2013年8月12日月曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その4:三好右衛門大夫政勝(為三)について)

堺市の善長寺
この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。

色々と史料を見ていくと、三好為三の人物像について、非常に執念深く、欲深い人物だと、個人的には感じています。一方で、その事が為三にとって「諦めない」行動の源になっていたのかもしれません。
 また為三は、右衛門大夫政勝であり、その父は同苗越前守政長であり、そして同苗下野守とは別人であろうとも考えています。
 というのも、為三はその父と考えられる政長(宗三)の跡職を求め、旧領の回復にコダワリ続けている形跡が見られるからです。これは、政長の家督者としての行動であろうと思われます。
 そしてまた、元亀年間頃にはそれだけに止まらず、阿波三好家を裏切った上で、父と兄である下野守の跡職までも後継として認めるよう将軍義昭に求めています。

その一方で、三好下野守については、そのような行動は見られませんし、政勝(為三)と共通の、一貫したこだわりも見受けられません。両者は、血縁はあるものの、全く違う環境で生きていて、性格も異なる人物だったのだろうと個人的に考えています。

この三好政勝と為三が同一人物で、下野守とは同一では無く、両者の父が政長(宗三)である事について、何から説明すればいいのか迷う所ですが、政勝時代に発行した史料から先ずご紹介したいと思います。
 政勝については、伝聞史料も多いのですが、年記未詳や集覧できない環境もあって、政勝と為三の分別が進んでいなかったとも言えます。
 欠年12月6日付け、三好政勝が摂津国水無瀬家関係者らしき高階右京亮へ発行した音信です。
※島本町史(史料編)P363
 
-(史料1)-----------------------
御家門様(近衛)従り尊書下され候。拝見畏み存じ候。仍て摂津国西富松御知行分の儀仰せ蒙り候。聊かも疎意存ずべからずと雖も候。此の如く儀我等若年の事候間、是非に及ばず候。去り乍ら三木与左衛門尉に申し付け候条、定めて様体申し上げるべく候。此れ等の趣き御意を得候へば御披露預けるべく候。恐惶謹言。
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文中の三木与左衛門尉は、三好政長の馬廻衆で、政勝の代にも重臣として仕えている事が判ります。また、文中に「此の如く儀我等若年の事候間、是非に及ばず候。」と言っている事から、政勝が家督を継いで間も無い頃ではないかとも考えられます。天文14〜16年あたりの史料かもしれません。

それから、三好宗三の項目でもご紹介しました、宗三の摂津池田家への不当な介入について、再度ご紹介します。天文17年8月12日付けで、三好長慶がその主人である管領細川晴元に訴えた音信です。
※三好長慶(人物叢書)P98

-(史料2)-----------------------
急度申せしめ候。仍て同名越前守入道宗三(政長)礼■次、恣に御屋形様の御前を申し掠め諸人悩まし懸け、悪行尽期無きに依り、既に度々於、上様御気遣い成られ次第淵底御存知の条、申し分るに能わず候や。都鄙静謐に及ぶべく仕立て之無く、各於併て面目失い段候。今度池田内輪存分事、前筑後守(信正)覚悟、悪事段々、是非に及ばず候。然りと雖も一座御赦免成られ、程無く生涯為され儀、皆々迷惑せしめ候処、家督事相違無く仰せ付けられ太松(長正か。不明な池田一族。)、条々跡目の儀、安堵せしめ候き。然る所彼の様体者三好宗三相拘い渡し置かず、今度種々儀以って、城中(池田)へ執り入り、同名親類に対し一言の■及ばず、諸蔵の家財贓物相注以って、早や知行等迄進退候事驚き存じ候。此の如く時者、池田家儀我が物にせしむべく為、三好宗三掠め上げ申し儀、筑後守信正生害せしめ段、現行の儀候。歎き申すべく覚悟以って、三好宗三一味族追い退け、惣同名与力被官相談じ、城中堅固の旨申す事、将亦三好宗三父子に対し候て、子細無く共親(外舅)にて候上、相■彼れ是れ以って申し尽し難く候。然りと雖も万事堪忍せしめ、然るに自り彼の心中引き立て■■の儀、馳走せしむべく歟と、結局扶助致し随分其の意に成り来り■■今度河内国の儀も、最前彼の身を請け、粉骨致すべく旨深重に申し談、木本(木ノ本?)に三好右衛門大夫政勝在陣せしめ、彼の陣を引き破り、自ら放火致して罷り退き候事、外聞後難顧みず、拙身(三好長慶)を相果たすべく造意、侍上げ於者、言語道断の働き候。所詮三好宗三・政勝父子を御成敗成られ、皆出頭致し、世上静謐候様に、近江守護六角弾正少弼定頼為御意見預るべく旨、摂津・丹波国年寄衆(大身の国人衆)、一味の儀以って、相心得申すべくの由候。御分別成られ、然るべく様御取り合い、祝着為すべく候。恐々謹言。
※■=欠字部分。
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また、この件に関する史料2点もご紹介します。これらも三好宗三の項目で既にご紹介したものです。欠年11月27日付け、細川晴元方三好之虎、摂津池田家の執政機関である池田四人衆へ宛てた音信です。
※豊中市史(史料編2)P512、箕面市史(史料編6)P437

