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2013年8月29日木曜日

1571年(元亀2)8月29日の白井河原合戦

前日の28日、白井河原での合戦で、大将の和田伊賀守惟政が戦死し、勝敗が決まりました。その様子をルイス・フロイスの『日本史』-和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛、ならびにその不運な死去について-から抜粋してみましょう。要素を箇条書きにしてみます。

  • 和田殿の息子(惟長)は、父の破局に接しますと、後戻りをし、僅かばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒達は、奉行、並びにもっとも身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者達も同じく分散してしまいました。
  • (フロイスが遣わした都からの家僕が)、高槻城に達した時には、そこに奉行の息子が敗北し、退去して入城していた事を私達に報告しました。
  • ミサが終わった時、私達はそこから(河内国讃良郡三箇)銃声を聞き、1〜2時間程の間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ましたが、私達はそれが何であるかは知る由もありませんでした。
  • 奉行(惟政)の首級は、すべての他の殿達の首級と共に、直ちに彼の高槻城下にもたらされました。そしてそこへは各地から和田殿の敵達が挙って駆けつけ、大きな歓声を上げて、この度の(私達にとっての)不幸な出来事を祝いました。2日2晩に渡って、彼らは和田殿領内の、ほとんどすべての町村を焼却・破壊し、そして高槻城を包囲し始めました。

高槻城跡公園
これらの記述を見ると、合戦は28日午後には大方の勝敗がつき、和田惟政の息子惟長は高槻城に戻っていたようです。
 勝ちに乗じた池田勢は、そのまま東進をはじめ、周辺の和田方の城や集落を攻め始めたようです。白井河原のあたりには、福井・安威・太田・茨木などの城が半里(2キロメートル)程の距離にあります。広い範囲で戦が行われていましたので、記録では、西河原合戦とか、郡山合戦などと記されたものを見かけます。伝承記録は特に、バラツキがあります。

そして間もなく池田勢は、安威川・女瀬川・芥川を越えて進み、高槻城まで攻めるようになります。実際のところ、高槻城に至るまでには、「2日2晩」など数日かかったようです。
 池田勢は、高槻の城下で、討ち捕った和田惟政や主立った人物の首を掲げます。確かに死んだという事実を相手に見せた訳です。

さて、白井河原合戦に関する別の記録を見てみると、興味深い記述があります。この内『言継卿記』8月28日条を見てみましょう。

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戌午、天晴、時正、(前略)。摂津国於郡山於(衍?)軍之有り。和田伊賀守討死云々。武家辺り以て外の騒動云々。茨木兄弟以下300人討死。池田衆数多討死云々。三淵大和守藤英夜半に入り■■城云々。(後略)。
※■=欠字
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高槻城石碑
公卿山科言継の日記には、京都の様子も記録されています。また、天気も書かれていて、京都の天気と高槻辺りは大体同じと思われるので、参考になります。27日〜29日まで、「天晴」とあり、高槻方面も晴れていたと思われます。
 それから記述中の武家辺りとは、将軍義昭と幕府・織田信長や武士を指すのですが、和田惟政戦死の報が伝わり相当に動揺していた事が判ります。幕府は、三淵藤英を出す事を決め、藤英は28日の夜半に高槻城へ入っています。

池田勢は月末頃に高槻城下に達していたようですので、城から惟長と三淵は、惟政やその重臣達の、討ち取られた首を見た事でしょう。また、戦況に応じて、次々と勝ち側に寝返りますので、日に日に池田方の人数は増え、和田方は減って行きます。

441年前の8月29日は、そんな日でした。和田惟政やそれに関係する人々の墓と供養塔が白井河原周辺に沢山あります。近くを通る時、また、見学の時は手を合わせてあげて下さい。想う事、知る事が、一番の供養だと思います。





2013年8月27日火曜日

1571年(元亀2)の白井河原合戦前夜

今から442年前、1571年(元亀2)の8月28日、摂津国嶋上郡の郡村付近で三好三人衆方の摂津池田勢と幕府方の和田伊賀守惟政勢が、大合戦を行いました。池田方は3,000の兵、和田方は1,000余りの兵で合戦となり、池田方が勝利しました。

ちなみに、この日付は太陰暦ですので、今でいうと10月10日頃です。

この合戦の前日の27日、双方は決戦のために陣取りを行いました。準備の整わないまま決戦を迎えようとしていた和田方に対して、池田方は万全の体制で臨みます。
 池田方は3,000の兵の内、1,000名を露出させ、敵を油断させる策を講じます。残り2,000名を伏兵として、山裾などに隠し、その内300名程が鉄砲を備えていました。当然ながら、弓も備えていたでしょうから、多数の飛び道具を使用条件の良い所に配していた訳です。
 ちなみに。露出させた1,000名の兵は、いわゆる囮としての役割で、これを荒木村重が率いていたようです。 これらは池田三人衆(旧四人衆)が1,000名ずつ率いており、中でも村重は新参でしたから、囮役を申し出たようです。

池田方はそれらを、夜の内に行ったと思われます。

それから、池田から郡村まで、どうやって3,000もの軍勢を進めたか、ですが、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記した『日本史』などを見ると、3,000の兵を3隊に分けて進んだようですので、各々が別々の役割を担って進んだのかもしれません。また、軍勢を必要に応じて集中できるように、工夫して進んだのでしょう。道中、特に西国街道付近などに、和田方の拠点があります。
 池田方は最終的に、大軍を展開できる平野部で決戦を行う作戦だったと思われます。和田方にしてみれば、ここが一番良い防衛線したので、池田方は当然それを推定する訳です。それにここから先は、和田領でもあり、地形的にも兵を隠す所がありません。
 それから、池田から東へ向かうには西国街道が主要道になり、もちろんそのルートも侵攻に使われたようですが、もう一本北側に山裾を通る道があります。これは今の箕面・池田線(府道?9号線)がほぼその跡を踏襲しています。
 この道を使えば、今の茨木市宿久庄あたりまで池田家中の藤井氏などの領知ですので、隠密行動も可能だったと思われます。
 ですので、和田方は敵方の兵や行動が掴めないまま、決戦を迎える事となったわけです。
 
1年前にも白井河原合戦の事が気になって、このブログで詳しく取り上げたのですが、もう一度読み返してみて、言い忘れがありましたので、補足してみました。





2013年6月15日土曜日

荒木村重など、池田一族が署名した『中之坊文書』について

有馬城跡から有馬の町を見る
摂津国有馬郡湯山年寄中に宛てた、荒木村重など池田家中の諸侍が署名した『中之坊文書*』は、非常に重要な史料です。
 しかし、残念ながら年記を欠き、6月24日とのみあるだけで、何時の事なのか不明です。ですので、研究は進んでいません。この史料は神戸市のとある個人さんの所蔵史料で、私も一度実物を拝見したいと思いつつ、未だ実現には至っていません。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180などにあります。
 
同史料は京都を含む、当時の首都の歴史、地域史にとっては非常に重要な史料です。特に、私の研究している池田勝正にとっては、言うまでもなく重要です。
 冷静に考えると、京都の政治にとっても重要なのですから、日本の歴史にとっても重要なはずですが、どうもそのあたりが、うまく連動していないようです。時代的には、京都で政権地盤を築く織田信長の黎明期の範囲に入ります。

現在の有馬城跡
ところで、湯山とは、今の神戸市北区有馬温泉町です。
 
さて、この『中之坊文書』については、若干の推定と通説、間違いが存在しています。ご存知の方も多いと思いますが、それらをご紹介しておきたいと思います。

  1. この史料は兵庫県史などにより、元亀元年のものと管見の消極的な推定がされています。
  2. 元亀元年6月の池田家内訌時に、当主の勝正が追放された後に発行された、池田二十一人衆によるもの、との通説があります。
  3. 史料によっては翻刻に誤字があります。また、史料中の「卜」の文字が読めず、欠字扱いになっています。

(1)の推定は(2)の通説を含め、双方は発想の連動があるようですが、どちらも当時の史料を見比べると、完全に推定が一致するとは言い難いように思います。

というのは、以下の理由があります。
    (a)池田二十一人衆とは、当時の史料に出て来ない。出てくるのは伝聞史料で、二十一人衆として『言継卿記』に、三十六人衆として『多聞院日記』に、どちらも一度だけ確認できる。よって、家政機関として近隣に周知されておらず、機能もしていなかったと思われる。
    (b)署名人数は20人しかおらず、小河出羽守家綱は、池田家中とは別の人物の可能性がある。
    (c)荒木村重が「池田」姓を用い、信濃守の官途を名乗る理由を考える必要がある。
    (d)元亀元年の池田家内訌の直後には、勝正の後継者が立てられていたとの伝承があり、その確認が出来ていない。史料上ではそれらしき「民部丞」なる人物が確認できる。

      ところで、『中之坊文書』の内容をご紹介しておきます。
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      本文:
      湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊(いささ)かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
      署名部分:
      小河出羽守家綱(花押)、池田清貧斎一狐(花押)、池田(荒木)信濃守村重(花押)、池田大夫右衛門尉正良(花押)、荒木志摩守卜清(花押)、荒木若狭守宗和(花押)、神田才右衛門尉景次(花押)、池田一郎兵衛正慶(花押)、高野源之丞一盛(花押)、池田賢物丞正遠(花押)、池田蔵人正敦(花押)、安井出雲守正房(花押)、藤井権大夫敦秀(花押)、行田市介賢忠(花押)、中河瀬兵衛尉清秀(花押)、藤田橘介重綱(花押)、瓦林加介■■(花押)、菅野助大夫宗清(花押)、池田勘介正行(花押)、宇保彦丞兼家(花押)
      --------------------------------
      となっています。

      本文は、非常に短いですが、それについて20人もの人々が署名しています。また、湯山の集落政治のまとめ役の人々が、随分と馳走を申し出た事について、少しも疎かには扱わない。恐れ入り謹しんでお伝えします。と池田の人々は伝えています。

