2011年5月12日木曜日

池田家中の荒木村重

最近は、荒木村重の知名度が上がってきたようです。インターネット上の検索では、それについての記述が非常に増えています。
 しかし、現実的には、知らない人も多多いようですね。やはり、謎の部分が多いため、正式な取り上げられ方があまりされないからなのかもしれません。
 織田信長関係の何かのストーリーに取り上げられたとしても、「ちょい出」程度の露出です。

村重は、池田勝正を研究する上では、重要な人物で、村重の史料の中に解明のヒントが多くあります。というか、それも含めて観て行かないと地域的な動きが解らないのが実際のところです。

史料から見ると、村重が勝正の重臣であった事は間違いありません。家中政治の中で、その始動期から勝正政権とも言える勢力を支えていたと思われます。また、よく村重について流布される「下克上」とのニュアンスは、個人的にそれに当たらないと思っています。
 下克上とは、「成り上がり」や「成金」のように、あまりいい意味では無い印象を受けるのですが、詳しくその経緯を見ると村重は、家政の対立に競り勝っただけです。それも、その出世過程では、合意もあって組織の幹部となっていきます。要するに中枢から起用されて、正当な出世をします。ですので、「交代」といった言葉の方が、ふさわしいように思います。

個人的には、言葉の持つ意味とは別に持つイメージで、違和感を持つものがいくつかあるのですが、「下克上」という言葉もその一つです。使用する側の意図や偏見、悪意を込めた時に使う傾向があるように思います。その意味では、「蜜月」という言葉もキライです。

脱線しました。また追々、荒木村重の事もご紹介していきたいと思います。

2011年5月10日火曜日

元亀元年の浅井氏謀反は、織田信長に「突然」の認識が本当にあったのか。

最近、元亀元年の織田信長(幕府)による、朝倉攻めの事が気になって、色々と調べています。

ふと思ったのですが、永禄13年(元亀元)の1月23日に発行した、諸大名への触れ状を見ると、そこに朝倉氏の名前は無く、また、朝倉氏に連れ去られた若狭守護家筋の武田孫犬丸元明の名がそこに記されています。
 これは、呼び出しの意味も有る内容の書状ですが、武田孫犬丸元明の禁裏及び将軍への参候は事実上不可能です。
 その上で、浅井父子と京極高吉へも同じ旨通達されているようです。京極氏は室町幕府の四職の一家の名族です。また、その高吉の娘は武田元明に嫁しているようです。

そんな関係でもある人々を幕府の命で行動させるのですから、政治的な意味合いも重くなる筈で、これについてどのような行動を取るか、織田信長は初めから難題を相手に課していたと考えられます。
 この幕府命令について、『言継卿記』3月16日条に、河内守護三好左京大夫義継、松永山城守久秀、豊後の大名大友左衛門督義鎮(宗麟)使者、但馬国山名祐豊重臣大田垣兄弟、備前国大名宇喜多氏などが参洛して、幕府などへ挨拶に訪ねたとあります。

さて、その1ヶ月後に越前守護朝倉攻めの軍勢が京都を発つのですが、1月に発行した触れ状にもある浅井氏は、この軍事行動に参加した形跡がないように思われます。西近江街道の途中、高嶋郡あたりで合流したのかとも思いましたが、その形跡も無いようです。
 ですので、天皇からも公認されたこの官軍の征伐ともいえる軍事行動に浅井氏は、はじめから参加しておらず、その時点で、噂通りに官軍に弓を弾くかどうかの確認を取った行動であったと思われます。
 浅井氏の政権離脱は、はじめから予想された事だったのだと思います。用意周到な織田信長の行動に対して、浅井長政の行動だけが、「突然」であるのは、不自然なように思います。


また、幕府・織田信長政権が、越前の朝倉氏を攻めたのは、朝倉氏の関与を止めさせて、若狭国内乱への介入と整理、そしてまた権門や禁裏への対応を行なう意図があったように思います。
 また、浅井氏にとっても、日本海側の小浜や敦賀など良港からの物流が、近江国北部を経由して京都・奈良・大坂へも通じてもおり、朝倉氏との関係を絶つ訳にいかなかったのだろうとも思います。この権利は、当時でも莫大な額に上っていたようです。

