2014年1月22日水曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その2:越前国朝倉氏攻めについて)

越前国朝倉攻めは、将軍義昭・織田信長方にとって、当初から目的化されていた事です。有無を言わせず、潰す予定だった事が、当時の史料からも判ります。

一方、将軍義昭は、幼い頃に奈良興福寺一乗院に入り、僧として生活してきた人物であり、将軍としての帝王学を学んでいないばかりか、武家としての人脈もありませんでした。「将軍」といえば、武家の棟梁ですが、義昭については血のつながり以外に全うな要素はありませんでした。
 もちろん、第十三代室町将軍であった義輝は殺害されたために、禁裏の承認を経たとは言え、正式な家督の相続手続きも出来ていません。その後の第十四代将軍義栄との正邪たる競い合いは、感覚的な感情論で、本来の手続きが取られず、また、その環境も無いままに、将軍の座を取り合ったものでした。
 
ただ、この時代には、将軍とはいえ、制度もあまり機能しておらず、その権威もその職にある個人の能力次第で、厚くなったり、薄くなったりしていました。財政も同じくです。
 ですので、永禄11年秋に将軍義昭政権が始動した時には、その基礎作りからのスタートでした。摂津国池田家は何の縁も無い、そんな状況の政権に加担しましたので、東奔西走、苦心惨憺の棘の道へ踏み入れたに等しい選択となってしまいました。

さて、永禄11年以降の幕府・将軍義昭は、制圧すべき敵(地域)を早い段階から想定していたようです。まあ、将軍とはいえ、経済も含め、特に軍事では織田信長による考えで政策の立案がなされていたようです。
 朝倉攻めについても、早くから画策されていた事を示す史料がありますので、ご紹介します。長文なので、必要部分だけを抜粋して略します。
 幕府・織田信長方朝山日乗が、毛利元就・福原貞俊・児玉元就・井上春忠・小早川隆景・口羽通良・牛遠・山越・吉川元春・桂元重・井上就重・毛利輝元・熊谷高直・天野隆重へ宛てて、永禄12年8月19日付けで音信したものです。
※兵庫県史(史料編・中世3)P640

-史料(1)-----------------------------------------------
(前略)
一、信長者、三河・遠江・尾張・美濃・近江・北伊勢の衆100,000計りにて、国司(北畠具教)へ取り懸けられ候。10日の内に一国平均たる由候間、直ちに伊賀・大和国打ち通し、九月十日比、直ぐに在京為すべく候。左候て、五畿内・紀伊・播磨・丹波・淡路・丹後・但馬・若狭、右12カ国一統に相締め、阿波・讃岐国か又は越前国かへ、両方に一方申し付けられるべく体候。但し在京計りにて、当年は遊覧あるべくも存ぜず候。一、豊前・安芸国和睦有る事、信長といよいよ深重に仰せ談ぜられ、阿波・讃岐国根切り頼み思し召されと候て、相国寺の林光院・東福寺の見西堂上便に仰せ出され候。信長取り持ちにて候。我等御使い申し上げ候。なお、追々申し入れるべく候。また、切々御用仰せ上げられるべく候。御心に任せ馳走候。
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音信では、このように述べています。織田信長は早くから、京都を防衛し、且つ、政権の維持から発展をさせるために必要な策を立てていたようです。
 そしてそれらに優先順位を設けて、ひとつひとつ目標を達成しました。それが後世にも伝わる歴史として残っている訳です。永禄12年から元亀元年夏までの幕府軍(信長軍も含む)の動きは、以下のような計画があって、それに基づいていました。
※以下の要素は順不同です。
 
 (1)伊勢・志摩国制圧
 (2)伊賀国制圧
 (3)阿波国三好氏攻め
 (4)但馬・伯耆国山名氏攻め
 (5)播磨国攻め
 (6)河内・和泉国の制圧
 (7)近江国の制圧
 (8)越前国朝倉氏攻め
 (9)若狭国動乱正常化への介入
 (10)公家・権門への知行返還
 (11)特に首都経済に関わる要港・街道の掌握

ちなみに、上記の(1)(2)はさておき、永禄12年時点では、どうも阿波・讃岐国の三好氏攻めを優先して想定していたようです。敵対勢力の中で、特に大きな影響力を持ち、畿内地域での統治実績を持っていた事からも、早期に制圧する必要があると考えていたのでしょう。
 播磨国攻めは、そのための布石を兼ねていたと考えられます。もちろん、毛利氏への支援も兼ねていて、複合的な要素を意識した行動でした。

三好攻めの計画に関する史料をご覧下さい。永禄12年9月4日付けで、堺商人今井宗久が、淡路国人安宅信康衆同名石見守・菅平右衛門尉・庄久右衛門尉・梶原越前守景久宿所へ宛てて音信しています。今井宗久が阿波・讃岐方面へ攻めるための足がかりを作っていたようで、淡路国人安宅神太郎信康との調整を行っていました。
※堺市史(続編)P910

-史料(2)-----------------------------------------------
先便書状以て申し候。定めて参着為すべく候。差儀無くと雖も候。好便啓せしめ乍ら候。仍って御当家へ御忠節の段、今度美濃国於織田信長御感じ候。並びに御名誉是非無き題目候。殊更其の表の儀御調略比類無く、京都御沙汰迄候。随って当津南庄御存知、殊に珍重以て存じ候。我等儀も御存知如く、堺五ヶ庄御下知並びに御朱印を以て、拝領為され候。諸事猶以て御意覚悟を得るべく候。先度河尻与兵衛尉秀隆・坂井右近尉政尚懇ろに申し越され候間、先々宮半入(人物か?)へ当庄、将又吉日以て、相引き渡し申し候。政所の儀早々仰せ付けられ、支配等御収納之在るべく候。相応の儀於者、疎略存ぜずべからず通り、安宅神太朗信康殿へ御執り合い畏むべく候。恐々。
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しかし、永禄12年中頃に、信じがたい噂が出始めます。信長にとっては義理の弟である、浅井長政が幕府方勢力から離反するとの噂が出、大和国奈良にまで伝わっています。興福寺多聞院坊官の英俊の耳にまで達しており、その日記に記されています。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P135

-史料(3)-----------------------------------------------
6月23日条:
近日江北(近江国北部)裏帰り、物騒の由沙汰在り之由とりとり沙汰云。
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更に同日記では9月に入って、伊賀・甲賀衆が近江国於蜂起するとの噂が流れている旨書き留めています。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P146

-史料(4)-----------------------------------------------
9月7日条:
一、(前略)。昨日6日松永右衛門佐並びに竹内下総守同道、見舞い為伊勢国へ越すべくの由の処、合戦悪しくて、人数数多損じ、甲賀衆・伊賀惣国催して近江国一揆蜂起歟の由沙汰の間、10日迄延べ引き云々。
(後略)
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浅井氏の支配地域は、東海道・北国街道を含む近江国の北半分に及び、ここを脅かされると三河・尾張・美濃国と首都京都との交通が滞り、政権にとって様々な点で深刻な事態に陥ります。そのため、信長は浅井氏の離反が噂通りかどうか、急遽、確かめる必要に迫られて、その方策を考えます。
 これにより、公家や権門の領地も多い、近江国・若狭国への対応を行う事を決めたようです。上記の計画の内、(7)〜(11)までを一気に解決する策を考えたようです。その複数の要素が、越前朝倉氏攻めに集約されているという訳です。
 
信長は、朝倉攻めを決し、慎重に策を講じます。浅井氏が離反するという噂が立つくらいですから、誰が敵で、味方かを戦いの前に見極めておく事が必要になる訳です。そのために、以下のような指示を出します。従うかどうかという動きの監察と、戦争のための口実作りです。注目すべきは、諸大名の召集に越前国守護で、しかも義昭の将軍職継承支持者であったはずの朝倉義景の名はありません。
 以下は触れ状の案文と宛先です。1月20日付けで、信長が発行しています。
※織田信長文書の研究-上-P346、ビブリア(二條宴乗記)53-P134

-史料(5)-----------------------------------------------
信長上洛に就き京衆中立ち有るべく事
北畠大納言(具教)殿並びに北伊勢諸侍中・徳川三河守(家康)殿並びに三河・遠江諸侍衆・姉小路中納言(嗣頼)殿並びに飛騨国衆・山名殿父子並びに分国衆・畠山(昭高)殿並びに■在■国衆・遊佐河内守(信教)・三好左京大夫(義継)殿・松永山城守(久秀)並びに大和諸侍衆・同右衛門佐(久通)・松浦総五郎・同和泉国衆・別所小三郎(長治)・同播磨国衆・同孫左衛門尉並びに同名衆・丹波国衆・一色左京大夫(義有・満信)殿・同丹後国衆・武田孫犬丸元明・同若狭国衆・京極(高吉)殿並びに浅井備前長政・同尼子・同佐々木(高島郡七党)・同木村源五父子・同江州南諸侍衆・紀伊国衆・越中神保名代・能州名代・甲州名代・濃州名代・因州武田名代・備前衆名代・池田(勝正)・伊丹(忠親)・塩川・有右馬(有馬則頼?)。
同触状案文
禁中御修理武家御用其の外天下弥■■為、来る中旬参洛すべく候条、各御上洛、御礼申し上げられ、馳走肝要、御延べ引き有るべからず候。恐々謹言。
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そして同時に諸大名の動きを見るのと並行して、信長は禁裏も動かします。押領されている知行の返還を目的化するなどして、反幕府・禁裏への勢力を討伐する名目を、公的な行動の目的として打ち出します。また、幕府の権威を喧伝するために、改元申請を行って、朝倉氏攻めの途中で「元亀」の改元を実現しました。
 
