2013年8月15日木曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その5:白井河原合戦と三好為三を巡る動き)

元亀2年(1571)8月28日、三好三人衆方であった摂津池田家と幕府方であった和田伊賀守惟政との決戦が摂津国嶋上郡の「郡(こおり)村」一帯で行われました。これが白井河原合戦と呼ばれています。
 この合戦についての詳しくは、白井河原合戦の項目をご覧いただく事として、今回は、同合戦に関する別の要素を見たいと思います。
 
それは白井河原合戦に至るまでの三好為三を巡る動きです。

初めに概況からです。元亀元年4月以降、近江国大名の浅井氏が幕府・織田信長方(以下、幕府方で統一)から離反したのを初めとして、敵対する連合勢力が一斉に京都を目指して進んだ事から窮地に陥ります。これにより幕府方は、一旦反発勢力と和睦を結ばざるを得なくなります。幕府方は天皇の権威を頼み、軍事的失策を挽回しようと画策していました。
 幕府方は辛うじて京都を保持しつつも、四方八方から敵に囲まれ、軍事的には非常に苦しい状況にありました。そしてそれが、翌2年には更に深刻となり、余談を許さない状況に陥り、幕府方にとっては、どん底の状態が続きます。
 当然、幕府方は、軍事的優位に立とうとあれこれと手を尽くしました。どんな要素からも、挽回の糸口を掴もうと調略や奇襲など、色々と積極的に行っていました。

特に元亀元年6月から、幕府方がなぜこれ程までに苦戦したかというと、反勢力側に本願寺宗が加わった事も、その大きな要因です。宗教勢力が加わった事により、各地の反幕府勢力を繋ぐ役目を果たし、また、社会に深く入り込んだ信者が、地域社会に動揺をもたらすようになったからでもあります。
 それが何らかの、区別し易い単位になれば、それなりの対策を講じる事ができますが、人の心までは、見た目で区別する事はできません。心の拠り所が自分なのか、他者(敵)なのか、それが判り易く政権の利益を侵す因子となれば、排除する方向へ動きますが、点在しつつ、その区別がつかない以上、成す術がありません。
 つまり、幕府方領内の住人にも敵を抱える事となり、税の徴収、軍事動員、情報管理などに困難を来すようになります。
 
さて、元亀元年春頃から翌年秋にかけて、そんな状況の中で、幕府方は白井河原合戦を迎える事となります。
 そして三好為三は、元亀元年8月から三好三人衆方を離れ、同3年4月頃まで幕府方として活動していました。その間の為三に関する動きを見ていくと、興味深い背景が浮かび上がってきます。

以下、経年でそれらの資料をご紹介しようと思います。

元亀元年6月、幕府方摂津池田家の内訌を合図に、反幕府勢の三好三人衆方が、京都奪還を目指して軍勢を五畿内地域で大挙蜂起させます。
※言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

-(史料1)-----------------------
『言継卿記』6月19日条:摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞、(後略)。
『多聞院日記』6月22日条:去る18・9日比(頃)歟。摂津国池田三十六人衆として、四人衆の内二人生害せしめ城取り了ぬ云々。則ち三好日向守長逸以下入り了ぬと。大略ウソ也歟。
『細川両家記』:一、織田信長方一味の摂津国池田筑後守勝正を同名内衆一味して違背する也。然らば、元亀元年6月18日池田勝正は同苗豊後守・同周防守2人生害させ、勝正は立ち出けり。相残り池田同名衆一味同心して阿波国方へ使者を下し、当城欺(あざむ)き如く成り行き上は、御方へ一味申すべく候。不日に御上洛候儀待ち奉り由注進候也。並びに摂津国欠郡大坂へも信長より色々難題申し懸けられ条、是も阿波国方へ内談の由風聞也。旁以て阿波国方大慶の由候也。然らば先ず淡路国へ打ち越し、安宅方相調え一味して、今度は和泉国へ摂津国難太へ渡海有るべく也と云う。先陣衆は細川六郎(昭元)殿、同典厩(細川右馬頭藤賢)。但し次第不同。三好彦次郎殿の名代三好山城守入道咲岩斎、子息同苗徳太郎、又三人衆と申すは三好日向守入道北斎、同息兵庫介、三好下野守、同息、同舎弟の為三入道、石成主税介。是を三人衆と申す也。三好治部少輔、同苗備中守、同苗帯刀左衛門、同苗久助、松山彦十郎、同舎弟伊沢、篠原玄蕃頭、加地権介、塩田若狭守、逸見、市原、矢野伯耆守、牟岐勘右衛門、三木判大夫、紀伊国雑賀の孫市。将又讃岐国十河方都合其の勢13,000と風聞也。
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※但し、『細川両家記』に三好三人衆方として登場する細川典厩は、この頃幕府方として行動しており、事実と異なる。また、死亡している三好下野守も含まれています。

続いて、翌月27日、摂津国中嶋へ入った三好為三などの軍勢が軍容を整えて幕府方を待ち構えます。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P634、信長公記P108

-(史料2)-----------------------
『細川両家記』:
一、7月27日、右(『同記』8月18日条)人数摂津国欠郡中嶋の内天満森へ陣取り也。阿波国にて相定まり如く、同郡野田・福嶋に猶以て堀を掘り、壁を付け、櫓を上げさせ、河浅き所に乱株・逆茂木引き、此の両所へ楯て籠られ也。東国勢相待たれ候由候也。然るに此の処は昔387年以前に源判官平家御退治の時、御陣取りの処也。是れより御船に召され候て、四国西国まで御理運に成り由候也。
『信長公記』:
野田福島御陣の事条、(前略)。御敵、南方諸牢人大将分の事。細川六郎殿(昭元)、三好日向守、三好山城守、安宅、十河、篠原、石成、松山、香西、三好為三、斉藤龍興、永井隼人、此の如き衆8,000ばかり野田・福島に楯籠りこれある由に候。
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この時、本願寺宗の幕府方からの離反は顕在化しており、三好三人衆勢は、摂津国野田・福島などの本願寺宗の影響力の強い地域で陣を取ったり、城を構築するなどしていました。

そんな状況下では、各地で三好三人衆方に連絡を取り始める勢力が増えていきます。また、本願寺宗の中興の祖である親鸞は、公卿日野家に縁を持つ人物でもあり、その日野家と近衛家の近しい関係から、将軍義昭から追われた近衛前久が大坂本願寺に身を寄せていました。この前久も反幕府方勢力の糾合に加担しており、本願寺宗のネットワークを使って、活発な活動を行っていました。それからまた前久は、三好三人衆が推す第14代将軍足利義栄を共に養護していた事から、両者は反幕府勢力として共闘していました。

さて、史料です。三好三人衆方の三好日向守入道宗功(長逸)・石成主税助長信・塩田若狭守長隆・奈良但馬守入道宗保・加地権介久勝・三好一任斎為三が、欠年8月2日付けで、山城国大山崎惣中へ宛てて音信しています。
※島本町史(史料編) P435

-(史料3)-----------------------
当所制札の儀申され候。何れも停止の条、之進めず候。前々御制札旨、聊かも相違在るべからずの間、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
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これは、顔ぶれ、史料の内容、その対象地域からして、個人的に元亀元年の史料ではないかと考えています。
 三好為三は、それまでの経緯から阿波系三好氏と折り合いが悪かったのか、三好三人衆方から離反します。準備を整え、これからという矢先に三好三人衆方から中核的な人物が、幕府方に寝返ります。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P636、言継卿記4-P441、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、信長公記P109

-(史料4)-----------------------
『細川両家記』:一、同8月30日に三好下野守の舎弟為三入道は信長へ降参して野田より出、御所様へ出仕申され候なり。『言継卿記』8月29日条、明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
『多聞院日記』9月1日条:(前略)三好為三・香西以下帰参云々。実否如何。『信長公記』野田福島御陣の事条、(前略)さる程に、三好為三・香西両人は、御味方に調略に参じ仕るべきの旨、申し合わせられ候と雖も、近陣に用心厳しく、なり難く存知す。8月28日夜中に、為三・香西、摂津国天王寺へ参らせられ候。
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この時点では、為三が幕府方へ寝返ったとの事は、未確認情報の噂の範囲でしたが、それは事実でした。三好三人衆の中枢に居て、重要な情報を持っていると思われる為三が寝返ったのですから、幕府方は非常に期待し、破格の条件も呑む事を為三に伝えていたのでしょう。
 それについての史料があります。元亀元年9月20日付けで、織田信長が為三へ摂津国豊嶋郡の知行希望について音信しています。
※織田信長文書の研究-上-P417

-(史料5)-----------------------
摂津国豊嶋郡の事、扶助せしめ候。追って糺明遂げ、申し談ずべく候。疎意有るべからず候。
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この時、豊嶋郡を根拠地として大きな勢力を誇った池田家の当主池田勝正が、三好三人衆方の調略から家中の内訌に発展させた事で城を出、幕府方へ身を寄せていました。なお、勝正は幕府から公式に摂津守護を任されていた人物でもありました。
 この頃、勝正は、摂津池田家の内訌を治めて、復帰を果たすために活動している最中でしたので、この為三の要求について、幕府は頭を悩ませたようです。しかし、幕府方への多方面からの一斉蜂起もあって、僅かな失策が内部崩壊にもなりかねない、幕府にとって非常に苦しい時期でもありました。
 
翌2年も、その緊張は解ける事がありませんでした。再び五畿内地域とその周辺地域から、幕府方を攻めようとする勢力が京都を目指して動きを活発にさせます。

そんな中、京都に一番近い三好三人衆方の勢力であった池田家は、京都の防衛上、当面の制圧目標となり、和田惟政が中心となってこれに当たりました。同時に惟政は、大和国の松永久秀などへの対応も行っており、苦しいやり繰りを迫られていました。

しかし、惟政は、三好三人衆方池田衆に対して、優位に戦闘を展開し、順調に勢力図を塗り替えていました。池田衆は収入基盤の一つである、西牧南郷地域までも失い、池田城近くにまで攻め入られます。
 個人的には、今の箕面川辺りまで惟政の率いる幕府勢が進んでいたと想像しています。ですので、西国街道も幕府方が支配していただろうと考えています。
 
しかしながら、惟政にとっては苦しい戦いが続いています。奈良方面へも出陣しながらの対応ですので、兵も物資も余裕は無かったでしょう。京都の防衛も、イザという時のために戦力と物資を保持しておく必要があります。
 そんな環境の中、地域支配の手隙を埋めるために、めぼしい武将の活用を考え始めるのは自然な事です。幕府は、池田方の領地を一旦欠所にして、再編する事も可能になった事から、三好為三の要求を聞き入れる事が可能となりました。
 そういう状況下で発行されたと思われる史料があります。欠年6月16日付けで、織田信長が、為三の領知について将軍義昭側近の明智十兵衛尉光秀へ音信します。
※織田信長文書の研究-上-P392

-(史料6)-----------------------
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知の旨に任せ、榎並の事、為三申し付け候様にあり度く候。然者伊丹兵庫頭(忠親)近所に、為三へ遣し候領知在りの条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なきの様に、兵庫頭へ了簡される事肝要候。
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その信長の決定について、京都の中央政権トップである将軍義昭も、元亀2年7月31日付けで、正式に為三へ通知を行います。
 この頃には、和田勢が更に池田領の中核部分まで進んで優位となり、池田勝正も和田方として、細川藤孝と共に池田城を攻めていました。
※大日本史料10-6-P685

-(史料7)-----------------------
舎兄三好下野守跡職並びに自分当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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お気づきとは思いますが、為三へのこの幕府の正式通知には、信長に要求した、為三の要望は盛り込まれておらず、その対案としてなのか、為三の兄である下野守の知行について、それを認めると伝えています。
 これに加えて、信長から先に提示のあった、為三の本来の所領である摂津国東成郡榎並庄領有は、手柄を立て次第に認める旨、幕府としても相違無いと伝えています。

上記の一連の史料は、幕府の池田勝正への配慮が窺われます。為三の要求に対して、幕府と信長は、明らかに勝正の立場とのバランスを考慮した結果を導いています。
※一方で、幕府としての領地接収の伏線もあったと思われます。

しかし、元亀2年の7月から8月にかけて、池田勝正も加えて和田惟政は、伊丹忠親と共同で三好三人衆方の池田城を攻めていましたが、8月18日、和田・伊丹連合軍は敗走し、この地域での軍事バランスが予想外に大きく崩れました。
 池田衆は200余名を討ち取って勝利したのですが、これは和田・伊丹方にとって大きな損害だったらしく、直ぐに体制を立て直す事が出来ない程だったようです。池田衆はこの隙を見逃す事無く、和田領内へ攻め入るべく大挙東進を始めます。同月22日頃、3,000という大軍を出陣させます。
 和田惟政はこれに対応する事ができず、慌てて本拠の高槻城に戻り、策を講じますが間に合わず、結果は「白井河原合戦」の歴史が示す通りとなりました。

その一連の流れとしての決戦となった白井河原合戦は、いわば象徴的な結果としての歴史的要素ですが、この大合戦に至る要因が必然的に醸成されていた事が判ります。

元亀元年8月、幕府方に寝返ってから、その要求が実現するまでに1年程かかって、やっとその兆しが見え始めたのですが、残念ながら為三は、願望を遂げられませんでした。
 しかし、連続した出来事で見ると、この白井河原合戦に至る過程で、為三にとって大きな転機があった事は、これら一連の史料から窺い知る事ができるように思います。





2013年8月12日月曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その4:三好右衛門大夫政勝(為三)について)

堺市の善長寺
この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。

色々と史料を見ていくと、三好為三の人物像について、非常に執念深く、欲深い人物だと、個人的には感じています。一方で、その事が為三にとって「諦めない」行動の源になっていたのかもしれません。
 また為三は、右衛門大夫政勝であり、その父は同苗越前守政長であり、そして同苗下野守とは別人であろうとも考えています。
 というのも、為三はその父と考えられる政長(宗三)の跡職を求め、旧領の回復にコダワリ続けている形跡が見られるからです。これは、政長の家督者としての行動であろうと思われます。
 そしてまた、元亀年間頃にはそれだけに止まらず、阿波三好家を裏切った上で、父と兄である下野守の跡職までも後継として認めるよう将軍義昭に求めています。

その一方で、三好下野守については、そのような行動は見られませんし、政勝(為三)と共通の、一貫したこだわりも見受けられません。両者は、血縁はあるものの、全く違う環境で生きていて、性格も異なる人物だったのだろうと個人的に考えています。

この三好政勝と為三が同一人物で、下野守とは同一では無く、両者の父が政長(宗三)である事について、何から説明すればいいのか迷う所ですが、政勝時代に発行した史料から先ずご紹介したいと思います。
 政勝については、伝聞史料も多いのですが、年記未詳や集覧できない環境もあって、政勝と為三の分別が進んでいなかったとも言えます。
 欠年12月6日付け、三好政勝が摂津国水無瀬家関係者らしき高階右京亮へ発行した音信です。
※島本町史(史料編)P363
 