      こういった状況から、この時の池田家中は、突出した当主が居らず、合議的体制で一時的に運営されていたとも考えられます。当主の書状に添えて発行される副状にしては、人の数が多過ぎます。

      白井河原古戦場付近
      それを踏まえ、前記の(a)〜(d)を満たす時期を考えてみると、元亀2年ではないかと、個人的には考えています。ということは、そうです、白井河原合戦の直前になります。この史料は、同合戦に連なる動きから出た行動だったのではないでしょうか。場所としても「湯山」は、主要街道を通す要所で、池田ともつながりの浅く無い地域です。
       ここから協力(馳走)を取付ける事ができれば、池田衆は憂い無く大軍を東に投入できる環境が調います。

      6月下旬といえば、今の暦で言うと、8月上旬頃で、そろそろ稲の作況を見る時期です。そんな時期に池田衆は、何らかの交渉を行っているのです。
       また、ちなみに連署の顔ぶれは、白井河原合戦の様子を描いた伝記等でも見られます。

      郡山城跡付近から西国街道を見る
      そして見事に池田衆は、白井河原合戦に勝利し、支配地を東へ大きく拡大させる事となります。湯山の年寄衆も池田家へ加担した事を喜び、行く末に明るい未来を感じた事でしょう。

      『中之坊文書』について、個人的にはそのようなストーリーを組み立てています。同文書については、論文を書き、近い内に皆さんにもご覧いただければと考えていますので、ご興味をお持ちの方は、お楽しみにお待ち下さい。




      2012年10月13日土曜日

      旧暦8月28日は、今年のカレンダーでいうと10月13日です。

      旧暦8月28日は、今年のカレンダーで言うと、10月13日です。
      旧暦の元亀2年8月28日は、太陽暦の10月13日です。そうです、白井河原合戦は、こんな季節に行なわれたのです。

      数字だけ見ていると、「夏」ですが、収穫の時期、しかもこんなに涼しい時期に合戦が行なわれました。朝晩は、随分と寒いですよね。また、『言継卿記』など当時の日記史料を読みますと、京都も奈良も晴れていたようですので、摂津国中部、白井河原あたりも晴れていた事と思います。
       歴史上の出来事を、現在に置き換えてみるのも、結構面白いというか、意義があります。

      この合戦で、三好三人衆方池田衆の荒木村重や中川清秀は名を挙げ、近隣に知られた武将となっていきます。

      白井河原合戦について、『陰徳太平記』の「白井河原合戦並びに高槻茨木両城合戦之事」を見てみます。
       (前略)。かくて各先陣2陣と手配りし、荒木信濃守村重、先陣にぞ進みける。(中略)。相続く士には、中川瀬兵衛尉清秀・池田久左衛門尉知正・安部野仁右衛門・星野左衛門尉・山脇加賀守・同名源太夫・野村丹後守・藤井加賀守・荒木善太夫・同名善兵衛・伊丹勘左衛門・川原林越後守・秋岡次郎太夫・本庄新兵衛・粟生伊織・安都部弥一郎・北の河原(北河原?)新五・同名与作・同名与一右衛門・福田午の介・佐伯庄衛門など皆武功度々の勇者にて、何れも足軽の大将也。此の外二十一人衆に、池田清貧斎を始め、老功の士、勝正の幕下に属して、後陣を堅め、都合2,500余騎、上郡の馬塚に屯を張る。両陣白井河原を隔てて、互いに螺を吹き立て、敵の模様を窺いける。(後略)。

      また、『耶蘇会士日本通信』の「1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書翰」にはこうあります。
       (前略)。翌日早朝此の敵は3,000の兵士を3隊に分ち、新城の一つを攻囲せん為め出陣せり。(中略)。彼(和田惟政)は此の時対陣し、敵1,000人の外認めざりしが、直に山麓に伏し居たる2,000人に囲まれたり。敵は衝突の最初300の小銃を一斉に発射し、多数負傷し、又鎗と銃に悩まされたる後、総督(惟政)の対手勇ましく戦い、既に多くの重傷を受けしが、総督も所々に銃傷を受けたれば、遂に総督の首を斬り5〜6歩進みたる後其の傷の為首を手にしたる侭倒れて死亡したり。彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16才の甥(茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。和田殿の子は高槻の城に引き還せしが、総督死したるを聞き、部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ小数なりき。(中略)。総督の首級は他の武士一同のと共に其の城下に持ち行かれ、敵は諸方より同所に集まり、非常なる歓喜を以て不幸なる事件を祝い、2日2夜に和田殿領内の町村を悉く焼却破壊し、一同其の子の籠りたる高槻の城を囲みたり、とあります。

      旧暦8月28日に行われた白井河原合戦に破れた和田方は、本拠の高槻城に入り、防戦の順日を行います。また、幕府方はこの報に接し、三淵大和守藤英を急派させています。


      摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)




      2012年10月12日金曜日

      和田惟政、決戦のため幣久良山に陣を取る

      元亀2年(1571)8月27日、日本史上でも決して小さな出来事とは言えない「白井河原大合戦」の前日です。記録は陰暦ですので、現在の太陽暦に変換すると、本日10月12日です。
       田畑の実り豊かなこの時期に、反幕府方池田衆と幕府方摂津守護和田方が、攻防戦が繰り広げられて、いよいよ決戦のその時が近づきました。
       
      この合戦で、池田衆が京都の至近である茨木方面で勝利し、京都の防衛に大きな穴が空いてしまいました。幕府方は京都を守りきれず敗走する事も十分にあり得た深刻な事態でした。なぜなら、一連の武力侵攻で池田衆が西国街道とその分岐点を押さえたからです。池田衆は、反幕府勢力であり、古巣の三好三人衆方です。

      この白井河原合戦について、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記した当時の報告書『耶蘇会士日本通信』には、その様子が詳しく記述されています。

      そこには、(前略)、惟政勇を恃(たの)みて聞かず、高槻を去る3里計りの糠塚に陣す。其の翌日、即ち元亀2年8月28日に惟政は、白井河原に突撃して村重らの軍と戦い、(後略)、とあります。

      白井河原の合戦は、早朝から行なわれていたようですので、前日に池田衆と和田惟政は陣取りを終えていたと考えられます。池田衆は今の茨木市郡のあたりに陣を取っていますが、ここに陣を取るには、宿久庄城や里城(同市藤の里あたりか)などを既に落としていたと考えられます。
       対する和田惟政は、自軍の体制が整わない中で快進撃を続ける池田方を口惜しく思いつつ、幣久良山(てくらやま)に陣を取り、池田衆の様子を見、諸方への連絡等、手筈を整えていたようです。
       惟政は、池田衆に不意を衝かれ、不本意ながらも白井河原付近まで池田衆の侵攻を許してしまいました。惟政は要害性があり、守りに適したこの付近で、池田衆の前進を阻む事ができると考えていたものと思われます。
       
      池田衆は夜の間に伏兵を配し、惟政を誘き出す作戦に全力を尽くし、この先鋒に荒木村重が就いていたようです。村重は翌日の合戦で期待通りの活躍を見せ、近隣に名を知られる武将となります。

      兎に角、双方共に「明日はいよいよ決戦」との決意を堅め、陣を周到に組んでいたと考えられます。

      詳しくは、「白井河原合戦について」の項目をご覧下さい。


      摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)




      2012年10月7日日曜日

      441年前の今日、池田衆が3,000の兵を率いて白井河原へ出陣

      元亀2年(1571)8月22日早朝、三好三人衆方池田衆は、幕府方摂津守護和田伊賀守惟政に決戦を挑むべく、3,000の兵を西へ向けて出陣させました。今から441年前です。
       また、当時の記録にある日付は旧暦であり、陰暦ですので、現在の太陽暦で言うと、正に「今日」です。

      そうです。新米の季節です!

      つい、グルメの方向に行ってしまいました。すいません。

      さて、この時期に決戦を挑むというのはやはり、収穫をも手に入れるべく計画しているのは明らかだと思います。武力闘争に勝てば、今現在の実りと、その後の収穫も手に入れる事ができるのです。

      池田衆は、和田方に領地を侵されていましたので、この一戦に心血を注ぎ、挽回を図ろうとしていたようです。池田衆は持てる力の大部分を注ぎ、準備も行ったようです「3,000」の兵とは、当時の単独動員数としても大きな部類です。
      ※控えなどで、他にも兵を残していたようですので、総力ではありません。

      池田衆は、和田惟政と決戦を挑むべく、西へ進みます。3,000の兵を3隊に分けて、池田を発ちました。この3隊に分けた事も、計画があっての事だったようです。

      摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)




      2012年8月28日火曜日

      元亀2年8月28日の白井河原合戦の事

      元亀元年(1571)8月28日の早朝、今の大阪府茨木市郡付近で三好三人衆方池田衆と幕府・織田信長方和田伊賀守惟政勢の合戦があり、池田衆が勝利しました。今から441年前です。

      詳しくは昨年、「白井河原合戦に至るまで」として詳しく書いてみました。ご興味のある方は、ご覧下さい。

      さて、今年は、ちょっと合戦の様子についてご紹介してみようと思います。
       白井河原合戦については、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの上司に宛てた現地報告書の中に詳しく書かれています。また、こういった報告書をフロイスが後年、再編集し、内容に修正等を加えたものが『(フロイス)日本史』として発行されています。
       前者は、『耶蘇会士日本通信』として、戦前に訳されて刊行されたものがあります。『日本史』は昭和53年になって発行されたもので、 『耶蘇会士日本通信』の誤訳を補完する役目も持っています。
       しかし、 『日本史』の方も昭和50年代の研究を元に訳されて、細かな人物関係や日時などには間違いがあり、また、本文そのものも少々訂正すべき所があるようで、それらを正すべく更に『十六・十七世紀イエズス会日本報告集』など一定の年ごとに区切った訳本が発刊されてもいます。
       発刊される毎に発展しているのですが、地域権力についてはまだ全国的に周知されるに至らず、特に池田衆と和田勢の戦争である白井河原合戦については、今も間違いは正されいません。