それからまた、義昭の朝倉義景に対する私怨もあったように思われます。というのは、永禄8年に将軍義輝の暗殺以降に義昭が、奈良の一乗院を脱出した後の事です。
 事件直後は将軍義輝への同情から、義昭への関心を諸大名は示しますが、実際に義昭が援助を依頼すると、どの大名も積極的な行動は取りませんでした。ご存じのように、最終的には織田信長がその依頼を引き受けて、義昭の悲願は達成されますが、その間に朝倉氏に関わる時間が非常に長かった訳です。
 時間がかかったのは、朝倉氏が義昭の実力を疑い、試そうとしたためです。義昭が朝倉氏を頼って領内に入ると、敦賀で足止めをし、一乗谷へ進んで来ると、城外の寺に留め置き、そこで義昭に一働きさせる要求をしています。
 朝倉氏がその時に手を焼いていた加賀・越前国との和睦調停です。義昭は入洛の支えになってもらおうと、懸命に努力した結果、それを見事に実現しますが、それでも朝倉氏は義昭の希望を聞き入れませんでした。
 義昭が、朝倉氏の元を去ったのは、怒って国を出たのだと思います。義景は義昭が国を出ると伝えた時には慰留しています。義景は結局、義昭を利用するだけに使ったのです。
 幕府の有無を言わせない朝倉氏攻めは、そういった態度が、感情的な要素も育てたのだろうと思います。朝倉氏にはその時の態度が、災いの元となりました。
 
永禄13年4月20日、朝倉討伐軍として30,000の軍勢が京都を発ちましたが、これには公家飛鳥井氏・日野氏などの姿もありました。幕府軍と同時に「官軍」でもあった訳です。しかも飛鳥井氏は、若狭国武田氏とは伝統的に親密な間柄で有り、人選も考え抜かれていました。
 また、日野氏は、本願寺宗主の家系と同門の家柄であり、近江国から北陸にかけて広く根付いた本願寺宗に対する役目を持っていたのではないかとも考えられます。

このように信長は、慎重には慎重を期し、また、二重三重に策を講じ、そして大軍を動員して朝倉氏攻めを行ったのです。ですので、定説となっている、「浅井長政の裏切りが発覚し、信長は数騎のみで朽木谷を経て、命からがら京都へ逃げ帰った」エピソードは事実では無く、噂通りに浅井氏の動向が確認できた時点で、安全に京都へ戻る事など、いくつもの手を打ってあったというのが実際のところです。
 ちなみに、朽木氏は幕府方の奉行人で、近江国北西部では有力な勢力の一つでした。その北側、若狭街道で通じた若狭国熊川は、幕府奉行人沼田氏の根拠地です。退却は、それらの地域を通って京都へ戻っていますので、追う朝倉氏側も簡単に手出しはできない状況もあった事でしょう。

さて、「金ケ崎の退き口」に象徴されるように、朝倉・浅井氏は幕府・官軍に弓を引いたことになりますので、信長は公戦として堂々とあらゆる手を使えるようになった訳です。その点では逆に、信長にとって好都合ともなったのです。
 実際のところ信長は、浅井氏の離反も想定しており、京都・美濃などに予備の兵も置き、次の手が繰り出せるように準備もしていました。
 
ただ、一方で、信長にとっては自分の義理の弟までもが離反したとなると、他にも離反者を出す可能性があるという緊張感は高まりました。信長は、次に必要な策を立てつつ、朝倉・浅井方に決戦を挑むべく、そちらの準備も急遽進めました。これがいわゆる「姉川の合戦」です。
 信長は、浅井氏離反が発覚すると、公家衆を守りながら4月末に京都へ戻り、そこで情報収集を行うと同時に、第二次攻撃のための指示を出していました。間もなく一定のメドが立った事から、信長は5月9日に京都を発って、岐阜へ向かいます。
 
最後に、摂津池田衆について少し触れておきたいと思います。池田衆は、永禄11年秋以降、特に但馬・伯耆国山名氏攻め、播磨国龍野赤松氏支援(毛利氏の要請も兼ねる)、越前国朝倉氏攻めの戦に、幕府勢力として多数の兵を出しています。その他にも、小さな要望にもその都度応えています。また、公家・権門・幕府などへの知行返還も余儀なくされています。
 朝倉氏攻めでは3,000もの兵を出し、これは幕府軍の中核的な勢力を成す規模です。また、「金ケ崎の退き口」では、明智光秀と共に幕府方の殿軍も努めました。史料は、元亀元年5月4日付けで、幕府奉行衆一色式部少輔藤長が、丹波国人波多野右衛門大夫信秀床下へ宛てて音信したものです。
※大日本史料10-4P358+401

-史料(6)-----------------------------------------------
是自り申し入れるべく候処、御懇ろ礼畏み存じ候。仍て去る25日(4月25日)、越前国金ヶ崎於一番一戦に及ばれ、御家中の衆何れも御高名、殊に疵蒙られ、御自分手を砕かれ候段、その隠れ無きに候。御名誉の至り、珍重候。織田信長感じられ旨、我等大慶於候。公儀是又御感じの由、京都自り申し越し候。次に当国船出の儀、申し付けるべく由、去る19日(4月19日)申し出され候条、俄に19日罷り出、24日下着せしめ、則ち相催し、29日、いよいよ出船候筈に候の処、前日信長打ち入られ候由、丹羽五郎左衛門尉長秀へ若狭国於談合候処、金ヶ崎に木下藤吉郎秀吉・明智十兵衛尉光秀・池田筑後守勝正その他残し置かれ、近江国北郡の儀相下され、重ねて越前国乱入あるべく由候。然者この方の儀、帰陣然るべくの由候間、是非無くその分に候。丹羽長秀者若狭国の儀示し合わせ候条、逗留候。一両日中我等も上洛候儀、旁御見舞い心中申すべく候へ共、御疵別儀無きの旨候間、延べ引きせしめ候。何れも使者以って申せしむべく候。定めて近江国北郡異見及び候。諸牢人等も相催すべく候間、何篇於も申し談ずべく候。急ぎ詳らかに能わず。恐々謹言。
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あまり語られる事はありませんが、事実は多数の史料が証明してくれています。

次回は、この過酷な池田衆の環境に追い打ちをかける、人質を差し出す命令が信長から下った事について考えてみたいと思います。






2014年1月10日金曜日

座間市栗原神社火災は、在日米陸軍軍属の三男(15才)による放火

2013年3月7日未明に起きた、神奈川県座間市栗原中央の住宅6棟が全焼し、栗原神社の神楽殿や社務所も全焼しました。

その後、これに放火したとして、キャンプ座間(座間、相模原市)内のアメリカンスクールに通っていた、在日米陸軍軍属の三男の少年(15才)が、非現住建造物等放火容疑で逮捕されています。少年は住宅への放火を認めました。そしてまた、住宅から600メートル程程離れた栗原神社の放火もこの少年が関与したようです。

この火災で、農家や住宅も焼け、路頭に迷う人々を多く出した他、 400年以上続く神社の由来などが記された書類も消失しています。

ニュースソース神奈川発コミュニティーサイト「カナロコ」
※同記事の「関連記事」集に追跡記事がまとめられていますのでご参照下さい。

加えて、この事件は、沖縄でも問題化した「日米地位協定」が、日本の立場を如実に現す出来事になっています。詳しくは、ニュースソースをご覧下さい。


大変深く考えさせられる出来事です。地域の文化在はこんな遺失が日々、頻発しています。皆さん、感心を持って地域の文化財をご覧下さい。



2014年1月6日月曜日

軍師官兵衛、見ませんでした。

今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」が始まりました。ね。私は今年も見ません(でした)。大河ドラマって、何のために作っているのかもう解りません。内容を見ても、1年もかけてやる必要があると思えません。

番組宣伝企画を放送開始前に色々やっていて、見ていたのですが、 その合間に流れる映像を見ました。戦国時代なら、現役の武士で頭を剃っていない者は居ません。剃っていなければ、武士ではありません。特に被官人なら尚更です。渡辺謙の時代とは違うのです。同じ手法が通じるとも思えません。
※正月に仲代達矢とか三船とか、昔の時代劇を見ていただけに、余計にそう感じてしまうのでしょうけど。

私は今年も淡々と歴史を見つめたいと思います。そういう方針で、今年も皆様にご紹介したいと思います。直ぐそこにある歴史。私たちが住む、同じ場所であった歴史を知り、ご紹介できればと思います。

今年も皆様のお役に立つブログでありたいと願っています。m(_ _ )m

追伸:この出来事はある意味、反面教師ですね。このブログも皆さんの思いを大事にする必要があるのかもしれませんね。最近のテレビ番組制作者のように、私も完全に思い込みでやってますから...。


2013年12月14日土曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その6:補遺2 (最近の研究結果から白井河原合戦に関する情報を拾い上げてみる))

先日、高槻市立しろあと歴史館にて開催された企画展「高山右近の生涯 -発掘 戦国武将伝-」が開催され、その企画展用に発行された図録は大変価値のある一冊になっています。最新研究では様々な可能性が示唆され、高山右近の研究も更に進展した印象を受けます。