-(史料3)-----------------------
阿波国御屋形様科所摂津国垂水事、先年平井丹後守方と三好政長(宗三)以って調え、相渡され候へき。然るところ、近年また押領候て然るべからず候間、御代官職事、最前平井対馬守方従り仰せ付けられ候条、速やかに渡し置かれ候様、孫八郎殿(池田四人衆が推す当主)へ御異見肝要候。なお、加地又五郎申すべく候。
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同じく、もう一つ。欠年11月30日付け、細川晴元方某(姓名不明盛■)が、池田四人衆へ宛てた音信です。
※箕面市史(史料編6)P437

-(史料4)-----------------------
摂津国垂水儀、此 御屋形様料所筋目を以って、先年三好宗三と平井丹後守方以って調え、相渡され候事候。然るところ、重ねて御押領然るべからず候。御代官職事、先々自り平井対馬守方仰せ付けられ候条渡し置かれ候。なお、御異見候者喜悦為すべくの由、書状以って申され候。別して御気遣い仕るべく候 。
※■=欠字部分。
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そして、これらの失策が三好宗三(政長)・政勝父子の社会的地位を陥れる事になり、中央政治から追われます。その後は、その父子の主人である細川晴元に従って、近江・丹波国方面で長期間に渡って亡命生活を送ります。
 一方で、京都の中央政権では、三好長慶が細川氏綱を晴元に代わる管領として立て、活動していました。また長慶は、京都の安定を望む天皇とも良好な関係を築き、公的には牢人となってしまった晴元にとっては復帰のメドが立たない状況に陥りました。
 時間が経つにつれ、晴元に同情的であった将軍義輝も長慶と和睦して京都へ戻る動きを見せ始め、晴元との心情的な溝も広く、深くなっていきました。間もなく将軍義輝は入洛。次に将軍は三好長慶に晴元との和睦をススメ、両者はこれを受け入れます。将軍は晴元にこれ以上抵抗を続ける力は無いと見、また、京都の安定を考えたのでしょう。
 永禄4年5月4日、晴元は嫡子である六郎を次の管領へ就かせる事を条件に、晴元は摂津国島上郡の普門寺に入ります。しかしながら、これは事実上軟禁でもあり、外部との連絡は自由を制限されていたようです。そしてまた、長慶は約束を事実上守りませんでした。
 
この天文18年から永禄4年の間、三好政勝(為三)に関する直接的史料は今のところ見られません。しかし『言継卿記』などに伝聞的記述として見られます。

三好政勝についての伝聞史料を列挙します。天文19年4月4日、三好政勝の手の者が、京都大原の辻で強奪を行いました。
※言継卿記2-P322

-(史料5)-----------------------
大原の辻に小泉立て置き候関わりの者、細川晴元衆30人計り来たり、両人生害了ぬ。馬一疋之取り云々。香西・三好政勝人数山中(現大津市山中町)に居り候衆云々。
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それから、天文20年3月15日には、細川晴元方三好右衛門大夫政勝などが、京都に乱入します。
※言継卿記2-P427