      白井河原合戦跡地(北を望む)
      『(フロイス)日本史』では、この時の池田衆内の主導者として、池田知正と荒木村重が統一表記されているのですが、実際は、池田三人衆という勢力があって、その三人が当主を置かず合議統治していたのが実情です。この点では『耶蘇会士日本通信』の訳し方の方が正しいと言えます。
       この時の 池田家の主導者は池田勘右衛門尉正村・池田紀伊守(清貧斎)正秀・池田(荒木)信濃守村重です。これらの人物はいわゆる「家老」で、その下というか同列にも近いカタチで上位の武士がおり、その中に池田知正や中川清秀、池田正行などが含まれていました。
       この池田三人衆はそれぞれ1,000名程の軍勢を受け持ち、白井河原合戦に動員しています。池田家の実際の動員数はこれよりも多かったと思われます。全部を出陣させて、本拠地や重要地点を空にする分けにいきませんので、いくらかは残す筈ですので。

      さて、白井河原合戦は、記述によると早朝から行なわれていた事がわかります。『(フロイス)日本史』の記述(第41章(第1部94章):和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛、ならびにその不運な死去について)を引用します。

      (前略)
      この不幸な合戦の当日、私はそこから4里(16キロメートル)離れた河内国三箇に居ました。私はそこへは堺から来ており、そして都に戻る途上にありました。そして朝方、都の家僕を一人、高山飛騨守ダリオ(和田惟政家臣)のところに遣わして、道中が危険なので、奉行(和田惟政)から私たちのため護衛の者をつけてくれるようにしてもらえまいかとお願いさせたのでした。
       ミサが終わった時、私たちはそこから銃声を聞き、1・2時間ほどの間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ましたが、私たちにはそれが何であるかは知る由もありませんでした。
       ところがやっと午後になって遣わした家僕が戻り、この悲報を持ち帰って、奉行が戦死し、彼と共に、五畿内の彼の全く高貴な貴族たちが運命を共にした事、そして家僕が高槻城に達した時には、そこに奉行の息子が敗北し退去して入城していた事を私たちに報告しました。
       (中略)
      奉行の首級は、すべての他の殿たちの首級とともに、直ちに彼の高槻城下にもたらされました。そこへは各地から和田殿の敵達が挙って駆けつけ、大きな歓声をあげて、この度の出来事(池田衆の勝利)を祝いました。
       二日二晩に渡って、彼らは和田殿領内の、ほとんど全ての町村を焼却・破壊し、そして高槻城を包囲し始めました。
      (後略)

      とあります。 また、『耶蘇会士日本通信』でもほぼ同じ記述内容ですが、そこには、聖祭終わりて12時間小銃の音を聞き、又周囲の各地悉く延焼せるを見しが、何事なるか知らざりき。、とあります。

      合戦が早朝から始まったと考えられるのは、戦い方を見てもそう感じさせるものがあります。

      現郡山宿本陣付近南側の高低差
      同じく『(フロイス)日本史』の同条を見てみます。

      (前略)
      和田殿は、大胆、かつきわめて勇敢でした。彼は城中(高槻)、側近に200名もの殿を擁していましたが、彼らは全五畿内における最良の槍手であり、もっとも勇敢な戦士たちでありました。しかし、その報せ(前線からの敵進軍中の報告)はあまりにも突然の事でしたので、彼は当時城内に 700名あるかなしかの兵卒を率いて直ちに出陣する他ありませんでした。
      (中略)
      彼(和田殿)は上記の200名の貴人だけしか伴っておらず、他方500名の兵士は、16歳くらいと思われる奉行の一人の息子(愛菊惟長)とともに後衛として後に続きました。
      (中略)
      郡山地域にある馬塚跡
      彼(和田殿)は敵勢を新城から半里(2キロメートル)ばかりのところで認めますと、息子とともにやってくる後衛を待つ事無く、交戦の際には徒歩で戦う日本の習慣に則り一同を下馬させ、そして敵方から自分の方へ1,000名以上の兵が向かって来るのを認める事無く、かの200名だけを率いて敵を攻撃しました。
      そして彼らは見つかると、忽ちにしてある丘の麓で待ち伏せて隠れていました更に2,000名もの兵に包囲されました。最初の合戦が始まるとすぐ、敵方は真ん中に捉えた相手方に対して、一斉に300梃の銃を発射させました。和田方の200名は、自分達の総大将と一丸となって、危険が迫るのを見、はなはだ勇猛果敢に戦いました。
      (中略)
      奉行とともに、かの200名の貴人も全員討ち死にし、和田殿の兄弟の息子である16歳の甥(茨木重朝)も同様に、かの3,000の敵の真只中で戦死しました。と申しますのは池田からは、それほど多くが出陣したのでした。
       和田殿の息子は、父の破局に接しますと、後戻りをし、わずかばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒たちは、奉行並びにもっとも身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者たちも同じく分散してしまいました。
      (後略)

      とあります。

      郡地域にある馬塚跡
      池田勢は、3,000の兵を出陣させ、その内の1,000名だけを露出させ、他は伏兵として山裾に隠していました。これは夜のうちに、準備をしていたと考えられます。
       また、この白井河原あたりの地形は 南北に迫る山塊の谷にあたります。勝尾寺川はその谷を流れ、その川に沿って西国街道が走っています。したがって、西国街道を通れば、南北にある山塊から俯瞰されます。そして、白井河原付近からは南の山塊(千里丘陵)が途切れ、更に大きく視界が開けます。池田衆はこういった地形を利用して、決戦を挑む事をはじめから作戦を立てていたと考えられます。


      池田衆は現在の茨木市郡山から郡あたりに陣を取りました。そこに「馬塚」という陣跡が2カ所ありますが、池田衆はその両方に陣を取っていたのかもしれません。勝尾寺川、西国街道の南側です。
       和田方は、その池田衆の陣から北東にある幣久良山に陣を取り、眼下の勝尾寺川と茨木川の合流点を天然の堀としていました。ここは、明治20年(1887年)2月、明治天皇が大阪鎮台兵の演習を御覧になったところでもあり、その事の碑が立っています。
       幣久良山からは、360度視界が開けていますので、そこから北東に1キロメートル程の安威城、また、南に2キロメートル程の茨木城の様子もすぐにわかります。

      宿久庄城跡推定地
      夜が明けた時、和田惟政は幣久良山から池田方の陣を見て、陣形がまだ調っていないと考えたのかもしれません。すぐ西側には宿久庄城と郡山城があり、それらを池田衆が攻囲していたため、そこに手を取られているとも考えたのでしょう。
       さて、郡山から郡あたりの池田の陣形が、1,000名程を二つに分配置されていたとすると、数も大して多くは見えなかったでしょう。軍勢の配置は1点では無く、複数点置かなければ、攻守に移れませんし、補完ができません。
      和田方は、200名といえども指揮官クラスの武将ですので精強です。 和田惟政は、この状況を見て、相手の体制が調わないうちに、攻めようと考えたのだろうと思います。決して勘違いでは無く、勝機を見いだしての行動だったと思います。


      郡山城跡
      しかし、そう思わせた池田衆の思うつぼだったのです。出撃してきた和田方に300丁もの鉄砲の一斉射撃と2,000名もの伏兵が襲いかかりました。もちろん1,000名の囮の池田衆もそれに加わります。

      和田惟政率いる200名の武士は、ひとたまりもなく、全滅だったようです。

      池田衆は28日から、二日二晩に渡って和田領内を打ち廻ったと、『(フロイス)日本史』などの記述に見られます。池田衆は遂に、芥川を渡って高槻城も囲み、攻め始めます。

      結局、この戦いに幕府・織田信長方の兵も救援に駆けつけて、一時的に停戦などを行ないますが、 11月になっても禁制が出されていたところを見ると、この年いっぱい闘争が続いたようです。

      摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)




      2012年8月17日金曜日

      元亀2年9月中頃、摂津国吹田へ吹田氏復帰か

      詳しい日時は不明ですが、白井河原合戦の戦況から見ると、元亀2年(1571)の9月中頃には摂津国吹田村を取り戻し、三好三人衆方池田氏に近しい吹田氏が入った(復帰した)と考えられます。

      千里丘陵の南側に位置する、水運・陸上交通の要衝である吹田は、同年6月に吹田城を落として制圧しています。 これには幕府方和田伊賀守惟政が担当し、三好三人衆方に加担する守備勢力の武将57名を討ち取ったと、『言継卿記』にあります。「親は遁(逃)げ」とあり、これは吹田氏ではないかとも考えられます。

      吹田を確保した事で、千里丘陵南から豊嶋郡へ入る事ができ、そのまま東進すれば友軍の摂津守護伊丹忠親とも勢力範囲を繋ぐ事ができるようになりました。また、神崎川を押さえる事ができ、京都への水運監視ができるようにもなります。

      和田惟政は、本拠の高槻から茨木を押さえとしつつ、南への連絡が確保できた事から、池田城への攻勢を強めました。6月23日には、和田惟政が摂津国豊嶋郡桜塚善光寺内牛頭天王(現豊中市中桜塚の原田神社)へ宛てて禁制を下すようになっている事から、 原田城もこの頃には池田氏配下から離れていたと考えられます。

      「原田城について」のページ

      ちなみに、この一連の闘争で高山飛騨守長房の息子(3男:高山右近の弟)が戦死し、宣教師ルイス・フロイスが、その埋葬のために摂津国へ赴いています。

      吹田方面では闘争が続き、幕府方は吹田から江坂を経て原田方面、そのまま東進して利倉・椋橋方面へも進んでいたものと考えられます。

      しかし、三好三人衆方の池田勢も事態打開を画策しており、和田方と白井河原で決戦を行って勝利しました。
       和田方は元々勢力を分散してしまっていた事と、総大将である和田惟政をはじめ、主立った多くの人材を失うに至って、立て直しが不可能となって壊滅状態に陥っていました。