-(史料1)-----------------------
御家門様(近衛)従り尊書下され候。拝見畏み存じ候。仍て摂津国西富松御知行分の儀仰せ蒙り候。聊かも疎意存ずべからずと雖も候。此の如く儀我等若年の事候間、是非に及ばず候。去り乍ら三木与左衛門尉に申し付け候条、定めて様体申し上げるべく候。此れ等の趣き御意を得候へば御披露預けるべく候。恐惶謹言。
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文中の三木与左衛門尉は、三好政長の馬廻衆で、政勝の代にも重臣として仕えている事が判ります。また、文中に「此の如く儀我等若年の事候間、是非に及ばず候。」と言っている事から、政勝が家督を継いで間も無い頃ではないかとも考えられます。天文14〜16年あたりの史料かもしれません。

それから、三好宗三の項目でもご紹介しました、宗三の摂津池田家への不当な介入について、再度ご紹介します。天文17年8月12日付けで、三好長慶がその主人である管領細川晴元に訴えた音信です。
※三好長慶(人物叢書)P98

-(史料2)-----------------------
急度申せしめ候。仍て同名越前守入道宗三(政長)礼■次、恣に御屋形様の御前を申し掠め諸人悩まし懸け、悪行尽期無きに依り、既に度々於、上様御気遣い成られ次第淵底御存知の条、申し分るに能わず候や。都鄙静謐に及ぶべく仕立て之無く、各於併て面目失い段候。今度池田内輪存分事、前筑後守(信正)覚悟、悪事段々、是非に及ばず候。然りと雖も一座御赦免成られ、程無く生涯為され儀、皆々迷惑せしめ候処、家督事相違無く仰せ付けられ太松(長正か。不明な池田一族。)、条々跡目の儀、安堵せしめ候き。然る所彼の様体者三好宗三相拘い渡し置かず、今度種々儀以って、城中(池田)へ執り入り、同名親類に対し一言の■及ばず、諸蔵の家財贓物相注以って、早や知行等迄進退候事驚き存じ候。此の如く時者、池田家儀我が物にせしむべく為、三好宗三掠め上げ申し儀、筑後守信正生害せしめ段、現行の儀候。歎き申すべく覚悟以って、三好宗三一味族追い退け、惣同名与力被官相談じ、城中堅固の旨申す事、将亦三好宗三父子に対し候て、子細無く共親(外舅)にて候上、相■彼れ是れ以って申し尽し難く候。然りと雖も万事堪忍せしめ、然るに自り彼の心中引き立て■■の儀、馳走せしむべく歟と、結局扶助致し随分其の意に成り来り■■今度河内国の儀も、最前彼の身を請け、粉骨致すべく旨深重に申し談、木本(木ノ本?)に三好右衛門大夫政勝在陣せしめ、彼の陣を引き破り、自ら放火致して罷り退き候事、外聞後難顧みず、拙身(三好長慶)を相果たすべく造意、侍上げ於者、言語道断の働き候。所詮三好宗三・政勝父子を御成敗成られ、皆出頭致し、世上静謐候様に、近江守護六角弾正少弼定頼為御意見預るべく旨、摂津・丹波国年寄衆(大身の国人衆)、一味の儀以って、相心得申すべくの由候。御分別成られ、然るべく様御取り合い、祝着為すべく候。恐々謹言。
※■=欠字部分。
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また、この件に関する史料2点もご紹介します。これらも三好宗三の項目で既にご紹介したものです。欠年11月27日付け、細川晴元方三好之虎、摂津池田家の執政機関である池田四人衆へ宛てた音信です。
※豊中市史(史料編2)P512、箕面市史(史料編6)P437

-(史料3)-----------------------
阿波国御屋形様科所摂津国垂水事、先年平井丹後守方と三好政長(宗三)以って調え、相渡され候へき。然るところ、近年また押領候て然るべからず候間、御代官職事、最前平井対馬守方従り仰せ付けられ候条、速やかに渡し置かれ候様、孫八郎殿(池田四人衆が推す当主)へ御異見肝要候。なお、加地又五郎申すべく候。
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同じく、もう一つ。欠年11月30日付け、細川晴元方某(姓名不明盛■)が、池田四人衆へ宛てた音信です。
※箕面市史(史料編6)P437

-(史料4)-----------------------
摂津国垂水儀、此 御屋形様料所筋目を以って、先年三好宗三と平井丹後守方以って調え、相渡され候事候。然るところ、重ねて御押領然るべからず候。御代官職事、先々自り平井対馬守方仰せ付けられ候条渡し置かれ候。なお、御異見候者喜悦為すべくの由、書状以って申され候。別して御気遣い仕るべく候 。
※■=欠字部分。
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そして、これらの失策が三好宗三(政長)・政勝父子の社会的地位を陥れる事になり、中央政治から追われます。その後は、その父子の主人である細川晴元に従って、近江・丹波国方面で長期間に渡って亡命生活を送ります。
 一方で、京都の中央政権では、三好長慶が細川氏綱を晴元に代わる管領として立て、活動していました。また長慶は、京都の安定を望む天皇とも良好な関係を築き、公的には牢人となってしまった晴元にとっては復帰のメドが立たない状況に陥りました。
 時間が経つにつれ、晴元に同情的であった将軍義輝も長慶と和睦して京都へ戻る動きを見せ始め、晴元との心情的な溝も広く、深くなっていきました。間もなく将軍義輝は入洛。次に将軍は三好長慶に晴元との和睦をススメ、両者はこれを受け入れます。将軍は晴元にこれ以上抵抗を続ける力は無いと見、また、京都の安定を考えたのでしょう。
 永禄4年5月4日、晴元は嫡子である六郎を次の管領へ就かせる事を条件に、晴元は摂津国島上郡の普門寺に入ります。しかしながら、これは事実上軟禁でもあり、外部との連絡は自由を制限されていたようです。そしてまた、長慶は約束を事実上守りませんでした。
 
この天文18年から永禄4年の間、三好政勝(為三)に関する直接的史料は今のところ見られません。しかし『言継卿記』などに伝聞的記述として見られます。

三好政勝についての伝聞史料を列挙します。天文19年4月4日、三好政勝の手の者が、京都大原の辻で強奪を行いました。
※言継卿記2-P322

-(史料5)-----------------------
大原の辻に小泉立て置き候関わりの者、細川晴元衆30人計り来たり、両人生害了ぬ。馬一疋之取り云々。香西・三好政勝人数山中(現大津市山中町)に居り候衆云々。
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それから、天文20年3月15日には、細川晴元方三好右衛門大夫政勝などが、京都に乱入します。
※言継卿記2-P427

-(史料6)-----------------------
今朝風聞、進士九郎、三好筑前守を三刀之築き云々。生死取り取り沙汰未定也。直に山崎へ各罷り越し云々。伊勢守以下奉公衆、奉公衆各罷り向い、三好使者於、伊勢守以下生害すべく云々。仍て山城国岩倉山本罷り出、東門前、東山辺悉く放火了ぬ。東洞院二條自り五条へ至り乱妨云々。聲聞師村悉く放火了ぬ。宇津自り、香西、柳本、宇津、三好右衛門大夫等人数出云々。伊勢守宿所雑舎放火せしめ了ぬ。近所の衆之消し云々。(後略)。
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更に、天文22年7月28日、晴元方三好政勝など丹波衆が、京都へ侵入して打ち廻ります。
※言継卿記3-P60

-(史料7)-----------------------
細川前右京大夫晴元入道の人数長坂自り出張、然るに奉公の上野民部大輔以下五六人迎えに出られ、細川内内藤彦七・香西・柳本・三好右衛門大夫以下20人計り武家へ参り、御覧なられ則ち御進発、北野右近馬場、晴元御免也。西院地下之焼き。但し小泉山城守某城堅固に之持ち。三好筑前守長慶御敵捕らえられ云々。終日見物了。大樹晩頭御帰陣。先刻御礼申し輩悉く御送りに参り、各今度北山に陣取り云々。晴元明日北山迄上洛云々。
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同29日、三好政勝など丹波衆が、将軍義輝と打ち合わせのために京都霊山城へ入ります。
※言継卿記3-P61

-(史料8)-----------------------
今日西院近所野伏之有り。殊無き事、内藤彦七、香西、三好右衛門大夫、十河左介、宇津二郎左衛門等5人、武家へ御談合為参られ、御懸け於御酒下され、大館左衛門佐、上野民部大輔、同与三郎、杉原兵庫頭等出られ、同朋共酌也。其の外諸奉公衆談合共之有り。予御見舞い参る為、朽木民部少輔以て申し候了ぬ。
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天文年間までは、伝聞資料であっても三好右衛門大夫政勝の記述が見られるのですが、弘治年間頃からは、両者が入れ替わるようにその兄の下野守の直接的史料が見られ始めます。
 長くなりますので、それについては三好下野守の項目をご参照下さい。

それから、下野守の動向を示す、少し興味深い資料があります。永禄元年の条にある『長享年後畿内兵乱記』の記述です。
※続群書類従

-(史料9)-----------------------
永禄元年2月27日改元。(中略)。6月4日、如意峰に至り、公方衆三好下総・香西越後・甲賀衆、近江国坂本自り出張。浄土寺へ陣取り。鹿谷放火。其の夜中、松永弾正忠久秀大将為摂津・丹波国衆出張。
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とあります。『長享年後畿内兵乱記』は軍記物というか、後世に編纂された資料ですので、取扱いに注意を要しますが、記述中にある「三好下総」は、三好下野守を指すものと思われます。三好下野守は公方衆、即ち、将軍義輝方として活動していたようです。
 これに対して、天文年間頃まで三好右衛門大夫政勝は、丹波国に拠点を置いて活動している事が判ります。また、その一団は丹波衆として認識され、天文22年の段階で将軍義輝の入る京都霊山城へ打ち合わせに入る動きをしています。
 
さて、その三好政勝は、天文22年から永禄元年の5年間に細川晴元の側を離れて、将軍義輝に取り立てられ、右衛門大夫の官位から下野守となったのでしょうか?
 官位としては、(右)衛門府の大夫ですから、五位あたりです。また、下野守は、従五位下です。地位としては上がりも下がりもしていないようです。また記述では、「大夫」と「大輔」とが見られるのですが、大夫は、『公式令』の規定では太政官においては三位以上、寮においては四位以上、中国(ちゅうこく)以下の国司においては、五位以上の官吏の称とされたようです。
 官職としての大夫は「だいぶ」と読み、単に五位を意味する場合には「たいふ」と読み分けたのだそうです。また、五位以下相当の官職の者が「五位」に叙せられた時、官職の下に大夫と付記する(例:六位相当の官職である左衛門尉が五位に昇った場合、左衛門大夫と称する)。
※参照:コトバンクなど

ですので、大夫と大輔が厳密に書き分けられていないように見えるのは、官位が形骸化されつつある状況の中で、音の響きを中心とした宛て字的な現実もあったのかもしれません。正式には、衛門府内に大輔はありません。ただ、総体的に「大輔」は、高い位ではあります。
 天文13年5月に政勝は、新三郎で、父の越前守政長(従五位)から家督を譲られ、右衛門尉(六位)を経て、右衛門大夫(五位)と地位を高めたのだろうと思います。
 
ちなみに天文22年から永禄元年の間、将軍義輝は朝廷から遠く、近江国朽木に居て、亡命生活を送っていますので、官位の朝廷への上奏も難しい状況だったのではないかと思われます。
 
しかし、右衛門大夫と下野守は、同じ人物でしょうか?私は違うと思います。

ちょっと時代が前後しますが、永禄12年5月3日の条の『二條宴乗記』に、三好下野守が死亡したとあります。
 そして、翌月の閏5月14日、この時は阿波三好衆として所属していたらしい、三好為三が『多聞院日記』の記述に現れます。喧嘩があったようです。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P130

-(史料10)-----------------------
淡路国於喧嘩有て、三好為三被官矢野伯耆守以下死に、三人衆果て云々。実否如何。
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この頃には、三好為三としての社会的認知はされていたようですし、奈良にまでその情報が入って、記録までされています。

長い間、阿波系三好家と対立していたため、血縁を頼りに家に復しても、為三は環境に馴染めなかったのでしょう。また、為三が阿波系三好家へ復するキッカケとしては、三好下野守の死亡する前後だったのかもしれません。
 兄の下野守が死亡した永禄12年5月以降と思われる、下野守を除いた三好三人衆の中に三好為三が加わったらしい史料があります。
 欠年8月2日付け、三好日向守入道宗功(長逸)・石成主税助長信・塩田若狭守長隆・奈良但馬守入道宗保・加地権介久勝・三好一任斎為三が、山城国大山崎惣中へ宛てて音信しています。
※島本町史(史料編) P435

-(史料11)-----------------------
当所制札の儀申され候。何れも停止の条、之進めず候。前々御制札旨、聊かも相違在るべからずの間、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
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上記史料に署名している三好三人衆の内、三好日向守が入道して宗功と名乗り、同石成主税助も長信と名乗っています。各々それを名乗るのは、両者の活動時期の最晩年に見られます。特に日向守の「宗功」との名乗りは、永禄12年初頭から見られるようです。
 また、史料の内容も、大山崎惣中への制札の発行についてでもある事から、地域、権力の有効的時期、顔ぶれ、名乗りの内容など様々な要素を考え併せると、元亀元年ではないかと個人的に考えています。

為三は下野守が死亡した後、実の弟でもある事から、為三がその兄の地位や役割を引継いだと考えられます。
 それから間もなくして為三は、結局、三好三人衆方を離れて、織田信長・将軍義昭方に寝返ります。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P636、言継卿記4-P441、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206など

-(史料12)-----------------------
『細川両家記』:
一、同八月三十日に三好下野守の舎弟為三入道は信長へ降参して摂津国野田より出、御所様へ出仕申され候なり。
『言継卿記』8月29日条:
明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
『多聞院日記』9月1日条:
(前略)。三好為三・香西以下帰参云々。実否如何。
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ちなみに、この時に野田・福島へ籠城した武将が、野田春日社の「藤」を詠んだ和歌を納めたと伝わっています。
※なにわのみやび野田の藤(藤三郎氏著)P170

-(史料13)-----------------------
 瑞垣(みづかき)に、かかるを幾代仰ぎ見む、神の名に、あふ花の藤が枝
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さて、為三はこの時に寝返りの条件を提示していたようで、元亀元年9月20日付けで、織田信長が為三へ、摂津国豊嶋郡の領知について音信しています。
※織田信長文書の研究-上-P392

-(史料14)-----------------------
摂津国豊嶋郡の事、扶助せしめ候。追って糺明遂げ、申し談ずべく候。疎意有るべからず候。
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これらの史料を見てもわかるように、三好下野守が死亡した後も三好為三は、確かに生きています。同一人物では無いという事が断定できると思います。
 ちなみにこの史料は、為三が三好三人衆の詳しい情報を持つ人物として、将軍義昭方に期待されていた事から、為三はそれを逆手に取り、味方になる条件として、非常に莫大で難しい要求をした痕跡と思われます。
 これは為三にとって、父の代からの悲願である摂津国池田家領の領有をこの時に要求しているものと考えられます。ドサクサに紛れて凄い事をやっているのです。

一方この時、池田勝正が幕府方として居り、三好三人衆方となっていた摂津池田家を討伐して、復帰を目指して活動中でした。
 そういう状況であり、幕府の為三に対する解答は、非常に時間がかかり、一年後に伝えた内容は、以下のようなものでした。元亀2年7月31日、将軍義昭は、為三に宛てて所領についての御内書を下します。
※大日本史料10-6P685