今も昔もやっぱり「お金」の問題だと思います。




2011年4月11日月曜日

元亀元年の摂津守護池田勝正の金ヶ崎・天筒山城攻めについて

7月にちょっと池田勝正について講演させていただく機会を得ていまして、現在色々と資料の整理をしています。「朝倉・浅井攻めと池田勝正」というような方向性で、内容を考えています。

普段は、仕事が終わって寝る前とか、休みの日などに、ひたすら資料を読んで調べるのですが、時々、現地に出かけてそこの環境を自分の目で確かめる事もします。
 人間が地球の重力に逆らって生きられないように、社会も周辺環境から逃れられず、その影響を受けて形成されているからです。もちろんその土地の自然環境も。城にしろ、町にしろ、街道にしろ、それぞれ複合的に関係して形成されています。そんな訳で、途中の街道様子も含めて、金ヶ崎・天筒山城の立地環境を見に、現地に行って来ました。


元亀元年4月24日、幕府・織田信長の軍勢は、若狭国境を越えて、越前国敦賀郡内の金ヶ崎・天筒山周辺の攻撃を行っていたようです。
 幕府・織田勢は、翌25日あたりから金ヶ崎・天筒山への攻撃を開始しています。その時信長は、花城山城(敦賀市櫛川)に入って督戦していたようです。信長が本陣を置いた場所はもう一ヶ所、妙顕寺(敦賀市元町)があるのですが、ここは城に近すぎるため、25日の時点では安全確保が難しく、多分最前線の本営だったように思われます。

ただ、26日には、金ヶ崎・天筒山とその南側の拠点である引壇城が落ち、安全が確保されたために、ここに信長は本営を移したようです。
最初具足山妙顕寺さん(敦賀元町)の公式ホームページ

現地に行く価値は、こういった立地条件を見る事に加えて、地元の郷土史学会などから発行された資料も見る事ができますし、そこにお住まいになって研究されている方からもお話が聞けます。気候や習慣なども直に見聞きできます。これらは、流通している資料だけではわかりません。

朝倉・浅井攻めの時の信長は、非常に慎重で、用意も周到である事から、いわゆるカケのような行動はしていなかった事がわかります。また、信長には、日野や飛鳥井などの公家衆も同行し、朝廷公認の官軍としての行動をしているからには、尚更の事だと思います。
 朝倉攻めの目的は、朝倉が官軍に弓を引くかどうか、また、浅井が噂通りにそれに呼応する動きをするかどうか、確認のための行動であった事が、実際のところではないかと思います。
 元亀元年初頭に諸大名に出した、朝廷と幕府に従うようにとの旨の公的な触れは、朝倉義景には、送っていないだろうと思います。その触れには、義景への名前がありませんし、例え送ったとして、義景がそれに従えば、攻める理由が無くなってしまいます。
 信長は、京都への交通拠点の確保と朝倉・浅井方がこの方面で押領している権利の返上(被権者への還付、返還。)を意図もしていた事と思われますので、最初から軍事侵攻以外の選択肢は持っていなかったのだろうとも思います。
 また、朝廷・幕府・権門の復古政策(ある意味、経済基盤形成支援をはじめとした融和策)もあったように思え、京都の防衛、流通に関する要素は、直接的に政権の影響力を及ぼせるように企図していたのではないかとも思えます。そうすると敦賀や小浜は必要ですし、そこにある愛発関(あらちのせき)や木ノ芽峠などは、押えておかなければいけない場所だったのかもしれません。また、近江国の海津も含まれるかもしれません。

そして、朝倉・浅井の意志を確認した信長は、京都に素早く戻り、摂津国の本願寺や三好三人衆の動きを確認しつつ、控えの軍勢約2万を以て、岐阜へ出発。岐阜にも控えていた軍勢と合流し、朝倉・浅井方に近江国姉川にて決戦を挑みます。