      池田衆は、和田方の拠点を一気に攻め、和田方の拠点の高槻をも取り囲んで落とす勢いを持っていました。また、茨木城などその他主立った拠点も2つ落としています。
       高槻は講和によって、辛くも守りきった和田氏でしたが、人材を失ったため、立て直しができず、その数年後には滅亡となります。
       一方の池田氏は一気に東へ勢力を拡大させ、吹田を取り戻し、茨木を新たに配下に収めたようです。 池田勢は千里丘陵の周縁部はほぼ勢力下に収めるに至り、西国街道・亀岡街道・吹田街道などなど、多くの地域や権益を支配するに至りました。

      「白井河原合戦について」のページ

      白井河原合戦は旧暦の8月下旬ですので、太陽暦ではもう秋で、収穫の頃です。池田勢が勝利した事により、これらの収穫も手に入れる事になりました。

      池田一族衆の池田正行は、こういった状況下で春日社南郷目代今西氏へ、吹田についての音信をしていたものと考えられます。

      摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)

      2012年1月5日木曜日

      宣教師ルイス・フロイスの記述に登場する、河内国讃良郡の三箇城


      河内国飯盛山城に三好長慶が拠点を置いた頃、同国讃良郡内に三箇城が重要な役割を持って存在していました。

      三箇城は深野池の中にある島にありました。島は主要な3つをもって名付けられ、三箇とよばれるようになったともされています。
       この付近の荘園の関係もあって、それらは九個荘や大箇、十七ヶ所などとついた地名が多くあり、どことなく異国的なネーミングのように思える三箇もそういった流れの地名のようです。

      また、この三箇には、三箇伯耆守頼照(サンチョ)という有力武将が居り、活躍しています。頼照はキリシタンで、サンチョという洗礼名を持ち、この方面でも中心的役割を果たしたようです。宣教師ルイス・フロイスの記述にも頻出しています。
       ちなみに元亀2年8月28日の白井河原合戦の折、ルイス・フロイスは飯盛山城に居り、そこから高槻方面で多数の銃声音を聞き、火災を見たと書き残しています。

      さて、三箇の城跡なのですが、この場所が今も特定できていません。深野池は江戸時代の大和川付け替えによって、環境が大きく変わってしまい、どこからどこまでが島だったのか。また、その島のどこに城があったのかなど、不明なところが多くあります。

      ただ、江戸時代の領地境界を記した地図では、「三箇村地」として あるところを見ると、干拓が行なわれた後も所有権は三箇村民のものとして存在していた事がわかります。
       やはりその場所は3カ所あり、一番大きな三箇村地が今のJR住道駅周辺となっており、この辺りに城があった可能性もあります。

      深野池は交通・漁労・水源など、重要な場所であり、もちろん、拠点飯盛山城の防衛システムを構成する要所でもあって、これが特定できれば、地域史にとって大きな前進となることでしょう。

      大きな事は、今ここで直ぐに実現はできませんが、そういった事も願いつつ三箇城についてまた調べていきたいと最近気になっています。




      2011年11月15日火曜日

      白井河原合戦に至るまで(その4 完結:合戦の意味を考える)

      結果を構成する要素というか、出来事の背景を見る事は、非常に重要だと思いますし、それがいわゆる「歴史科学」だと思います。
       本来、「武力」と「政治」は共に存在し、どちらが上とか下とか、先とか後ではなく、それらに宿る権力は表裏一体であり、あたりまえの構成要素です。
       太平洋戦争後に敗戦国となった日本は、元来の自主権を喪失し、厳しい監視下に置かれる事で「武力」を手放す事となり、今ではその概念が政治の中で極小化してしまった、特異な政治環境となっています。ですので、現代から一般的概念として軍事と政治が一体だった時代を見る時、そのあたりの事情もしっかりと意識する必要があります。

      しかし、地球上の大多数の国々は、武力が政治の一部であり続けています。それがために、戦国時代に日本人が経験した苦しみを、平成の世となった今でも堪え続けている国が多くあります。一方で、日本はある意味、別の苦しみの途中なのかもしれません。

      永禄11年10月の将軍義昭政権樹立以降、義昭は将軍として誰もが認める存在であったかのように理解(解釈)される向きもありますが、実際に、当時の社会的認識は非常に不安定な状況であった事が解ります。
       義昭が将軍となる直前は、三好三人衆が推す阿波国内にあった足利家(阿波公方家)の義栄が、正式な将軍でした。しかし、その政権も半年程で、義昭を奉じる織田信長に遂われてしまい、その座を明け渡します。
       この両勢力は、そのまま朝廷内にも相似構図を作りだし、当時の中央政権に対する立場や利益をそのまま反映していました。
       政権中枢に就く側も遂われる側も、共に余念無く派閥形成に励み、権力を奪い合います。そして両勢力は利益を糾合できるような社会的身分の高い、名の通りの良い人物を味方に付けようとします。それは、永年熾烈な争いを続けた相手であっても、一時的であれ一致できる利益が目前に見えた時には、妥協もできる程でした。

      永禄11年秋以降、中央政権から遂われた三好三人衆は、再度京都への返り咲きを目指して環境作りを進めていました。その事は、軍事的優位に立つ事も重要な要素です。なぜなら、話し合いでは折り合いがつかないからです。権力の発動も絶対的でない場合もあります。

      さて、中央政権与党であった将軍義昭と織田信長の視点からは、様々な書物で記されている通り、皆さんのよく知っている歴史となっていますが、中央政権復帰を目指す三好三人衆と関係権力はどんな動きをしていたのかという点では、あまり知られていないように思いますので、そちら側からの視点で、動きを捉えてみたいと思います。また、京都を中心とする五畿内地域の有力勢力や伝統的権威は、どのように中央権力闘争を見ていたのかを考察してみたいと思います。

      永禄11年9月、足利義昭を奉じて京都を軍事制圧しようとする織田信長勢に、身の危険を感じた三好三人衆方公卿や幕府要人は京都を離れます。間もなく将軍義昭政権へ帰参した人物もありましたが、そうでない人物は各地に潜伏して、反幕府方としての行動を続けます。遂われた側は、それが奪われた知行の回復など、利益に直結してもいたからです。
       それらの人々は反幕府としての勢力となり、その力を京都へ向けるように策を巡らせていました。阿波国足利家、管領継承者細川六郎(昭元)、公卿近衛前久、同烏丸光康、同高倉永相父子、同水無瀬親氏、また、本願寺宗当主の光佐、比叡山・石清水神宮寺など伝統的な宗門、堺・尼崎などの重要港湾の商工町衆などが、反幕府的行動を取っています。

      斎藤夏来氏による、興味深い研究『織豊期の公帖発給権 -五山法度第四条の背景と機能-』があります。
       永禄11年6月と元亀元年7月の2度にわたり、京都相国寺住持に補任されている江春瑞超は、その時点で開封披露する入寺式を行わず、元亀2年になって相国寺に入って、公帖を開封披露しているようです。

      これは非常に興味深い事です。

      公帖とは台帖・公文などとも呼ばれるもので、これは室町幕府足利将軍から与えられる文書です。これによって、禅宗官寺の住持に補任されて出世する叢林長老は、諸山・十刹・五山の住持を歴任し、最終的には南禅寺住持に補任されて、紫衣着用を許される存在だったようです。
       ただし、室町中期以降は、各地の諸山・十刹寺院は多くが廃壊し、名目的補任がなされる場合もあったようですが、南禅寺住持を頂点とする権威は機能していたようで、これが将軍からの公認を受ける事と与える事の格式をも維持させていたようです。
       そういう意味のある公帖を、江春瑞超なる人物は、第14代将軍義栄から永禄11年7月に受けていますが、その開封披露をすぐに行わず、その実力を見極める態度を取っています。興味深いのは、義昭は永禄11年10月に正式な将軍となっているにも関わらず、義昭が公帖を発行したのは元亀元年7月です。そして、江春瑞超はその時点でも将軍の実力を見極めるかのように、公帖の開封披露を見送っています。

      そしてまた、雲岫永俊なる人物は、将軍義栄(この時は実際には将軍ではないが、将軍と目される状態ではあった)時代の永禄10年10月付けで、景徳寺・真如寺住持となっています。そして、後の将軍義昭時代の元亀3年11月付けで、再度両寺の住持となっていますが、その折、義昭は永禄10年10月付けで義栄が発行した文書(御判)を破棄して、その立場を誇示しており、ある意味これはその時の政治的なターニングポイントである事を表しているといえます。

      それからもう一つ、将軍義昭の信用度の社会的認識を示す要素を考えてみます。

      足利義昭が奈良を脱出し、近江国から若狭国を経て越前国朝倉領内に入り、遂に一乗谷へ至った頃の事です。
       義昭は決して優遇されたわけではありません。越前国の玄関口敦賀郡で長期に渡って足止めされ、やっと一乗谷へ迎えられるかと思えば、その外側にある寺地に起居させられ、朝倉家のために一働きさせられています。義昭もこの事で、朝倉氏の憂いを断ち、上洛へ向けた環境作りになると考えていたのでしょう。
       そしてそれは、義昭が永年僧侶であったため、朝倉氏にとって有益かどうか吟味されたのでしょう。天正元年11月以降の毛利氏との状況と全く同じです。
      義昭は、朝倉氏と敵対していた加賀国の一向衆との和睦調停を見事に実現し、それが認められて、やっと朝倉氏の本拠である一乗谷朝倉邸への「御成り」となります。
       しかし、その後も朝倉氏は、義昭の望みに積極的に応じようとはせず、間もなく義昭とは物別れとなります。個人的にはこの事が、義昭の朝倉氏に対する遺恨となったのだろうと考えています。朝倉氏は、自分の都合だけを義昭に要求し、義昭の願いは全く聞かなかったからです。
       一方の朝倉氏の当主義景は、将軍義輝の不慮の死に、はじめは同情的なところがあったものの、ただ前将軍と血のつながりがあるだけの僧侶に、どれ程の実力があるのか、疑問視していたのでしょう。何の肩書きも、実績もない義昭に。また、武士としての教育も受けておらず、帝王学も身につけていません。