-(史料6)-----------------------
今朝風聞、進士九郎、三好筑前守を三刀之築き云々。生死取り取り沙汰未定也。直に山崎へ各罷り越し云々。伊勢守以下奉公衆、奉公衆各罷り向い、三好使者於、伊勢守以下生害すべく云々。仍て山城国岩倉山本罷り出、東門前、東山辺悉く放火了ぬ。東洞院二條自り五条へ至り乱妨云々。聲聞師村悉く放火了ぬ。宇津自り、香西、柳本、宇津、三好右衛門大夫等人数出云々。伊勢守宿所雑舎放火せしめ了ぬ。近所の衆之消し云々。(後略)。
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更に、天文22年7月28日、晴元方三好政勝など丹波衆が、京都へ侵入して打ち廻ります。
※言継卿記3-P60

-(史料7)-----------------------
細川前右京大夫晴元入道の人数長坂自り出張、然るに奉公の上野民部大輔以下五六人迎えに出られ、細川内内藤彦七・香西・柳本・三好右衛門大夫以下20人計り武家へ参り、御覧なられ則ち御進発、北野右近馬場、晴元御免也。西院地下之焼き。但し小泉山城守某城堅固に之持ち。三好筑前守長慶御敵捕らえられ云々。終日見物了。大樹晩頭御帰陣。先刻御礼申し輩悉く御送りに参り、各今度北山に陣取り云々。晴元明日北山迄上洛云々。
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同29日、三好政勝など丹波衆が、将軍義輝と打ち合わせのために京都霊山城へ入ります。
※言継卿記3-P61

-(史料8)-----------------------
今日西院近所野伏之有り。殊無き事、内藤彦七、香西、三好右衛門大夫、十河左介、宇津二郎左衛門等5人、武家へ御談合為参られ、御懸け於御酒下され、大館左衛門佐、上野民部大輔、同与三郎、杉原兵庫頭等出られ、同朋共酌也。其の外諸奉公衆談合共之有り。予御見舞い参る為、朽木民部少輔以て申し候了ぬ。
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天文年間までは、伝聞資料であっても三好右衛門大夫政勝の記述が見られるのですが、弘治年間頃からは、両者が入れ替わるようにその兄の下野守の直接的史料が見られ始めます。
 長くなりますので、それについては三好下野守の項目をご参照下さい。

それから、下野守の動向を示す、少し興味深い資料があります。永禄元年の条にある『長享年後畿内兵乱記』の記述です。
※続群書類従

-(史料9)-----------------------
永禄元年2月27日改元。(中略)。6月4日、如意峰に至り、公方衆三好下総・香西越後・甲賀衆、近江国坂本自り出張。浄土寺へ陣取り。鹿谷放火。其の夜中、松永弾正忠久秀大将為摂津・丹波国衆出張。
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とあります。『長享年後畿内兵乱記』は軍記物というか、後世に編纂された資料ですので、取扱いに注意を要しますが、記述中にある「三好下総」は、三好下野守を指すものと思われます。三好下野守は公方衆、即ち、将軍義輝方として活動していたようです。
 これに対して、天文年間頃まで三好右衛門大夫政勝は、丹波国に拠点を置いて活動している事が判ります。また、その一団は丹波衆として認識され、天文22年の段階で将軍義輝の入る京都霊山城へ打ち合わせに入る動きをしています。
 
さて、その三好政勝は、天文22年から永禄元年の5年間に細川晴元の側を離れて、将軍義輝に取り立てられ、右衛門大夫の官位から下野守となったのでしょうか?
 官位としては、(右)衛門府の大夫ですから、五位あたりです。また、下野守は、従五位下です。地位としては上がりも下がりもしていないようです。また記述では、「大夫」と「大輔」とが見られるのですが、大夫は、『公式令』の規定では太政官においては三位以上、寮においては四位以上、中国(ちゅうこく)以下の国司においては、五位以上の官吏の称とされたようです。
 官職としての大夫は「だいぶ」と読み、単に五位を意味する場合には「たいふ」と読み分けたのだそうです。また、五位以下相当の官職の者が「五位」に叙せられた時、官職の下に大夫と付記する(例:六位相当の官職である左衛門尉が五位に昇った場合、左衛門大夫と称する)。
※参照:コトバンクなど