-(史料15)-----------------------
舎兄三好下野守跡職並びに自分(?)当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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また、この史料と連動した織田信長の見解です。同年6月16日、幕府衆であった明智光秀へ三好為三の処遇について音信しています。
※織田信長文書の研究-上-P392

-(史料16)-----------------------
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知の旨に任せ、榎並の事、為三申し付け候様にあり度く候。然者伊丹兵庫頭(忠親)近所に、為三へ遣し候領知在りの条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なきの様に、兵庫頭忠親へ了簡される事肝要候。
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伝榎並城跡
これは、池田勝正の本領である摂津国豊嶋郡についての三好為三の領知は認めず、為三の本領であった同国東成郡榎並庄の領知を許すという判断です。これは明らかに、勝正との兼ね合いを考えた幕府の判断です。
 また、為三の本知は榎並庄と伝えており、これはやはり、父である政長から家督を譲られた政勝の経緯を辿った判断と考えざるを得ません。

繰り返しになりますが、これらは、永禄12年5月に三好下野守が死亡してからの出来事です。

そして為三は、この幕府からの解答を受け入れませんでした。為三にしては受け入れ難いものがあったのでしょう。
 三好三人衆から寝返ってから1年以上経ってはいますが、柱になる収入、即ち、領知も無かったと思われ、活動に窮するようになっていたのだと思います。しかも、織田信長は、榎並庄内で手柄を立てたら領知を許すと、条件を付けています。
 
それも難しかった為三は、結局、三好三人衆方に復帰します。元亀3年4月、為三は摂津国中嶋城から出て、その近くの浦江城に入って幕府方を攻撃し始めたようです。
 その頃のモノと個人的に考えている史料がありますので、ご紹介したいと思います。形式的に疑問があるとされてはいますが、池田一族の系譜を引く個人宅に伝わっている文書です。欠年10月7日付け、三好為三が上御宿所へ宛てて音信しているものです。
※箕面市史(史料編6)P438

-(史料17)-----------------------
代官之事 一、刀根分、一、茨木分、以上。
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ちなみにこの史料は、現在東大史料編纂所の調査も入っているとの事で、そう遠くは無い内に色々と解明されるかもしれません。

そしてもう一つ。欠年10月13日付けで、為三が、聞咲(所属不明)という人物に音信した史料です。
※戦国遺文(三好氏編2)P272、大阪編年史1-P459

-(史料18)-----------------------
前置き:尚々細々書状を以って申し入れるべく候ところに音無く、中々是非に及ばず候。そもしの事に有るべからず■■■候。尚追々申し承るべく候、以上。
本 文:御状委細拝見せしめ候。その後切々申し承るべく候に、遠路候へば、とかく音無く本意に背き存じ候。一、摂津国大坂の事、京都へ相済まさず候。この一儀 種々才覚申し儀候。この間日々天満宮まで罷り出、大坂へ参会申し候。御屋形様へ重々懇ろ候の事、一、篠原長房・安宅神太郎渡海候。奈良右(不明な人物)河 内国若江に寄せられ候。安宅神太郎摂津国東成郡榎並に在陣候。昨日(10月12日)松永山城守久秀・十河・松山重治等と牧・交野辺罷り立ち候。少々川を越 し、摂津国高槻へ上がり候由候。同国茨木表相働き、同国池田へ打ち越し相働くべく候旨候。一、その表の事、「むさと」之在り由候。推量申し候。扨々(さて さて)笑止に候。細々仰せられ候、随分御才覚この時候。一、織田信長火急に上洛すべく候由候。左様候はば、何方も相済ませるべく候。御屋形様へは池田跡替え地為、河内半国・堂嶋・堺南北・丹波国一跡前へ遣わし候。■斎の事、今少し見合わせ申し候者、相済ませるべく候。堂嶋にて御存知の如く摂り、一円之無き事候間、御馳走申さず無念候。其の為然るべく使いに相調うべく候。一、摂州(意味は不明)尚承られるべく候。いささか等閑無く候。何れも追々申し談ずべく候。此の外急ぎ候間、申し候旨申し候。恐々謹言。
※■=欠字(判読不明も含む)部分。
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この後、為三に関する動きは史料上で捉える事が難しくなります。直接史料は今のところ見つけられていません。

天正3年4月、河内国南部で勢力を保った三好山城守康長を制圧するために、織田信長が軍勢を京都から南進させます。この時、それに関する城等を落として進みますが、『信長公記』河内国新堀城攻め干され並びに誉田城破却の事条に、4月17日の事として、記述が見られます。
※信長公記P167

-(史料19)-----------------------
4月17日、信長御馬寄せられ、新堀城取巻き攻めらる。4月19日、夜に入り、諸手もみ合い、火矢を射ち入れ、埋草を入れ、攻めさせられ、大手・搦手へ切って出る。然るに、香西越後守生捕りに罷りなり、縄懸かり、眼をすがめ、口をゆがめ、御前へ参り候。夜中には候へども、香西と御見知り候て、日頃届かざる働き仰せ聞かせられ、誅させられ候。討ち捕る首の注文、香西越後守・十河因幡守・十河越中守・十河左馬允・三木五郎大夫・藤岡五郎兵衛・東村大和守・同苗備後守。此の外、究竟の侍170余名討死。(後略)。
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堺市堺区にある善長寺
それから、『三好別記』には、三好因幡守として意三との記述があり、また、堺市堺区にある将軍山善長寺の縁起には、政勝を「因幡守」と伝えたりしています。この善長寺は三好宗三(政長)が創建に関わった寺で、その嫡子である政勝(為三)にも関係するようです。

それからまた、三好為三や下野守は、香西越後守と行動を共にしている事が多く、この点では何らかの手がかりがあるのかもしれません。加えて、『信長公記』という軍記物でもある事ですし、どこまで鑑定ができるか、難しい事も多いかもしれません。
 
為三の動きの後半は、もはや「道理」を失い、領知やカタチあるものへの拘りのために、所属をコロコロと変えます。時局を見る余裕も無く、家も保てなくなり、最後には「個人」の単位になっているように見えます。

非常に長くなりましたが、為三について、今考えている事をまとめてみました。今後も為三については注目していきたいと思います。解った事はこのブログでもご紹介致します。

善長寺墓地にある天正元年の墓
追伸:堺市の善長寺には、三好宗三と政勝の墓もあると伝わっていますが、政勝の墓については所在が不明のようです。しかし、墓地の奥にある古い一石五輪塔があり、それには「天正元年」と彫ってあるのが確認できます。墓の素材は花崗岩ですので、剥落が進んで、文字が読めないのが残念です。

天正元年であれば、元亀3年以降、政勝(為三)の記録が見られなくなる事実とも一致します。もしかすると、これが政勝の墓塔なのでしょうか?




2013年7月17日水曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その3:三好下野守(宗渭)について)

この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。

 三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その3:三好下野守(宗渭)について)
三好下野守(宗渭)については、不明な事も多く、特にその初期の活動についてはよくわかっていません。また、諱についてもわかっておらず、通説となっている「政康」についても断定されたものではありません。

それから、三好下野守と三好為三の関係については、「兄弟」との史料があります。元亀2年(1571)7月31日付け、将軍義昭が三好為三に下した御内書です。
※大日本史料10-6P685(狩野文書)

-(史料1)------------------------------
舎兄三好下野守跡職並びに自分当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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後にまた、三好為三について取り上げる予定ですが、為三は三好宗三政長の跡取り「政勝」と考えられますので、下野守と為三が兄弟であれば、両者の父は宗三政長であろうと考えられます。
 実は、現代感覚と違って必ずしも長男が家を継ぐとは限らないのですが、後の実績を見ても有能であった長兄の下野守が家の跡取りにならなかったのは、下野守が既に管領細川晴元に近従するなどして、家を離れていたなどの状況があったのかもしれません。それからまた、三好長慶と宗三政長の闘争があり、この時に競り負けた政長は隠居させられたという、急な外圧があった事にもよるかもしれません。

それから、この三好政長は、摂津国榎並庄を本拠とし、榎並城を居城としていました。
 今谷明氏は、三好長慶を中心とする勢力を阿波三好氏、三好政長を中心とする勢力を摂津三好氏などと区別して見ていたようですが、両者のこういった拠点地域を見ての事と思われます。
 長慶よりも一世代違う年長であり、細川晴元の重臣であるなどの安定感があった政長を選び、池田氏は色々と期待しつつ繋がるようになったようです。一方の政長はこれにより、摂津国内で更に安定した勢力基盤を手に入れようともしたのでしょう。
 摂津三好氏の本拠地であった榎並庄に政長は、大変こだわっていたようです。天文18年(1550)6月の江口合戦での敗戦を見ても、こだわりのあまりに状況を見誤ったようなところも見受けられます。政勝が年若かったせいもあるのかもしれません。
 そして、これが跡取りの政勝(為三)にも引継がれ、政勝もまた、その領有に非常にこだわっています。江口合戦で不覚を取ったため、強く心残りになったのかもしません。
 
しかしながら、政勝(為三)と比べると、下野守は兄弟とはいえそれ程のこだわりは見せていません。そういうこだわりをしなくても良い経済環境や立場があったとも考えられます。
 それ故にその活動の初期は特に、活動の様子がわかる史料もなかなか無く、史上でも下野守は、突然現れる感じを受けます。
 三好下野守について、私の調べている享禄2年(1529)から天正7年(1579)までの間の史料上の初見は、今のところ摂津国川辺郡本興寺(現尼崎市)に宛てた禁制です。三好散位政生として、弘治2年(1556)8月付けで本興寺並びに西門前へ宛てて禁制を下しています。
※兵庫県史(史料編・中世1)P444
 
-(史料2)------------------------------
一、当手甲乙人乱妨狼藉事、一、陣取り寄宿事付き竹木剪り採り事、一、矢銭・兵糧米等相懸け事、右条々堅く停止され了ぬ。若し違犯之輩於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て下知件の如し。
-------------------------------

この時は状況からして、将軍義輝・細川晴元の下で行動していたようです。文末の「仍て下知件の如し」とは、直状形式といわれる文体で、下野守が上意を伝達している事を意味します。

一方、弘治という元号が4年で終わり、その年(1558)の2月28日から「永禄」と変わります。この元号は、将軍を経ずに天皇が申請による改元を認めており、統治者が変わった事を示していました。
 改元の申請者の実力や資金力、朝廷への貢献など、様々な点で検討されますが、それに相応しいと認められたのは、管領細川氏綱を支えていた三好長慶でした。ただ、表向きは長慶よりも上位の人物であった氏綱を立てて行われています。
 そんな中、三好下野守の音信が永禄元年閏6月20日付けで、細川晴元と共に、前記と同じく本興寺に宛てて音信されています。先ず、細川入道(永川)晴元が、摂津国尼崎本興寺へ宛てた史料です。
※兵庫県史(史料編・中世1)P445
 
-(史料3)------------------------------
音信為青銅100疋到来候。誠に以って喜悦候。猶三好下野守散位政生申すべく候。恐々謹言。
-------------------------------

次に、同日付けで、三好下野守散位政生が、尼崎本興寺玉床下へ宛てた音信です。
※兵庫県史(史料編・中世1)P445

-(史料4)------------------------------
屋形(入道(永川)晴元)出張に就き、御音信の通り、即ち披露致し処、祝着之旨、直札以って申され候。尚相意を得申すべく由候。将又私へ鳥目50疋、御意懸けられ候。御懇ろの段、恐悦の至り候。委細大物左衛門尉申し入れるべく候。恐々謹言。
-------------------------------

更に、同年6月9日付けで、山城国大山崎へ宛てて、細川入道(永川)晴元の奉行人として、三好下野守(政生)・香西越後守が、山城国大山崎へ宛てて禁制を下します。
※島本町史(史料編)P432

-(史料5)------------------------------
一、当手軍勢甲乙人等乱妨狼藉、一、山林竹木剪り採り事並びに放火の事、一、矢銭・兵糧米相懸け事、右堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩有ら者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
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この下野守の一連の動きがあった頃、将軍義輝と三好長慶との間に和睦の機運が高まり、模索され始めます。しかし、将軍と晴元方の内部調整が進まず、しばらくグズグズとします。永禄元年12月、将軍義輝は5年ぶりに京都へ戻ります。

それから2年を経て、大坂本願寺宗の寺である、河内国交野郡の順興寺実従が、三好下野守へ音信しています。永禄3年(1560)4月8日付けの『私心記』に見られます。文中の土屋氏は河内北部の国人です。
※本願寺日記-下-P430

-(史料6)------------------------------
土屋■■■(孫三郎?)返礼ニ、絞手綱ニ具遣わし候。使い四郎左衛門。三好下野守へ樽三荷二種、四郎左衛門ト忠兵衛ト遣わし候。
※■=欠字
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この永禄3年頃は更に京都の政治情勢が変わっています。将軍義輝は永禄元年12月3日に入京し、三好長慶との闘争は一応の落着となっていました。しかし、この和睦に同意せず、細川晴元は別行動を取った事から、その時点で反幕府方となって、公式の身分的には浪人となっていました。
 三好下野守との関係は、この時に岐路を迎えたのかもしれません。下野守の弟である右衛門大夫政勝は、晴元と共に行動し、下野守は将軍や幕府方へ身を寄せるなど、別の道を選んだのかもしれません。
 永禄元年頃、細川氏綱を支えていた河内守護家畠山氏と三好長慶は、細川晴元方に対して共闘していたのですが、永禄2年には畠山家中で内訌が起こります。これに幕府方として三好長慶が介入します。乱はその年の内に沈静化したものの、翌3年早々、内訌を起こした安見氏と畠山氏が今度は一体化して、長慶に反旗を翻します。怒った長慶は再び河内国へ討伐軍を起こします。
  『私心記』を見ると、そんな状況下で、下野守が河内国で行動していた事が判ります。また一方で、この下野守の行動は、反三好長慶として一貫していた可能性はありますが、ハッキリとした事はわかりません。

長慶はこの時、将軍義輝を抱えて幕府方の重要人物(相伴衆)となっており、幕府軍としての河内国討伐戦を指揮していました。
 高い格式を持つとはいえ、いち守護職の権力的な勢力となってしまった現実ではこの力に対抗できず、畠山氏は降伏し、もう一つの守護職権を持つ紀伊国へ一旦落ち延びます。畠山氏は畿内の周縁部勢力となり、これがまた細川晴元勢と繋がるなどして、三好氏に反発します。

この流れの中で、同族であった三好下野守も許されて、三好長慶に迎えられたのかもしれません。長慶の領知が拡大され、人材が必要になったという事もあるのかもしれません。
 というのも、将軍義輝は長慶に、細川晴元との和解を促し、長慶はこれを受け入れます。永禄4年(1561)5月4日、晴元は逃亡先であった近江国朽木を出、堺を経て、摂津国高槻の普門寺へ入ります。こうなれば、三好下野守も、長慶への敵対行動の理由を完全に失います。

ちなみに三好下野守は、「三好下野入道聞書」という刀剣に関する著書も残す程、当時一流の目利き(鑑定家)でもありました。この深い知識は、多くの人に尊ばれ、下野守は細川藤孝の師でもあったようです。
 これは、晴元や将軍義輝の側に仕えるなどで、日本国中の名品を目にし、知識・経験を貯えた事の結晶かもしれません。 また、そういう役割をしていたのかも知れませんね。当時、祝事や贈答などで名刀のやり取りは頻繁に行われています。