呉江舎「摂津池田氏:摂津守護となった池田家」もご覧下さい。




2011年3月17日木曜日

平成23年(2011)東北・関東大震災

大変な事が起き、毎日、情報に耳を傾けています。被災者の方々は、お見舞い申し上げます。私もできるだけの事はしていきたいと思います。

 さて、勝正の研究を続けていると、様々な昔の古文書を読むのですが、そこには、災害の事が結構書かれています。地震の事も書かれています。そういった事は、発掘でも同じで、慶長大地震の痕跡が、門真市などの発掘調査で検出されています。
 しかし、最近、発掘される事も少なくなり、また、文献の調査もどちらかというと細々とされる程度で、あまり積極的とは言えないように思います。
 神戸の震災から時間も経ち、天災に関する意識や備えは薄れてしまい、人間が小さなものだということを忘れていたのかもしれません。東北・関東大震災を受けて、やはりこのような甚大な被害を繰り返さないためにも、人間の英知を持続させる取組みは必要だと痛感しました。
 また、災害の現場作業という第一線も重要ですが、その後からの支援というのもまた大変重要です。必要な時に必要なものを繰り出す事で、目的を早く遂げる、復興を遂げるという事もしっかりと考えなければならないのでしょう。

 個人は、社会の中に生き、社会の再建が個人をも再建してくのだろうと感じます。突然、多くのものを失った直後の事では、被災者はそのような事を冷静に考えられないと思いますが、被害を受けなかった私を含めた周辺の日本国民が、その支えとなればいいな、強く願っています。

 中世の古文書を読んでいると、事に当たる時、非常に組織的な動きをする側面もありました。「後巻き」という、最前で事に当たる人々の後にも備えをして、目的を遂げています。
 こういった事は、社会を形成して生活をしている現代でも、必要な事だと思います。「東北・関東大震災」においても、ボランティアで直ぐにでも役立ちたいという声も多くある中で、「温故知新」として参考にもなるものだと思います。

 大地震発生の直後で、今必要な事と少々論点がずれているかもしれませんが、やはり先人の知恵を活かす取組みというのは、地道に継続して続ける事で、多くの防げる事が見えてくるのだと、感じる事もありました。

 私のこの研究も社会の何かに役立てる事ができればと、考えるようにもなりました。

 本当に被災された方の無念は、察するに余り有ります。

2011年1月22日土曜日

金魚の稚魚が産まれました

個人的な話しですいません。←このブログの全部が個人的じゃ!

部屋で金魚を育てようと思って去年の春、ホームセンターで金魚すくいの金魚(小赤の名前で出ています)を買いました。全くの素人だったので、何もわからず心配ばかりしながら、育てました。チカラ及ばず何匹かは死んでしまったのですが、今、4匹が元亀に、あ!違う、元気に泳いでいます。12〜3センチくらいの大きさになっています。

 最初は、七人の侍にしようと思って、7匹買って来たのですが、寒さにやられたり、病気などで、残念な事になったのですが、最初のメンバーが生き残ってくれいています。金魚も飼ってみると色々と、知らなかった事が見えて来て、人懐っこくてかわいいものです。

 金魚ってどのくらいで大人になるのかがわからず、いつものようにしていたら、卵を産むようになっていて、ある日、水槽を見てビックリです。「た、卵産んでる!」って大騒ぎです。
 その後、何度も産卵したのですが、うまく行かず、諦めていたのですが、今回は卵ごと小さな水槽にいれ、温度を少し高め(26度)にして、そっとしておいたら、何と、3日目くらいに卵から稚魚になっていました。50疋では利かない数です。

 今はとりあえず、水草を入れ、流木を入れて、エアーだけを動かして様子を見ています。透明の稚魚が思い思いに泳いでいます。かわいいです。
 年の初めから何だかこれは幸先が良い感じがしますね。どのくらいが、無事に成長してくれるかはわかりませんが、ガンバリマス。

2011年1月21日金曜日

池田勝正が、テレビに登場!

池田勝正研究、苦節十数年、これ程嬉しかった事はありません!つ、遂に、池田勝正が取り上げられました!

