2016年3月12日土曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(池田衆の実力)

池田家は、摂津国内屈指の規模を持つ勢力で、それについては様々な史料でも確認できる。それは、交通の発達による流通も含め、その時代性に見合う地の利と中世的社会全体の発展があり、五畿内中の有力都市に成長した事と無縁ではない。
 都市・交通・物流・農産品の生産などが複合的に、より地の利の豊かな地域へ求心力をもたらした結果、発展した池田が歴史の表舞台で活躍した。

永禄12年正月、織田信長が美濃国岐阜に戻った隙を衝いて、三好三人衆勢が京都本圀寺に起居していた将軍義昭を襲撃する事件(本圀寺・桂川合戦)が起きた。これに池田勝正など、摂津三守護が急遽応戦し、事無きを得た。この時、特に功のあった勝正一族で同苗の紀伊守入道清貧斎正秀が信長から賞されている。

一方、後世の伝承で、この時に勝正が役目を省みず池田へ逃げ帰ったとするものがあるが、これらは全て事実無根である事が当時の史料から確認できる。残念ながら、その虚像が今も一般に広く定着している。
 更に付け加えると、勝正は第14代室町将軍義栄政権でも活躍した。勝正は、その政権樹立にも大きな役割りを果たしていたのだった。

池田家の歴史上、勝正の時代に大きな飛躍があり、直接的支配地や影響力を及ぼす領域が拡大した。様々な歴史的事実を見れば、それは疑いない事であるが、それについて当時のキリスト教宣教師の記録が、詳らかに報じてくれてもいる。
 それから、勝正が摂津守護となった事に伴い、その居所である池田城にも変化をもたらしたであろう事は想像に難く無い。労務のための人材、そしてその仕事場や居場所が必要となる。また、社会的な地位にともなう形式と格式をともなった建物や使用品も必要となる。幕府を支えるべく、摂津国守護所としての池田城は、必然的にそれまでとは違う変化を遂げた事と思われる。それはまた、広域的に見れば、京都を守る拠点(都市)としての役割もあったのだろうと考えられる。


<参考史料>
1539年(天文8)------------
閏6月13日 将軍義晴、摂津国人池田筑後守など有力国人へ御内書を送る
       ※摂津市史(資料編1)379頁など
1564年(永禄7)------------
10月頃   宣教師フロイスの編書『日本史』に摂津池田家が紹介される
       ※フロイス日本史3(中央公論社)P192頁など
1566年(永禄9)------------
5月30日  足利義栄擁立派三好義継被官池田勝正、堺へ出陣
       ※大阪狭山市史2(史料編:古代・中世)615頁など
1567年(永禄10)------------
5月17日  足利義栄擁立派三好三人衆方池田勝正勢、奈良油坂の西方寺に布陣
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)13頁など
1568年(永禄11)------------
1月17日  足利義栄擁立派三好三人衆方池田衆、奈良多聞城の付城へ入る
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)50、ビブリア62号60頁(二條宴乗記)など
7月15日  将軍義栄方池田清貧斎正秀、公卿近衛家を訪問
       ※言継卿記4・255頁など
1569年(永禄12)------------
1月5日   足利義栄擁立派三好三人衆勢、将軍義昭の宿所本圀寺を襲撃
       ※言継卿記4・299頁など
1月6日   摂津守護池田勝正など、将軍義昭救援のため山城国乙訓郡西岡方面へ到着
       ※言継卿記4・300頁など
1月8日   摂津守護池田勝正、西岡勝龍寺城へ帰城
       ※言継卿記4・301頁など
1月10日  織田信長、池田勝正一族清貧斎正秀を褒賞
       ※信長公記(新人物往来社)93頁など
1月12日  摂津国池田へ避難中の将軍義昭側近細川輝経、将軍義昭へ参候
       ※ビブリア62号63頁(二條宴乗記)など
1572年(元亀3)------------
11月19日 織田信長衆木下秀吉、将軍義昭側近曾我助乗へ池田衆が幕府方となった事について音信
       ※兵庫県史(史料編・中世9)432頁など
1573年(元亀4・天正元)------------
3月12日  将軍義昭方池田某(知正?)、義昭へ参侯
       ※耶蘇会士日本通信・下・248頁など





2016年3月11日金曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(はじめに)

筆者は池田郷土史学会の会員で、平成23年(2011)7月10日に「浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-」と題して、研究発表を行いました。この年、大河ドラマで「江〜姫たちの戦国〜」を放映中でしたので、それに沿った内容で、池田勝正の関わりを紹介しようとの考えで企画しました。

史実として、越前朝倉攻めには池田勝正が従軍しており、その軍勢の中核的勢力として活躍しました。中心部分は「越前朝倉攻め」ですが、そこに至る経過とその環境、また、その事が、池田家の内訌につながったという要素を一つの線上にまとめて説明しました。