      もう一人、公卿の近衛前久の動きも見ておきましょう。

      橋本政宣氏の研究によると、公家衆の代表的存在である五摂家の筆頭近衛家当主前久(さきひさ)は、永禄11年から天正3年まで、7年間の京都出奔の際には、反幕府(反将軍義昭)戦線の一環として三好三人衆・大坂本願寺・越前国朝倉義景・近江国六角承禎・浅井長政・若狭国武田氏と交渉を持って、活動しました。
       前久は始め、大坂の本願寺に、次に丹波国赤井氏に寄寓していたようです。中でも元亀2年までの近衛前久の動きを見てみると、興味深いです。
      永禄11年11月頃、前久は大坂本願寺に入り、保護を受けています。前久は早速、反幕府方として動いていたようです。当然、本願寺方との連絡や意志疎通もあった事と思います。
       翌年1月11日条の『二條宴乗記』に、前久の事が記されています。三好三人衆方の京都本圀寺襲撃事件に、石清水八幡宮寺が加担していた事について、前久も関係していた事が記されています。
       同年2〜3月にかけて、幕府方織田信長は、三好三人衆方に加担した堺・尼崎・兵庫の環瀬戸内海の都市(京都との関連都市)へ武力行使を行い、屈服(完全ではないが)させます。
       また、同年4月には、織田信長の命令で、山城国普賢寺衆の今中・上松・大西・田辺などが誅殺されています。この地域は、近衛家領でもあった事から三好三人衆方に加担する動きがあったらしく、信長はそれを制したようです。
       それからしばらく、今のところの私の知る限りでは前久の活動が史料に見られないのですが、元亀元年8月になって前久が、薩摩国の島津貴久へ音信しています。その中で、近江国南北(六角承禎・浅井長政)・越前国朝倉氏・四国衆(三好三人衆)が一味せしめ、近日自分も出張すると、伝えています。
       薩摩国内に近衛家の所領があったり、薩摩隼人ゆかりの山城国綴喜郡田辺と近衛氏が古くから関係があるなどで、両家は懇意にしていたようです。また、この頃に島津氏が所用で上洛する予定などがあって、両者は頻繁に連絡を取り合っていました。
       その中の近況として、京都周辺の情勢も記されています。それらの音信からは、近衛前久が反幕府勢力を束ねる「要」的な動きをしている事もわかります。

      更にもう一人。

      管領細川晴元の嫡子で正統な継承者である六郎昭元の動きも最後に見ておきたいと思います。正確にはこの時点で昭元ではありませんが、便宜上、昭元で統一的に記します。
       管領は中央政権の中枢を担う要職ですが、この昭元は、三好三人衆権力の中でも重要な位置づけでした。三好三人衆は、永禄11年秋に京都を落ちる時にも昭元をしっかりと保護し、手放しませんでした。昭元も初期段階ではその持てる権威で、三好三人衆の京都復帰を応援し、支えていました。
       永禄12年3月20日(年記は個人推定)、昭元は早速、丹波国人赤井直正に音信しています。その数日後の23日付けで、同じく直正に宛てて丹波国人らしき内藤貞虎が音信し、三好三人衆などの動きを伝え、今後の予定も伝えています。
       更に同年閏5月7日(年記は個人推定)、再び昭元が直正に音信し、出陣について手はずを整えて、油断の無いように、などと伝えています。
       この頃三好三人衆勢は、淡路国にあって五畿内方面を窺っていたようです。また、和泉国方面でもその一団が活動し、幕府方は気を緩める事ができない状態でした。
       こういった要素を細かく見ると大変な文字数になってしまいますので割愛しますが、三好三人衆勢は元亀3年の夏頃までは、五畿内地域での求心力を保ち得て、幕府方に対し、優位に立つ場面が何度もありましたが、結局求心力の中心軸がずれてしまい、局地勢力となってしまいました。
       元亀元年4月の越前国朝倉氏攻めと、いわゆる姉川の合戦においては幕府方が勝利したものの、同年9月の大坂本願寺の幕府(政権)離脱で、幕府方は一気に軍事的形勢は不利となります。
      その流れに乗ろうと、三好三人衆は昭元を始め、阿波守護家筋の細川讃岐守真之や三好宗家の筋目に最も近い人物で、阿波国の実質的な統治者である三好長治も出陣させ、五畿内地域へ政治的な権力誇示を行います。
       私戦では無く、より広い人々のための利益、すなわち広義の意味合いを行動に帯びさせるためには、それを集約・象徴できる人物が必要となります。
       三好三人衆方にとってその一人が昭元であったわけです。また、元亀2年の初冬、より広域の勢力を糾合するため、また、束ねるためにも、旧誼でもあった反幕府的志向性の強い近衛前久とのつながりを、改めて強くする事を企図して、三好三人衆方は3,000石の知行も直接的に献じます。
       前久は大坂本願寺に起居し、三好宗家の嫡流筋は本国阿波を固め、昭元は多地域(管領家は代々丹波国に縁故地を持っていましたので、拠点は丹波だったのかもしれません)に広く対応し、更に、三好宗家の跡継ぎが元亀2年3月頃から三好三人衆方に復帰後、河内国北・中部を固め、これと共に松永久秀・久通父子も大和国北・中部に権力を保ちました。

      こういった人々が、一団を形成していくのですが、それはその地域への保証の維持でもあり、同時に保護や利益確保の名目で武力を行使する理由ともなりました。そういった利益の確定が、軍事力をともなって地域社会の成立構図を再編していくのですが、それが三好三人衆方に有利に働いていたのは、元亀2年9月の比叡山焼き討ち頃までで、それ以降は、徐々に中心線というか、中央政権の争奪における権力の対する焦点が変わっていきます。
       また、軍事的には幕府・織田信長方に対して三好三人衆方優位でしたが、三好三人衆方の勢力に綻びが見られるようになり、三好三人衆に最も近い一族からも脱落者を出すようにもなります。反幕府方の「核」でもある三好三人衆の体制が崩壊する事態に陥りました。更に、連合諸勢力の協調が崩れてしまいます。

      しかし、この権威保持の志向性は、対する幕府方とて同じで、政権を安定させるには必須条件でした。

      さて、こういう要素を見ると、京都やその周辺では、元亀2年頃まで、将軍義昭が正式な幕府としての中心的地位にはあるけれども、各界の重要人物にはその永続性について、非常に不安視されていた事もわかります。






      2011年10月8日土曜日

      白井河原合戦に至るまで(その3:合戦の頃の周辺戦況と関連性)

      元亀2年(1571)8月28日、三好三人衆方である摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。
       この戦いに至るには、その前段階があります。その過程について、いくつかに分けてご紹介しますが、白井河原合戦を中心として、そこに至るまでの環境を確認したいと思います。

       白井河原合戦をとり囲む、その外側の環境も俯瞰しておきましょう。

       元亀元年(1570)12月も暮れ近くになって、幕府方であり官軍の総大将でもある織田信長が軍事的劣勢となり、三好三人衆を始め、越前国守護朝倉氏・京極氏被官浅井氏・六角氏・本願寺宗と一旦和睦を結びます。
       しかし、正月を過ぎると、すぐに信長は戦端を開きます。近江国の中東部、東海道の通路を開くため、早速、信長は動きます。浅井氏被官の磯野貞昌を味方に引き入れるなどします。
       1月28日、三好三人衆方の本願寺光佐は、これらの不穏な動きに早速反応し、諸門徒に檄文を発して、信長に対するよう要請します。そしてこの頃にはもう既に三好三人衆が、五畿内で行動を起こしていました。
       3月5日、三好山城守康長被官木村宗治が、松永久秀を訪ねて、三好方に復帰するよう促しているようです。続いて同月22日、河内国若江城に居た松永久秀・三好義継を同じく木村宗治が訪ねています。これは調略です。
       5月になる頃には三好三人衆方が攻勢を強めて、再び各地で火の手が上がり始めます。
       そして、それに更なる拍車をかけたのは、中国地方の巨頭毛利元就の死去です。これを知った近隣の諸大名は、協同して毛利領内へ攻め入ります。三好三人衆・浦上宗景・尼子・大友などが毛利領境を積極的に侵すようになります。この頃、毛利氏は幕府に積極的に加担する大きな勢力でもあり、決して余裕があるわけではない幕府でしたが、共存のためにも毛利家を援助しなければならなくなりました。
       状況を俯瞰すると、この環境でより京都に近く、中央政治における為政者としての実績を持っていたのは三好三人衆で、京都奪還を目指したその行動は、反幕府(将軍義昭)諸勢力への求心性も発揮していました。三好三人衆は京都の周縁部、近江・丹波・若狭・越前諸国勢力と直接的に連携できる関係にもありました。そしてこれに本願寺宗という宗教的つながりも持ち合わせています。

       五畿内の中の摂津地域という部分で見た場合には、多少劣勢にも見えますが、このように三好三人衆方に復帰した摂津国池田家を取り巻く環境は、大局的には決して悲観する状況ではありませんでした。
       一方、本願寺光佐の嫡子と朝倉義景の娘との婚姻の話しが進められ、同盟勢力同士の結びつきを強める動きや、7月に近江国守護の六角承禎が近江国内で挙兵して、浅井氏と連携した動きを強めます。更に、備前国の大名浦上氏は、播磨国へも兵を進め、自らの境界を拡大しようとするかたわら、幕府方勢力の牽制も行いました。
       これがために幕府方摂津守護の伊丹氏は、本拠地の伊丹から思う通りに動く事ができなくなったようです。また、伊丹氏は本拠の南、尼崎方面へも三好三人衆方淡路衆や本願寺方勢力のために、警戒せざるを得なくなります。
       それから三好三人衆は、権力の取り込みも積極的に行っています。将軍義昭と敵対関係にあった公卿近衛前久に接近し、また、前久自身も利害関係の一致から、積極的に三好三人衆方の政治的な動きを支えていました。更に三好三人衆は、正式な管領(副将軍的立場)継承権を持つ細川昭元をも抱え、昭元自身も積極的に三好三人衆の政治的動きを支えていました。