関東方面で少し前から放送されている番組で、近畿地方では「おっサンテレビ」で有名な、サンテレビで「戦国鍋TV」という番組名で放映されています。
 その中で、色々な場面設定がされたシリーズコーナーがあるのですが、「戦ハーフタイム」で金ヶ崎の退き口で池田勝正が取り上げられています。つ、遂に、史実としてデビューのきっかけができました!嬉しいです。

 また、その勝正役が若手俳優の中村龍介さんが演じていて、イケメンです。好感度もものすごいUP↑↑↑↑です。龍介さんは、戦国鍋TV中で他の武将の役もされているのですが、是非、今後も続けて勝正役を演じて欲しいものです。

いや〜、楽しみです。これを機に、池田勝正の事を多くの皆さんに知って欲しいと思っています。

番組は、「歴史の事実を何となく学べる」をコンセプトに面白おかしく、歴史的事実を紹介しています。若手俳優を起用し、しっかり歴史的事実も押えて番組作りがされています。すばらしいコンセプトだと思います。踊って歌うコーナーもとっても面白いです。堺衆や利休七哲などいったアイドルグループまで登場します。

個人的には、原作無しに脚本だけで大河ドラマなんかより、ずっとこの方が放送として面白いと思います。ある意味、意義もあるように思います。
 それよりも、面白い番組ですので、お気軽に、是非ご覧下さい。

2011年1月15日土曜日

摂津国中嶋(堀)城について

摂津国堀(中嶋)城についてちょっと記事を書いてみましたので、ご覧下さい。
現在でもその所在が特定されていないのですが、中世・近世の畿内の政治史では、重要な場所です。
 また、現在では中嶋の嶋の字は、「島」と表記する方がいいのかもしれません。一応、現代版の文字で表記しています。
 この摂津国堀(中嶋)城は、細川右馬頭藤賢の城で、1566年(永禄9)頃に築城されたと伝わるようですが詳しくは解っていません。中島(堀)城は、池田勝正荒木村重などにも関わっています。特に1574年(天正2)7月20日には、この城を巡って荒木村重・池田衆勢が、大坂本願寺の門徒衆と大会戦を行っていることが、史料に現れます。


2011年1月12日水曜日

河内(枚方)街道

河内街道について、ちょっとコラムを作ってみましたので、ご覧下さい。

東大阪市加納の旧市街
この河内街道は、今の日常生活でも利用しているのですが、歴史的な道です。1704年に大和川の付け替えが行われるまでは、河内平野を東西に横切る新開池があって、これを渡って枚方から、八尾までをつなぐ主要な道でした。河内街道は、茨田郡・若江郡の南北の主要道だったようです。
 なお、江戸時代の古図には、河内街道との呼称は見当たらないようで、明治時代以降に河内街道と呼ばれるようになったようです。

永禄年間初頭に河内国守護畠山氏が三好長慶によって追われると、三好方の池田勝正はその影響で、河内国へも軍事活動範囲を拡げていきます。
 また、大阪平野の中央部にもあたる若江郡は、川に囲まれた島のようになっていて、天然の要害といってもよく、ここには若江城がありました。その若江城に阿波国三好家の宗家でもある義継が入っていた事から、池田勝正も何度か訪れているようです。

宇波神社に街道が突き当たる
元亀元年6月、摂津池田家中で内訌が起り、勝正は家を出ます。勝正は一旦、大坂方面へ南下しつつ京都へ入り、将軍義昭に状況報告を行います。6月20日の事です。
 その6日後、勝正は再び河内国若江の三好義継と共に京都の将軍義昭へ状況報告に向かいます。

その頃、勝正は若江城を経て京都を訪ねたかどうかは不明ですが、もし若江城に勝正が入っていたとすれば、この河内街道も使っていたのかもしれません。前述のように、河内街道は茨田・若江郡の主要街道だった訳ですから。