以下は、その時のレジュメの内容です。その後に気付いた事なども若干補足したり、ウェブ用に横書き体裁に変換して、皆さんのご参考になればと思い、公開したいと思います。
 
【摂津守護職として、将軍義昭・織田信長政権を支える】
 ◎池田衆の実力
 ◎諸役負担、軍事負担、一部の権利返
【浅井・朝倉攻め】
 ◎軍事行動の目的と池田家の役割
 ◎金ヶ崎の退き口から第二次浅井・朝倉攻め(姉川合戦)に至るまで
【池田家内訌】
 ◎内訌の様子とその後の勝正の動き
 ◎三好三人衆方に復帰後の池田衆の動き
【補足】

2016年3月4日金曜日

1570年(元亀元)の「金ケ崎の退き口」の池田勝正の退路

このテーマについて、長い間考えているのですが、最近ちょっと福井県小浜市を訪ねる機会があって、いくつか購入した資料を見ていると、再度考えるヒントが色々ありましたので、この機に少し思索をしてみたいと思います。

今も勝正の退路を見極める事ができずにいるのですが、私の頭の中には以下のような要素がバラバラにあります。なかなか整理が進んでいません。


『朽木村史(通史編)』90頁にある図より
(い)池田勝正は摂津守護として従軍しているため、幕府軍としての立場であった。そのため、その軍勢の中枢部分におり、織田信長やそれに従軍した公卿の飛鳥井氏や日野氏の護衛任務も兼ねていた可能性もある。軍勢は幕府や錦の旗を立てて進んだと思われる。
 なお、将軍義昭側近であった明智光秀も将軍名代的なカタチで、幕府軍の中に居たと思われる。なお、軍勢の配分は不詳で、更なる研究が必要。

(ろ)京都を出た軍勢は、琵琶湖西岸を進み、近江国高島郡へ入って田中城を本営に宿泊。そこから、軍勢は二手に分かれて、一隊は七里半街道(敦賀へ)を、一隊は九里半街道を進み、信長自身が居る本体は九里半街道を進んでいるため、この本隊に勝正も居ただろうと考えられる。
 田中城から朽木・熊川を経由して国吉城へ向かう道程で進んだと思われる。もちろん、常に本隊の前には、必ず斥候が出ているし、政治的な対応を行うための前触れも出ている。

(は)越前国敦賀に入り、金ケ崎城・天筒山城を攻撃する時、信長は若狭・越前国境の城である国吉城に居り、ここに公卿衆などの本隊もあったらしい。信長はここに2日間留まっている。
 金ケ崎城・天筒山城を総攻撃する頃の4月25日に信長は、国境を越えて花城山城に進み、続いて妙顕寺へ陣を進めた可能性があり、その翌26日、金ケ崎城・天筒山城を落とした。この攻城に池田勝正も参加していたいと思われる。

(に)4月27日、幕府・織田勢は、金ケ崎城・天筒山城から2〜3里(約8〜12キロメートル)ほどの至近距離にある、木ノ芽峠の城を攻め、これに徳川家康が従軍していたらしいが、池田勝正は前線に出ず、金ケ崎城の本陣に居て、信長や公卿衆などを守る役目を持っていた可能性もある。しかし、2〜3里では、至近距離であるため、前線に出ていた可能性も無くは無い。このあたりの所は、もう少し調べる必要がある。

(ほ)信長が越前朝倉氏攻めを中止し、撤退を決めた4月28日、池田勝正は将軍側近明智光秀、織田信長側近の木下秀吉と共に、金ケ崎城・天筒山城を固めて、撤退戦に移ることとなり、この時点で、摂津池田衆は敦賀に居たことは確実である。
 それについて史料を改めて読んでみると、明智光秀と木下秀吉は、周辺の状況を把握するため、場所は不明ながら小浜や朽木、熊川などに残り、徳川家康や池田勝正などが京都に戻った可能性も高いように思われる。

(へ)織田信長との同盟を破棄した近江国人浅井長政は、近江国内一帯に警戒線を張ったことから、敦賀から近江国北部の街道は封鎖され、若狭国西部からの道で撤退せざるを得なくなる。時間が経つ程に状況が不利となるため、先ず、織田信長や公卿衆が先に京都へ戻ることになり、少人数で逆に目立たせないように工夫をして、急遽敦賀を出たらしい。
 越前・若狭国境の関峠を越えれば、堅牢な国吉城があって、追っ手が来てもそこが最初の防衛線となる。信長一行は少人数であるために、機動力はあるが、襲われればひとたまりも無いため、味方の領内を通り、道中の安全には確実な方法を選んでいる。
 若狭国熊川には奉公衆の沼田氏、同国大飯には同本郷氏、同国遠敷郡後瀬山には若狭守護武田氏、近江国高島郡には奉公衆朽木氏が居て、これらの領内を移動し、一旦は、朽木に入って、更にそこから近江国内をなるべく通らず、そこから京都への最短路である、針畑越から京都へ戻ったと思われる。