さて、河内国が長慶によって制圧された翌年、永禄4年には、三好下野守は長慶方として行動しているようです。『細川両家記』の記述を見てみます。

-(史料7)------------------------------
(前略)、然るに又南方泉州表へは紀伊国根来寺衆、畠山高政、安見方一味して岸和田辺へ陣取り也。是併せ去年十河民部大輔殿死去により出張由也。(中略)。一、和泉国表へは、阿波国三好実休大将為、安宅摂津守冬康・三好山城守・同苗下野守・同苗備中守・篠原右京亮長房・吉成勘介、此の外河内国高屋の城の阿波国衆打ち出し、泉州表へ陣取り。敵味方の間5丁(5,500メートル)・3丁(3,300メートル)には過ぎざりけり。兎に角して年暮れ候也。
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これ以降、三好下野守は一貫して三好長慶の一族衆として、重要な役割を果たしますが、有能であり、人格者でもあったのか、比較的短期間の内に「家老」のような重い役割を持つ立場になっていきます。
 三好長慶が永禄7年に死亡すると、三好三人衆のひとりとして、三好家を支えます。やはり、誰もが認める能力を備えていた事は、こういった結果を見ても窺えます。
 
さて、この三好下野守と摂津池田家も浅からず関係しています。測った訳では無いと思いますが、運命がうまく両者を導いているようにも見えます。池田信正の死後、その後継を巡って家中の対立が起こりますが、弘治3年に官僚集団ともいえる池田四人衆が推す「孫八郎」が死亡したのをキッカケに、もう一方の後継候補であった長正と和解したようです。
 ちょうどその頃、京都の中央政権もひとつの画期を迎えます。細川氏綱を推す三好長慶が、細川晴元との闘争に打ち勝ち、近江国に亡命していた将軍義輝が京都に戻って和睦します。三好長慶が支える氏綱政権が安定し始めた事により、これまでとは違った動きが出始め、様々な再編、新たな課題の克服に迫られるようになります。

池田氏はこの流れに乗り、三好家と血縁を持っていた事が家運の繁栄に繋がり、一族的扱いを受けるようになります。これは政権の安定を図る必要があった時期に、池田家政がうまく対応した事にもよるでしょうし、三好下野守との個人的な相性が良かった事もあったのでしょう。
 池田家にとっては、親戚(長正から見るとオジ)が中央政権の重臣に居るのですから、これ程の良い環境はありません。池田氏は一族扱いを受け、同政権内で禁制の発行も許される程の立場に成長します。
 その後、次の当主勝正の代でも池田家は、三好家との良好な関係を維持し、三好三人衆が推す第14代将軍足利義栄政権樹立にも大きな支援勢力の一つにもなりました。

少し興味深い資料があります。『摂津国豊嶋郡池田村大広寺所蔵池田系図』に、永禄10年7月の事として、摂津池田家の一族である池田宗伯(これは法名で諱はわからず)が、三好三人衆の三好下野守により、大和国北葛城郡箸尾村に知行を得たとあります。
 系図での記述ですので、取扱いに注意は要しますが、しかし、これが時期・場所・人物ともに、全く的外れではないのです。事実、この時には箸尾庄の領主であった箸尾氏は、三好三人衆に土地を追われて居らず、欠所地になっていた事が『多聞院日記』に見られます。
 詳しくは、わが街池田:池田氏関係の図録(奈良県北葛城郡箸尾の箸尾城跡)のページをご覧下さい。
 
しかし、永禄11年秋、日本史上あまりにも有名な織田信長の中央政権への登場で、三好政権が大きく動揺します。それについての三好方の対応の拙さもあったのですが、池田氏は家の保全のため、一旦三好家から離れざるを得ない状況となります。

直ぐさま三好三人衆は、京都奪還の軍勢を起こし、将軍義昭の居所である京都六条本圀寺を目指して侵攻しました。永禄12年正月の本圀寺・桂川の合戦です。
 三好下野守は、幕府方となった池田勝正などと桂川で対戦しますが、利あらず、三好三人衆の軍勢は敗走します。三好下野守は、この時重傷を負ったのか、その年の5月3日に死亡します。『二條宴乗記』にある記述です。
※ビブリア52号P78 (二條宴乗記)
 
-(史料8)------------------------------
三好下野守入道釣閑斎、当月三日に遠行由。あわ(阿波)於、言語道断之事也。
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記録に直接的な死因が記されている訳ではないので、病気や高齢による死亡かもしれませんが、当時の史料には「遠行」とあり、則ち死亡した事が記されています。
 しかし、本圀寺・桂川の合戦に関する当時の記述には、三好下野守が戦死したとの噂が記されており、かなりの激闘であった事と、死んだとの噂が出たくらい、三好方の負けが込んでいたようですので、これらの情報を鑑みると、下野守は合戦で深手を負ったのではないかと考えられます。


復活した福島の野田藤
それから、取扱いには注意を要しますが、元亀元年の夏、三好三人衆が大挙、摂津国野田・福嶋城へ入り、幕府・織田方へ攻勢を展開した時の、興味深い資料があります。
 同地野田の春日社の名物「藤」を詠んだ和歌を武将達が納めたようです。その中に、三好下野守の歌があります。
※なにわのみやび野田の藤(藤三郎氏著)P170

-(史料9)------------------------------
 難波江の、流れは音に聞え来て、野田の松枝に、かかる藤浪
-------------------------------

これは、三好家中の沢田式部少某が編んだ、和歌集らしく、そこに名を連ねる人物の顔ぶれを見ても、同時期にはあり得ない内容ですので、時期の違うものを同じテーマで纏めたものと考えられます。
 元亀元年では、三好下野守も死亡していたと考えられますので、顔ぶれに矛盾があります。この時敵であった松永久秀も「松永弾正」として名を連ねていますが、この時は山城守を名乗っています。敵を入れるとは思われませんので、ここに名を連ねる人物が皆味方であった時期に詠んだ歌なのかもしれませんが、今のところハッキリした事は判りません。

しかし、非常に興味深い資料です。

長くなってしまいました。他にも色々あるのですが、下野守については、やはりこれだけに集中して論文を書いた方が良さそうですね。そう遠く無い内に実現したいと思います。

次は、三好政勝為三について考えてみたいと思います。




2013年7月12日金曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その2:池田筑後守信正(宗田)について)

池田筑後守宗田(信正)は、管領細川右京大夫晴元に重用され、その政権を支える国人の一人でした。各地の守護も政権を支える大きな力となってはいましたが、国人はそういった地域の枠を越えて、江戸幕府でいうところの「旗本」のような、守護を通さずに直接指示を受けるような事もあったようです。

ですので、宗田(信正)は京都に屋敷を持ち、管領と行動を共にしていたようです。将軍への毎月の挨拶などの行事には宗田(信正)の名前が見えます。更に信正は、将軍からも直接的に音信(指示)も受けるようにもなっており、「御内書」などをしばしば受けています。摂津・河内・山城・近江・丹波など、京都周辺の国々では特に、そのような傾向があったようです。
 また、それらの事が常態化すると、外聞的にも身分を整える必要があり、信正は天文8年6月に「毛氈鞍覆・白笠袋」を許されます。これは、格式ある大名のみに許された栄典ですが、室町末期には乱用されていたようです。しかし、社会的な効力はある程度持っていたようです。

ちなみに「宗田」とは、隠居(現代感覚とは違う)後に名乗った入道号で、それが法名ともなったようです。また、「宗」を使う所が三好宗三一統と何らかの共通性を感じます。今のところ、その理由について、はっきりはしていません。

それからまた、細川晴元は阿波国出身であったため、これを支えるために同国の武士が代々側近として取り立てられていたのですが、その大きな勢力が三好一族でした。そのリーダー的存在であったのが長慶と政長でした。
 時が経つにつれて、長慶は独自の理念を持つようになり、人望も得るようになります。それと対象的な運命を辿るのが晴元と政長です。
 こうなると両派は対立するようになり、政権内で武力衝突も起きるようになります。それが中央政権での出来事であったために、断続的に京都も戦火に包まれるようになります。
 不幸にして摂津池田家は、この闘争の中心に置かれる事となり、更に不幸だったのは、政長方につながりを強くしていた事です。
 
以下、前回のように、主な要素を抜き出してみます。

◎天文15年 9月3日
池田信正が細川晴元方から離反する。
◎天文16年 6月25日
池田信正、細川晴元に降伏。僧体となり恭順し、入道号を「宗田」と名乗る。
◎天文17年 5月6日
池田信正、細川晴元から切腹を命じられる。
◎8月12日
三好長慶、三好宗三による摂津池田家への非行を細川晴元へ訴える。
◎10月28日
三好長慶、反細川晴元方として三好宗三嫡子政勝を攻める。

池田信正は細川晴元に取り立てられ、その事もあって大いに家運が開けたのも事実です。しかも、晴元の信頼厚かった三好政長と縁続きになった事で、更に安定の裾野が広がったかに思われたのですが、時代や人自身の変化もあり、思うような繁栄の未来は見出せなかったようです。
 信正にとっても、池田家中の人々の生命と財産を託され、発展し続けるための舵取りを任されている以上、それを削がれる可能性が見えた場合には、回避せざるを得なくなります。
 それが、天文15年9月の晴元からの離反でした。それは信正一人が決めた訳では無く、家中と話し合って決めた事でしょう。
 
しかし、池田家が頼りにした細川晴元の対抗馬である同じ管領候補の同名氏綱は、その勢力があと一歩及ばず、池田家の目論みは遂げる事ができませんでした。
 池田信正は軍事制圧され、降伏します。この時、やはり縁者であった三好(宗三)政長を頼り、細川晴元に詫びを入れ、停戦となりました。しかし、一旦は赦免されたものの、切腹を命じられるまでの約1年間、様々な思惑を交錯させつつ、検討がされたようです。

この間、晴元のその処分を巡って、色々と世間を騒がせる出来事がありました。それらの要素を箇条書きにしてみます。

責めを受ける当人が、僧体となり恭順していれば、よほどの事が無い限り切腹には及ばない慣例があった中で、跡取りも正式に決めさせないまま、晴元が信正の切腹を命じた。
摂津池田家の縁者であり、晴元の側近でもあった三好宗三が、池田家の取り計らいもせず、非道な処置を黙認したどころか、その実行を望んだ。
三好宗三が、池田信正の処分保留中に、その財産を我が物にしようと介入した。
三好宗三が細川晴元と共に、池田信正の跡取りの人事について介入した。

これらの事は、当時の社会(特に京都周辺、近隣地域)にとって、非常に関心を集め、それを巡る細川晴元の処置は大変問題視されました。その事もあって、晴元政権は信用を失い、一気に傾きました。

もちろん、池田家中でもこの問題は深刻化し、内訌に発展しました。三好宗三に関する一派は、池田を追われるなどしたようです。この闘争では、池田信正を補佐する家政機関であった池田四人衆が、次期当主となる候補を立て、別の一派も独自の候補を立てるなどして対立した様子が窺えます。

この時どうも、宗三とは別の血統の孫八郎を四人衆が立て、一方では信正系譜の長正が当主の座を巡って分裂したようです。しかし、その後は和解したらしく、最終的には長正が池田家の正当な当主として「筑後守」を名乗っています。

荒木村重の世となった天正4年に発行された『春日社領垂水西牧御神供米方々算用帳』には、景寿院分として5石の割り当て分が記されています。これは奈良春日神社に納める、今でいう税のようなものです。
 その内訳けが、「二石 宗田御書出也。三石 右兵衛尉御書出也、御蔵納也」とあります。宗田とは信正、右兵衛尉は長正を指すと考えられます。この両者について、取りまとめを行っているらしい「景寿院」という寺(人物か)があったようです。この景寿院とは、信正・長正を供養する寺だったのではないかとも考えられます。また、この両者に関わる事が、景寿院を通して管理されているところを見ると、信正と長正は親子だったのではないかと思われます。

結局、池田家は時代の政治状況や色々な要因が関係して、三好宗三(政長)の血統が当主に就いたようです。しかし、これが三好長慶政権内でも良い方向に作用し、池田長正の代でも発展の基礎となります。これは、後に三好三人衆の一人となる同名下野守との関係があったためだと考えられます。

という訳で、次回は三好下野守(宗渭)について考えてみたいと思います。




2013年7月8日月曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その1:三好筑前守政長(宗三)について)

堺市の善長寺にある三好政長の墓
この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。

 三好為三を知ろうと思えば、一世代前から見る必要がありそうです。その父(為三が政勝と同一との前提)にあたる越前守政長入道宗三についてみておきたいと思います。

やらなければいけない事なのですが、系図関連はあまり取り組めておらず、私が把握しているのは、宗三には少なくとも3人の子がおり、1人は娘で、2人は男子。その娘が摂津国池田家当主の筑後守信正に嫁いでいるようです。
 2人の男子の内、兄が下野守を名乗り、弟が右衛門大夫で宗三跡職、つまり家督を継いでいます。
 ですから、池田信正にとって宗三の2人の男子は義理の兄弟になるわけです。

それから、私は享禄2年(1529)あたりから池田勝正について調べていますので、それ以前は、残念ながら今のところご紹介できません。政長の出自などは、他のサイトなどをご参照頂ければと思います。すいません。

という事で、私の守備範囲の中から、今回のテーマに関係する三好政長についての出来事を抜き出してみたいと思います。

◎天文13年 5月9日
三好政長、嫡子新三郎政勝へ家督を譲る。政長は隠居して入道となり「宗三」と名乗る。
◎天文17年 8月12日
三好宗三、同族三好長慶により非行を訴えられる。
◎天文18年 6月24日
三好宗三戦死。嫡子政勝は摂津国榎並城へ籠り生き延びる。

この内、大変注目される史料が天文17年8月12日の史料です。三好筑前守長慶が、細川右京大夫晴元奉行人塀和道祐・波々伯部左衛門尉・高畠伊豆守・田井源介長次・平井丹後守へ宛てた音信です。以下、その内容をご紹介してみます。