       近畿からは遠い大友・尼子・河野氏などの動きについては、まだ私の調べが及ばず、不明な事が多いので記しませんが、三好三人衆の影響力の強い、特に近畿に影響のあった大名を見てみます。

       備前・美作国などを勢力圏としていた大名浦上宗景は、元々播磨国守護家の守護代的立場で(時代により離れたりすり寄ったりですが)、その縁でこの時は、置塩城の守護家筋の赤松氏についていました。
       そしてその間に挟まれた龍野の赤松氏は、それと敵対し、幕府方についていました。
       浦上氏は三好三人衆方と同盟し、毛利方に対する備えと東への攻勢に、自ら持てる資力を注ぎました。浦上氏は龍野の赤松氏を圧迫し、その領域を自らのものにすべく企みながら、行動します。これは、播磨国東端の別所氏にとっても脅威となります。
       そしてその別所氏は、龍野赤松氏・毛利氏と同盟し、自領の西側を牽制しようとし、そして更に幕府と結んでいました。ちなみに別所氏は、この数年前には三好三人衆方の有力勢力でした。
       これに対し、三好三人衆方は瀬戸内海東側の制海権を優位に保ち、更に本願寺とも連合して、幕府方勢力を圧迫します。特に三好三人衆勢は、海を渡って自在に背後へ廻り込んだり、同盟勢力に加勢を行えます。
       どちらかというと、この方面では、やはり幕府方が不利、幕府方勢力は、積極的には動けない状況であったようです。瀬戸内海も多くの海域で三好三人衆方勢力が有利だったと考えられます。
       幕府方の播磨国東部の勢力が、東へ動けない状況の中、三好三人衆方池田家は、京都を目指して動く事が可能となっていたのです。三好三人衆勢力全体から「駒」的要素を見ると、「本能寺の変」の明智光秀のように、京都を目指す事が可能な自由な「駒」と、それが可能な周辺環境が出来上がっていました。もしかすると三好三人衆勢力は、総合的な計画を立て、役割分担していた可能性もあります。
       池田衆は、その任を勤めるべく役割りを任され、また、それに足る実力を持っていたように思えます。

       さて、五畿内に近寄りつつ、更に周辺状況を見れば、丹波国内も幕府方と三好三人衆方とに入り乱れた膠着状態で、波多野・赤井に、松永久秀の血族である内藤氏などがありました。幕府方に近い丹後国守護の一色氏は、三好三人衆方の朝倉氏に加担する武田氏と対峙し、更には地理上、近江国からも侵入を受けた場合の用意も必要でした。
       そして、その近江国北西部は三好三人衆方朝倉・浅井氏が優勢で、東南部も旧守護勢力である三好方六角氏が挙兵して、あなどれない数を有していました。
       将軍が在京してはいても、このように、それを取り巻く状況は、非常に不安定なものでした。更に、三好三人衆方に加担する、公卿近衛前久や五山といわれる伝統的権威を持つ宗教や時宗勢力にも幕府を信用しない勢力(傾向)がありました。

       この状況に対し、織田信長は武力と共に政治・外交にも力を入れていました。
       三好三人衆方に協力し、一時は将軍義昭方から迫害されていた公卿烏丸光康に、知行を与える(回復)などして扶持をつけると共に、その領地を京都周縁部に設け、守りの布石の要素とします。その他、幕府内の要人などへの対応も次々と行い、人の楯を作って京都を守ろうとします。

       織田信長は同時に武力も強行し、心理的な圧力・喧伝の策ともし、政権の意思力を内外に誇示します。有名な「比叡山焼き討ち」です。比叡山は当時、京都鎮護の重要な場所とそれを司る宗教組織でしたが、信長はこれに武力行使を行います。
       これ以前の永禄12年春、同じく南の京都鎮護として崇められる石清水八幡に対して信長は、三好三人衆を匿ったとして、武力行使を行っています。その他、尼崎などでも大きな宗教組織や町衆組織も同じく、交渉が決裂すると、ためらわず武力行使を敢行しています。ですので、「タブー」に手をつける信長のイメージは比叡山のみではありません。
       また信長は、決して準備の整わない行動はせず、越前朝倉征伐の折、正式に朝廷から許しを得た「官軍」の社会的大儀を維持し、更に同年暮の和睦も、朝廷との関係を保ちながら行うという、政治的後ろ盾も保持していたからこそ可能だった「比叡山焼き討ち」だったのです。
       「比叡山といえども官軍(朝廷)に弓を引く者は、信長が代って成敗する」という状況だったのでしょう。戦の勝ち負けは、今も昔も変わらず、公的意味合いが大きい程、有利といえます。更に、その公的意味合いを継続させる努力も重要です。組織的にも、その外側の社会にも。

       京都を囲む軍事情勢は、元亀2年の冬頃まで幕府方が劣勢でしたが、9月のこの「比叡山焼き討ち」を境に同方面では、三好三人衆方との形勢が徐々に逆転し始めます。

       しかし、白井河原合戦の行われた頃は、幕府方が劣勢の中で人員をやり繰りする厳しい状況で、京都を維持すべく苦闘していました。和田惟政はそんな中で、池田衆と決戦に挑まなければならなかったのです。






      2011年9月10日土曜日

      白井河原合戦に至るまで(その2:和田惟政の池田領侵攻の動き)

      元亀2年(1571)8月28日、摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。総大将である和田伊賀守惟政は、この合戦で戦死し、池田衆にその首を取られてしまいます。惟政の首は彼の拠点である高槻城に晒され、池田衆は勝利に歓喜しました。
       しかし、この戦いに至るには、その前段階があります。実は池田衆は幕府方から当面の集中的攻撃対象となっており、長期の攻防で池田衆が劣勢に立たされていました。
       この池田衆は、三好三人衆方で、元亀2年5月頃に幕府方から離れて、同じく三好方へ復帰した松永久秀・三好義継と恊働関係にありました。加えて、大坂本願寺勢、和泉国衆の一部が三好三人衆方で、淡路国方面などからも本国と連なる三好勢が、随時五畿内に軍事的侵攻を行っていました。その目的は京都の奪還、則ち織田信長・将軍義昭の駆逐です。
      この過程については、いくつかに分けてご紹介しますが、白井河原合戦を中心として、それをひも解いて行きたいと思います。
       『フロイス日本史』や『耶蘇会士日本通信』では、池田領の境近くに2つの城を築いたと記述があります。同書では、これが白井河原合戦の原因であるとの見解が示されていますが、私はこの事だけが和田方と決戦を行う直接的な理由になったのでは無く、それらの城の築造が、複数の要素の重なりの発火点になったのだと考えています。
       それから同書は、記憶違いだとは思うのですが、若干の矛盾があるように思います。外国人である事と、連続した状況を全て把握している訳ではありませんので、当然の事です。この点に注意しながら、記述を理解する必要があると思います。

      さて、この池田領境界近くに築いた2つの城の場所とはどこなのか。フロイスの記述中の距離の単位には、「レグワ」とあるのですが、どうも1レグワとは、1里(約4キロメートル)にあたるようで、その事から推察すると、城の1つは、今の萱野(現箕面市萱野)あたりではないかと考えられます。
       仮に池田領を、同方面の西国街道と勝尾寺川の交差するあたりから西側と考えるなら、様々な池田方に関する構成要素と符合するように思います。この事は、今解っている事実と矛盾しないように思います。

      8月22日、池田衆は3,000の兵を率いて池田城を出陣します。この頃、和田方の築いた新城を守っていた高山飛騨守が、3里離れたところに居た和田惟政に急報した、とあります。実は、フロイスはこれについて「高槻」とは書いていません。
       他の史料を見ると、この時の惟政は高槻から離れ、出陣中でした。ですので高山飛騨守は、萱野の新城からその場所に急報した事になります。
       それを考慮に入れてみると、もう一つの城があった場所とは、千里丘陵の南側の池田・和田領の境を想定できるのかもしれません。そこであれば、他の史料等からわかる池田衆の動きとフロイスの記述要素、そしてそれらの時間との一致が見られて、矛盾しません。
      ちょっとフロイスの記述からは判断しがたいところもあるのですが、7月(下旬頃か)に白井河原合戦につながる一連の闘争で、高山飛騨守の息子(三男で右近の弟)が戦死しているようです。この葬儀のために、フロイスが摂津国に入っている事を記述しています。
       その高山飛騨守の息子、則ち右近の兄弟が、池田衆との一連の闘争で戦死した7月頃とは、千里丘陵の北側で話しを組み立てると、矛盾があるように思えます。更に、同丘陵の南側にこだわってみると、7月中頃から三好義継・松永久秀が軍勢を仕立てて、河内国から淀川を渡って、高槻方面に進んで、交戦しています。高槻から吹田へ繋がる線を切って、勢力の弱体化を図った行動と思われます。また、それによる、吹田などの淀川縁の確保も視野に入れていたのでしょう。
       更に同月23日、幕府衆三淵藤英・細川藤孝は、高槻方面から吹田を経て、池田の南側へ進んできます。

      さて、こういった軍事行動の場合、攻める敵に対しては必ず最低2つの方向から攻めます。その事を考慮に入れると、千里丘陵の北側と南側に1ヶ所ずつ池田領との境に、和田惟政が橋頭堡的な新城を築いたのかもしれません。
       この頃、茨木・郡山は和田方として機能していましたので、千里丘陵の南北に新城を築けば補完関係も強固に維持できますし、補給も十分です。同時に、防禦的体制も兼ねる事ができます。