(と)遅れて京都を目指す、池田勝正など殿軍は、同じ道程を辿ったと思われる。若しくは、いくつかの道に分散させて戻ったかもしれない。
 軍記物にあるように、朝倉・浅井の追っ手や近江国人の一揆による襲撃は、無いとは思えないが、事実としては左程深刻なものでは無いと見られる。撤退路には、諸方に幕府加担者が居り、そこが拠点となって何段も食い止める方策になっている。また、朝倉勢が一乗谷を大挙出陣したのは、5月11日頃であり、「金ケ崎の退き口」の時点で大軍に包囲されるような状況になかった事は、当時の判断にもあった筈である。現実にあったのは「かもしれない」や「恐れがある」予測段階だっただろうと思われる。
 一方、池田勝正などの殿軍は、敦賀から京都へ戻るが、これも近江国内の通過は極力避けて、熊川から朽木領内を経由して、針畑越えを選んだと思われる。この針畑越えは、この時の徳川家康の通過を伝えている。また、針畑越の街道も朽木氏の勢力が及んでおり、要所に城がある。朽木氏領内で1日分の補給さえ考慮すれば、2日程で京都へたどり着ける。
 ただし、『鯖街道』(向陽書房刊)によると、平成10年頃だろうか、小浜市泉町から京都の出町柳まで、全長約80キロメートルの針畑越を走破する競技が行われ、100余名が全員完走して、一着のランナーはなんと、8時間3分でゴールしたとの事。時速10キロメートルの計算になる。馬などを乗り継げば、かなりの短時間で往来できる可能性は、この事実からも推測できる。
 針畑越の街道は、当時でも主要道であったらしく往来も盛んだったため、多分、江戸時代でいうところの伝馬制度になっていたと思われます。こういう軍事的な大動員があるなら、要所ではそのための追加策も講じられていたでしょう。
 
(ち)殿軍がいつ戻ったのかは、ハッキリした史料はなく、不詳であるが、5月1日頃には戻っていたのではないかと思われる。この日、念のために将軍居所である、二条城に兵糧を入れたりして、防戦の準備をしたとの記述が見られる。また、もしかすると明智光秀は朽木に留まって、情報収集などを行っていたかもしれない。また、織田信長は、各地の京都周辺の情報収集、分析、準備を終えて、5月9日に京都から岐阜へ向けて出発している。それまでには、越前国からの撤収や手配は、少なくとも終えているものと考えられる。

(り)何よりもこの越前朝倉攻めは、近江国人浅井長政が、当時の噂通りに幕府方の行動に背くかどうかの確認の意味も含められていたと考えられる。そのため、撤退する事も予め行動の要素の中に入っていたと思われる。ルートも予め決められていたというか、必然的そこしか選択肢がない状況にもなっただろう。
 急に決めた事をこれ程の数の軍勢を、こうも簡単に移動させる事は難しいだろう。織田信長の行動を見ると、用意は周到に行われており、「姉川の合戦」までの事は、一連の構想や計画に入っていた事と思われる。

何となく、書いている内にだんだんと輪郭が浮かんで、断定的になっているようなところはありますが、状況から考えて、あまり複雑な経路を取らずに、危険な道を選ばず、最短で京都へ戻ることを考えただろうと思います。
『朽木村史(通史編)』86頁にある図より
信長の朽木越えの動向について、朽木氏の家臣であった長谷川家に伝わる『長谷川家先祖書』*には、28日、信長公は保坂より朽木越えの街道に入り、慕谷(ししだに)を通行され、その時、朽木河内守元綱公が警固の兵を召し連れて道案内をされたので、信長公は無事に下市の圓満堂に着いて休憩され、元綱公より接待を受けられました。その際、隣家の長谷川惣兵衛茂元(茂政)が、お茶とお菓子を献上したところ、信長公は履いていた鹿革製のたちつけ(はかまの一種)と銀製の箸一対を下さいました。当家では今日まで、家宝として持っています。、との旨の記述があるようです。
 また、その下市から北に進んだところに、現在の県道23号線との分岐点があり、このあたりを三ツ石と呼んだそうですが、このあたりに「信長の隠れ岩」*と伝わるところがります。同時に、ここにも朽木氏関連の城がありました。
 この県道23号線の先には針畑越の街道と合流します。途中に長泉寺やこの辺りにも朽木氏の関連城郭があります。上記の図を参照下さい。
※朽木村史(通史編) -滋賀県高島市刊-より
 
こういった伝承や当時の史料などから総合的に考えてみると、信長は朽木から南へは進まず、針畑超えを選んで、京都へ入ったものと思われます。多分、勝正など殿軍も同じような道を選んだ事でしょう。
 それから、小浜と朽木は大変結びつきが強く、朽木氏と若狭武田氏も親交があったと思われます。若狭武田氏は、幕府とも強い結びつきがありますので、朽木氏とは代々結びつきは強かったはずです。ですので、こういった要素は、この信長の行動や勝正など殿軍の行動も必然性を与えていたはずだと思います。