ですので、大夫と大輔が厳密に書き分けられていないように見えるのは、官位が形骸化されつつある状況の中で、音の響きを中心とした宛て字的な現実もあったのかもしれません。正式には、衛門府内に大輔はありません。ただ、総体的に「大輔」は、高い位ではあります。
 天文13年5月に政勝は、新三郎で、父の越前守政長(従五位)から家督を譲られ、右衛門尉(六位)を経て、右衛門大夫(五位)と地位を高めたのだろうと思います。
 
ちなみに天文22年から永禄元年の間、将軍義輝は朝廷から遠く、近江国朽木に居て、亡命生活を送っていますので、官位の朝廷への上奏も難しい状況だったのではないかと思われます。
 
しかし、右衛門大夫と下野守は、同じ人物でしょうか?私は違うと思います。

ちょっと時代が前後しますが、永禄12年5月3日の条の『二條宴乗記』に、三好下野守が死亡したとあります。
 そして、翌月の閏5月14日、この時は阿波三好衆として所属していたらしい、三好為三が『多聞院日記』の記述に現れます。喧嘩があったようです。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P130

-(史料10)-----------------------
淡路国於喧嘩有て、三好為三被官矢野伯耆守以下死に、三人衆果て云々。実否如何。
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この頃には、三好為三としての社会的認知はされていたようですし、奈良にまでその情報が入って、記録までされています。

長い間、阿波系三好家と対立していたため、血縁を頼りに家に復しても、為三は環境に馴染めなかったのでしょう。また、為三が阿波系三好家へ復するキッカケとしては、三好下野守の死亡する前後だったのかもしれません。
 兄の下野守が死亡した永禄12年5月以降と思われる、下野守を除いた三好三人衆の中に三好為三が加わったらしい史料があります。
 欠年8月2日付け、三好日向守入道宗功(長逸)・石成主税助長信・塩田若狭守長隆・奈良但馬守入道宗保・加地権介久勝・三好一任斎為三が、山城国大山崎惣中へ宛てて音信しています。
※島本町史(史料編) P435

-(史料11)-----------------------
当所制札の儀申され候。何れも停止の条、之進めず候。前々御制札旨、聊かも相違在るべからずの間、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
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上記史料に署名している三好三人衆の内、三好日向守が入道して宗功と名乗り、同石成主税助も長信と名乗っています。各々それを名乗るのは、両者の活動時期の最晩年に見られます。特に日向守の「宗功」との名乗りは、永禄12年初頭から見られるようです。
 また、史料の内容も、大山崎惣中への制札の発行についてでもある事から、地域、権力の有効的時期、顔ぶれ、名乗りの内容など様々な要素を考え併せると、元亀元年ではないかと個人的に考えています。

為三は下野守が死亡した後、実の弟でもある事から、為三がその兄の地位や役割を引継いだと考えられます。
 それから間もなくして為三は、結局、三好三人衆方を離れて、織田信長・将軍義昭方に寝返ります。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P636、言継卿記4-P441、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206など

-(史料12)-----------------------
『細川両家記』:
一、同八月三十日に三好下野守の舎弟為三入道は信長へ降参して摂津国野田より出、御所様へ出仕申され候なり。
『言継卿記』8月29日条:
明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
『多聞院日記』9月1日条:
(前略)。三好為三・香西以下帰参云々。実否如何。
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ちなみに、この時に野田・福島へ籠城した武将が、野田春日社の「藤」を詠んだ和歌を納めたと伝わっています。
※なにわのみやび野田の藤(藤三郎氏著)P170