2010年12月29日水曜日

元亀元年の越前朝倉攻めでの幕府・織田軍道程

また、ちょっと元亀元年越前朝倉攻めについて考えてみます。この時、摂津守護格として、池田勝正が三千の兵を率いたとの記述から、幕府方武力の中核的な存在であったと考えられます。これ程の数を一家で出せるのは、畿内地域でも、そう多くはありません。この時、明智光秀も幕府衆として従軍していますが、単独で兵を多数率いていたわけでは無いようです。
 そういった状況の中で、池田勝正は元亀元年越前朝倉攻めに従軍する訳ですが、近江国高島郡から北への道程がはっきりしないところがあります。この高島郡は肥沃な土地で、様々な権利関係がある複雑な状況だったようです。
 西島太郎氏は朽木氏をはじめとした、この地域の研究者ですが、その論文を読むと非常に深く分析されています。大変勉強になります。宮島敬一氏は浅井氏を主に素材として研究されていて、こちらも勉強になります。
 永禄4年頃から、浅井氏が高島郡に影響力を行使しはじめ、幕府、六角、浅井氏の想いが錯綜する複雑な関係になっていったようです。
 この地域は、西佐々木七家と言われた勢力があり、佐々木越中家を筆頭に、田中、朽木、永田、能登、横山、山崎の各氏が構成していたようです。この惣領家が佐々木越中家であったと考えられています。その佐々木越中家の居城が、清水山城で、安曇川の北側にあります。
 さて、元亀元年越前朝倉攻めの時、織田信長は、高島郡に入ると、その地域筆頭の佐々木越中家の居城では無く、田中氏の居城である田中城に宿泊(本営)しています。これは、少し違和感を感じる事です。
 やはり、幕府・朝廷公式の軍勢である、引率者織田信長が高嶋郡に入ったなら、地域の筆頭である佐々木越中家がこれを迎える筈です。
※清水山城については発掘などの物理的検証が始まったばかりですし、文献史料の発掘も西島氏によってやっとはじまったところですから、史料がないだけだとは思います。

 個人的に、この時に信長が田中城に入ったのは、この地域の勢力分断があったためではないかと今のところ考えています。そのため、軍事的・政治的に重要であった高嶋郡で、敵対する動きを見定め、各地域勢力の軍勢集結地にし、物資や港の確保などといっ事も同時に行うところであったようにも考えています。

 そして信長は、そこから山手へ入り、朽木方面を経由して熊川へ。そしてもう一隊は、西近江街道を北へ進んだのではないかと考えています。
 一方、浅井氏は、既述のように湖北地域の勢力拡大の野心は持ち続けており、永禄11年12月12日の段階でも、高島郡の朽木氏に領知についての起請文を発行しています。そしてまた、翌年正月の本圀寺の戦いを経て、同年6月下旬には、六角氏の牢人が奈良方面へ現れるとも噂とともに、浅井氏が信長から離れる噂が立っています。高嶋方面の利権関係が更に緊迫していた事が想定できるように思います。

 こういった事を背景にして、元亀元年越前朝倉攻めは行われ、浅井方の影響力の強い高島郡から北へも敢えて、幕府・織田方は軍勢を進ませた可能性もあると思います。一応、公的には友好関係ですから、浅井氏は拒む事ができません。この行動にどう反応するか、幕府・織田方は確認しなければならなかったのかもしれません。

 それが、信長の田中城宿泊だったのではないかと、個人的に考えています。安曇川から北は浅井方の影響地であったのかもしれません。




2010年12月22日水曜日

元亀元年越前朝倉攻めでの池田勝正の行軍経路

元亀元年の越前朝倉攻めの折、池田勝正はどんな行軍経路を取ったのか気になります。
 この事を取り上げた色々な記事を見ますが、織田信長を含めた一団が一つのルートを使って越前一乗谷を目指したとなっています。
 しかし古今東西、軍事行動の正当的には、決戦を挑む直前まで、警戒態勢と敵の前衛拠点制圧を目的として、最低二筋に分かれて決戦地点まで進みます。