後世の脚色が強い「金ヶ崎の退き口」のドラマチックな記述は、嘘だと思います。これは、以前も書きましたが、信長は非常に慎重な武将で、退路も考えて行動しています。朽木と高島郡を押さえる事は、若狭とも関連します。加えて、この撤退戦直後の史実として、5月17日に高島郡の有力豪族(高島七頭の一家)が、信長の配下となる旨を伝えて来ますし、同月6日に明智光秀・丹羽長秀を若狭国の武藤氏の元へ派遣したりしています。『信長公記』の記述では、この時も針畑越えを使ったとあります。

信長が撤退の最中にギリギリの賭けをする程ならば、このような事は出来ないし、起こりません。この見立て、いかがでしょうか?詳しくは、他の朝倉攻めに関する記事もご覧いただければと思います。


【オススメ】
滋賀県高島市から発行されている朽木村史(通史編・資料編)は、素晴らしいです。これで、5,000円(税別)とは大変お得です。朽木の全てが分かると言っても過言ではありません。こちらの方面の歴史を知りたい方は、是非お買い求め下さい。
◎高島市の公式ページ
 http://www.city.takashima.lg.jp/www/contents/1435818305138/index.html





2016年3月2日水曜日

河内飯盛城に三好長慶が入った理由を考える

近年、河内国飯盛城跡を国の史跡として指定を受けるべく、その機運が盛り上がる中で見られる、「飯盛城は日本の首都だった」との解釈なのですが、私のこれまでの理解ではそういう発想がなかったので、ある意味では衝撃的でした。

摂津国人池田勝正を見ていく上では、どうしてもその上位権力の動きを見る必要がありますので、当然ながら、三好政権についても詳しく見る必要があります。
 追いかけている年代は、勝正が生まれてから死亡するまでの期間として1530年(享禄3)〜1578年(天正7)の約50年間で、その前後2年づつくらいを加えて対象にして見ています。

それで、ちょっとこの記事を書く段階ではうろ覚えなのですが、享禄年間頃かそれより前、畠山氏の争いの中で、河内国の統治権利が南北に分割された政治決着があり、この前例を以て、その後の動きがあるように捉えていました。
 木沢長政の上位権力である畠山在氏が、その河内北半国守護格のようになり、その重臣であった木沢長政が飯盛山城に拠点を構え始め、長政はそういった権力の境目に、色々と城を築いていたと理解していました。信貴山城・二上山城などもそうですね。
 それを契機として、河内国が南北に分断したこと自体、競う本質が出来た事になるので、どちらも相手が弱体化すれば、統一しようとする動きがいわば摂理に変化したように思います。

私はこの前例が、織田信長の時代にも見られ、争いの種、政治の概念にもなっていたと見ています。

それと、河内と大和国境は、地域を越えて国人の結びつきが強く、いつ敵味方に分かれるか判らず、微妙な紛争地域でしたので、ここを監視する必要があります。飯盛城・信貴山城・二上山城あたりは、そういった目的の城と考えていました。

もちろん、河内飯盛城のポテンシャル(素質)は、戦争の時代には、どうしても取っておくべき要地ではあったのですが、それに加えて、河内・大和国境の人間の結びつきがあって、ここに三好長慶が入って、それらを監視していたと考えていました。
 永禄2〜3年にかけて、幕府方として河内畠山家内訌に介入し、終いには畠山家を機能停止させてしまう事になったのですが、三好長慶に対抗する周辺勢力が、畠山家の残党と結びつき、これに抵抗をしていました。また間もなく、畠山氏のこの動きに近江守護の六角氏も加担する動きを見せ、同じ、反三好連合ができあがり、大和国も不穏な状態が続いていました。
 ちなみに六角氏は、管領細川晴元と三好長慶の抗争で、晴元の隠居と引き替えにその嫡子六郎(昭元)の管領就任を条件に和睦しましたが、長慶はこれを実行せず、手元に置いて軟禁状態にした事から、両家は良い関係にありませんでした。畠山氏は、この六角氏と結びつき、その領内に一時期、匿われていたようです。

そういった事情から、戦争の新たな局面を迎えたため、永禄4年に長慶は、息子の義興に当主を譲り、いわば隠居して、後援の体制を作り、それまで居た芥川山城から飯盛城に移り、奈良の松永久秀と共に、河内・大和国の対策に乗り出します。また、政権内での現代の管区のような受け持ちも、そういう区分けされた概念で、河内を南北に分けて統治を行っていたと思います。
 ですので、体制としては当主が三好義興なのですから、ここが首都(首都という発想ならば...)だと思っていました。義興が京都へ出仕し、長慶がそれを助ける体制だと見ていました。長慶は、大和の制圧により、畠山氏残党の勢いを削ぐ次の目標を立てていたのではないかと思います。