-史料(1)------------------------------------------
急度申せしめ候。仍て同名越前守入道宗三(政長)礼■次、恣に御屋形様の御前を申し掠め諸人悩まし懸け、悪行尽期無きに依り、既に度々於、上様御気遣い成られ次第淵底御存知の条、申し分るに能わず候や。都鄙静謐に及ぶべく仕立て之無く、各於併て面目失い段候。今度池田内輪存分事、前筑後守(信正)覚悟、悪事段々、是非に及ばず候。然りと雖も一座御赦免成られ、程無く生涯為され儀、皆々迷惑せしめ候処、家督事相違無く仰せ付けられ太松(長正か。不明な池田一族。)、条々跡目の儀、安堵せしめ候き。然る所彼の様体者三好宗三相拘い渡し置かず、今度種々儀以って、城中(池田)へ執り入り、同名親類に対し一言の■及ばず、諸蔵の家財贓物相注以って、早や知行等迄進退候事驚き存じ候。此の如く時者、池田家儀我が物にせしむべく為、三好宗三掠め上げ申し儀、筑後守信正生害せしめ段、現行の儀候。歎き申すべく覚悟以って、三好宗三一味族追い退け、惣同名与力被官相談じ、城中堅固の旨申す事、将亦三好宗三父子に対し候て、子細無く共親(外舅)にて候上、相■彼れ是れ以って申し尽し難く候。然りと雖も万事堪忍せしめ、然るに自り彼の心中引き立て■■の儀、馳走せしむべく歟と、結局扶助致し随分其の意に成り来り■■今度河内国の儀も、最前彼の身を請け、粉骨致すべく旨深重に申し談、木本(木ノ本?)に三好右衛門大夫政勝在陣せしめ、彼の陣を引き破り、自ら放火致して罷り退き候事、外聞後難顧みず、拙身(三好長慶)を相果たすべく造意、侍上げ於者、言語道断の働き候。所詮三好宗三・政勝父子を御成敗成られ、皆出頭致し、世上静謐候様に、近江守護六角弾正少弼定頼為御意見預るべく旨、摂津・丹波国年寄衆(大身の国人衆)、一味の儀以って、相心得申すべくの由候。御分別成られ、然るべく様御取り合い、祝着為すべく候。恐々謹言、としている。
※■=欠字部分。
-------------------------------------------

天文17年5月、摂津国池田家当主の池田筑後守信正が、管領細川晴元に切腹させられます。その後宗三は、舅である事を理由に、池田家の領知を同意を得ないまま処分したり、財産を自分のモノにするなどしている事を三好長慶は訴えています。宗三の目に余る非行を池田家から調停を懇請されたようです。
 長慶は、宗三が池田家中の知行・財産を掠め取っていると強い口調で非難してしています。また、池田家中に宗三の親類・宗三派が居り、内訌に陥っているとも伝えています。

兎に角、この事件からは、宗三の人間性を窺う事も出来、非常に興味深い史料です。 

また、この事を裏付ける史料が見られます。参考のため、ご紹介します。欠年11月27日付け、細川晴元方三好之虎(義賢)、摂津国人池田信正衆同名正村など(四人衆)宿所へ宛てた音信です。
※豊中市史(史料編2)P512、箕面市史(史料編6)P437

-史料(2)------------------------------------------
阿波国御屋形様科所摂津国垂水事、先年平井丹後守方と三好政長(宗三)以って調え、相渡され候へき。然るところ、近年また押領候て然るべからず候間、御代官職事、最前平井対馬守方従り仰せ付けられ候条、速やかに渡し置かれ候様、孫八郎殿(池田四人衆が推す当主)へ御異見肝要候。なお、加地又五郎申すべく候。
-------------------------------------------

更にもう一つ。上記の関連史料です。欠年11月30日付け、細川晴元方某(姓名不明盛■)が、摂津国人池田信正衆同名基好など(四人衆)宿所へ宛てた音信。
※箕面市史(史料編6)P437

-史料(3)------------------------------------------
摂津国垂水儀、此 御屋形様料所筋目を以って、先年三好宗三と平井丹後守方以って調え、相渡され候事候。然るところ、重ねて御押領然るべからず候。御代官職事、先々自り平井対馬守方仰せ付けられ候条渡し置かれ候。なお、御異見候者喜悦為すべくの由、書状以って申され候。別して御気遣い仕るべく候 。
※■=欠字部分。
-------------------------------------------

政長が善長寺の創建に関わる
このような状態であったにもかかわらず細川晴元は処置をせず、宗三への加担をやめなかったために三好長慶は、父親の代から仕えていた晴元から離れる事を決意します。
 天文18年に長慶と宗三は衝突し、宗三は摂津国江口城で戦死してしまいます。代替りした嫡子政勝は落ち延びます。

次は、この一連の関係の中での池田筑後守宗田について、取り上げようと思います。




2013年7月6日土曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(はじめに)

三好為三と同苗下野守について、花押が一致したとの事で、同一人物説があるのですが、私も初めはその説を支持していました。しかし、両者の流れを見ると、必ずしも一致しません。
 当然、私も花押を見比べていく必要があり、それをしっかりとすべきですが、今のところ史料の整合性を中心に見ている状況です。
 当時の史料などを見ると、両者は兄弟であるとの記述も見られるので、こういった点をどう説明するかについて、課題もあるように思います。今では「両者は別人」と、個人的に考えるようになっています。
 
それから、両者は池田勝正にとっては縁続きであり、一族グループにもなって、関係の深い間柄です。ですので、この事をハッキリとさせておくことは、池田家の歴史を研究する上でも重要です。
 永年気になっていた事ですので、少し考えてみたいと思います。今後は、以下の要素などでいくつかに分けて、記事を書いて行ければと思います。


 ◎その1:三好越前守政長(宗三)について
 ◎その2:池田筑後守信正(宗田)について
 ◎その3:三好下野守(宗渭)について
 ◎その4:三好右衛門大夫政勝(為三)について
 ◎その5:白井河原合戦と三好為三めぐる動き
 ◎その6:三好為三と下野守が別人であると考える要素
 ◎その7:三好下野守と為三が同一人物と考えらている史料群
 ◎香西某について



2013年6月24日月曜日

池田四人衆から三人衆へ

<概要>
元亀元年(1570)6月、摂津国守護所である池田城内において内訌が発生。同国守護職であり、池田家当主でもあった池田勝正は、重臣集団から追放されて城を出ました。
 池田衆は、将軍義昭を中心とする幕府方に忠誠を尽くして東奔西走しましたが、過酷な政権維持環境のために家中が動揺しました。
 そこに旧誼を頼って三好三人衆が調略を行った結果、池田家中はその誘いに乗ったようです。これらの交渉は越前国朝倉氏討伐のため、勝正が留守にしていた時期を狙って行われていたようです。

その池田衆の越前国出陣では、3,000もの兵を出しているにも関わらず織田信長は、池田衆を信用せず、万一のためとして人質を出す事を要求しました。
 この事で池田家中の議論は紛糾し、誰を人質として出すのかでも、意見が分かれたのかもしれません。兎に角、池田四人衆の内、勝正親派と考えられる人物2名(池田豊後守正泰・同苗周防守正詮)が殺害されました。しかしながら勝正は殺されませんでした。勝正は池田城を出、能勢街道を南に辿って刀根山を経て、大坂方面へ落ちたとされています。勝正は一旦、原田城に入ったのかもしれません。
 池田家中で内訌の起きた18日、この日は将軍義昭が近江国高島郡への出陣のため、京都を出る事が予定されていた日でもありました。この事態を幕府は深刻に受け止め、池田家中の内訌の報に接すると、出陣延期の旨の触れを出しました。
 朝倉・浅井氏との戦争では将軍義昭の動座が必要であり、いわゆる「姉川合戦」は、幕府として勝たなければならない決戦と目していました。
 そしてまた、将軍義昭の出陣が予定されていたのですから、その予定日に向けて、軍勢や様々な手配が行われていた事でしょう。遅くてもその前日には兵を率いて京都に入り、打ち合わせや軍容等を調える必要があった筈です。
 出陣の延期(結果的に中止)は、池田衆が大きな要素を支えていた事を示すものとも想定できます。

その後勝正は、18日の内訌発生以来、暫く史料上には現れず、26日になって河内国守護の三好義継を伴って入京し、将軍と対面しています。勝正はこの7日の間、様々な対応や調整を行っていたと思われます。ですから勝正入京の目的は、将軍義昭への事態の報告であろうと考えられます。勝正はこの後、一貫して幕府方として行動しています。

家政機関の変遷
<(a)後任当主擁立時代>
他方、三好三人衆方となった池田衆は、勝正追放直後は「民部丞」なる、新たな当主を立てていた可能性もあります。

<(b)多人数合議制時代>
しかし間もなく淘汰され、当主を置かない多人数の合議的体制で家政を執るようになったと見られます。
 それが「池田二十一人衆」と伝わった集団であり、小河出羽守家綱を始めとする20名の池田家中の人々による欠年(元亀2年と個人推定)6月24日付け連署状(『中之坊文書』)であろうと考えられます。
 ちなみに「小河家綱」とは、池田家中ではあまり聞いた事の無い人物で、宛先(摂津国有馬郡湯山年寄中)への影響力を持つ外部の人物かもしれません。

<(c)池田三人衆時代>
しかし、これ程の人数が居ては意思決定が遅くなるため、更に体制の変更が行われて、三人衆体制になったと考えられます。元亀2年春頃からそういった動きがあったのではないかと考えています。
 3人とは、多数決制を利用する場合に都合の良い奇数であり、意思決定機関としての意見が割れる事態を避けられる点で理想的であり、役割分担も好都合である事が多いでしょう。また、この「三人衆」制は、三好三人衆をモデルにしたのかもしれません。実際にこの体制で数年間、家政を運営し、実績もありました。
 もちろん池田三人衆は、各々に家中で求心力のある棟梁的な人物であった事は間違いありません。そしてこの池田三人衆体制が、割と短期間の内に結果を出す事になります。それが元亀2年8月の「白井河原合戦」です。
 伝承記録なども参考にすると、この時荒木村重は、まだ新参的な立場であったらしく、囮役という危険な役を買って出ましたが、この事で大勝利につながった事から、一躍、近隣にも名を知られる程になります。
 池田三人衆体制は、池田家の劣勢をはね除け、しかも勝正よりも更に広い版図を築いたのですから、これ程の実利はありません。

<(d)池田三人衆分裂時代>
しかし間もなく、頼りにしていた三好三人衆も分裂を始めて衰退し始めます。元亀3年の夏から秋頃、運命共同体であった池田衆もそれに相対するように分裂を始めます。
 「池田一族派」対「荒木村重派」という構図となったようです。そのキッカケは、いわゆる「よそもん(部外者)」かもしれません。状況が複雑で、根深くなったため、感情が先行する事は現在でもよくある事です。
 ここで各派の習性が象徴的というか、興味深い方向へ進みます。池田一族派は、一度廃嫡したとも思われる「民部丞」を再び担ぎ出す動きを見せます。
 ちょうどこの時、幕府内でも将軍義昭と織田信長との内訌があり、分裂していました。この動きの中で、双方が親派作りに腐心し、有力諸家の争奪戦を繰り広げます。
 池田一族派は、この流れの中で将軍義昭方に活路を見出します。将軍義昭はこれを喜び、池田一族派を側近に取り立てるなど、優遇します。
 一方の荒木村重派は、細川藤孝を通じて織田方となり、信長を喜ばせます。また、村重は高槻城の内訌を実行に移して織田方勢力にするなどの手土産付きでしたから、随分と耳目を集めたようです。村重は、白井河原合戦から連続する要素を利用したのかもしれません。

元亀4年7月18日、将軍義昭の籠る山城国槙島城が織田方に攻められて落ち、降伏した事から、室町幕府は機能を停止します。
 これにより、池田家中の争いも決着がつき、荒木村重の時代が幕を明ける事となりました、池田家の歴史も、この時をもって終わったといえます。

同月28日、元号は「天正」と変わり、それが池田家の終わりと、荒木村重時代の到来のハッキリとした区切りとなりました。

<(e)摂津池田家の滅亡>
天正の世になってからの京都を中心とする五畿内情勢ですが、実は、天正2年頃までは決定的な要素を欠いてもいたために、まだ、将軍義昭の残党が本願寺方の協力などを得て活動していました。そのため、池田衆もその集団に属して活動していたようです。
 しかし、天正3年になるとその決着がつき、史料上でも活動が見られなくなります。この頃に池田衆としての活動は、本当の意味で閉じたと考えられます。




2013年6月16日日曜日

池田四人衆について

<概要>
池田四人衆とは、国人であった摂津国池田家が、戦国大名として成長する過程で生まれた、家政機関です。
 四人衆制度は池田信正が当主であった時代に生まれ、長正、勝正の代まで機能していました。
 元亀元年6月の池田家内訌で、当主の勝正が追放され、その時に四人衆も再編されます。その後もその機構を受け継いだ状態で三人衆体制と集約されますが、その時には時代の要請に応えられない状態となってしまい、機能不全に陥ります。
 そうなると、家政運営もうまくいかなくなり、結局は血(血統や家系)の争いとなって自滅してしまう事となりました。ですので、四人衆制度の誕生から終焉までを見た時、勝正追放事件を以て、四人衆制度は一旦閉じたカタチとなります。

各時代の体制
<(1)信正時代>
当主信正が、池田家を発展させる過程で当主を補佐する目的で、一族の中から池田勘右衛門尉正村・同苗十郎次郎正朝・同苗山城守基好・同苗紀伊守正秀の4名がその任にあたったと考えられます。
 多分、信正は京都に居た管領の側に仕えるために常駐する必要が出たためで、国元での池田に当主と同等の家政執行機関が必要になって編成されたのでしょう。
 その後、信正が不本意に管領細川晴元に切腹させられると、次の後継問題で家中が分裂してしまいます。
 
<(2)対立時代>
この時、四人衆が擁立する当主候補である孫八郎と、別の当主候補である長正が対立します。その過程で、それぞれが別々の運営体制を持つ事となり、それが暫く続きます。その時間が、立場の固定化を招きました。
 それから、この長正の代で荒木氏の登用があったようで、長正の重臣として書状などの公文書も発行しています。この荒木氏の何れかの家系が、荒木村重につながると見られます。
 
<(3)長正時代>
しかしながら、四人衆が当主として推す孫八郎は、弘治3年に病気など、何らかの理由で死亡します。近世への幕開け的な時代でもあり、家中が分裂している場合でもなかった事から、それらを悟ったのか、四人衆と長正は和解したようです。
 これにより、当主は正式に長正となり、家政機関も再編されます。しかし、この時、長正の成長に功労のあった荒木氏を中枢機関から外す事はできなかったらしく、一族の外からの登用となって、四人衆と荒木氏が同じような立場での体制となったようです。
 これは近世に近づくにつれて、政治の要望が、「大量に」「迅速に」、移動や管理が求められるようになり、人員が不足していた事にもよるのかもしれません。
 何れにしても、池田家中の大きな問題が克服されるにあたっては、その取り巻く環境に対応させて解決を図ったのでしょう。この再編の過程で、人材の登用も積極化したのかもしれません。
 そんな矢先、当主の長正が死亡します。永禄6年2月頃のようです。
 
<(4)勝正時代>
この時は、後継者が予め決まっていたようで、スムーズに代替りが行われています。
 しかしながら、若干の波乱はあり、四人衆の内2名(池田勘右衛門尉正村・同苗山城守基好)が勝正により粛正され、新たに勝正親派の人材が2名(池田豊後守正泰・同苗周防守正詮)加わります。
 この2名を加える事で、その他の荒木氏とのバランスを変える意図があったのかもしれません。意思決定機関の多数派工作の可能性もあります。何れにしてもこの事で結果的に、荒木氏の池田家中での立場は更に強くなったといえます。
 勝正は、結束するための摂理の整理、つまり、人員の整備をする事無く、長正からの制度をそのまま引き継いでしまったために、議論の収拾ができなくなったのかもしれません。これは時代のセイかもしれませんが、勝正の当主時代に一度、大きな内訌が起きています。
 しかしながら、勝正の代では歴代の中で最大の版図を築くまでに成長します。河内・大和国など、近隣でも知られた存在になっています。
 そんな事もあり、問題の種は見えなくなり、うやむやになってしまいます。