この企画展は、高山右近の生涯が対象になっていますので、期間が長く、地域も広いのですが、その中で特に、白井河原合戦の頃の素材に注目してみたいと思います。
 高槻市立しろあと歴史館の学芸員中西裕樹氏が、「高槻城主 高山右近の家臣と地域支配 -織田政権下の茨木城主中川清秀との比較から-」(以下「図録」と表記)で、研究成果を詳しく発表されています。他にも「しろあとだより」(以下「たより」と表記)など色々と小考を発表されており、それらを含めて、気になった要素を以下に抜き出してみます。

「里城」が「佐保城」との説を打ち出す (出典:たより第7号)
「(前略)「里」地名は未確認だが、北西約3キロメートルの山間部に位置する佐保村には複数の城郭遺構が存在し、「サホ」に「里」の字を当てたとも推測される。(後略)」との見解が示されています。
 この事は、これまでご紹介した白井河原合戦の分析にも合致するところがあります。池田衆は、決戦を意図し多数の兵を動員、また、隠密行動を取っていた事が判明している中で、それを更に裏付ける推定でもあるように思います。
 「里」の記述が「佐保」の誤記であれば、佐保は宿久庄の裏側でもあり、また更に、池田方面からの街道伝いに進めます。そしてまた、同地域に城跡が多くあるということは、要地であった証拠でもあるのでしょう。
 この時、池田衆にとっても重要な地域と捉えられ、制圧目標となっていたと考えられます。ここを手に入れる事ができれば、宿久庄の裏を確保し、街道を押さえ、連絡と補給を安全に行えると同時に、敵の同じ動きを封じる事ができます。敵の情報経路を絶つことは、隠密行動にも必要な要素かもしれません。
 また、池田方は、佐保から福井方面を経て向かう一隊と、宿久庄からの一隊が、2つの方向から白井河原の決戦場に向かう作戦を立てたのかもしれません。
 ちなみに、「余野氏」は、池田の一族衆でもあり、その拠点である余野から山道を伝って南下すれば2里(8キロメートル)程で到着します。また、止々呂美方面からもほぼ同じ距離です。

郡氏の由緒書(他に甲冑なども)の白井河原合戦部分を公表 (出典:図録)
系図の関連では取り上げられていたのかもしれませんが、まとまって紹介され、分析されたのは、今回の「高山右近の生涯」が初めてではないでしょうか。大変興味深い記述があります。
 一連の資料の中に郡宗保公の肖像画があり、この宗保は、伊丹親保の子が郡兵太夫正信の養子に入り、白井河原合戦で郡兵太夫の戦死後、宗保が郡氏の跡を継いで、荒木村重に仕えたと伝わっています。
 確かに元亀2年から天正元年の春頃にかけて、和田惟長と伊丹氏は同じ幕府方として親密な行動を取っています。ですので、この言い伝え部分に矛盾はありません。
 但し、白井河原合戦に勝った池田衆は、千里丘陵の東側にも勢力を伸ばしたと考えられ、茨木城までも手に入れていたのでしょう。そうすると、郡氏の本拠地は、当然池田方に接収される事となりますので、高槻・伊丹などで再興を図ったり、また、別の郡一族が池田衆方となって、郡村などの本貫地を守ったのでしょう。そのあたりの所は不明です。

由緒書には、白井河原合戦の時の郡兵太夫の行動が記され、フロイス日本史の記述を補う状況を見ることができます。これらは追々紹介していきたいと思います。

郡村周辺にある、2つの「馬塚」について (出典:図録)
旧郡村付近に「馬塚」と呼ばれる場所が2カ所あります。その内の一つに池田衆が陣を取り、白井河原合戦に臨んだとする逸話もあります。
 1つは、現在の国道171号線の下井町交差点から郡村方面に入る道に「馬塚」とされるところがあり、コンモリとした古墳のようになっています。少し小高い所にあり、陣跡とされるのですが、それにも適した場所です。
 もう一つは、その「馬塚」の前の道を更に郡村方面に進みます。郡小学校の東側にもう一つの「馬塚」があります。こちらは、人工的な小さな山で、木が一本生えています。墓石もその上にいくつかあります。こちらはこの地域が開発されるまでは、田んぼの中にあり、前者の「馬塚」とは趣が少し違います。

事情としては、命からがら逃げてきた郡兵大夫一行が、村の内に入った所で力尽きたのでは無いかとも思える、「下井町交差点」に近い馬塚がそれのような気がします。
 この馬塚は、郡氏の子孫の方々が今も決まった日に供養を行っているそうで、双方の馬塚で行われているそうです。
 また、この馬塚付近は、兵糧を炊き出す場所でもあったと伝わっています。白井河原の時だけの事なのか、定位置の作業場だったのかわは判りませんが、城に付随するのか、公的な場所でもあったようです。

「どちらが本当の馬塚か」という、二者択一的な事では無く、どちらも人や馬などの遺体を葬った場所なのかもしれません。由緒書が描く状況から見ると、郡兵太夫が自分の村に戻る行動をしているため、この辺りは、白井河原合戦の当日はまだ、池田衆の勢力が及んでいなかったと考えた方が自然だと思います。そしてまた、郡村には城もあったようです。

ですので、伝承として伝わっている、池田衆が馬塚に陣を取り、和田方が糠塚に陣を取った事で、「馬は糠を食うから我らの勝利だ」と縁起を担いだ逸話は、事実とは違うような感じが強くなってしまうように思います。
 池田衆は、郡村の北を流れる勝尾寺川を越えておらず、制圧地域は宿久庄城を制圧し、福井村あたりの平地が最前線になった可能性が高くなります。

高山右近と中川清秀が対立していたとの説を打ち出す (出典:図録)
 中々複雑な経緯がありますので、詳しくは『高山右近の生涯』をご覧いただければと思います。同書の研究発表では、(前略) 高山氏と中川氏との間には上郡西部の山間〜千里丘陵〜淀川沿岸地域にかけての緊張が継続し、右近の地域支配にも影響が及んだと考えられる。(後略) 、としています。
 中々興味深い論考だと思います。それが賤ヶ岳の合戦の行動に繋がるのかもしれませんね。この観点でも自分自身の研究ノートをじっくり見てみたいと思います。

松永久秀の出身地の一つとして、五百住説が浮上 (出典:たより第5号)
学芸員の中西裕樹氏が、松永久秀の出自について小考をまとめられています。久秀の出自は不明な事が今も多いのですが、高槻市の東五百住にその言い伝えがある事を資料と共に紹介されています。こちらも興味深い視点です。

白井河原合戦の時にも、松永久秀が高槻方面へ頻繁に出陣していますし、気になる動きをしています。三好義継も関係して動いています。また、戦後の高槻城を巡る交渉では、高槻城に義継が入るといった条件も出されていた程です。
 一連の資料には、ちょっと不自然に思えるような動きもあったので、この五百住に久秀が縁を持つとの説は、大変注目しています。

合戦以前に、中川清秀が新庄城に入っていたとの説を採用 (出典:たより第7号)
元亀2年5月に、池田方で三好三人衆に加担していた吹田城が和田惟政によって落とされた頃、中川清秀は神崎川対岸の新庄城に入っていたとする説を採用して取り上げています。この出典は、日本城郭体系・中川氏御年譜のようですが、これはどうも今のところ信じがたい説です。
 私の研究ノートではこの頃、池田衆は分が悪く、防戦姿勢で、池田から勢力を伸張させる余裕は無かったように思います。ですので、池田衆が元亀元年から翌年夏にかけて、新庄方面へ勢力を伸張・維持できるような動きを示す資料も見たことはありません。 またもし、元亀2年時点で、新庄城を確保していたのなら、吹田が攻撃されている時点やその後に反撃するなり、和田方の交戦地域が吹田から南へ広がっていくなり、何かとその痕跡は見られるはずですが、それはありません。

中川清秀が、池田から出て利益の一端を守っていたとするなら、それなりの立場を得ていたでしょうし、と言うことは、それなりの署名資料があっても良いと思いますが見られません。
 年記未詳で、池田二十一人衆の署名とされる史料『中之坊文書』には、中川清秀が署名していますが、今のところ天正以前ではその一通のみ見られます。

池田衆は、白井河原合戦後に支配地域が過去最大となりますが、それ以前は神崎川など、川を越えない範囲での豊嶋郡を中心とする支配地域(川辺郡・豊能郡など越境していく部分もあった)だったと思われます。






2013年12月13日金曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その5:補遺1 (和田惟政が鉄砲隊に銃撃されたのは、宿久庄村付近か))

白井河原合戦で和田惟政が池田衆の鉄砲隊に銃撃されたのは、宿久庄村付近かもしれません。

先日、高槻市しろあと歴史館で開催された「高山右近の生涯 -発掘 戦国武将伝-」を見てきました。最近は、毎年のように高山右近を取り上げた企画展を開催してもらえるので、その度に足を運んでいます。

それまでは、正直、真新しさはあまり無かったのですが、今回は素晴らしかったです。様々な可能性、角度から検討が加えられ、資料の少ない高山右近を何とか具現化しようという姿勢が伝わる企画展示になっていたと思います。ですので、図録も素晴らしいです。

その中で、白井河原合戦の折、和田惟政の重臣として参加した郡兵太夫正信についての資料群(肖像画・甲冑・陣羽織など)も公開されていました。また、同氏の家系に伝わる由緒書きも公開され、それには白井河原合戦の様子が詳しく書かれています。