先日の「落語と城トーク」のシンポジウムトークを聞いていると、「飯盛城の石垣は、東側に多く、見せる城としては、東に向いていた」との見解が示されていた事からも、多聞山城についてもそういった向きはありますので、それぞれの城は同じ目的があったと感じました。大和国を囲むように、一貫した同じ方策(政策)を行っていたと思います。
※もちろん、飯盛城の東側に多く見られる石垣は、全て長慶の生きていた時代なのか、その後なのか、どういう段階を経ていったのかを明らかにする必要はあるのですが...。

そんな中、長慶の跡取りである義興の急逝、続いて長慶の急逝。続いて、三好三人衆と松永久秀の内訌があって、大和国制圧の目的は達せられませんでしたが、その後の将軍義昭政権でも、結局は同じ考え方、政策、軍事行動を行っており、今、飯盛城の位置づけを強調して「日本の首都だった」としているところは、何となく違和感を持ちながらも、そういった側面での事だったと、個人的にはやはり思うのです。
 現に、将軍義昭政権下では、河内国を二つに分けて、北部を三好義継、南部を畠山昭高へ与えて、それぞれ両守護としています。これは、先例に習うと共に、概念が既に出来ているために、交渉の落としどころとしても使えたのだろうと思います。

更に更に、三好義継が討伐された天正元年(1573)、その権力の欠所に荒木村重が任命され、摂津国を中心としながら、京都周辺の織田政権浸透に尽力した、と個人的には考えています。
 脇田修氏の研究では、河内国南部には、土地や権利の差し出し的な把握が行われていますが、北部は荒木村重が討伐されるまで行われていないようで、これはやはり、そういった権力の境目があったことを示していると思います。
※これについて詳しくは「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について」をご覧下さい。


2016年2月28日日曜日

落語と城トーク(週風亭昇太×中井均×河内飯盛城)に参加して

摂津池田城跡に関する埋蔵文化財の破壊を、あるべきものをあるべくように向けるか。それについての思索の参考に、落語と城トーク(週風亭昇太×中井均×河内飯盛城)に参加してきました。

日時:平成28年(2016)2月28日13:30から16:00
会場:大東市民会館キラリエホール
主催:大東商工会議所 商業部会
共催:大東市・NPO法人摂河泉地域文化研究所・大東のざき観光ステーション
後援:大東市商業連合会

この催しは、大東商工会議所商業部会が飯盛城を国史跡指定推進事業を推進しており、それについて、大東市市制施行60周年プレイベントとして、飯盛城国史跡指定推進プロジェクトの位置付けて行われました。

催しの冒頭に、商工会議所の商工部会長の挨拶があり、この一連の取り組みの意図の説明があり、それによると、大東市は近年、人口の減少が見られ、それに伴う商工業の衰微もおきている為、この取り組みで、いわゆる活性化たる賑わいの核にしていきたい趣旨もあるとの事でした。もちろん、市政としての内憂外患の打破にも期待しているようです。
 細かく書くと、色々あるのですが、大東市を上げての取り組みでもあり、市長自らもそれに理解を傾けて取り組んでいるようでした。いずれにしても、地域を上げての取り組みにしていこうとの熱意は感じられました。

個人的には、大和川開削後の歴史上で非常に重要な位置付けでもあった、平野屋会所跡の保存活動に失敗し、文化不毛地帯だと思っていた大東市でしたが、市長の交代で流れが大きく変わったと感じるきっかけにもなりました。


大東市で開催の落語と城トークの会場の様子

河内飯盛城は、現在、国の史跡登録に向けて、積極的に活動しています。ここ数年で答えは出ると思いますし、多分、指定は受けることになると思います。飯盛城は随分前から、それに価する遺跡だとの評価はされており、また、このところの国の省庁移転の取り組みで、文化庁が京都へ移る可能性が高まっている事もあって、周辺環境の色々な高まりもそれには好都合となるでしょうね。

会場は満員で、定員600名を上回っていたと思います。平均年齢が高かったのが気になったところですが、文化財への理解を広げるイベントになった事は確かだと思います。
 中でも、飯盛城についての「城トーク」コーナーがあり、週風亭昇太さんのコメントがすばらしく、会場の空気を一変させたと感じました。城好きで知られた昇太さんの、ある日の出来事を上げられてのお話です。

落語会の前に地元の城を見たくて、早めに現地に入られてタクシーに乗って、そこへ向かおうとした時のやり取りで、

昇太:
「◯◯まで行ってください。ちょっとお城跡を見たいんです。」
運転手:
「あそこに行っても何も無いよ。」
昇太:
「ちょっと、行ってみたいんです。」(...そりゃあ、何も残っていないかもしれないけど、何もないという今も見たいし、普通の人には気づかれない痕跡を見たいんだけどな...。)
運転手:
「ほんとに何もないよ。本当にこの街には何もなくて、だから人も居なくなって寂れる一方なんだよ。」
昇太:
「ん〜、難しい問題ですよね。私ちょっと城が好きなので、すいませんけど、兎に角行ってください。」

