月23日土曜日

1570年(元亀元)の幕府による阿波三好氏討伐計画(はじめに)

元亀元年(1570)の幕府による越前守護朝倉義景攻めは有名ですが、実は阿波国三好氏攻めをも計画しており、検討の結果、朝倉攻めになった事は、あまり知られていないような気がします。

永禄12年(1569)時点で幕府は、阿波か越前のどちらを攻めるか、決めかねていたようです。しかし、結果的に越前朝倉討伐となりましたが、これは、この年に織田信長との同盟勢力であった近江国人浅井氏が、「離反する」との噂が出た事。加えて、永禄11年8月に朝倉氏が、隣国の若狭守護家の武田家内紛に介入して、若狭への影響力を強めいていた事もあって、後者に決まったようです。
 当時の政治的・軍事的深刻度合いから、越前攻めを優先させたようで、阿波攻めも同時並行で準備はされていました。

その幕府方の動きについて、関連する要素をご紹介していきたいと思います。

(1)将軍義昭政権始動時の幕府の状況
(2)幕府が当面行うべき事
(3)当初から阿波か越前を討伐する計画があった
(4)越前朝倉氏攻めに決まった理由
(5)西国の情報を集めていた堺商人今井宗久
(6)阿波国攻めの準備の状況
(7)永禄12年(1569)の播磨国攻めは、阿波国攻めの準備



2016年1月18日月曜日

乱世を駆け抜けた城「若江城を探る」シンポジウムを聴講して

去る1月16日、先週の土曜日なのですが、東大阪市立男女共同参画センター・イコーラムホールで開催(主催:近畿大学 文芸学部文化・歴史学科)されたシンポジウムに参加してきました。当日は盛況で、立ち見も出る程でした。プログラムは、
  • 問題提起-歴史的拠点としての若江 網 伸也氏(近畿大学文芸学部)
  • 落葉 若江城と三好氏 -調査結果から- 菅原 章太氏(東大阪市教育委員会)
  • 城郭史から見た若江城の再評価 -戦国から織田への転換点- 中西 裕樹氏(高槻市立しろあと歴史館)
  • 若江城はどのようにイメージされてきたか 小谷 利明氏(八尾市立歴史民俗資料館)
  • シンポジウム:網、菅原、中西、小谷各氏
の内容で行われましたが、私はちょっと先約があって、シンポジウムは聴くことができず、講演会のみの参加だったのですが、内容は大変興味深かいものがありました。

個人的には、会場の参加者の様子を見ると、専門的に研究している風でも無く、興味レベルの市民が参加していたようでしたので、もう少し判りやすい比較やビジュアルを多用して説明した方が良かったのではないかと思いました。つまり、説明が詳し過ぎたように感じました。
 私自身は面白かったのですが、内容が結構アカデミックで、学術レベルが高すぎた感はあったかもしれません。難しいところですね。

さて、その中で興味があったのは、以下の要素です。
  • 重要な地域(若江地域について)は、時代が変わっても同じ。
  • 若江城の成立環境後期は、守護方としての動きの可能性がある事。
  • 三好義継は始め、河内守護職として飯盛山城に入り、永禄13年始め頃には若江城に移ったとの考えを再認識した。
これらの要素は、私の関心分野にも大きな影響があり、もう一度考え直さないといけない所も出てきました。

そう言われてみると、もう一度、自分の研究ノートを見直した時、同じ要素を載せてはあるのですが、その意味や可能性を考えずに通り過ぎて、通年や一般論を思い込んでいる所があるのです。そういった事が一カ所でもあると、それに関連する場所や出来事もつながって理解します。
 「思い込み」は禁物ですね。怖いですね。全ての前提が摂理(真実)とは全く違う方向に進んでしまいます。
 
シンポジウムに参加して良かったです。これを機に、私の研究も、該当部分を見直していきたいと思います。全体の研究も、より摂理に近付けるようになっていけばと思います。



2016年1月9日土曜日

摂津池田家の支配体制(はじめに)

応仁・文明の乱以降、京都中央政治の混乱もあり、日本全国の地方都市は独自に権力を形成するようになったとも言えます。
 それは、更なる混乱を招き、戦国時代とも言われる、動乱の時代になりました。そんな環境の中で、首都京都に近い摂津国の有力武士であった池田家も成長していきます。将軍義栄・義昭の時代には、同国内でも数郡を支配下に持つ最有力の勢力に成長し、池田家が戦国領主の概念を超える程の規模となっています。
 実質上の池田家最後の領主であった勝正の時代を目安に、池田家周辺の支配体制を考察してみたいと思います。
 
(1)摂津国川辺郡久代村の支配
(2)同国原田郷との関係
(3)摂津国垂水西牧南郷目代今西家との関係
(4)池田一族の代官請け
(5)池田家被官について
(6)池田周辺の政所
(7)摂津国豊嶋郡箕面寺
(8)池田氏が下した禁制及び定め

2016年1月7日木曜日

永禄年間末期の三好義継の居城は、河内国の飯盛山城か!?


飯盛山城跡から京都方面を望む
近年、河内国飯盛山城を国指定の史跡にしようと、大東市や四條畷市で盛り上がっているようで、学術的な再検証も行われているようです。
 それにともなって、様々な出版物も出ていて、その理由について書かれています。三好義継は、池田勝正とも深く関係していますので、大変興味深く見ているのですが、自分でも思い込みがあったので、それを補正しようと、自分でまとめている資料を見直しています。
 最近の飯盛山城の捉え方にによると、足利義昭が第15代室町将軍に就いた永禄11年秋には、三好義継は飯盛山城を本拠にしており、若江城に移ったのは翌々年の同13年頃との推定がされています。
 本城と支城の関係や人物についてなど、こまごまとした要素を詳しく検討した論文のようなものも追々出てくると思いますが、今のところ、この新たな見解に納得のいく所も多くあり、受け入れています。
 ただ、永禄12年正月に、三好三人衆方の軍勢が将軍義昭の居所となっていた京都六条本圀寺を襲った時、その行軍行程は河内国の淀川東岸及び東高野街道を進んだと思われますので、これと飯盛山城との関係について興味を持っているところです。
石垣の様子
三好三人衆の軍勢が、飯盛山城下を通過をしたのであれば、敵方である飯盛山城に、どのような対処をしたのでしょうか。何もせず北上すれば、背後から襲われます。やはり、ここに軍勢を割くなどして、後衛としなければいけないはずです。
※歴史資料では、この時の三好三人衆方の軍勢は、義継方の村などの拠点を放火するなど打ち廻りつつ進んだようです。
 そうすると、三好義継は塞がれた道を使えませんので、田原方面から交野などを経由するか、奈良多聞山城の松永久秀と合流し、南山城方面を北上するなどして京都に入ったか、ちょっと再考の余地が出てきます。
 義継が一番敵に近かった割には、京都に入るのが遅いようにも思いますので、敵方勢力に阻まれたり、迂回の必要があったりして、時間がかかったのかもしれません。飯盛山城からの普通の行軍であれば、半日から1日もあれば、十分に京都に入れるはずです。
 義継の河内(北)半国守護としての最初の居城が、若江城では無く、飯盛山城であったとすれば、そういったところの出来事との整合性も補正する必要があり、これに関係する勝正との動きも修正の必要がありそうです。

また、今後の詳しい調査に期待しています。