図録にも収められていますが、由緒書の釈文の気になる部分を見てみますと、

-史料(1)------------------------------------------------------------
(前略)
和田伊賀守も郡山より三町(約330メートル)計り北東の方に当たり、箕原村と中河原村と之間、糠塚と云う所迄、出張致され候。此の所前者、川原の北は山にして戦の後者、郡山北白井堤という五町(約550メートル)計り堤此有り。是者、中河原と宿河原と之間、北山の南平場也。郡兵太夫、先手進み勇み戦さ致され候得共、和田伊賀守、中川瀬兵衛尉と戦い討ち死に致され候故、郡兵太夫も陣場より二町(約220メートル)程こなた、郡村の内に於いて討ち死に致され候。其の時の馬者、黒馬の名馬たる由にて、彼の馬に向かい乍ら玄星も能く働き候事と申され候。馬もうな垂れ、終いに落ち申し候に付き、所々者、此の所に埋め、印に松を植え置き申し候。其の時、討ち死に申し武士の死骸共集め、埋め候所、臼の様に二つかつぎ、是を哉、茶臼塚と申し候。兵糧を炊き候所、竈成りに残り候をへつい塚と申し候。
(後略)
-------------------------------------------------------------
とあります。

少し細かく見てみましょう。

和田伊賀守も郡山より三町計り北東の方に当たり、箕原村と中河原村と之間、糠塚と云う所迄、出張致され候。
 若干距離感は違いますが、「糠塚と云う所」とは、幣久良山に陣を置いた事を指していると思われます。郡兵太夫は、郡村から出て幣久良山の陣へ入っていたと伝えています。

此の所前者、川原の北は山にして戦の後者、郡山北白井堤という五町計り堤此有り。
これも幣久良山の要害性を示すものです。和田惟政は、そういう場所を選んで陣を置いていた事が判ります。

中河原と宿河原と之間、北山の南平場也。郡兵太夫、先手進み勇み戦さ致され候得共
記述によると、和田惟政は郡兵太夫などを率いて幣久良山の陣を出て、茨木川を渡って西進したようです。そして早朝、この付近で『フロイス日本史』 にある、
-史料(2)------------------------------------------------------------
(前略)
そして彼ら(和田方)は見つかると忽ちにしてある丘の麓で待ち伏せて隠れていました池田衆の更に2,000名もの兵に包囲されました。最初の合戦が始まると直ぐ、池田方は真ん中に捉えた和田方に対して、一斉に300梃の銃を発射させました。和田方の200名は、自分達の総大将と一丸となって、危険が迫って来るのを見、甚だ勇猛果敢に戦いました。
(後略)
-------------------------------------------------------------
交戦となったのでしょう。「そして彼らは見つかると...」とは、和田惟政も何かを目的として、密かに行動していたらしい様子が描かれています。しかし、池田衆は既に、宿久庄村の東側あたりの山裾に隠れていたのでしょう。

和田伊賀守、中川瀬兵衛尉と戦い討ち死に致され候故
宿久庄村の南東側あたりで交戦となり、ここで和田惟政は討ち死にしたのでしょうか。

郡兵太夫も陣場より二町程こなた、郡村の内に於いて討ち死に致され候
和田惟政が戦死したため、重臣であった郡兵太夫はその場から、更に220メートル程移動しているようです。郡村の内にまで入っていたようですので、勝尾寺川を渡って南に移動していたようです。郡村へ帰ろうとしていたようです。郡村には城があったと伝えていますので、そこに戻ろうとしていたのかもしれません。
 そしてその時に郡兵太夫の乗り馬も倒れ、それが塚として残されたとの事です。それは今も伝わる馬塚なのでしょう。また、ここには戦死者も集められて埋葬されたとの事です。
 ちなみに、城はその後、池にしたと伝わっています。

埋め候所、(中略)、兵糧を炊き候所、竈成りに残り候をへつい塚と申し候
また、馬を埋めた所は、兵糧を炊く場所だったとの事です。 その時だけの事なのか、そういう固定的な場所だったのか、これについてはよく判らないのですが、他との関連性も掴めない場所です。郡村からは少し離れているような場所ですし、郡城と関係する施設なのかどうか、ちょっと今のところ判りません。

白井河原合戦で戦死した和田惟政も郡兵太夫も勝尾寺川を越えて、南へ逃れようとしているようですので、その方向には敵が居なかったと考える方が自然なのかもしれません。
 という事は、郡村や郡山村の辺りは、合戦当日にはまだ池田衆の手に落ちていたとは考え難いのかもしれません。池田衆は宿久庄城を落とし、そこから幣久良山方面に対峙しようとしていましたが、郡方面が確保できていないために池田衆は、前進方向の右手に不安を抱えながらも決戦を挑み、和田方に打ち勝ったといえるのかもしれません。

更に考えてみると、和田惟政は宿久庄村の山際の縁を回り込み、郡村方面からの挟撃を考えていたのかもしれません。200の手勢で強行したのは、こういった作戦と、前後の判断があっての事ではなかったでしょうか。また、宿久庄方面の残党など遊軍と何らかの呼応を行おうと、惟政は考えていたのかもしれません。
 何れにしても、買って知ったる自領ですから、多少の無理は利きますし、当然ながら、発想もそうなるでしょう。それが逆に、詰めの甘さとなり、池田衆にその辺りをつけ込まれたものと思われます。

これらの伝承が、ある程度正確なものだとすると、ちょっと白井河原合戦の詳細検討で修正する部分が出てきそうです。辻褄の一致するところは多く感じます。検討し、随時行いたいと思います。

この後もちょっと白井河原合戦について、書いてみたいと思います。






2013年11月23日土曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その1:内訌当日を分析する)

1570年(元亀元)6月の摂津国池田家中の騒動は、荒木村重にとっても、時の幕府にとっても大きな転機となった出来事でした。
 未だに謎の多い、荒木村重ですが、織田信長政権を支えた武将の一人として活躍し、それについては色々と知られつつあるようです。
 そんな村重について、情報を更に掘り下げようとすると、信長時代の数年間の事しかわからず、それ以前の池田家中での行動となると、ほとんど知られていません。ウィキペディアなど、村重について取り上げた記事を読んでみると、内容はほとんど同じで、村重の出世のエピソードとして、この池田家内訌から取り上げられている場合が多いようです。しかし、それらの内容も大体は正確ではありません。

池田城跡公園の大手門
実は織田信長、時の幕府の研究をする上でも、元亀元年のこの池田家の内訌については、非常に重要な要素を孕んでいるのですが、詳しく研究されたものは見た事がありません。
 そんな状況であり、自分で調べなければ何もわからないので、10年以上かかって池田勝正の事を調べる内に、この池田家内訌の事も色々と解ってきました。
 それからまた、来年の大河ドラマで荒木村重も取り上げられるようですので、そのお役に立てばと思い、村重も関わった池田家内訌について、いつものように、いくつかに分けて、ご紹介したいと思います。

さて、本題です。

元亀元年6月の池田家内訌は、18日から19日にかけて起きたようですが、当然ながら、その争いに至るまでには色々な要因が積み重なっています。様々な鬱積が重なり合って、内訌のカタチで爆発している訳です。
 それらの要素を含め、順に説明していきたいと思います。先ずは、その当時に記録された、池田家内訌についての史料をご紹介します。最初に、京都に居た公卿山科言継の記録を見てみましょう。池田家内訌については、19日〜26日までの条で見られます。
※言継卿記4-P424

-史料(1)---------------------------------------
6月19日条:
(前略)。明日武家近江国へ御動座延引云々。摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞。又阿波・讃岐国の衆三好三人衆、明日出張すべくの由注進共之有り云々。(後略)。
6月20日条:
(前略)。武家へ参り、摂津国池田二十一人衆、四人衆の内同名豊後守(正泰)・同名周防守正詮両人昨日生害云々。惣領筑後守勝正刀根山へ落ち行き、次に大坂へ落ち行き、小姓両人、小者両人計り、観世三郎元久供云々。御前(将軍義昭)に参り、様体申し入れ了ぬ。次に幕府衆上野中務太輔秀政(500計り)、細川兵部大輔藤孝(200計り)、一色紀伊守某・織田三郎五郎信広(100余り)、都合2,000計り、摂津国山崎迄打ち廻り云々。彼の方(山崎方面)自り注進、三好左京大夫義継衆金山駿河守信貞、竹内新助(所属不明)等参り、種々御談合共之有り。
6月26日条:
(前略)。池田筑後守勝正、三好左京大夫義継同道せしめ上洛云々。池田の城へ三好日向守・石成主税助等之入り由風聞。
----------------------------------------

山科言継は、京都在住の公卿である事から、いち早く情報を掴み、関心を以て記録しています。また、彼は個人的にも池田家中の重要人物である池田紀伊守正秀とも面識があり、池田家の事はよく知っていたようです。池田氏は、幕府を支える摂津守護職を任される家であり、その意味でも重要な立場にあった事から、関心の高さは自然な事です。

それから、奈良興福寺多聞院の坊官である英俊が、この池田家内訌について、日記に残しています。この多聞院英俊は、永禄9年から同11年にかけて、三好三人衆と松永久秀が闘争を続けた際、奈良とその周辺に池田衆が度々出陣しており、摂津池田家については、その事を通して知るようになっていたようです。そのため、関心があったのか、日記にも池田家内訌についての情報を書き留めています。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P194