みたいな事があったようなんです。しかし、これについて、昇太さんが考える、文化財や遺跡に対する想いをコメントされ、それについて、私も感動しました。

昇太:
「そのタクシーの運転手さんは、家族とか、自分の子供にもこの街には何もない。だから何もできない。っていってるのかもしれません。でも、大人が子供にそういう事を言い続けるから、その子供もそう思ってしまって、地域を知るきかっけとか、それにつながる希望とかもいっしょに無くしてしまうんです。
 だから、大人がそんな事を子供にいってはいけないんです。知らないのなら、何も言わない方がマシだと思います。そんな事よりも、自分が少しでもそういうことを知って、ここには何があった、昔、こんな偉い人がいて、みんなを助けたんだよっていう、そういう言い伝えとか、地域の事(歴史)を中心に親子がつながる方が、よっぽど日常が楽しいと思うんです。」

といった、趣旨のことを発言され、私は本当に感動しました。その通りです。
 残念ながら、昇太さんが体験されたような事が、どちらかといえば普通です。私も常にそれを体験していて、悲しいくらいに普通です。食って、寝て、遊ぶだけの都市、現代生活になりつつあるのは非常に残念です。

このコメントが会場におられる人々に響いたのか、大きく頷く方も居て、その後のコメントも心の耳でコメントを聞いている方が増えたような感じにもなったように思います。会場の雰囲気は一変したように見えました。

細かなところは色々あったのですが、全体の結果としては、企画意図は遂げられていたのではないかと思います。これを機に、文化財への理解が進めばいいなと、心から願っています。



2016年2月27日土曜日

中世の摂津国大坂周辺の地形について(東大阪に残る昔の川(新開池・深野池)の跡)

江戸時代の宝栄元年(1704)の大和川付け替えで、流路が変わり、現在のような風景になったのですが、今もそれ以前の川と池の境目が残っています。結構な段差があるところもあって、それらの痕跡をその当時の地図と見比べると面白いです。

先に紹介した、大東市立歴史民俗資料館が発行する常設展示案内パンフレットに紹介されている中世の流域復元図を元に、池・川の痕跡を写真でご紹介します。地図の中に、a〜eまでの地点を入れてあり、それに相対して以下に写真を示します。

大和川付け替え前の川の流路

 a地点(古箕輪八幡神社付近):
東大阪市古箕輪にある古箕輪八幡神社は少し高くなっていて、このあたりから北に落ち込んでいます。北への見通しが利くため、戦前は陸軍の用地だったようで、今もそれを記す石標が残っています。
 江戸時代から戦後、昭和30年くらいまで、このあたりに舟が着き、港のようになっていました。また、この近くにある藤五郎橋あたりは、水位を調整するパナマ運河のような閘門がありました。

東大阪市古箕輪の古箕輪八幡神社の段差

b地点(加納2丁目付近):
東大阪市加納2丁目の旧集落の鎮守宇波(うわ)神社西側の段差です。ここは現在、戸建住宅の建築中で、次第に見えなく、気づきにくくなるでしょう。左側は、宇波神社の地車保管庫です。
 このあたりが段丘の最北端にあたり、水深もあった事から船着場だったようです。宇波神社は、写真の段差よりも更に上で、この段丘の一番高い所にあります。万が一の水害の被害を受け無いよう、村の人々の想いが伝わります。

 
戸建住宅のための擁壁は1メートル以上ある


c地点(今米1丁目付近):
今米1丁目付近の旧吉田川の川筋跡です。今はもう川はありませんが、大きな川だったようです。このあたりも結構な段差が残っています。 すぐ南には川中村が隣接していて、ここは、大和川付け替えに尽力した中甚兵衛公のご子孫(甚兵衛公兄の系統)が今もお住いです。中甚兵衛公には、大正3年に従五位が贈られています。江戸時代で言えば、ちょっとした大名が受ける位階です。中世でも通用する、高い位です。

今米1丁目付近の入り組んだ段差

d地点(水走2丁目付近) :
東大阪市水走2丁目付近は旧集落で、大津神社があります。この神社は式内社で、平安時代にまとめられた神社の叢書に出てくる、古い神社です。
 神社には、大津神社由緒として「当社は延喜式神名帳に載せられている古社にして、御祭神は大歳神(おおちしのかみ)の御子大土神(おおすなのかみ:土之御祖神:すなのみおやのかみ)で、字宮森に鎮座するとあります。創建の年月は詳らかではないが、伝説によれば、天児屋根命(枚岡神社の御祭神)の乳母津速比賣(つはやひめ)ともいわれています。
 社名よりして古代当地は、湖沼時代に沿岸地域での港津として重要な交通上の拠点として発展してきた地と推察されます。平安時代から室町時代の中世にかけての集落が営まれた水走遺跡と合わせ、土豪水走氏が河内の一つの拠点として拓き発展してきたものと考えられる。」と石碑に刻まれ、紹介文があります。
 古水走村は、吉田川の東岸に位置し、すぐ南には奈良街道が通っていますので、交通の要衝でもあったでしょう。