-(史料13)-----------------------
 瑞垣(みづかき)に、かかるを幾代仰ぎ見む、神の名に、あふ花の藤が枝
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さて、為三はこの時に寝返りの条件を提示していたようで、元亀元年9月20日付けで、織田信長が為三へ、摂津国豊嶋郡の領知について音信しています。
※織田信長文書の研究-上-P392

-(史料14)-----------------------
摂津国豊嶋郡の事、扶助せしめ候。追って糺明遂げ、申し談ずべく候。疎意有るべからず候。
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これらの史料を見てもわかるように、三好下野守が死亡した後も三好為三は、確かに生きています。同一人物では無いという事が断定できると思います。
 ちなみにこの史料は、為三が三好三人衆の詳しい情報を持つ人物として、将軍義昭方に期待されていた事から、為三はそれを逆手に取り、味方になる条件として、非常に莫大で難しい要求をした痕跡と思われます。
 これは為三にとって、父の代からの悲願である摂津国池田家領の領有をこの時に要求しているものと考えられます。ドサクサに紛れて凄い事をやっているのです。

一方この時、池田勝正が幕府方として居り、三好三人衆方となっていた摂津池田家を討伐して、復帰を目指して活動中でした。
 そういう状況であり、幕府の為三に対する解答は、非常に時間がかかり、一年後に伝えた内容は、以下のようなものでした。元亀2年7月31日、将軍義昭は、為三に宛てて所領についての御内書を下します。
※大日本史料10-6P685

-(史料15)-----------------------
舎兄三好下野守跡職並びに自分(?)当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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また、この史料と連動した織田信長の見解です。同年6月16日、幕府衆であった明智光秀へ三好為三の処遇について音信しています。
※織田信長文書の研究-上-P392

-(史料16)-----------------------
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知の旨に任せ、榎並の事、為三申し付け候様にあり度く候。然者伊丹兵庫頭(忠親)近所に、為三へ遣し候領知在りの条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なきの様に、兵庫頭忠親へ了簡される事肝要候。
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伝榎並城跡
これは、池田勝正の本領である摂津国豊嶋郡についての三好為三の領知は認めず、為三の本領であった同国東成郡榎並庄の領知を許すという判断です。これは明らかに、勝正との兼ね合いを考えた幕府の判断です。
 また、為三の本知は榎並庄と伝えており、これはやはり、父である政長から家督を譲られた政勝の経緯を辿った判断と考えざるを得ません。

繰り返しになりますが、これらは、永禄12年5月に三好下野守が死亡してからの出来事です。

そして為三は、この幕府からの解答を受け入れませんでした。為三にしては受け入れ難いものがあったのでしょう。
 三好三人衆から寝返ってから1年以上経ってはいますが、柱になる収入、即ち、領知も無かったと思われ、活動に窮するようになっていたのだと思います。しかも、織田信長は、榎並庄内で手柄を立てたら領知を許すと、条件を付けています。
 
それも難しかった為三は、結局、三好三人衆方に復帰します。元亀3年4月、為三は摂津国中嶋城から出て、その近くの浦江城に入って幕府方を攻撃し始めたようです。
 その頃のモノと個人的に考えている史料がありますので、ご紹介したいと思います。形式的に疑問があるとされてはいますが、池田一族の系譜を引く個人宅に伝わっている文書です。欠年10月7日付け、三好為三が上御宿所へ宛てて音信しているものです。
※箕面市史(史料編6)P438

-(史料17)-----------------------
代官之事 一、刀根分、一、茨木分、以上。
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ちなみにこの史料は、現在東大史料編纂所の調査も入っているとの事で、そう遠くは無い内に色々と解明されるかもしれません。