-史料(2)---------------------------------------
6月22日条:
(前略)。去る18・9日比(頃)歟。摂津国池田三十六人衆として、四人衆の内二人生害せしめ城取り了ぬ云々。則ち三好日向守以下入り了ぬと。大略ウソ也歟。
----------------------------------------

更に『細川両家記』という、いわゆる軍記物にも、池田家内訌についての記述があります。ちなみに同書は、取扱いに注意を要する軍記物の中では、特別扱いされる資料で、内容が割と正確である事から一級資料と目されています。その資料の池田家内訌部分を見てみましょう。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

-史料(3)---------------------------------------
一、織田信長方一味の摂津国池田筑後守勝正を同名内衆一味して違背する也。然らば、元亀元年6月18日池田勝正は同苗豊後守・同周防守2人生害させ、勝正は立ち出けり。相残り池田同名衆一味同心して阿波国方へ使者を下し、当城欺(あざむ)き如く成り行き上は、御方へ一味申すべく候。不日に御上洛候儀待ち奉り由注進候也。並びに摂津国欠郡大坂へも信長より色々難題申し懸けられ条、是も阿波国方へ内談の由風聞也。旁以て阿波国方大慶の由候也。然らば先ず淡路国へ打ち越し、安宅方相調え一味して、今度は和泉国へ摂津国難太へ渡海有るべく也と云う。先陣衆は細川六郎(昭元)殿、同典厩(細川右馬頭藤賢)。但し次第不同。三好彦次郎殿の名代三好山城守入道咲岩斎、子息同苗徳太郎、又三人衆と申すは三好日向守入道北斎、同息兵庫介、三好下野守、同息、同舎弟の為三入道、石成主税介。是を三人衆と申す也。三好治部少輔、同苗備中守、同苗帯刀左衛門、同苗久助、松山彦十郎、同舎弟伊沢、篠原玄蕃頭、加地権介、塩田若狭守、逸見、市原、矢野伯耆守、牟岐勘右衛門、三木判大夫、紀伊国雑賀の孫市。将又讃岐国十河方都合其の勢13,000と風聞也。
----------------------------------------

最後に、伝承資料をご紹介します。『荒木略記』という系図中の代表的人物に説明を付けてある、家系図と伝記が一つになったような資料があります。その村重の項目には、元亀元年6月の池田家内訌の事が記述されています。ちなみに、村重以外にも色々と記述があるのですが、それらは誇張してある事に加えて、事実誤認が沢山あります。何百年も後になって書かれているものはこういった内容のものも多くあります。これは資料としては取扱いに注意が必要です。参考までにご紹介します。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P1

-史料(4)---------------------------------------
荒木村重条:
(前略)。然る所に池田勝正作法悪しく、武勇も優れ申さず。右に申し候桂川合戦の時も家来は手柄共仕り候に打ち捨て、丹波路を一人落ち申され候。か様の体にては、池田を和田伊賀守・伊丹兵庫頭に取られ申すべく事治定に候間、勝正を牢人させその子息直正と申し候を取り立て大将に仕るべくとて勝正の侍大将仕り候池田久左衛門尉(後に備後守と申し候)を取り入れ、荒木一家中川瀬兵衛尉清秀相談にて勝正を追い出し、直正を取り立て候所に、直正猶以て悪人に候に付き、此の上は大将に仕るべく者無く候間、荒木一家瀬兵衛尉清秀・池田備後守申し合わせ、(後略)。
----------------------------------------

これらの資料を考え併せると、以下のような状況が浮かんできます。先ずは箇条書きで要素を抜き出してみます。

  • 池田家内訌は1日間では無く、18日から19日にかけて起きた。
  • いわゆる池田四人衆という、池田家政機関の重臣4名の内、当主勝正親派の池田豊後守(正泰)・同名周防守正詮が、三好三人衆方に同調した池田家中の人々によって殺害された。
  • 当主勝正は、19日に一旦京都へ入り、状況を説明した後で、京都を離れ、再び三好義継を伴って入京している。
  • 三好三人衆方の動きが内訌の理由として、同時に噂されている。
  • 将軍義昭は近江国へ出陣する予定だった。

次に、それらの要素を踏まえ、詳しく状況を分析してみたいと思います。

池田城跡公園の櫓風展望休憩舎
内訌は、18日〜19日にかけて家中で内訌が起き、19日、その過程で重臣2名が殺害され、当主池田勝正は池田城を出ます。勝正は、小姓2名、小者2名程、観世三郎元久を連れて、一旦刀根山へ落ち、その後大坂へ向かったようです。勝正はその足で京都へ向かい、将軍義昭と面会し、状況説明を行っているようです。
 勝正のこの時の足取りですが、文面通り受け取って、大坂に一旦入ったと考えるには少々矛盾が起きるように思えます。この頃、大坂の本願寺方は既に三好三人衆方でもありましたし、その城内には三好三人衆方であった公卿近衛前久が身を寄せていましたので、そんなところをウロウロしていては、直ぐに通報もされますし、物騒です。
 勝正は池田城を出て、直ぐに将軍義昭へその状況を伝えています。速やかに報告しようとするのは、当然の事です。
 ですので、勝正は大坂に入らず、能勢街道を使い、刀根山から小曽根方面などへ出、吹田を経由して京都へ向かったと考えられます。その間にある原田城に一旦寄ったかどうかは、今のところ判りませんが、大坂まで南下すると時間が余計にかかります。
 
それから、勝正本人が将軍へ報告を直接行ったかどうか、厳密に見ると『言継卿記』から読み取れないところもありますが、この前後の環境や一次情報を重視する当時の環境からして、将軍義昭の近江国(高島郡)への動座を控えた重要な時期でもあり、摂津守護職たる勝正がその報告を直接行う必要性があったと考えられます。文中の「御前」に出たのは、供の小姓や観世三郎ではなく、勝正自身を指すと思われます。
 報告を受けた将軍義昭は、その事態の深刻さから、すぐ様、近江国出陣の延期を関係者に通知しています。ちなみに、池田家の内訌が伝わった18日にも将軍義昭は近江国出陣の延期を関係者に通知しており、この出陣でも池田家は幕府方の中心的な役割を果たす重要な位置付けであった事が窺えます。
 
次回は、池田家内訌に至った原因を考えてみたいと思います。






2013年11月21日木曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(はじめに)

元亀元年(1570)6月、荒木村重も加わった池田家内訌は、突然起きたように見えますが、そこに至るまでには原因があります。その出来事の前後を見れば、それはよくわかります。どんな事もそうですよね。

個人的に池田家の内訌については、朝倉・浅井攻めの最中に起きており、将軍義昭・織田信長政権の最初の大きな躓きだった、いわば失策が招いた事件であったと考えています。
 言い方を換えれば、三好三人衆が調略を成功させる隙を作ってしまう程、織田信長は五畿内社会の様相を変えてしまったのでは無いかと思います。

元亀元年4月の越前朝倉氏討伐を第一次とするならば、浅井氏の態度を見た幕府軍が態勢を立て直し、再び攻めようとした姉川の合戦を代表する軍事行動は、第二次朝倉・浅井討伐と位置づけられると思います。
 
その説明を、以下の要素からそれぞれ進めていきたいと思います。お楽しみに。

(1)6月18日に起きた池田家内訌当日を分析する
(2)元亀元年の越前国朝倉氏攻めについて
(3)5月、幕府は、五畿内の主立った家に対して人質を出すよう命令した
   ※高島郡への動座
(4)三好三人衆勢力は、依然侮れない影響力があった
(5)反幕府勢を束ねる人物 ←只今執筆中
(6)荒木村重の池田家中での地位(家中権力の多極化) ←只今執筆中
(7)池田勝正追放後に別の当主を立てたか
(7.1)池田勝正追放後に別の当主を立てたか「続報」
(8)三好為三政勝の動き ←只今執筆中
(9)その他の要素(元亀元年6月の池田家内訌は織田信長の経済政策失敗も一因するか


2013年11月3日日曜日

2013年10月31日夜、静岡県三島市で神社が全焼

また静岡県の三島市の滝川神社が全焼です。この火事は、放火が疑われています。また、周辺では先月30日夜にも、現場から8キロほど離れた沼津市の咳気神社が全焼する火事が起きていていました。

神社仏閣が確実に狙われ、全国的な動きになっているように思います。行政は動きませんから、先ずは、地域がこの事象に関心を持たなければいけません。これから火事のおき易い、冬がやってきます。

みなさん、神社が放火されている事に関心を持っていください。

参考:読売テレビニュース
http://www.ytv.co.jp/press/mainnews/TI20124572.htm

2013年10月29日火曜日

実は多発する日本の神社仏閣の火災や毀損、盗難

最近、色々なところで話題になっていますが、日本の神社仏閣の火災がかなりあります。加えて、日本国内の文化財の盗難も続発しています。また、その価値を見つめる事も無く、古いからという感覚だけで、自ら破壊するものも相当数あります。

関係者・管理者の方は真剣に考えて下さい。私達はもの凄い勢いで、文化財を亡くしています。行政は、強く要望しない限り、基本的に何もしませんから。行政側もその価値については、自ら考える事無く、放置し、朽ちさせています。

個人的には、今後、文化財の喪失は更に加速すると考えています。

2005年以降の神社仏閣の火災をまとめたサイトがありますたので、転載します。

■焼失神社仏閣 まとめ (2005年以降)
05年05月05日 広島県宮島町 弥山頂上近くの大聖院霊火堂から出火、山林約200㎡焼ける
05年06月18日 京都市 仁和寺宿舎で2日連続ボヤ ぞうきん50枚焼ける