      この事から、7月に行われた千里丘陵の南側の攻防戦で、高山飛騨守の息子が戦死したために、一旦、東へ後退。その後、池田衆が出陣する8月22日には、萱野付近の城に入っていたものと思われます。
       それから間もなく、高山衆は東進してくる池田衆と対峙しながら、東へ後退(時間稼ぎもしていたのだろう)していったものと思われます。この時池田衆は『多聞院日記』『尋憲記』にある、池田方が落とした4つの城(里(佐保)・宿久・茨木・高槻)の内、里や宿久を落とすか、攻囲して進んだのかもしれません。
       そしてまた、フロイスの記述をよく読んでみると、和田惟政が突撃前に陣を取ったらしき場所は、高山衆の入る城の近くだったと思われ、それは多分「福井」辺りの城に入っていたと考えられます。

      さて、白井河原方面へ進んだ惟政は、幣久良山(てくらやま:現茨木市耳原)に陣を置きました。ここは山の直ぐ西側に佐保川がある天然の要害で、また、その北側半里(2キロメートル)程のところには、幕府衆である安威氏の本拠があります。そして南にも郡山・茨木の城があります。
       一説には、8月27日に惟政は、幣久良山(糠塚)に入ったとあります。白井河原合戦は、28日の午前中に行われたようですので、惟政が前日に入って状況を把握していたとすれば、それは史料と照合しても矛盾しません。ここは適度に広い平地もありますが、基本的には丘陵地帯で小さな丘や山が多く、しかも切り立った起伏のある地形ですので、伏兵を置くにも適した場所でした。当然、草木も茂っていた事でしょう。また、夜明けと同時に戦いを始める準備をしていたのでしょう。
       フロイスが記したように、和田方が兵を進めようと決断した環境を考えると、池田衆は和田方にそうさせるように、おびき寄せるための隙を態と作っていたと考えられます。
       この時池田衆は、下井付近に陣を取ったようです。今の郡小学校付近に2ヶ所、その跡とされる場所がありますが、どちらも陣跡だったのではないかと思います。

      少し話しが前後しますが、高山飛騨守と和田惟政の動きをまとめておきたいと思います。

      千里丘陵の南側の和田方新城で高山飛騨守は、交戦により息子を戦死させたために、東へ一旦後退。それが7月(下旬か)頃だったのではないかと思われます。その後、幕府勢は吹田方面を経て、池田を攻めるようになります。また、原田城に池田勝正が入る等、拠点も置き始めます。
       幕府方は三好三人衆方の拠点ともなっている池田城を制圧するため、積極的に攻め、伊丹と和田は池田を挟撃しようと出陣しましたが、8月18日の交戦で、伊丹と和田は、200余名を戦死させる敗北を喫します。そして、この時の合戦に惟政も出陣し、高槻を離れていたと考えられます。

      これに合わせて高山衆は、西国街道を通す千里丘陵の北側の押さえとして、萱野に入っていたと考えられます。
       池田衆は、惟政が考える以上に力を蓄えており、8月18日の交戦では、200余名の戦死者を出すとされる、小さくない被害を受けています。重要な家臣も失ったのではないかと思います。
       その日から数日間、和田惟政は猪名川を渡って川辺郡(猪名寺・尼崎方面など)や吹田方面(庄内や江坂など)にとどまって、立て直しを図っていたと考えられます。
       一方、池田衆は池田周辺の交戦で勝利を得た事で勢いがつき、間髪を入れずに高槻を陥れるべく東進を始めたのでしょう。そして間もなく、萱野で池田衆の東進を確認した高山飛騨守は、そこから3里の距離に居た(尼崎・庄内あたりなら萱野から約3里の距離です)惟政に急報。惟政は急遽、高槻に戻り、出せるだけの兵をまとめて郡山方面に向かったのではないかと考えられます。

      8月22日、池田を出陣した池田衆に対し高山衆は、郡山付近での決戦体制を整えるまでに5日間の時間を稼ぎ、要害性の高い郡山辺りで和田惟政と合流。そこで決戦し、事態を打開しようとしていたのでしょう。
       同時に惟政は兵を増強しようと各地に連絡もしていたと思われます。フロイスの記述に「惟政の家臣は高槻から3〜5里乃至8里の場所に居た」との旨の下りがありますが、その要素の指向性は、家臣の招集(動員)を描くものだったのではなかと思います。
       惟政が陣を取った場所を考えても、その事を感じさせる絶妙な場所です。幣久良山の北側には佐保・泉原・忍頂寺・千提寺・車作・音羽などに通じる街道があり、その方面の家臣の白井河原方面への着陣を予定していたのでしょうが、実際には8月28日に間に合わなかったようです。
       フロイスの記述にある、「惟政とその重臣が戦死したとの報が伝わると、家臣が散々に逃げてしまった」の旨の記述は、その事も指しているのだろうと思います。

      フロイスの記述した内容の文字の間を観るならば、そのような想定もできるのではないかと思います。


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      2011年9月7日水曜日

      白井河原合戦に至るまで(その1:合戦中の戦況とその直前の摂津中部地域の状況)

      元亀2年(1571)8月28日、摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。総大将である和田伊賀守惟政は、この合戦で戦死し、池田衆にその首を取られてしまいます。惟政の首は彼の拠点である高槻城に晒され、池田衆は勝利に歓喜しました。
       しかし、この戦いに至るには、その前段階があります。実は池田衆は幕府方から当面の集中的攻撃対象となっており、長期の攻防で池田衆が劣勢に立たされていました。
       この池田衆は、三好三人衆方で、元亀2年5月頃に幕府方から離れて、同じく三好方へ復帰した松永久秀・三好義継と恊働関係にありました。加えて、大坂本願寺勢、和泉国衆の一部が三好三人衆方で、淡路国方面などからも本国と連なる三好勢が、随時五畿内に軍事的侵攻を行っていました。その目的は京都の奪還、則ち織田信長・将軍義昭の駆逐です。
      この過程については、いくつかに分けてご紹介しますが、白井河原合戦を中心として、それをひも解いて行きたいと思います。
       『フロイス日本史』や『耶蘇会士日本通信』では、池田領の境近くに2つの城を築いたと記述があります。同書では、これが白井河原合戦の原因であるとの見解が示されていますが、私はこの事だけが和田方と決戦を行う直接的な理由になったのでは無く、それらの城の築造が、複数の要素の重なりの発火点になったのだと考えています。
       それから同書は、記憶違いだとは思うのですが、若干の矛盾があるように思います。外国人である事と、連続した状況を全て把握している訳ではありませんので、当然の事です。この点に注意しながら、記述を理解する必要があると思います。

      さて、この池田領境界近くに築いた2つの城の場所とはどこなのか。フロイスの記述中の距離の単位には、「レグワ」とあるのですが、どうも1レグワとは、1里(約4キロメートル)にあたるようで、その事から推察すると、城の1つは、今の萱野(現箕面市萱野)あたりではないかと考えられます。
       仮に池田領を、同方面の西国街道と勝尾寺川の交差するあたりから西側と考えるなら、様々な池田方に関する構成要素と符合するように思います。この事は、今解っている事実と矛盾しないように思います。

      8月22日、池田衆は3,000の兵を率いて池田城を出陣します。この頃、和田方の築いた新城を守っていた高山飛騨守が、3里離れたところに居た和田惟政に急報した、とあります。実は、フロイスはこれについて「高槻」とは書いていません。
       他の史料を見ると、この時の惟政は高槻から離れ、出陣中でした。ですので高山飛騨守は、萱野の新城からその場所に急報した事になります。
       それを考慮に入れてみると、もう一つの城があった場所とは、千里丘陵の南側の池田・和田領の境を想定できるのかもしれません。そこであれば、他の史料等からわかる池田衆の動きとフロイスの記述要素、そしてそれらの時間との一致が見られて、矛盾しません。
      ちょっとフロイスの記述からは判断しがたいところもあるのですが、7月(下旬頃か)に白井河原合戦につながる一連の闘争で、高山飛騨守の息子(三男で右近の弟)が戦死しているようです。この葬儀のために、フロイスが摂津国に入っている事を記述しています。
       その高山飛騨守の息子、則ち右近の兄弟が、池田衆との一連の闘争で戦死した7月頃とは、千里丘陵の北側で話しを組み立てると、矛盾があるように思えます。更に、同丘陵の南側にこだわってみると、7月中頃から三好義継・松永久秀が軍勢を仕立てて、河内国から淀川を渡って、高槻方面に進んで、交戦しています。高槻から吹田へ繋がる線を切って、勢力の弱体化を図った行動と思われます。また、それによる、吹田などの淀川縁の確保も視野に入れていたのでしょう。
       更に同月23日、幕府衆三淵藤英・細川藤孝は、高槻方面から吹田を経て、池田の南側へ進んできます。

      さて、こういった軍事行動の場合、攻める敵に対しては必ず最低2つの方向から攻めます。その事を考慮に入れると、千里丘陵の北側と南側に1ヶ所ずつ池田領との境に、和田惟政が橋頭堡的な新城を築いたのかもしれません。
       この頃、茨木・郡山は和田方として機能していましたので、千里丘陵の南北に新城を築けば補完関係も強固に維持できますし、補給も十分です。同時に、防禦的体制も兼ねる事ができます。

      この事から、7月に行われた千里丘陵の南側の攻防戦で、高山飛騨守の息子が戦死したために、一旦、東へ後退。その後、池田衆が出陣する8月22日には、萱野付近の城に入っていたものと思われます。
       それから間もなく、高山衆は東進してくる池田衆と対峙しながら、東へ後退(時間稼ぎもしていたのだろう)していったものと思われます。この時池田衆は『多聞院日記』『尋憲記』にある、池田方が落とした4つの城(里(佐保)・宿久・茨木・高槻)の内、里や宿久を落とすか、攻囲して進んだのかもしれません。
       そしてまた、フロイスの記述をよく読んでみると、和田惟政が突撃前に陣を取ったらしき場所は、高山衆の入る城の近くだったと思われ、それは多分「福井」辺りの城に入っていたと考えられます。