そしてもう一つ。欠年10月13日付けで、為三が、聞咲(所属不明)という人物に音信した史料です。
※戦国遺文(三好氏編2)P272、大阪編年史1-P459

-(史料18)-----------------------
前置き:
尚々細々書状を以って申し入れるべく候ところに音無く、中々是非に及ばず候。そもしの事に有るべからず■■■候。尚追々申し承るべく候、以上。
本 文:
御状委細拝見せしめ候。その後切々申し承るべく候に、遠路候へば、とかく音無く本意に背き存じ候。一、摂津国大坂の事、京都へ相済まさず候。この一儀 種々才覚申し儀候。この間日々天満宮まで罷り出、大坂へ参会申し候。御屋形様へ重々懇ろ候の事、一、篠原長房・安宅神太郎渡海候。奈良右(不明な人物)河 内国若江に寄せられ候。安宅神太郎摂津国東成郡榎並に在陣候。昨日(10月12日)松永山城守久秀・十河・松山重治等と牧・交野辺罷り立ち候。少々川を越 し、摂津国高槻へ上がり候由候。同国茨木表相働き、同国池田へ打ち越し相働くべく候旨候。一、その表の事、「むさと」之在り由候。推量申し候。扨々(さて さて)笑止に候。細々仰せられ候、随分御才覚この時候。一、織田信長火急に上洛すべく候由候。左様候はば、何方も相済ませるべく候。御屋形様へは池田跡替え地為、河内半国・堂嶋・堺南北・丹波国一跡前へ遣わし候。■斎の事、今少し見合わせ申し候者、相済ませるべく候。堂嶋にて御存知の如く摂り、一円之無き事候間、御馳走申さず無念候。其の為然るべく使いに相調うべく候。一、摂州(意味は不明)尚承られるべく候。いささか等閑無く候。何れも追々申し談ずべく候。此の外急ぎ候間、申し候旨申し候。恐々謹言。
※■=欠字(判読不明も含む)部分。
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この後、為三に関する動きは史料上で捉える事が難しくなります。直接史料は今のところ見つけられていません。

天正3年4月、河内国南部で勢力を保った三好山城守康長を制圧するために、織田信長が軍勢を京都から南進させます。この時、それに関する城等を落として進みますが、『信長公記』河内国新堀城攻め干され並びに誉田城破却の事条に、4月17日の事として、記述が見られます。
※信長公記P167

-(史料19)-----------------------
4月17日、信長御馬寄せられ、新堀城取巻き攻めらる。4月19日、夜に入り、諸手もみ合い、火矢を射ち入れ、埋草を入れ、攻めさせられ、大手・搦手へ切って出る。然るに、香西越後守生捕りに罷りなり、縄懸かり、眼をすがめ、口をゆがめ、御前へ参り候。夜中には候へども、香西と御見知り候て、日頃届かざる働き仰せ聞かせられ、誅させられ候。討ち捕る首の注文、香西越後守・十河因幡守・十河越中守・十河左馬允・三木五郎大夫・藤岡五郎兵衛・東村大和守・同苗備後守。此の外、究竟の侍170余名討死。(後略)。
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堺市堺区にある善長寺
それから、『三好別記』には、三好因幡守として意三との記述があり、また、堺市堺区にある将軍山善長寺の縁起には、政勝を「因幡守」と伝えたりしています。この善長寺は三好宗三(政長)が創建に関わった寺で、その嫡子である政勝(為三)にも関係するようです。

それからまた、三好為三や下野守は、香西越後守と行動を共にしている事が多く、この点では何らかの手がかりがあるのかもしれません。加えて、『信長公記』という軍記物でもある事ですし、どこまで鑑定ができるか、難しい事も多いかもしれません。
 
為三の動きの後半は、もはや「道理」を失い、領知やカタチあるものへの拘りのために、所属をコロコロと変えます。時局を見る余裕も無く、家も保てなくなり、最後には「個人」の単位になっているように見えます。

非常に長くなりましたが、為三について、今考えている事をまとめてみました。今後も為三については注目していきたいと思います。解った事はこのブログでもご紹介致します。


善長寺墓地の奥にある天正元年の墓
追伸:堺市の善長寺には、三好宗三と政勝の墓もあると伝わっていますが、政勝の墓については所在が不明のようです。しかし、墓地の奥にある古い一石五輪塔があり、それには「天正元年」と彫ってあるのが確認できます。墓の素材は花崗岩ですので、剥落が進んで、文字が読めないのが残念です。

天正元年であれば、元亀3年以降、政勝(為三)の記録が見られなくなる事実とも一致します。もしかすると、これが政勝の墓塔なのでしょうか?




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