そして間もなく、織田信長の入京という日本史の中でも画期の時代を迎え、その対応を迫られました。やはりそれは非常な難題で、結局は家中での議論が紛糾し、闘争となってしまいました。
 元亀元年6月、越前国朝倉氏討伐から戻ったところで、池田家中の内訌が起きてしまいました。この時、池田家は摂津守護職を任されていた事もあり、守護所での騒動発生は、室町幕府内でも動揺が広がったようです。
 問題の種は時間が成長させ、芽を出し、花を咲かせたのです。

京都奪還を目論む三好三人衆が勢いを増し、旧誼を通じて池田家の調略を行いました。大坂の本願寺には、同じ日野家の縁を通じて三好三人衆に加担する近衛前久が起居もしていました。近衛氏は藤原氏の筆頭で、同じ藤原家系の池田家はこれらの縁故に何らかの活路を見出したのかもしれません。

これらの詳しくは、また別の機会を設けたいと思いますが、この勝正の追放を以て、池田家の歴史は終焉に等しい状態に陥ります。良かれと思ってした事が、結局は混乱を招き、その後の池田家中は更に短い間隔で内訌を繰り返すようになります。

長くなりましたので、続きはまた後で。少々お待ち下さい。次は、元亀元年6月の内訌後から、池田家滅亡までのをご案内します。




2013年6月15日土曜日

荒木村重など、池田一族が署名した『中之坊文書』について

有馬城跡から有馬の町を見る
摂津国有馬郡湯山年寄中に宛てた、荒木村重など池田家中の諸侍が署名した『中之坊文書*』は、非常に重要な史料です。
 しかし、残念ながら年記を欠き、6月24日とのみあるだけで、何時の事なのか不明です。ですので、研究は進んでいません。この史料は神戸市のとある個人さんの所蔵史料で、私も一度実物を拝見したいと思いつつ、未だ実現には至っていません。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503、三田市史3(古代・中世資料)P180などにあります。
 
同史料は京都を含む、当時の首都の歴史、地域史にとっては非常に重要な史料です。特に、私の研究している池田勝正にとっては、言うまでもなく重要です。
 冷静に考えると、京都の政治にとっても重要なのですから、日本の歴史にとっても重要なはずですが、どうもそのあたりが、うまく連動していないようです。時代的には、京都で政権地盤を築く織田信長の黎明期の範囲に入ります。

現在の有馬城跡
ところで、湯山とは、今の神戸市北区有馬温泉町です。
 
さて、この『中之坊文書』については、若干の推定と通説、間違いが存在しています。ご存知の方も多いと思いますが、それらをご紹介しておきたいと思います。

  1. この史料は兵庫県史などにより、元亀元年のものと管見の消極的な推定がされています。
  2. 元亀元年6月の池田家内訌時に、当主の勝正が追放された後に発行された、池田二十一人衆によるもの、との通説があります。
  3. 史料によっては翻刻に誤字があります。また、史料中の「卜」の文字が読めず、欠字扱いになっています。

(1)の推定は(2)の通説を含め、双方は発想の連動があるようですが、どちらも当時の史料を見比べると、完全に推定が一致するとは言い難いように思います。

というのは、以下の理由があります。
    (a)池田二十一人衆とは、当時の史料に出て来ない。出てくるのは伝聞史料で、二十一人衆として『言継卿記』に、三十六人衆として『多聞院日記』に、どちらも一度だけ確認できる。よって、家政機関として近隣に周知されておらず、機能もしていなかったと思われる。
    (b)署名人数は20人しかおらず、小河出羽守家綱は、池田家中とは別の人物の可能性がある。
    (c)荒木村重が「池田」姓を用い、信濃守の官途を名乗る理由を考える必要がある。
    (d)元亀元年の池田家内訌の直後には、勝正の後継者が立てられていたとの伝承があり、その確認が出来ていない。史料上ではそれらしき「民部丞」なる人物が確認できる。

      ところで、『中之坊文書』の内容をご紹介しておきます。
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      本文:
      湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊(いささ)かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
      署名部分:
      小河出羽守家綱(花押)、池田清貧斎一狐(花押)、池田(荒木)信濃守村重(花押)、池田大夫右衛門尉正良(花押)、荒木志摩守卜清(花押)、荒木若狭守宗和(花押)、神田才右衛門尉景次(花押)、池田一郎兵衛正慶(花押)、高野源之丞一盛(花押)、池田賢物丞正遠(花押)、池田蔵人正敦(花押)、安井出雲守正房(花押)、藤井権大夫敦秀(花押)、行田市介賢忠(花押)、中河瀬兵衛尉清秀(花押)、藤田橘介重綱(花押)、瓦林加介■■(花押)、菅野助大夫宗清(花押)、池田勘介正行(花押)、宇保彦丞兼家(花押)
      --------------------------------
      となっています。

      本文は、非常に短いですが、それについて20人もの人々が署名しています。また、湯山の集落政治のまとめ役の人々が、随分と馳走を申し出た事について、少しも疎かには扱わない。恐れ入り謹しんでお伝えします。と池田の人々は伝えています。

      こういった状況から、この時の池田家中は、突出した当主が居らず、合議的体制で一時的に運営されていたとも考えられます。当主の書状に添えて発行される副状にしては、人の数が多過ぎます。

      白井河原古戦場付近
      それを踏まえ、前記の(a)〜(d)を満たす時期を考えてみると、元亀2年ではないかと、個人的には考えています。ということは、そうです、白井河原合戦の直前になります。この史料は、同合戦に連なる動きから出た行動だったのではないでしょうか。場所としても「湯山」は、主要街道を通す要所で、池田ともつながりの浅く無い地域です。
       ここから協力(馳走)を取付ける事ができれば、池田衆は憂い無く大軍を東に投入できる環境が調います。

      6月下旬といえば、今の暦で言うと、8月上旬頃で、そろそろ稲の作況を見る時期です。そんな時期に池田衆は、何らかの交渉を行っているのです。
       また、ちなみに連署の顔ぶれは、白井河原合戦の様子を描いた伝記等でも見られます。

      郡山城跡付近から西国街道を見る
      そして見事に池田衆は、白井河原合戦に勝利し、支配地を東へ大きく拡大させる事となります。湯山の年寄衆も池田家へ加担した事を喜び、行く末に明るい未来を感じた事でしょう。

      『中之坊文書』について、個人的にはそのようなストーリーを組み立てています。同文書については、論文を書き、近い内に皆さんにもご覧いただければと考えていますので、ご興味をお持ちの方は、お楽しみにお待ち下さい。




      2013年5月21日火曜日

      三重県桑名市にある「輪中の郷」という資料館

      「輪中の郷」の看板
      「輪中(わじゅう)」とは、学校で習ったので、知っていたつもりなのですが、天井川と同義の環境を指すものと思い込んでいました。
       しかし、輪中には定義があり、地域社会組織やその生活を守る習慣と仕組みまでも含めたものをそう呼ぶのだと、資料館を訪ねてみて認識を新たにしました。
       入館時にもらった、パンフレットにある輪中の定義をご紹介します。

      輪中とは低くて湿った土地にある集落と農地を囲む堤防があって、水を防ぐための組織体を作って、外水や内水を管理する治水共同体、またはそれがある地域の事をいいます。
       

      パンフレット「輪中と水屋」 (輪中の郷発行)より

      ですから、人間がこの伊勢国桑名郡長嶋地域に住み、社会生活を営んでから現在まで、大変広くて深い歴史があると言う訳です。水との戦い、災害の歴史です。そしてまた、その反対側にある恵み。それから、人間が起こす争いもあります。
       作る、運ぶ、食う、戦う、防ぐ、ための情報や技術、方法や仕組みを長嶋の人々は、「生活」として営み続けて来た訳です。
       
       私は、伊勢国長嶋の一向一揆について、また、輪中について知りたいと思い、気軽に(池田勝正の動きとは直接関係無いので...)訪ねてみたのですが、大変勉強になりました。また、非常に興味深い展示で、よく解りました。たまたま、館長さん直々のお話しも聞く事ができ、幸運でもありました。

      近年では、海外からもこの「輪中」について知りたいと、訪ねて来られるそうで、日本人の治水の工夫が、優れた資料の保存・整理技術によって、他地域へ、更に世界の役に立ちつつあるようです。
       こういう難題を克服して来た日本の取組みもすばらしいと思いますが、地域の方々のご苦労も国の事業に活かされ、また、展示される事で、それらが一堂に展望できるという事は、正に苦労が報われたといえるのかも知れません。
       先人の苦労を忘れない意味でも、大変意義深い資料館だと思いました。改めて、資料の保存と活用は、大変重要である事を認識させられました。

      追伸:堤防改修の難工事を命を賭して完成させた薩摩藩士平田靭負翁以下烈士の歴史も是非知って欲しいと思います。
      木曽三川治水偉人伝 平田靭負正輔(国土交通省中部地方整備局木曽川下流河川事務所ホームページ)
      ※靭負(ゆきえ)とは、衛門府の和訓で、唐名は金吾。

      桑名市を訪ねる事があれば、是非一見される事をオススメします。個人的には、展示資料の最後に見送ってくれる、金魚と鯉もステキな演出だなぁと思います。思い出にも残ります。
      ※ちなみに輪中の郷は、歴史民俗資料館・体験教室・体験農園施設が一体になった施設です。詳しくはホームページをご覧下さい。
      URL:http://www.waju.jp

      最後に、この長島町の地形などは、摂津・河内国にも室町時代には湿地が多く残っていたため、その文化や生活の参考になると思いました。また、長嶋一向一揆は、五畿内での反織田信長とも連動しており、やはり、伊勢国方面の動きももう少し見ておかないとダメだなぁ、と思いを深くしました。

      2013年5月15日水曜日

      奈良県生駒郡安堵町窪田にある重要文化財中家住宅

      中家住宅主屋
      前回(奈良多聞山城の城門遺構)からの続きです。

      奈良多聞山城の城門の遺構と伝わる石田家住宅を見学のため、奈良県生駒郡安堵町を訪ねたのですが、その隣の中家住宅が国の重要文化財で、この一帯の歴史的遺物の中心です。
       当然、中世の頃は主郭に当主の屋敷がある、統一的な構造だったと思われますが、永い歴史の中で家名保存のために養子縁組などが行われて、同じ敷地内に二つの家系が置かれるようになったようです。
       江戸幕末などの社会的な大混乱の中で明確な事はわからなくなっているようで、今は、縁続きではあるけども、別々のお宅になっているようです。また、石田家住宅は現在無住で、家の痛みが目立ちます。

      内堀の様子
      この中家住宅は勿論、建物もすばらしい歴史的遺物ですが、その周囲もすばらしい環境です。中世の館城がそのまま残っていて、大変参考になります。
      現在、外堀は途切れていますが、元は二重に囲まれていたらしい水堀で、江戸期に手を加えられているものの内堀はそのまま残っています。
       また、その周囲には集落があり、そのまた外側は自然の川を利用した集落の結界、即ち、堀になっていたようです。

      この中家は『中家の魅力(向陽書房)』によると、南北朝時代に足利尊氏に従って伊勢国鈴鹿郡から大和国へ入り、1339年(暦応2)12月に現在の窪田に定着したと伝わっています。この時、岡崎庄・笠目庄・窪田庄を幕府から領地が認められ、窪田対馬守康秀を名乗ったようです。
      敷地内の中氏菩提寺「持仏堂」
      その後、同一族は中氏を名乗り、奈良の有力者に成長しつつあった筒井氏の縁続きともなって、窪田一帯に威をふるうようになったようです。
       この中氏は、筒井順慶など、その一族の大和国統一戦のために尽力するも、筒井氏の国替えには従わず、大和国に残って、それ以来今も現在の地に在るというわけです。
       
      凄いです。

      永禄9年春から始まった三好三人衆と松永久秀との戦いの時には、池田勝正も三好方として3,000〜4,000程の兵を大和国へ入れています。この時、筒井順慶は三好方として多聞山城などを攻撃していましたので、両者は友軍として軍議などでは顔を合わせていた事でしょう。

      外堀の様子
      中氏は、中世以来の由緒により13人の被官を持つ家柄でしたが、1595年(文禄4)、大和国領主となった増田長盛により行われた検地の折、士分を停止させられます。
       この時中氏は、百姓としての身分が確定(決心)し、新たな時代を歩む事になったようです。既に被官を率いる程になっているため、自分の意思だけではなく、支える人々とも話し合って、土地に残る事を決めたのでしょう。
       そして、時を経て近世には、庄屋や大庄屋としての役目を江戸幕府から命じられ、現在に至っています。

      重要文化財中家住宅は、永い歴史が1カ所に積み重なっています。

      窪田の集落の様子
      先にも述べましたが、中家住宅は勿論、建物も大変貴重で、すばらしいのですが、その周囲の環境までも残っている点で、非常に珍しい文化財です。

      是非一度、訪ねてみて下さい。
      ※施設の維持協力金として一人500円の入館料がかかるのですが、是非ご協力下さい。また、今もお住まいの個人宅ですので、予約の上で、訪ねて下さい。

      参考:奈良県生駒郡安堵町役場中家住宅のページ

      ちなみに、安堵町は中々交通事情の不便なところにあるのですが、それ故にこれ程の文化財が残ったとも言えます。すばらしい文化財を目の当たりにすれば、多少の不便さも吹っ飛びます。
       それから、こちらのお宅でも10年程前に先祖伝来の鎧兜一式が盗難に遭ったのだそうです。犯人は捕まったそうですが、盗られたモノは戻って来ないのだそうです。こんなお話しを聞くたびに、本当に何とも言えない、涙の出そうな激しい怒りを覚えます。

      2013年5月4日土曜日

      奈良多聞山城の城門遺構

      伝多聞山城城門の構造
      前からちょっと気になっていた、多聞山城の城門遺構と伝わっている石田家住宅の門を見学に行ってきました。この門は、国指定の重要文化財である中家住宅に隣接して今も残っています。石田家住宅は今は無住で、外観だけを見る事ができるのですが、無住のせいか、随分荒れ果てています。

      奈良の多聞山城は、池田勝正も3,000程の兵を率いて攻めています。 随分と難航しながらも、城そのものは落します。しかし、戦略的な意味は果たす事ができず、闘争そのものの決着をつけるには至りませんでした。

      この石田家住宅の門は、あくまでも伝承で、多聞山城の遺構かどうかは不明なのだそうですが、見た所、庄屋さん宅の門としては頑丈すぎる構造のように思えます。門柱は、幅45センチはあろうかという太さです。


      伝多聞山城城門全景
      石田家住宅に隣接して中家住宅があり、同家は大庄屋を務めた家柄だったそうですが、確かに徳川幕府統治の重要拠点であったとはいえ、これ程の門とその構造はちょっとアンバランスで、様式を重んじる時代にしては、不自然なように思います。

      また、近江坂本城の遺構と長い間伝わっていた「西教寺総門」が、最近の調査で伝承通り、坂本城の遺構である事が確認されたりしていますので、伝承は結構正確である可能性も指摘されています。
      ※個人的な経験で、そうでない事もありますが、そういう場合は、時代が合わないし、後世に造られたりしているものも多いので、ちょっと調べると直ぐに判ります。