東大阪市水走にある大津神社

e地点(吉田本町付近) :
東大阪市吉田本町付近は、今も地形が少し高くなっていて、その半島のようになった地形の上を古い道が通っています。d地点の大津神社から200メートル程南にある吉田本町郵便局のすぐ西側は、写真のような断崖です。2メートルくらいはあろうかと思います。湖だった頃、水深は結構深かったのだろうと思います。

東大阪吉田本町郵便局の西側あたり

f地点(稲葉1丁目付近):
玉串川が北上して分岐すると、東に注げば吉田川になります。玉串川は西側に注いで行きますが、その川筋跡が残っています。稲葉1丁目付近の段差がそれで、写真のように、結構高さがあります。写真の右手前にある道を行くとすぐに、稲葉神社があり、樹木の右手には近畿自動車教習所があるところの段差です。

近畿自動車教習所の南側境界のあたり


g地点(吉田1丁目の花園商店街付近):
東大阪市吉田1丁目の花園商店街の中を府道15号線が通っていますが、商店街なので、車の通行は難しい雰囲気なのですが、通れなくは無いです。しかし、商店街が賑わっていた頃は、朝晩以外は買い物客が行き交っていたでしょうし、日中は無理だったでしょうね。そういう所に府道が設定されているのは、昔からの大動脈だったからです。
 そんな道の脇が断崖です。ここも2メートルくらいはあります。玉串川から吉田川になる分岐点のあたりです。川に沿って道があり、駅ができたので、その道が商店街になったようです。
 このあたりの実際は、なだらかに高低差がついているのですが、写真の場所は生活の都合上、削ってしまって垂直な角が出ています。幸か不幸か、そのために、高さが見た目にも分かり易くなっていますね。


東大阪市の花園商店街に沿った断崖



他にも色々あるのですが、今回はこのくらいにしておきます。また追い追い、増やしていきたいと思いますので、どうぞご期待ください。
 当たり前のいつもの景色も、その理由を知れば、とても興味深く、見え方も全く変わります。今回ご紹介した池・川跡は、先人が豊かな地域づくりの為に開いた痕跡でもあり、確実に今に繋がっている事なのです。

日常の何気ない凸凹ですが、面白いでしょ?

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2016年2月13日土曜日

池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (その3:個人的な感想)

池田勝正という人物を調べてみて、「歴史」というものについて考える時、私は、決して社会の中の一分野であるべきでないと思うようになりました。
 先人の社会は不完全な部分があるように見えますが、そこには原則や真理、また、その営みの連続が現在にも繋がっているのですから、同じ失敗をする事の無いように、私たちの有効的な智恵として、歴史を捉えるべきだと感じます。

一般的には、歴史の全てを知る必要はありません。しかし、代表的な事は知っておいた方が良いと思います。また、大き過ぎるものよりも身近で手軽なものになるべく接するのが良いと思います。
 地域の文化財は、国宝や重要文化財(確かにすばらしい)よりも庶民的で、地域性があったり、創意工夫があるものも多いのです。そして、地域の文化財も国宝や重要文化財と同じように、何百年もの歴史を持ちながら、しかもお金をかけずに、すぐ近くで触れられます。

人間は生まれてから、現時点に至るまで、色々な経験を得ます。悪い事も良い事も、色々と経験し、事の善悪を判断するようになり、その中から、自分のあるべき方向を見い出します。同じ失敗をせぬよう、これまでの自分の経験を生かして、行動します。これは、その人の時間の重なりであり、歴史であるといえます。

さて、みなさん。もし、同じ失敗ばかりする人が居た時、その人を見てどう思うでしょうか?過ぎてから気付き、事前に問題をよく考えずに行動してばかりで、より良い結果が生まれるでしょうか?これまでの経験や人との繋がりの中でよく考え、一番良い方法を選ぶのが最善の筈ですよね。

日本の国や地域の社会とて、個人のこういった行動と同じです。

今は国家制度としての教育(学校)があり、自由に学べる社会ではありますが、結局、それがために分野化され、細分化された「歴史」というものが、社会の役に立たなくなりつつあるのではないかと感じています。
 私は、いわゆる「歴史」というものをそのように見たり、感じたりしています。地域(国にも)には、地域の歴史があり、それが地域の性格を形成しています。また、色々な状況(環境)に影響を受けて、絶妙な均衡を保ちながらカタチ作られています。
 
地域とその歴史を知る事は、よりよい未来の選択のため。また、その個性を知る事は、よりよい発展のため。それらを知るためには、科学に裏付けられた公平な歴史を残して(記録や調査)おかなければなりません。
 そういう環境を経ることで、その向こうに、心のよりどころとすべき、優しく豊かな社会が見えるのだと思います。





池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (その2:歴史研究が進む中で期待される地域史)