      さて、白井河原方面へ進んだ惟政は、幣久良山(てくらやま:現茨木市耳原)に陣を置きました。ここは山の直ぐ西側に佐保川がある天然の要害で、また、その北側半里(2キロメートル)程のところには、幕府衆である安威氏の本拠があります。そして南にも郡山・茨木の城があります。
       一説には、8月27日に惟政は、幣久良山(糠塚)に入ったとあります。白井河原合戦は、28日の午前中に行われたようですので、惟政が前日に入って状況を把握していたとすれば、それは史料と照合しても矛盾しません。ここは適度に広い平地もありますが、基本的には丘陵地帯で小さな丘や山が多く、しかも切り立った起伏のある地形ですので、伏兵を置くにも適した場所でした。当然、草木も茂っていた事でしょう。また、夜明けと同時に戦いを始める準備をしていたのでしょう。
       フロイスが記したように、和田方が兵を進めようと決断した環境を考えると、池田衆は和田方にそうさせるように、おびき寄せるための隙を態と作っていたと考えられます。
       この時池田衆は、下井付近に陣を取ったようです。今の郡小学校付近に2ヶ所、その跡とされる場所がありますが、どちらも陣跡だったのではないかと思います。

      少し話しが前後しますが、高山飛騨守と和田惟政の動きをまとめておきたいと思います。

      千里丘陵の南側の和田方新城で高山飛騨守は、交戦により息子を戦死させたために、東へ一旦後退。それが7月(下旬か)頃だったのではないかと思われます。その後、幕府勢は吹田方面を経て、池田を攻めるようになります。また、原田城に池田勝正が入る等、拠点も置き始めます。
       幕府方は三好三人衆方の拠点ともなっている池田城を制圧するため、積極的に攻め、伊丹と和田は池田を挟撃しようと出陣しましたが、8月18日の交戦で、伊丹と和田は、200余名を戦死させる敗北を喫します。そして、この時の合戦に惟政も出陣し、高槻を離れていたと考えられます。

      これに合わせて高山衆は、西国街道を通す千里丘陵の北側の押さえとして、萱野に入っていたと考えられます。
       池田衆は、惟政が考える以上に力を蓄えており、8月18日の交戦では、200余名の戦死者を出すとされる、小さくない被害を受けています。重要な家臣も失ったのではないかと思います。
       その日から数日間、和田惟政は猪名川を渡って川辺郡(猪名寺・尼崎方面など)や吹田方面(庄内や江坂など)にとどまって、立て直しを図っていたと考えられます。
       一方、池田衆は池田周辺の交戦で勝利を得た事で勢いがつき、間髪を入れずに高槻を陥れるべく東進を始めたのでしょう。そして間もなく、萱野で池田衆の東進を確認した高山飛騨守は、そこから3里の距離に居た(尼崎・庄内あたりなら萱野から約3里の距離です)惟政に急報。惟政は急遽、高槻に戻り、出せるだけの兵をまとめて郡山方面に向かったのではないかと考えられます。

      8月22日、池田を出陣した池田衆に対し高山衆は、郡山付近での決戦体制を整えるまでに5日間の時間を稼ぎ、要害性の高い郡山辺りで和田惟政と合流。そこで決戦し、事態を打開しようとしていたのでしょう。
       同時に惟政は兵を増強しようと各地に連絡もしていたと思われます。フロイスの記述に「惟政の家臣は高槻から3〜5里乃至8里の場所に居た」との旨の下りがありますが、その要素の指向性は、家臣の招集(動員)を描くものだったのではなかと思います。
       惟政が陣を取った場所を考えても、その事を感じさせる絶妙な場所です。幣久良山の北側には佐保・泉原・忍頂寺・千提寺・車作・音羽などに通じる街道があり、その方面の家臣の白井河原方面への着陣を予定していたのでしょうが、実際には8月28日に間に合わなかったようです。
       フロイスの記述にある、「惟政とその重臣が戦死したとの報が伝わると、家臣が散々に逃げてしまった」の旨の記述は、その事も指しているのだろうと思います。

      フロイスの記述した内容の文字の間を観るならば、そのような想定もできるのではないかと思います。






      2011年8月28日日曜日

      元亀2年の白井河原合戦について


      今から440年前、元亀2年(1571)8月28日、白井河原にて三好三人衆方に加担する池田衆と幕府方摂津守護職であった和田伊賀守惟政勢とで、大きな合戦がありました。場所は現在の茨木市中河原町一帯で、茨木川と勝尾寺川の合流するあたりだったと伝わります。また、当時のこの戦争の呼び名は「白井河原合戦」というものではなかったようで、後世に書かれた家伝『陰徳太平記』などの記述によって定着したようです。その当時の史料には「郡山」などとかろうじて記される程度です。宣教師ルイスフロイスの耶蘇会への報告書や後の編書『日本史』にも「白井河原」という記述は登場しません。
      とはいえ、現在では「白井河原合戦」とした方が通りがいいので、便宜上、それで統一します。
      それから、この当時の年月基準は、陰暦ですので、今とは少し季節が違います。毎年、2月上旬頃に旧正月がありますが、そのくらい時期がずれています。ですので、和暦の8月28日といっても、現在の太陽暦に相対させると10月上旬頃になるでしょうか。もう秋で、収穫の時期です。

      この白井河原合戦は、この決戦時期も重要です。米の収穫時期に、境界争いを起こしているわけですから、米の収奪も視野に入れた領土拡張です。当時、米はそのまま社会的価値を持っており、銭と同じように扱われていました。
      詳しくはまた、取り上げてみたいと思いますが、とりあえず、追々とこのブログでご紹介して行きたいと思います。

      この合戦に至る迄に、池田方と和田方に闘争が繰り返されていました。池田家は、幕府の要として摂津守護を任されていましたが、この前年6月、家中の内訌により、家政の方針が転換されて、元の主筋である阿波・讃岐・淡路を束ねる三好三人衆方に加担する勢力となっていました。
       対して、和田惟政は将軍義昭の側近であり、また、摂津守護職を任される幕府の重要人物で、京都に近い摂津国嶋上郡を任される勢力でした。
      この当時、摂津国内には守護が3人居り、曖昧な境界の中で、それぞれが分割統治する状況にありました。ですので、争いの火種は元々あったとも言えるのかもしれません。


      白井河原合戦当日の8月28日に至るまでに、池田領との境近くに、2つの城を築いた事から、一気に決戦の機運が先鋭化されたようです。
      高山右近の父飛騨守などは、父子共にその前線に入って守備していたようです。
       また、『日本史』の記述にあるその砦の場所ですが、その一つは萱野(現箕面市萱野)かもしれません。三好三人衆方の池田家に与する土豪で、萱野長門守某などの名が見られ、他にもその附近の地名を持つ粟生や安威などの名も見られます。こういった土豪が、自分達の権利を守るためもあり、池田家へ与力して和田方に対抗していたのでしょう。

      白井河原での合戦に至ったのは、池田方が和田方と決戦を行い、境界争いなどを含めて雌雄を一気に解決する一方で、三好三人衆方の京都入りを視野に入れた東進も意図していたのではないかと思われます。

      池田衆は3,000の兵を出陣させ、それらを3つに分けて行動させており、白井河原の決戦では計策を実行します。和田惟政は和田方領内に向けた池田勢の動きを知り、惟政は急遽200程の手勢を率いて高槻城を出陣。間もなく、息子の惟長が後詰めのため500程の兵を用意して出陣しました。和田方は砦の勢力等を入れて1,000程。しかし、和田惟政率いる正面は200程であったようです。本来はもっと多くの軍事動員が可能でしたが、とりあえず用意できる数としては、これだけだったのでしょう。それ程、急な事だったようです。
      詳しくはわかりませんが、惟政には何か考えがあってか、また、機転を利かせて無理を承知で戦闘を始めたようです。フロイスの記述では、惟政の勘違いのような事が述べられていますが、老練な社会的身分の高い武将ですし、武力が仕事の当時の武士にあって、勘違いはあまり無い様に思います。多分、何か考えがあっての行動だったと思います。

      結局、この戦いで、大将である和田惟政が戦死し、主立ったその被官も多くが死に、和田家の組織維持が出来なくなる程、大敗を喫します。対する池田衆の側にも少なからず死傷者が出ていたらしい記述もありますので、相当な和田方の反撃があった事が想像できます。
       池田衆はこの決戦に勝ち、和田方の居城高槻を取り囲み、近隣の茨木城・宿久城・里城までも落としたようです。その後数ヶ月余りに渡って、高槻城の攻防が続いたようですが、幕府との和睦がまとまり、何とか本拠である高槻城の落城は免れたようです。
      この白井河原合戦の勝利により、池田衆は千里丘陵を越えて嶋上郡へも領地を拡大させ、権益が大きく拡がりました。また、この合戦で、中川瀬兵衛尉清秀池田(荒木)信濃守村重が活躍し、名を世に知らしめるきっかけともなりました。

      ちなみに、後世の出版物などに登場する池田勝正の跡を継いだ知正が、この池田衆を率いる総大将だったとする通説がありますが、今のところ、それを実証する当時の史料は見当たらず、池田紀伊守入道清貧斎正秀・池田勘右得門尉正村・池田(荒木)信濃守村重が、池田家中政治の実質的な主導者だったと考えられます。これらは当時の史料に見られます。


      <写真(上から)>
      写真1:郡山の山の城から、西国街道方面を望む
      写真2:高槻カトリック教会内にある高山右近像
      写真3:箕面市萱野に残る旧道
      写真4:池田方の陣跡とされる、茨木市に残る馬塚(同市郡山下井町にも馬塚跡あり)
      写真5:高槻市伊勢寺にある和田惟政供養塔