      さて、この多聞山城の城門遺構が、もし本物だったら、全国版ニュースに取り上げられる規模の大ニュースでしょうし、城郭史分野、建築分野にも大きな波紋を投げかけるとともに、研究も大きく発展する遺構になるでしょう。

      重要文化財 中家住宅
      お話しでは、中家住宅が重要文化財になる時の調査で、石田家住宅のこの門も一応調べられたし、その後、平成12年くらいに移築保存の話しも上がっていたそうですが、何れも確固たる立証に至らず、認定は見送りになったとの事でした。

      しかし、専門家が見ても意見の分かれる事も多いですし、また、文化財の持ち主との関係等から、うまく事が進まないケースも多いため、本質を見失って、本願を遂げられない事も少なくありません。
        それ故に、真偽の程はグレーなまま、この遺構の扱いが曖昧になり、現物は日増しに朽ちているという状況です。

      文化財は、この先新たな環境を迎える事が必定で、今、文化財についてしっかりと見つめておかなければ、日本固有、地域固有の文化財は急速に朽ちて行く事は明らかです。
      ※最近では、大東市の平野屋会所保存についての問題、大阪市の渡邊家住宅の保存に関する問題などがありました。いずれも取り壊しとなり、大変貴重な文化財が破壊されてしまいました。双方共に相続に関する金銭的な問題です。

      自分達の共有してきたものを残し、伝える事は、国の豊かさや強さに繋がっていると感じています。「国(日本)のまほろば」といわれる奈良県は、特に事を他の地域よりも真剣に考えていただければと願っています。

      奈良県は、東大寺や春日大社だけではない、すばらしい文化財が沢山あります。是非、機会をみつけて見学にお出かけ下さい。


      追伸:文が長くなり過ぎましたので、重要文化財の中家住宅については、また、改めて紹介します。中家住宅もすばらしい文化財でした。


      2013年4月29日月曜日

      元亀元年夏の摂津国野田・福島の戦いと野田ふじ

      摂津国の戦国大名池田勝正も参陣していた元亀元年(1570)夏の野田・福島城攻めについて、永年気になっていました。
       江戸時代、そこは藤の花の名所としても知られる所となりました。
       藤の花は、家紋のモチーフとしても用いられる程、日本文化に深く根付いた植物です。また、藤の花は「藤原家」の象徴でもあり、その縁を持つ春日神社や本願寺宗系の紋にも使われています。

      近頃特に、桜がもてはやされていますが、藤の花も歴史は古く、また、花自体も繊細で可憐な趣を持ち、日本を代表する花の一つです。

      平成25年(2013)4月28日、そんな「野田の藤」を見に、大阪市福島区玉川を訪ねてみました。少し盛りは過ぎていたものの、すごくキレイに可憐な花をつけていました。
       今まであまり、じっくりとは見なかったのですが、改めて見てみると、その香りや色合い、繊細さなど、とても魅力的な世界観を持つ花です。キレイでした。

      さて、野田・福島の戦いについてです。この付近の場所には城があったとされていますが、詳しい規模と位置は未だ不明のままです。
      しかし、地元の福島歴史研究会などの調査により、少しずつ解明されてきているようです。調査資料は今のところ専門的な資料は出版されていないようですが、その成果は『なにわのみやび 野田のふじ』で紹介されており、興味深いです。
      現在の大阪市営地下鉄千日前線とJR環状線「玉川駅」近くに立つ「野田城跡」の碑は、南西端にあたり、その中心部は、そこから北東方面にある圓満寺と極楽寺のようです。それらは共に野田城跡を示す、だいたい妥当な指標となっているようです。
       一方、福島城はというと、『なにわのみやび 野田のふじ』を参考にすると、野田城に連なる城のようで、野田城の東と北を守る外郭部に「福島」はあったのかもしれません。それは対岸の中之島とその間を流れる淀川とも深く関係していたと思われます。

      野田・福島城は、洲というか、島というか、その陸地の南端部分で、その南と西側は瀬戸内海にも繋がり、補給はここから受ける事ができるようです。
       野田・福島の戦いでは、8,000〜12,000もの三好三人衆方の兵が入ったとされ、それ程の人数が居続ける場所と物資が必要ですので、それに耐え得る地を選ばなければなりません。
      それから、その当時から既に野田村には本願寺宗の寺院も多くあったようですので、そこに陣を置くという事は、本願寺方とも話しはついていたと考えられます。

      同年の春、織田信長は越前国朝倉氏を攻めるために出陣しましたが、近江国大名の浅井氏が朝倉方としての旗色を鮮明にさせた事で、信長は京都へ撤退します。
       信長はこの時、京都に10日間程居り、情報収集を行っています。その時既に本願寺の行動を気にかけており、敵である事は認識していたようです。

      更に、将軍義昭と敵対する将軍義栄方の三好三人衆は、京都を中心とする近畿での政治に実績があり、侮り難い勢力でした。公家の中にも義栄方の勢力がありました。
       近衛前久は、藤原氏筆頭の血筋でしたが、前久は義栄方として大坂本願寺に身を寄せていました。
       それから、本願寺宗の中興の祖である親鸞上人は、近衛系の日野氏出身者で、その関係から前久は、大坂に身を寄せていたのです。
      近衛氏が反義昭・信長であったのですから、春日社領や藤原氏に系譜を持つ氏族の糾合は得易い訳で、そんな繋がりから、春日領とも関係の浅く無い「野田・福島」方面は、三好三人衆方の攻勢拠点となったのでしょう。本願寺方が提供したと言えるのかもしれません。
       実際、6月には和泉国堺に浪人(三好方)が集まっているという情報が、幕府・織田方に寄せられていました。
       
      はじめの頃、この合戦は、幕府・織田方が軍事力で優勢でしたが、そういう血の歴史が、それ以上の力を発揮したのでした。

      本願寺宗は、教団存続のために検討を重ね、準備もし、多方面に協力を取付けた上で、「反幕府」に決した訳です。失敗すれば半世紀前の血みどろの歴史を繰り返し、教団存続の道も断たれます。本願寺宗は、慎重に慎重を重ねた結果、武力に訴える道を選んだのだろうと思います。

      摂津国野田・福島の戦いは、本願寺教団にとって、運命の場所と瞬間になりました。

      2013年3月18日月曜日

      天正5年4月6日、織田信長方荒木村重、播磨国人原右京進宿所へ宛てて音信

      小野市史第4巻 史料編の380ページに、興味深い史料があります。

      この時は織田信長方であったであろう荒木村重が、播磨国人と思われる原右京進の宿所へ宛てて音信しています。

      内容は、
      --------------------------------
      存分安河(不明な人物)へ申し候処、委細御返事、先ず以て本望候。安見参り候はば、居細申し談ぜられるべく候。急度御参会然るべく候。恐々謹言。
      --------------------------------
      となっています。

      この史料は年記を欠きますが、個人的推定で天正5年ではないかと考えています。理由は、文中の「急度御参会然るべく候」とは、村重が播磨方面で活動を活発化させていた頃のものと考えてみました。
       村重はこの年5月、9月に小寺(黒田)勘兵衛孝高に音信するなどしていますし、羽柴秀吉なども盛んに播磨方面で活動しています。

      もう一つ、この史料に注目すべき点があります。「安見参り候はば、居細申し談ぜられるべく候」とあります。
       安見は多分、河内国人の安見氏で、この頃は安見新七郎が当主です。通説では、天正3年頃に安見氏は滅びたと伝わっていますが、活動しています。

      昔は何かと縁故関係がなければ、信用を得られません。どこの誰かも解らないのに、深い話しもできません。
       この安見氏とは、かつては河内国の守護代も務めた家柄でもあり、また、河内国発祥とされる鋳物師集団とも関わりがあり、安見氏の本拠である交野・茨田郡には、田中家という鋳物師が居り、江戸時代には禁裏御用も務める程の集団でした。

      小寺領内に野里村があり、ここが鋳物師集団の居住する所でした。もちろん、小寺氏は置塩城の播磨守護家赤松氏に仕える家でしたので、安見氏とは、鋳物師つながりの縁故があったと考えられます。
        更に安見氏の本拠地は京都に近く、京都の禁裏は経済立て直しの一環として、鋳物師統括も真継氏によって進められていましたので、安見氏との接点もあったようです。そういった複数の要因がこの動きとなり、この史料に現れているのではないかと考えたりしています。

      安見氏は、荒木村重の命で播磨国に赴き、原氏と何らかの打ち合わせを行っています。 なぜ村重が命令しているとわかるかというと、「安見参り候はば」と呼び捨てにしているからです。
       それと、この史料にはもう一人人物が現れます。「安河」です。これは既知の人物で、フルネームで書かず、省略されています。
       これは、安○河内守という人物だと思います。村重の側から原氏へ赴いた人物です。「存分安河(不明な人物)へ申し候処、委細御返事、先ず以て本望候。」という一文からわかります。
       現代文にすると、「安河にこちらの考えを伝えておきましたが、詳しい返答があり、誠に満足です。」 みたいな内容になろうかと思います。
       相手の使者だと、安河に対して敬語が使われる筈ですが、特にそれが見られませんので、状況としては、村重が安河を原氏へ使いにやり、村重がその返事を聞き、更に村重は安見を派遣したようです。急ぎの事があったのでしょう。

      こういった動きが、村重謀叛の折の黒田勘兵衛の行動に繋がるいち要素になっているのだと思います。

      2013年2月28日木曜日

      天正3年9月18日、長雲軒妙相、河内国人安見新七郎宿所へ宛てて音信す

      名古屋大学文学部国史研究室の所有する史料が『中世鋳物師史料』として発刊されています。

      同史料に含まれる書状に、年欠9月18日付けで、長雲軒妙相なる人物が、河内国人安見新七郎宿所へ宛てたものがあります。この安見氏は、河内国守護代の家系で、この新七郎はその当主にあたる人物です。また、安見氏は、北河内地域などの鋳物師を統括していたようです。枚方の鋳物師として、田中家があり、領内の職人として把握していたようです。

      そしてこの安見氏、この後に、荒木村重の被官となっているようです。 村重の使者として、播磨国人らしき原氏の元に発っている書状が存在します。

      長雲軒妙相なる人物の書状の内容は、
      -------------------------------------
      尚々佐右(佐久間右衛門尉信盛)いよいよ仰せ付けられ由、地下人申しに付きて、先日申し遣わし候処、返事御入れ事、其の写しをも彼の地下人方へ遣わし候。同篇御用捨て専一候。以上、と前置きしている。本文は、久しく老面談ぜず候者、十一日 御上洛に就き、御供致し候。仍て河内国枚方之在る鋳物師事、其の方自り夫役仰せ付けられの由候。惣別諸国候鋳物師事、禁裏御料所に付きて、諸役御免許に候。御朱印をも遣わされ候条、向後御用捨て尤も然るべく候。柳原殿自り仰され候間、申し入れ事候。若し又御存じ無き事候歟。彼の在所候者共、御尋ね有り、急度仰せ付けられるべく候。此の方御用の儀候者、相応じ疎意有るべからず候。恐々謹言。
      -------------------------------------
      となっています。

       そして、この書状の年代比定ですが、佐久間右衛門尉信盛の河内国周辺での活動時期や、文中の「十一日就 御上洛、仍ひらかた在之鋳物師事、自其方夫役被仰付之由候」とは、織田信長の上洛を指すと考えられ、天正3年10月10日に信長は上洛している事から、この史料は天正3年と思われます。

      それから、長雲軒妙相なる人物は、内容からすると、織田政権の関係者のようです。

      2002年11月の交野城跡の様子
      天正3年頃の安見氏は、河内国交野郡を中心とする地域を拠点として活動しており、交野城を根城としていたようです。交野城あたりは、奈良と京都への要衝でもあり、大坂・奈良・京都からちょうど20キロメートル程の位置にあります。3カ国国境の地域といってもいい場所です。また、土地も肥沃で、米や作物も多く採れます。
       また安見氏は、永年に渡るそれまでの守護代としての活動経験もあり、河内国全土に繋がりも持ち、鷹山氏など大和国側にも影響力を持っていました。
       ちなみに同じ盆地内にある津田城は、交野城と補完関係にもあったようで、地理的にも京都に対する重要な場所です。

      参考:河内国津田城

      そういった人物であり、その本拠地域でしたので、京都とも関係が深く、また、政権維持に重要な人物でもありましたので、重用されたようです。
       天正年間初期、織田政権が各地に軍事侵攻する中で、京都を中心とする地域の防衛も疎かにできず、荒木村重に摂津だけではなく、河内半国(中・北)をも任せていたようです。それは、キリシタン史料など、様々な資料に見られます。
       また、安見新七郎は、父直政が元亀2年、松永久秀に嫌疑をかけられて自害させられています。間もなく、居城の交野城に松永勢が攻め寄せますが、これを退けて守り抜きました。史料を見ていると、この事件以来、新七郎は反松永勢力として活動したようです。

      それから、通説では、天正3年の織田信長による河内国平定で、安見氏は滅びたとなっているようですが、織田政権に組み込まれたのが実情のようです。 その後も活動が見られます。

      2013年2月27日水曜日

      大東市の市民学芸員制度

      南郷研究会という郷土研究会に参加したところ、ちょうど、「市民学芸員Report」という会報が配られた事から、大東市の市民学芸員という取組みを知りました。
       その方は南郷研究会の会員であると同時に、この市民学芸員もされておられて、地域の文化財について熱心に取り組んでおられます。
       この大東市の「市民学芸員」制度は、同市の歴史民俗資料館付けの組織で、全くのボランティアで皆さん参加されておられます。今年で5年目となるそうです。今まで知りませんでした。

      多分、全国的に見ても先駆的な取組みだと思いますし、個人的にもこういった取組みをしていくべきだと考えていた事から、興味を持ちました。

      例えば、アメリカの映画作りは、莫大な予算とプロジェクトによる取組みでもあるのですが、結構、ボランティアも活用されています。そのボランティアも専門性に分けられ、それを統括するスタッフが居て、組織立てられているようです。労力提供する側にもメリットがあり、受ける組織にもメリットがあるように、互いのメリットの交換の場になっています。
       というのは、俳優の莫大なギャラが制作費を圧迫している背景もあるからだとか...。

      しかし、これは今の日本社会全体でも必要な事だと思います。労働の質の向上と継承は、社会の大きな宝です。何よりも、お金を節約したいなら、行政はキチンと組織立てて考える努力をし、市民と共に課題を克服して行くべきだと常々感じています。
       市民の側でも、有為な人材が公的な後ろ盾を受けられる事にもなり、人材の発掘と目的達成の補完が可能になります。

      細かな制度の練り上げも必要だと思いますが、制度作りは、行政が得意とするところですので、それを活かす事で解決できるでしょう。また、現実的にそういった素地もニーズもある訳ですから、あとは、行政のやる気だけです。

      地方・地域分権を唱うならなら、こういった分野も自主的に考える事ができるかどうか、この一点を見ても、その自治体の万事の素質だと思います。
       一方で、道路や橋、水道などのインフラの維持管理も深刻な問題が指摘されている程ですから、実際のところ深刻な無法行動が続けられているのが現状であり、地域分権などとは夢のまた夢です。

      ちょっと横道に逸れてしまいましたが、大東市のこういった「市民学芸員制度」は、非常に期待出来ますし、多くの町に広がって欲しいと願っています。

      大東市立歴史民俗資料館 市民学芸員REPORT は、大東市内の公的な施設などで手に入るようです。興味をお持ちの方は、一度手に取ってご覧下さい。


      ちなみに、同組織の活動拠点は同市民俗資料館です。
      大東市立歴史民俗資料館公式ホームページ

      追伸:個人的には、こういった市民活力の現実的な概念として寝屋川市の取り組む地域通貨での支払いも組み合わす事ができれば、有為な人材を定着させ、成長の持続につながるものと考えています。バランスは難しいと思いますが、責任と発展を持続させるには頼りになる要素であると思います。

      2013年1月12日土曜日

      メディアに池田勝正が取り上げられました!