06年04月24日 秋田県横手市 秋葉山神社全焼 火災予防の神様
06年09月13日 東広島市 西宮神社の神殿全焼
06年09月29日 三重県津市 清光寺でボヤ
06年10月29日 静岡県富士市 立光寺の本堂・住居全焼
06年11月15日 静岡県袋井市 可睡斎 奥の院不動明王堂全焼
06年12月25日 東京都西浅草 寿仙院の住居2F部分焼失

07年01月23日 名古屋市 神明社 社殿半焼
07年02月25日 千葉県市川市 春日神社 賽銭ドロに失敗、転んでけが、腹いせに放火
07年05月05日 兵庫県神戸市 良勝禅寺全焼
07年05月19日 高知市御畳瀬 西法寺全焼
07年06月26日 神奈川県川崎市 琴平神社 本殿と拝殿全焼
07年08月19日 静岡市葵区 浅間神社一部焼失 88年93年にも同じ男が同じ神社に放火
07年09月02日 京都市船岡山公園 テントに不審火 建勲神社の隣
07年09月14日 京都市 建勲神社 境内にある義照稲荷神社の賽銭箱燃える
07年09月27日 広島市 被爆の“証人”、邇保姫神社全焼
07年10月16日 山梨県甲州市 清水寺本堂全焼
07年11月23日 富山市 光輪寺全焼

08年02月09日 埼玉県三郷市 香岩寺全焼 木造阿弥陀如来立像も焼失
08年03月16日 富山市 神明宮全焼
08年03月22日 山形県高畠町 金像寺全焼  
08年03月27日 埼玉県幸手市 八幡神社全焼 犯人逮捕
08年03月31日 石川県小松市 熊野神社全焼
08年03月31日 長崎県五島市 民家や大宝寺倉庫全半焼 古文書や掛け軸も
08年04月09日 滋賀県長浜市 日吉神社 本殿と拝殿全焼
08年04月22日 新潟県上越市 念妙寺が全焼 一人けが
08年05月03日 岡山県津山市 八出天満宮全焼、3キロ西の別の寺院でもボヤ
08年05月07日 京都市 長楽寺から出火 30分で消火、仏像等損傷無し
08年05月08日 栃木県鹿沼市 戦没者慰霊の招魂社本殿・天満宮全焼 山林200㎡も焼ける
        鹿沼市白山神社も全焼 (2006~7年には同市内の神社連続放火3件)
08年05月10日 福島県白河市 琴平神社 本殿拝殿全焼、周囲の杉の木も焦げる
        同市内の神社3件不審火あり
08年05月19日 大分県佐伯市 松崎神社全焼 他5件の放火容疑有り
08年05月23日 大阪府吹田市 国重文の吉志部神社本殿全焼  
08年07月15日 秋田県鹿角市 常照寺全焼、虚空蔵菩薩行方不明
08年08月02日 岩手奥州市 雲際寺の本堂・位牌堂・住宅全焼 義経を弔う寺
08年08月14日 秋田県男鹿市 嶺徳院本堂全焼
08年08月14日 京都市 醍醐寺西国三十三観音霊場第11番札所・准胝観音堂全焼
08年09月09日 福島県白河市 矢越神社本殿・拝殿全焼
08年10月17日 宮城県仙台市 寛行院大日如来堂と住職の住居全焼
08年10月29日  〃       〃    本殿・神楽殿・神饌所全焼
08年10月29日 福島県会津美里町 伊佐須美神社で火災 本殿など全焼
08年10月20日 岐阜県土岐市 久尻神社の弓道場「弦武館」から出火
08年12月07日 愛媛県宇和島市 龍光院本堂から出火 八割近く焼失

09年02月03日 神奈川県伊勢原市 高森神社 本殿・拝殿、八坂神社の本殿全焼
09年02月14日 岐阜県笠松町 無動寺の光得寺内の住職宅全焼、住職の義母死亡
09年02月18日 奈良市大和田町 白龍神社全焼
09年02月23日 兵庫県姫路市 光久寺重要有形文化財の本堂(護摩堂)全焼、住職夫妻火傷
09年02月26日 神奈川県相模原市 石楯尾神社の休憩所・車庫全焼
09年03月12日 奈良県天理市 出雲建雄神社拝殿の格子戸など7箇所焼損
09年03月26日 岐阜県大垣市 正林寺本堂・庫裏全焼 掛け軸、絹本着色十六善神図焼失
09年03月29日 神奈川県小田原市 赤沢観音堂全焼

10年04月23日 岐阜県揖斐川町 天聖大神社 神主の知人が放火、全焼
10年09月01日 福島県会津坂下町 諏訪神社 本殿・拝殿・参集殿など全焼
10年10月    埼玉県春日部市周辺で5箇所連続放火
      20日 越谷市稲荷神社全焼
      21日 春日部市谷原香取神社の本殿拝殿全焼
      25日 春日部市稲荷神社床焦げ
      25日 春日部市八坂神社本殿全焼
      25日 春日部市備後須賀稲荷神社、拝殿全焼
      
11年01月09日 神奈川県厚木市 浅間神社全焼 賽銭箱裏側から火
11年03月15日 岐阜県大垣市 白鬚神社全焼
11年08月06日 千葉県成田市 宝徳寺観音堂全焼
11年09月18日 京都市 三縁寺の本堂全焼
11年11月26日 静岡市 美濃輪稲荷神社全焼 清水次郎長ゆかりの神社
11年12月26日 東京都千代田区 靖国神社楼門の一部焼ける

12年01月28日 千葉県八街市 皇産霊神社 本殿全焼
12年01月28日 千葉県八街市 氷川神社 敷地内の公民館で出火
12年02月03日 兵庫県姫路市 広峯神社 重文指定の本殿屋根が焼ける 
12年05月07日 山形県山形市 柏倉八幡神社 本殿・拝殿全焼
12年12月09日 栃木県足利市 八雲神社、火災で本殿など全焼
12年12月17日 滋賀県米原市 一念寺本堂全焼
12年12月20日 和歌山市 満願寺本堂全焼
12年12月24日 岡山県 金山寺、国指定重要文化財の本堂全焼・木造阿弥陀如来坐像焼失

13年01月04日 京都市 愛染院敷地内住宅から出火、住職死亡
13年01月06日 福井県美浜町 西誓寺本堂全焼、仏像を抱きながら住職焼死
13年01月13日 富山県魚津市 火の宮神社の社殿全焼
13年01月23日 和歌山市 普門寺の本堂全焼
13年01月26日 福島県白川市 天神神社、本殿など全焼
13年02月11日 東京都八王子市 千代田稲荷大明神の拝殿全焼
13年03月07日 神奈川県座間市 栗原神社神楽殿・民家2棟全焼 米国籍15歳少年放火
13年04月01日 福島県飯舘村 山津見神社全焼、一人の遺体発見
13年04月10日 熊本県玉名郡 片峯菅原神社の本殿・物置全焼
13年04月10日 東京都高尾市 千代田稲荷大明神の拝殿全焼 賽銭箱が空で逆上し放火
13年05月01日 東京都三鷹市 井の頭公園内の親之井稲荷尊神社から出火 放火の疑い
13年05月15日 長野市 八幡神社 拝殿・神殿全焼
13年06月08日 新潟県魚沼市 四日町諏訪神社の本殿全焼 雷が原因か
13年06月08日 大阪府富田林市 正受寺と前住職の住宅全焼
13年07月07日 愛知県安城市 法蔵寺の一部が燃える
13年07月22日 岩手県盛岡市 瀧源寺本堂全焼、しだれカツラの葉が熱で変色
13年08月02日  〃      〃  2度目の出火
13年08月10日 愛媛県松山市 宝厳寺全焼、国指定重要文化財「木造一遍上人立像」不明
13年09月11日 茨城県ひたちなか市 湫尾神社の本殿拝殿全焼
13年09月14日 茨城県ひたちなか市 金砂神社の本殿拝殿全焼
13年09月22日 愛媛県松山市 厳嶋神社 拝殿・神輿全焼
13年09月22日 靖国神社 トルエン持参の韓国人男が放火目的で侵入 テロレベル
13年10月12日 神奈川県川崎市 「天照大神」本殿・神輿など全焼 例大祭の前日
13年10月16日 福島県南相馬市 光慶寺、本堂と事務所全焼 震災避難区域
13年10月26日 奈良県高取町 南法華寺(壺阪寺) 釈迦誕生仏 盗難
13年10月27日 福岡県添田町 上中元寺薬師堂 十二神将のうち3体 盗難
13年10月29日 福島県柳津町 150年の老舗菓子店 岩井屋 他4棟 全焼
13年10月30日 静岡県沼津市 咳気神社 全焼
13年10月31日 静岡県三島市 滝川神社 全焼
13年11月15日 大阪市中央区 大阪城 天守閣北側の石垣 幅4メートルの落書き
13年11月27日 奈良県斑鳩町 法隆寺(世界遺産)西院大垣(重文)修復困難な損傷
13年12月11日 伊豆の国市韮山 若宮八幡神社境内のほこらか 石像1体 盗難-逮捕
13年12月15日 京都市伏見区 伏見稲荷大社 北側参道付近の木 売店付近 ぼや