ですので、22日に近江国高島郡田中城に入った後は、ここから二手に分かれて進軍したと個人的に想定しています。
 というのは、元々浅井方の動きを知るためのもので、高島郡から西近江街道を進めば、越前国境まで浅井領内を進みます。この行動に対して反応するかどうかを試したのではないかとも考えています。また、浅井勢が北上した時にこれを察知して食い止める必要も有り、西近江街道に軍勢を入れておく必要もあったと思われます。
 もちろん、疋田城ほか、抵抗する拠点を制圧・攻囲する必要もあります。また、湖北は、今津・海津など要港があり、これも視野に入れつつ、実際的に補給の事も考えておかなければいけません。

さて、池田勝正はこの二つの内、どちらを進んだかです。

現在もそうなのですが、軍隊は地域性を帯び、やはり織田信長の軍勢の最小単位もやはり、一族衆単位です。この当時の軍隊はそういう編成になっているようで、池田衆は幕府から出した軍勢として位置づけられています。摂津守護職を受けている家ですから当然でしょう。
 この時、池田衆は3,000の兵を出しているのは、当時の史料からもわかりますので、それは中核といっても良い勢力です。また、信長にとっても尤も信頼の置ける部隊のひとつでしたので、そばに置いたか、敢えて、幕府衆として西近江街道を進ませたかは、今も判断に悩むところです。
 しかし、この時の事に関する若桜国方面での記述では、信長や徳川家康についての記述が多いように見えますので、勝正など幕府衆は信長に随伴していなかったかもしれません。

それからまた、高島郡で陣を取った時、この地域は浅井方の勢力も入り込み、幕府方などの勢力と拮抗していた地域であったよです。
 元亀元年早々の諸国大名宛てに公武参内を促す触れ状に、「西佐々木七家」とありますが、この西佐々木七家の惣領家とされる佐々木越中家の本拠と考えられる清水山城を宿泊場所に選んでいません。ちなみに田中城は、割と大きな安曇川を境として南側にあります。
 今後、調査が進めば田中城と清水山城との関係がはっきりするのかもしれませんが、しかし、こういった環境やその行動から見て、この安曇川が勢力の境だったのでは無いかとも考えられます。

広い平野となっている高島郡安曇川で軍勢と物資を集めたと思われます。ここで敵と味方の政治的な判断を行い、信長は若狭方面へ進みます。また、若狭でも軍勢を集めており、伝わるところによると、ここで兵の総数が50,000(全体を合わせてだと思います)になったとしています。
 さて、それを見越して、安曇川の平野に控えを置き、途中の補給が無い、西近江街道を進む一隊に半分以上を預け、大軍を維持させて示威行動を取らせたのではないでしょうか。
 途中に人数を割く計算もあると思いますが、信長は常に大軍を準備し、その圧倒的な数で敵の戦意を削ぎ、交渉に持ち込む事が常套手段です。ですので、この時もその常套手段を用いて目的遂行を続けたと思われます。
 西近江街道を進む一隊は、疋田城を囲みます。ここを攻める必要は無く、釘付けにさえしておけば良いところで、その事で、浅井勢が塩津街道から北上すれば、ここで食い止める事と、動きがいち早く察知できます。ちなみに、北国街道もありますが、この時は浅井勢がこれを使っても意味はありません。

史料を見ると信長は、用意周到に準備を行い、行動しています。カケのような事はほとんどしません。カケのように見える行動は、永禄12年正月の三好三人衆勢力による京都本圀寺攻めの時や天正4年の本願寺合戦の折に原田直政が戦死した戦いなどがありますが、数としては少ないです。
 それは大抵、守りの戦いで、全体がひっくり返る程の状況ではありません。手当を間違えば、大きな損害になると考えた場合には、自ら迅速果敢に行動しています。そういった事は全て、政権主導者として必要な事を行っているのであって、時と場所を機敏に捉えて、信長は過不足無く周到に行動しています。

よって、この元亀元年の越前朝倉攻めは、後年にドラマチックに描かれていますが、こういった信長による用意周到な計画と行動によって、相手の行動も当然ながら想定されており、勝正の行動もそれに沿ったものだったと考えられます。

まだ、調べ足りないところもあるのですが、今のところそういった状況も想定できるのではないかと考えています。