      池田の郷土史家の方の紹介で、池田城・池田氏関連の取材協力をさせていただきました。池田勝正も取り上げられています。

      毎日新聞社が運営している、「マチゴト・豊中池田」という地域密着型新聞(11万部発行)があります。その中に漫画で知ろう豊中・池田というコンセプトの「とよいけ劇場」という枠があり、第11号と12号が「池田城と池田氏」というテーマが設定され、それについて取材協力をさせていただきました。

      とよいけ劇場
      http://machigoto.jp/cartoon/
       ↑ページ中の「閲覧する」ボタンを押すとpdfファイルがダウンロードされますので、そちらからご覧下さい。

      時々こういったカタチで、池田勝正の事も紹介できたらいいなと思います。

      マチゴト・豊中池田はネット版も紙媒体版もあります。是非ご覧下さい。
      http://machigoto.jp/


      2013年1月8日火曜日

      河内国津田城

      国見山展望台
      河内国交野郡にあった津田城とは、どうも二ヶ所あったように思えます。
       一つは、標高286.5メートルの位置に築かれた国見山城とも称された城。もう一つは、津田村そのものか、それを含む一帯の城。
       このあたりは、在地領主の中原氏が勢力を持っていたようですが、次第に津田氏に取って代わられ、その津田氏三代目にあたる正明の時代に、三好長慶に属して、更に勢力を拡大したようです。
       交野郡の牧八郷と茨田郡の鞆呂岐六郷を併せて一万石余りの領有と、杉・藤坂・長尾・津ノ熊・大峰などの新村も開発するなどして勢力を拡げたようです。また、奈良興福寺との関係を持ち、津田村・藤坂村・芝村・杉村・穂谷村の「侍中」を津田筑後守範長が率いていた事が、永禄2年8月20日の交野郡五ヶ郷惣待中連絡帳から明らかになっています。

      津田山城内
      津田氏は三好長慶に属した事から、長慶の政策に大きく影響されたであろう事は容易に察せられます。長慶が河内国内の飯盛山に本拠を移した永禄3年以降、津田は京都までの街道上の要地として重視されていた事でしょう。
       その視点で見れば、国見山城は、京都まで見渡せる視界を持ちます。また、津田は交野平野ともいうべく、天野川が流れる平地一帯も見渡せ、そこを走る幾本もの街道もまた見る事ができます。

      津田の旧集落(上の方)
      津田村も比較的標高の高い位置にありますが、その地塊に続く三国山に登れば、津田村周辺と共に、摂津国の高槻方面にある芥川山城も含む、広大な視界を手にする事ができます。津田氏は、三好長慶に属する事で自己の支配領域拡大に役立て、長慶もその安定的な存在を自己の政権安定の一要素として活用した事でしょう。

      ところで、個人的な感想として、津田城が上と下の2つを運用していたと考えたのは、上の城である国見山城は、京都への対応のため、摂津・河内両国の連携に必要であったからと考えています。しかし、高い所の施設の維持管理には当然ながら、費用が重みます。また、人員も必要になったりしますから、そこを担当する津田氏はやはり優遇されるでしょう。
      津田の集落(下の方)
      一方、下の城である津田村ですが、津田氏の活動拠点であるため、人や物が集中してそこに集まります。いざという時にそこを守る必要がありますね。
       そういった理由から、城郭化せざるを得なかっただろうと思います。旧村を歩いてみると、そこここにその跡らしきものを感じます。尊光寺という津田氏一族の寺が現津田元町に存在しますので、村は津田氏と一体化した存在だったと思われます。

      その後、津田氏及び津田城は、三好長慶の死後、三好三人衆と松永久秀の闘争に巻き込まれて苦悩しますが、命脈を保ったようです。
       更に、将軍義昭・織田信長の時代に動乱があり、荒木村重も関わった天正3年の河内国平定の時(四代津田正時の頃)には津田村も焼かれ、勢力を縮小させながら地域の動揺に耐えていたようですが、本能寺の変の頃には明智光秀に応じたために、決定的な打撃を受けて弱体化してしまった模様です。 

      津田の秋の稔り
      しかし、元々肥沃で地の利もあり、また、村人の勤勉さもあって村は復興し、現在に至っています。
       正保郷長の村高は1,018石で、米の他に大麦・小麦・綿・菜種・芋・茶・大豆・大根などが取れ、酒造業・絞油業・素綿業が営まれました。宝暦10年(1760)には、1,317人が住む村となっており、石高と業種の多さから見ると豊かな村となっていた事がわかります。

      これ程の場所ですからやはり、政治的特権を得たならば、相当に栄えた事は容易に想像ができますし、上下2つの城を持つ事も不可能ではなかっただろうと思います。

      2013年1月5日土曜日

      日本の重要文化財盗難が続発しています

      日本の重要文化財などが盗まれています。

      日本で盗まれて行方不明になっている重要文化財は580点、その他の重要美術品を含むと1500点にのぼるようです。以下のようにまとめた人がいますので、引用しておきます。

      1994 安国寺(長崎県壱岐島)から国の重要文化財指定の「高麗版大般若経」が盗難。
          翌年に韓国の国宝284号に指定され、盗品は韓国に存在する事が判明。
      1998 叡福寺(大阪府太子町)から高麗仏画「楊柳観音像」(重要文化財級) を含む
          仏画32点が盗難。韓国に渡った事が判明。
      2001 隣松寺(愛知県豊田市)から阿弥陀如来の極楽浄土を描いた,県指定の重要文化財
          「絹本著色阿弥陀仏曼荼羅」など7点が韓国人により盗難。
      2002 鶴林寺(兵庫県加古市)から国指定の重要文化財「絹本著色阿弥陀仏三尊像」など
          8点が盗難。韓国人の犯行。
      2005 鰐淵寺(島根県出雲市)から「紙本墨書後醍醐天皇御願文」など国指定の重要文化財
          4点を含む,仏画や経典13点が盗難。
      2006 西福寺(長崎県対馬市)から同県指定有形文化財の経典「元版大般若経」など
         約600巻ある経典のうち約170巻が盗難。

      上記のうち、個人的に2003年頃に鶴林寺を訪ねた折、お寺の方が非常に憤っておられました。それでこれらの事実を知ったのですが、美術品としてのマーケットに売るだけでなく、韓国人が盗難を行ない、その後に韓国に渡って、同国が国宝や重要美術品に指定したりしています。

      多数に及ぶ形跡がある事から、日本政府は韓国政府へ正式に盗難品の調査を依頼していましたが、韓国政府はこれを拒否したとの事です。政府が公式にこれを拒絶してしまえば、一体化している事になります。

      韓国は卑怯な国です。なぜ当事者と交渉しないのでしょうか?

      日本からも明治期や太平洋戦争後の混乱期にこうした重要美術品が多く流出しています。ボストン美術館に多数コレクションされたりしています。日本は、不幸にして流出した美術品を太平洋戦争後などに、コツコツと買い戻したりしたいました。決して不当を訴えて盗むような事はしていません。

      しかし、所蔵者がそれを所蔵するに至った経緯を調べず、一方的に所持の不当を訴えて、それを盗むという行為は許されていい筈がありません。

      今、どこのお寺も財政難で、文化財の保管管理が大変な状況になっており、そんな中でも所蔵されている方は、大変悩みながら管理されています。
       しかし、最近は地域の観光の一環として、その文化財が詳しい住所とともにそのいわれまでも公開され、ネット上で簡単に文化財の所在がわかります。
       これが仇になり、盗難事件が加速しています。無住になり、自治会管理になった文化財等は責任所在が分散され、管理も徹底されません。そんな文化財を多く見かけるのですが、その上位である自治体も特に積極的に対策を取る事もしていません。

      いわば、盗りたい放題です。

      多くの方にこの現実を知って欲しいと思います。関心を持ってもらいたいと思います。文化財は地域の、国の拠り所です。

      2013年1月1日火曜日

      河内国枚方城

      枚方の京街道沿いに残る旧家
      枚方城についてネット検索してみると、あまり記述はありませんが、いくつかある記事も概ね同じ出典を元に紹介されています。豊臣秀吉時代あたりからの城としての記述で、それ以前は不明としています。
       また、『大阪府の地名」や『日本城郭大系』を見ても、全容が明らかになる程の発掘が行なわれていない事もあって、城としての規模や経緯は不明なままのようです。
       場所については、枚方市立枚方小学校付近とされていますが、ここだと少し見通しが悪いので、町を見下ろす感じの城作りがされていたのではないかと想うのですが。どうでしょうか。

      枚方城について『日本城郭大系』によると、現在、枚方城は何らの遺構も残していないが、その立地は、枚方市街ではもっとも高所に位置しており、舌状台地の最突端で、三方は深い谷となっており、眼下には淀川から河内平野が一望に見渡せ、現在も城の立地条件は良好に読み取ることができる。
       また、 昭和54年(1579)、城跡の西端で宅地造成があり、崖を削ったところ、上端幅上端幅1メートル、深さ1.5メートルの薬研掘跡らしきV字溝が検出されたが、これは、西側谷を登り切った所に設けられた堀と推定される。
       なお、地名に「門口」と称する小字が残る。、とあり、城があった事は確実視されているようです。
       それから『大阪府全誌』には、枚方城址は、字上の町にあり。今は門口と呼べる小字ありて、地形自ら地堡ありしを想はしむ。城は本多氏の據りし所なり。大字岡一乗寺の記録に依れば、城主本多内膳正政康は豊臣氏に属し、土着の名族にして、百済王の裔なり。(後略)。、とあります。
       
      京都に近い枚方は、水陸交通の要衝であり、当然ながら有力者も育ち、地域権益を守るための自治や物理的にそれを守るための施設、すなわち城があっても全く不自然ではありません。いや、当然の事と思います。
       
      御茶屋御殿公園から高槻方面
      城の視点で地形を見ると、眺望の利く小高い丘があり、至近距離に淀川があります。その淀川に注ぐ天の川が、枚方の町を囲むように合流しています。そこに三矢(みつや)という川港(川の関も)もあります。
       三矢の浜は、枚方宿の消費材搬入の他、周辺の茨田・交野両郡の村々にとっても重要な港で、肥料の搬入・農産物搬出の窓口として機能していたようです。また、乗客数も多かったようで、枚方宿は宿場としても賑わっていたようです。
       枚方には南への河内街道や淀川沿いの京街道が通り、大和国方面への道も通しています。これも枚方の町の発展要素のひとつでした。
       また、枚方宿を構成する岡(村)には、奈良興福寺の関が置かれ、宿内には更に、順興寺(現願生坊)・浄念寺(以上本願寺)、万年寺(真言宗)、一乗寺・台鏡寺(以上浄土宗)など多くの寺があり、寺内町のような性格を持つ部分があったようです。

      旧田中家鋳物民俗資料館
      それから、禁裏鋳物師を務めた枚方村田中家も丘の上にありました。今は跡地になっていますが、市立旧田中家鋳物民俗資料館として、移築復元されています。
      ※是非資料館を訪ねる事をオススメします。非常に興味深い資料館です。

      同じ丘の上に、意賀美(おかみ)神社があるのですが、明治時代に合祀などがあって、ちょっとややこしいです。
       神社のある場所には、元々「須賀神社」「日吉神社」があり、古くから万年寺もありました。廃仏毀釈で万年寺が廃され、そこに伊加賀村から意賀美神社が移ってきて現社名となったようです。ですので、現意賀美神社の社地は、万年寺地で、万年寺の夕刻を告げる鐘は枚方の名物でもあり、枚方八景の一つでもあったようです。

      さて、ちょっと当時の史料も見てみます。

      永禄11年(1568)6月23日、大和国へ陣立てのために、近江国甲賀郡の国人山中蔵人某が、350人程で三矢に陣取ったとしています。『言継卿記』によると、この日の午前1時〜5時、同日午後3時〜5時頃に雨が降ったと記されています。

      この山中蔵人とは、幕府(将軍義栄)方で、三好三人衆勢力の一部です。この頃、三好三人衆勢は、大和国の松永久秀を攻撃中でした。
       翌24日には、この山中蔵人勢に対して、松永久秀嫡子同名久通が、三矢を攻撃するために出陣してきます。同じく『言継卿記』によると、午前7時〜9時頃に松永久通は、1,000名程で山中蔵人勢を攻めた、とあります。この時、久通自身が300程を直接指揮し、搦手表には700程を配して攻めたとあります。
       
      一乗寺にある枚方城主本多政康墓
      結果は、「山中以下悉く討ち捕り云々。」とあり、松永方が勝ったようです。この三矢合戦の記述で気になるのは、「搦手表」に700の兵を配したという点です。

      一方で、同月29日には、松永方の大和国での拠点のひとつである信貴山城が落ちています。
       ですので、松永久通の三矢攻撃は、この信貴山城に対する援護であり、補給の確保であったのでしょう。

      それら一連の動きを見ると、三矢のすぐ東の丘に枚方城が、当然あったのだろうと考えられます。「搦手」と認識される形態の施設があったのでしょう。
       山中蔵人は枚方城に入り、350程の軍勢をそこに置き、その枚方城に関係の深い人物は、地域勢力である本多氏だったのでしょう。

      順興実従墓
      その後間もなく、枚方にあった順興寺は元亀年間(1570〜73)の兵火で焼失しているようですので、枚方城もその時に何らかの被害が出ていたのかもしれません。
       地形的に、この枚方の丘は細かく入り組んでいて、防御面においては独特の手法が取れるのではないかと思います。谷と丘との地形を活かすために、施設を複数箇所作っていたのかもしれません。
       
      何れにしても、科学的な継続調査に期待したいところです。その結果、様々な事実が判明する事でしょう。

      追伸:私は仰星高校の4期生で、高校時代は毎日、この枚方の旧市街を京阪電車の車窓から見ていました。当時もこのあたりは、古い町屋が密集していて、その時の私は漠然と「古い町があるな」程度にしか見ていませんでした。当時私は高校生ですので、そういった伝統的なものに今程興味が無く、また、見て回る機会もありませんでした。
      ※かといって、歴史に興味がなかった訳ではありませんでした。どちらかというと数学ができない分、歴史で点数を稼いでいた方でしたから、嫌いではありませんでした。
       その当時、現在の状態とは違い、塊や面として旧町が残っていたことは、京阪電車から見てもよく判りました。歩けば、とても貴重な景色が残っていたであろうことは、想像に容易いことです。「見ておけばよかった。...」今とても悔やまれます。これからは、急速にそういう事が起きるでしょう。できるだけ見ておきたいと感じています。