14年01月13日 香川県高松市 法然寺境内 二尊堂 全焼
14年04月01日 佐賀県鳥栖市 浄土真宗本願寺派正行寺 本堂含む約500平方メートル 全焼
14年04月20日 厚木市厚木町 厚木神社 神楽殿 全焼 1月にも拝殿の鈴が焦げる被害
14年05月01日 滋賀県甲良町 西明寺 油性スタンプによる汚損 天台宗寺院、金剛輪寺、百済寺でも 被害
14年05月02日 広島県福山市 大観寺 本堂と倉庫他400平方メートル 全焼
14年05月04日 京都市西京区 法輪寺 収蔵庫の鉄製扉や外壁、石像など12カ所にスプレーによる汚損
14年05月31日 滋賀県米原市 善楽寺 本堂、書院、庫裏 全焼
14年06月01日 さいたま市桜区 氷川神社 社務所 全焼
14年06月06日 佐賀県鳥栖市 姫古曽神社 拝殿・神殿 全焼
14年06月11日 東京都台東区 浅草寺 境内の地蔵菩薩像(子育て地蔵)3体破壊 サウジアラビア籍 モハマド・アブドゥラ・サード 逮捕 余罪有
14年07月15日 福岡県糸島市 志登神社 本殿、拝殿 全焼
14年07月28日 東京千代田区 神田明神 「不適切な絵馬は撤去」の表示
14年08月07日 愛媛県松山市 飯岡神社 本殿のしめ縄 不審火-消火
14年10月01日 北海道釧路市 市営墓地 29体の地蔵のうち8体 損壊
14年11月25日 長崎県対馬市 梅林寺 有形文化財「誕生仏」盗難 金相鎬など韓国人4人逮捕
14年11月27日 長崎県対馬市 博物館で仏像を一括管理検討
14年12月03日 栃木県栃木市 神倉神社 全焼
14年12月04日 栃木県栃木市 根渡神社 全焼
14年12月30日 群馬県高山神社 全焼
14年12月31日 東京都千代田区 靖国神社 一部

15年01月07日 富山県富山市 八幡社 全焼
15年01月10日 千葉県香取市 境宮神社 拝殿と本殿 全焼
15年01月11日 千葉県香取市 境宮神社 全焼 
15年01月11日 岐阜県瑞穂市只越 神社名不明 火災
15年01月31日 高知県高知市 山内神社 社務所が半焼
15年02月04日 佐賀県佐賀市 無量寺 お堂に韓国国旗が掲げられる
15年02月06日 京都府向日市 向日神社 拝殿に「火事になれ」と落書き
15年02月11日 静岡県静岡市 山王寺 全焼
15年02月13日 大阪府出雲井町 枚岡神社の裏山 宗教法人徳成寺 ”地図にない廃神社”バラックに韓国人 不法占拠か?
15年02月17日 京都市東山区 高台寺 倉庫全焼
15年03月15日 滋賀県東近江市 安楽寺 本堂内の厨子の一部延焼
15年03月27日 千葉県市原市 玉前神社 全焼
15年03月31日 千葉県千葉市 圓福寺 本堂と木造の住居部 全焼
15年04月04日 京都市西京区 西芳寺(世界遺産) 阿弥陀如来像 盗難
15年04月05日 奈良県桜井市 長谷寺 木造十一面観音立像 液体の跡
15年04月07日 奈良県明日香村 二条城 国宝・二の丸御殿内で油の跡を20カ所発見
15年04月07日 奈良県明日香村 岡寺 仁王門(重文)本堂など7つの建物で油のような液体
15年04月07日 奈良県明日香村 橘寺 油のような液体
15年04月07日 奈良県明日香村 飛鳥寺 計4カ寺の重要文化財などで被害が相次ぐ
15年04月07日 奈良県明日香村 飛鳥坐神社 賽銭箱などの4カ所に油のような痕跡
15年04月08日 京都市西京区 西芳寺(世界文化遺産)茶室から阿弥陀如来坐像1体 盗難
15年04月08日 奈良県吉野町 金峯山寺(世界遺産)本堂外側の柱 木造蔵王権現立像(重文)など4カ所
15年04月08日 奈良県吉野町 東南院 油の被害
15年04月08日 奈良県橿原市 久米寺 本堂 金剛力士像 計10カ所に痕跡
15年04月09日 奈良県橿原市 橿原神宮(祭神 神武天皇)外拝殿の外壁など計7カ所 油の痕跡
15年04月09日 京都市南区 東寺(世界遺産)御影堂(国宝)灌頂院東門(重文)も同様の被害
15年04月09日 香川県琴平町 金刀比羅宮 旭社(重文) 油のような液体
15年04月09日 茨城県鹿嶋市 鹿島神宮 拝殿や奥宮(重文)10カ所に液体跡
15年04月09日 千葉県香取市 香取神宮 境内の重要文化財「楼門」の柱など十数か所に油のような液体しみ
15年04月10日 千葉県成田市 成田山新勝寺 三重塔など4つの重要文化財を含む12の建造物で液体がかけられる
15年04月10日 京都市左京区 狸谷山不動院 油のような液体
15年04月10日 静岡県三島市 三嶋大社 拝殿(重文)の柱に油のような液体
15年04月11日 奈良県奈良市 春日大社(世界遺産)南門(重文)の扉や柱に油のような液体 
15年04月11日 奈良県桜井市 普門院 不動堂の賽銭箱や畳などで被害
15年04月11日 奈良県櫻井市 唐招提寺 油のあと
15年04月13日 兵庫県姫路市 天台宗書写山円教寺 仁王門 柵の隙間に接着剤
15年04月15日 新潟県弥彦村 弥彦神社 拝殿など7カ所に油
15年04月23日 愛知県岩倉市 稲荷社 拝殿祠 全焼
15年04月25日 福岡市中央区 警固神社 今益稲荷神社キツネの石像4体すべてが破壊
15年04月25日 東京杉並区 白山神社 社の一部が焼ける
15年04月26日 大分県宇佐市 宇佐神宮(国宝)亀山神社のさい銭箱や木製扉、柱など約20カ所に 油のような液体 
15年04月27日 栃木県日光市 日光東照宮 奥宮拝殿 参道の階段 陽明門(国宝)の壁画 約20カ所に白い粉
15年04月27日 京都市東山区 清水寺(世界遺産)本堂(国宝)内西側の廊下に油のような液体
15年04月28日 山形県鶴岡市 善寳寺 油のような液体
15年04月29日 山形県鶴岡市 出羽三山神社 国宝羽黒山五重塔 羽黒山東照社 液体がまかれる
15年04月30日 京都市伏見区 伏見稲荷大社 稲荷山で火災
15年04月30日 茨城県ひたちなか市 勝倉神社 拝殿や外塀の屋根の銅板約240キロ 盗難 同様の被害 11件
15年05月01日 茨城県水戸市 春日香取神社 屋根の銅版65枚 盗難
15年05月01日 山形県寒河江市 慈恩寺 本堂(重文) 油のような液体
15年05月01日 山形県鶴岡市 出羽三山神社 羽黒山五重塔(国宝)油のような液体
15年05月01日 山形県山形市の立石寺 油のような液体
15年05月07日 千葉県鋸南町 鋸山にある日本寺 参道脇の聖徳太子の石像 破壊
15年05月08日 東京都港区 心光院 表門の柱と扉部分に油がかけられる 米国在住の帰化韓国人に逮捕状
15年05月12日 東京都新橋 烏森神社 火災
15年05月18日 東京港区 光明寺 納骨堂の床 油のような液体
15年06月03日  倉敷市下庄 宝福寺 車庫 全焼
15年07月26日 千葉市中央区 西千葉稲荷大明神 のぼりが焼かれる
15年07月22日 神戸市須磨区 那須神社 付近で火災
15年08月10日 香川県三木町 八坂神社 火災
15年09月05日 静岡県伊豆の国市 韮山反射炉(世界遺産)壁に複数落書きにハングル文字
15年10月10日 青森県上北郡 沼端稲荷神社 全焼
15年10月12日 千葉県松戸市 王子神社 本殿 全焼
15年10月25日 愛知県蒲郡市清田町 安楽寺(徳川家ゆかりの寺)本堂全焼
15年11月05日 青森県八戸市鮫町 蕪嶋神社 全焼
15年11月23日 東京都千代田区 靖国神社 敷地内の公衆トイレ 時限爆弾による爆破 一部焼損
15年10月12日 千葉県松戸市 王子神社 本殿 全焼
15年12月10日 福岡市中央区 金刀比羅神社 倉庫 一部焼損
15年12月17日 福岡市西区 白山神社 近くの森で火災
15年12月30日 三重県津市 八乳合神社 社務所、拝殿 全焼
15年12月31日 東京都東村山市 八坂神社 裏の民家 火災
15年12月31日 群馬県藤岡市藤岡 諏訪神社 近くで火災

16年01月07日 宮城県東松島市 新山神社 どんと祭の前日 本殿 全焼
16年03月05日 愛知県東浦町緒川 乾坤院 本堂など全焼

2013年10月25日金曜日

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その4:完結)

高山右近の参加した白井河原合戦について、筆者記述の「キリシタン武将高山右近と白井河原合戦」その1〜3をまとめてみたいと思います。
 まとめ方をどうするか、悩んだのですが、少し趣向を凝らして、『スロイス日本史』を当時の事実に沿うように書き直してみたいと思います。
 原文は『フロイス日本史-第1部94章(和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛並びにその不運な死去について)-』の抜粋部分を使用します。