最近、中世時代の研究が進んで様々な分野の解明成果が発表されています。中世は社会が乱れ、移動も少なからずあり、また、戦乱で史料が亡くなっており、まとまった史料がありません。それ故に断片的で散在する史料の検証は進みませんでした。
 このために勝者側の比較的まとまった史料だけが研究対象となってしまい、実際にその権力を支えた地域の人々の実態は埋もれていました。
 しかし、その両方を比較検討する事で、その当時の実像が明らかになりつつあります。これは科学的歴史を継承する観点では、大変なレベルアップです。これまではやや推定を含む感情的・創作的な傾向が強かったため、誤解も多くありました。
 そういった研究が進むにつれて、地域史は大変重要度を増し、注目される環境にあります。地域史は、その地域にとってもより良い発展のための基礎データともなり、また、旧社会制度の解明にも役立ち、より広域の様々な分野に対する研究にも役立っています。それは、日本国内だけではなく、世界規模に及ぶ事もしばしばです。一地域の歴史ではあるのですが、それは「世界共通概念」が凝縮された歴史でもあるのです。

そんな中にあって、地域の歴史はやはり、地域の人々にしか見えて来ない性質がある事を知らなければなりません。その地域に住まなければ、やはりその地域の事はわかりません。逆にいえば、大きな世界の答えが、小さな地域の出来事と相対していることも多くあるのです。地域史は大きな可能性を秘めていると感じています。
 しかしながら、現代は移り変わりが、急すぎる程急です。山も川も丘も、あっという間に変形し、消滅します。こういう現代だからこそ、なお、地域史の発展の基礎は、その地域の人々の目と志しが重要となっているのです。なにしろ、地域の核となるべき人(住民)も、移動が当たり前の時代ですから。

かく言う、この私もそうなのですから。地域史という分野は、風前の灯なのかもしれません。





池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (その1:池田勝正の真実を知るための在野研究)

(1)池田勝正の真実を知を知るための在野研究
池田筑後守勝正の実像を知るには摂津国人である池田家そのものの歴史をひもとく事が必要です。研究者などによる学問の発展により、その当時の記録には摂津池田家の記述が頻出している事がわかってきました。しかし、摂津池田家についてのまとまった研究というのは、なぜか現在も皆無です。
 人物・特産・出来事・交通など様々な分野でも少なく無い資源を持つ池田ですが、その中興的な基盤を作った摂津池田家の研究が殆ど無いというのは、非常に残念な事です。
 
そんな理由から、実質的な最後の当主である池田勝正について調べ始めました。しかし、勝正について、現在伝わっているものは、事実無根のものが多く、勝正没後に作られた、ある意図を帯びた作為的なものばかりです。それらは、自家の正統性を主張するために生み出された創作です。

歴史というものは、勝者の歴史とも言われる事がありますが、現代科学の発展した今を生きる私たちは、「事実はどうであったのか」を検証し、これまでの伝承を補正・整理しながら未来へつなげる事もしておくべきだと考えます。この後も持続的にこの試みが成されれば、きっと大きな成果が上がる事でしょう。

この私の試みは、小さなものですが、未来への役に立つなら、それが目的の到達点であり、大変嬉しく思います。私が先人の研究から得たように、私も何らかの継承ができればと願っています。


池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (はじめに)

池田市は常々、「歴史のまち・文化のまち」と自分自身を形容する事が多いのですが、私個人はそれに対して少々懐疑的です。
※最近は、その環境を鑑みて、ついにそれを標榜しなくなりつつもあります。

昭和の末期、図書館で見る資料を見れば、その頃の池田市教育委員会は、大変意欲的に文化財の保存と活用に向き合っていました。それが今はどうか。何が違い、そうさせているのか。
 詳しくは、池田市埋蔵文化財発掘調査概報を図書館などで、ご覧いただけたらと思います。書いてある事と実際がどうなっているのかが判ります。

さて、今の池田市のルーツともなった中心部地域については、全国的にも注目される要素が沢山あります。その地域については、しっかりとした考えと計画をもって進めてもらいたいものです。

今は代替わりの時期です。また、時代そのものも変わりつつある、その真っ只中です。これまでとは違う日本になっていきますが、過去を知る必要が無いとは思えません。また、過去がどうであったか、その先に生きる科学的事実を市民(子孫)に伝えなくていいとも思いません。
 個人的に思うことですが、こういう地域の歴史に熱心に取り組む自治体というのは、現代生活にも、非常に活力があるように思います。その逆の地域は、色々な問題解決も膠着状態で、勢いが無く、寂れているところが多いように感じています。

どんどん街並みは変わり、技術も変わり、嗜好も変わります。いつまで経っても昭和のままのルールと手法。これで、変化のスピードに適うはず無いのです。

私は思います。「食って、寝て、遊ぶ」だけの文化って、先進国として自慢できますか?それはすばらしい事ですか?
※現実生活を否定している事ではないので、それはおわかりいただけると思います。

私が2005年頃に書いた、池田勝正を研究して学んだ文化財について、感じたことを以下にご紹介し、そういう世界(感じ方や考え方)も知っていただけたらと思います。

(1)池田勝正の真実を知るための在野研究
(2)歴史研究が進む中で期待される地域史
(3)個人的な感想