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(前略)
私(ルイス・フロイス)が、最後に和田殿にお目にかかりましたのは、去る邦暦7月の事で、時に私は戦争で殺された高山ダリオ殿の一子を埋葬するために、ロレンソ修道士と共に都から津の国に赴いていました。
 私達は、高槻城の一方から四分の一里離れたところまで来ました時に、ロレンソ修道士を遣わして和田殿にこう申させました。
(中略)
和田殿は戦の最中でありましたが、大勢の武士達、また、刻々として殿の諸城などから届けられる色々の書状に返書をしたためる自分の2人の秘書との協議で多忙を極めていました。
(中略)
此れ以前、和田殿は攻撃の足がかりとするために、多数の甚だ好戦的な家臣を有する池田殿の領地との境に近いところで、新たに2つの城を築いていました。池田殿はそれらの城が築かれた事にひどく激昂していました。和田殿は、早速自分に対して出陣するのは確実であると思いましたので、その機も利用して、決着をつけようと考えていました。
 和田殿はその後、都の公方様とも相談を重ね、池田殿を攻める体制を整え、細川殿や三淵殿の援助を得て、池田領へ攻め入りました。
 邦暦の6月10日、和田殿は池田方の吹田城を攻めて、これを落城させました。吹田は水陸の要衝で、ここを手に入れた和田殿は、その後の戦いを有利に導きました。それから更に和田殿は、細川・三淵殿の助けを借りて、池田領内深く進み、原田城をも手に入れました。そしてここに、今は幕府に身を寄せている、旧領主であった池田勝正殿が入城しました。彼は、池田の元の領主に戻るために、和田殿に力を貸していました。
 また、この辺り一帯は、敵である池田殿の主たる収入源でもある土地で、またそれは百年以上に渡り続けられていた、非常に重要な場所でした。これに対する池田殿は、この事態を大いに嘆き、これらを取り戻すため、和田殿に反撃する機会を窺い、準備を進めました。

しかし一方で和田殿は、五畿内での幕府方の不利を補うために東奔西走しなければなりませんでした。また、彼は京都の防衛も受け持ち、非常に苦しい状態が続いてもいました。
 そして7月には、山城国南部や大和国へも出陣し、筒井殿の支援も行いました。兵や物資の調達も困難を極めました。そのため和田殿は、姻戚関係でもある友軍の伊丹殿を頼み、池田殿を攻める事を計画し、準備を進めました。

一方の池田殿も、領内を和田殿など幕府方に激しく攻められながらも、反撃の体制を整えました。池田殿の友軍である三好三人衆や大坂本願寺の援護も受けつつ、邦暦8月には準備を整えたようです。
 邦暦8月18日、和田殿は伊丹殿と連合して、池田領を攻めましたが、池田殿の反撃激しく失敗し、200名もの戦死者を出して後退しました。池田殿は、和田殿への反撃を始めました。
 和田殿は、戦の経験も豊富であり、予め要所に家臣を置き、予期せぬ敵の動きを掴むために工夫をしていましたが、もしも池田殿が多数の兵で攻撃してくるような事になれば、それを防ぐのは難しい状態でした。

先の合戦で勝利していた池田方は、活気に満ちていました。邦暦8月21日、池田殿は全ての高位の武士が連署した一通の布告を発し、たとえ身分がいかに低かろうとも、此の度の戦いにおいて、和田殿の首級を挙げた者には、何人であれ1,500クルザードの禄を授けるであろうと知らせました。
 その翌日早暁、池田殿は和田殿との決戦のために、精選した兵士3,000を、3名の高位の武士が3隊に分ち、出陣しました。

高山ダリオ殿は、子息を戦死させた後、元に居た場所から移り、別の任務に就いていました。彼は、和田殿の築いた萱野の城に城主として入っており、彼の息子ジュスト右近殿と共に、幾ばくかの家臣と共に居ました。そこで哨兵達から敵が来襲したとの報せに接しますと、ダリオは直ちにそこから3里の所に居た奉行に通報しました。
 和田殿の懸念は現実となりました。和田殿は、池田殿との合戦に敗退し、次なる前進のために態勢を立て直す協議を行っていた時、高山ダリオからの通報が届きました。和田殿は急いで吹田を経て高槻城に戻り、敵の軍勢を防ぐ手楯を考えました。敵は西国街道といくつかの街道を使い、一計を案じて東進していました。

和田殿は、大胆且つ、極めて勇敢な武将でした。彼は城中、側近に200名もの殿を擁していましたが、彼らは全五畿内における最良の槍手であり、最も勇猛な士官級の戦士達でありました。
 しかしその報せはあまりにも突然の事でしたので、彼は当時城内に残しておいた控えや予備の兵卒700名あるかなしかを率いて、兎に角も出陣する他はありませんでした。なぜならば他の家臣は全て、そこから3〜5、乃至8里も遠く離れた所に居たため、直ぐには兵を増やす事ができない状態でした。和田殿は、増援の通知をするため、遣いを急派させました。

幣久良山
高山ダリオ殿に通報を受けてから、刻々と入る戦況は、和田殿にとって、思わしくありませんでした。宿久・里など、いくつかの城は落ちたり、敵に包囲される等していました。敵の動きが思いの外早かったため、また、詳しくも判らず、和田殿はその対応に苦慮しました。
 和田殿は準備が整わない中でも、手持ちの兵数を以て領地を守るには、どの場所が適しているかを考えました。間もなく和田殿は、去る邦暦5月に落した安威城の近くにある幣久良山に陣を置き、ここで敵を防ぐ事に決しました。ここなら複数の川もあり、天然の要害性もあって、更に背後を憂える事も無く戦えると考えたからでした。
 和田殿は、城内の高位の貴人へ通達した後、先駆けとして手筈を整え、高槻城を出陣しました。
(中略)
幣久良山から南を望む
彼は先ず前記の200名の貴人だけを伴って幣久良山に入りました。他方500名の兵士は、16歳くらいと思われる奉行の1人の息子(太郎丸)と共に後衛として後に続く手筈になっていました。
 和田殿は1,500名の兵を用意できる見通しを立てていましたので、敵が率いてくるかも知れぬ軍勢の数を恐れてはいませんでした。和田殿は、これまでの状況を見て、池田殿は多数の兵を用意する事はできないと考えていました。
 和田殿は池田殿との決戦を予定し、幣久良山の城で敵を迎え撃つ準備を整えました。また、夜襲に備えて兵卒に注意を促していましたが、何事もなく夜が明け始めました。
 しかし夜が明けると、その準備が整わない間に、その城から半里ばかりのところに敵勢を認めました。こちらへ対陣する敵方は、1,000名の兵の外は目視できなかった事から、和田殿は一計を案じ、間もなく息子と共にやって来る軍勢を待つ事なく、その敵に攻撃する事を決しました。和田殿は武術に長じた自分の家臣を大いに信用して、勇敢に戦おうとしました。
 そして出陣した和田殿は、前衛として先頭を騎行し、間もなく彼は一同を下馬させ(交戦の際には徒歩で戦うのが日本の習慣だから)、かの200名だけを率いて敵を攻撃しました。
 しかし、彼らはある丘の麓で待ち伏せて、隠れていました更に2,000名もの敵兵に包囲されました。最初の合戦が始まると直ぐ、敵方は真ん中に捉えた和田殿の軍勢に対して、一斉に300梃の銃を発射させました。和田方の200名は、自分達の総大将と一丸となって、危険が迫って来るのを見、甚だ勇猛果敢に戦いました。
(中略)

イメージ写真:鉄砲隊
しかし、和田殿と共に、かの200名の貴人も全員討死にし、殿の兄弟の息子である16歳の甥(茨木重朝)も同様に、かの3,000の敵の真只中で戦死しました。と申しますのは、和田殿の予想に反して、池田からはそれ程多くが出陣したのでした。また、敵は秘密裏に行動し、和田殿に悟られないようにも注意を払っていました。

和田殿の子息は、父の破局に接しますと、後戻りをし、僅かばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒達は、和田殿並びに最も身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者達も同じく分散してしまいました。また、幣久良山の城で決戦を迎えるために、各地からそこへ向かっていた和田殿の家臣達も同様に、それぞれの場所に戻ってしまいました。

この不幸な合戦の当日、私はそこから4里離れた河内国讃良郡三箇の教会にいました。私はそこへは堺から来ており、そして都に戻る途上にありました。
 そしてその朝方、家僕を一人、高山ダリオのところに遣わして、道中が危険なので、和田殿から私達のため護衛の者をつけてくれるようにしてもらえまいかとお願いさせたのでした。
 ミサが終わった時、私達はそこから銃声を聞き、長い間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ましたが、私達にはそれが何であるかは知る由もありませんでした。
 ところが、午後に前記の家僕がこの悲報を持ち帰って、和田殿が戦死し、彼と共に五畿内の彼の全く高貴な武士達が運命を共にした事、そして彼(家僕)が高槻城に達した時には、そこに奉行の息子が敗北し、退去して入城していた事を私達に報告しました。

後になって判明した事ですが、この合戦にあたって、新城に籠っていた高山ダリオ殿とその息子ジュスト達は逃げ延び、共に殪れなかった事は、我らの主(デウス)のお取計らいでありました。 
(後略)
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いかがでしょうか。こういった感じになろうかと思います。白井河原合戦についての実際の時間の区切り、要素の連続性と切れ目が判り易くなったのではないかと思います。