2016年3月12日土曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(池田衆の実力)

池田家は、摂津国内屈指の規模を持つ勢力で、それについては様々な史料でも確認できる。それは、交通の発達による流通も含め、その時代性に見合う地の利と中世的社会全体の発展があり、五畿内中の有力都市に成長した事と無縁ではない。
 都市・交通・物流・農産品の生産などが複合的に、より地の利の豊かな地域へ求心力をもたらした結果、発展した池田が歴史の表舞台で活躍した。

永禄12年正月、織田信長が美濃国岐阜に戻った隙を衝いて、三好三人衆勢が京都本圀寺に起居していた将軍義昭を襲撃する事件(本圀寺・桂川合戦)が起きた。これに池田勝正など、摂津三守護が急遽応戦し、事無きを得た。この時、特に功のあった勝正一族で同苗の紀伊守入道清貧斎正秀が信長から賞されている。

一方、後世の伝承で、この時に勝正が役目を省みず池田へ逃げ帰ったとするものがあるが、これらは全て事実無根である事が当時の史料から確認できる。残念ながら、その虚像が今も一般に広く定着している。
 更に付け加えると、勝正は第14代室町将軍義栄政権でも活躍した。勝正は、その政権樹立にも大きな役割りを果たしていたのだった。

池田家の歴史上、勝正の時代に大きな飛躍があり、直接的支配地や影響力を及ぼす領域が拡大した。様々な歴史的事実を見れば、それは疑いない事であるが、それについて当時のキリスト教宣教師の記録が、詳らかに報じてくれてもいる。
 それから、勝正が摂津守護となった事に伴い、その居所である池田城にも変化をもたらしたであろう事は想像に難く無い。労務のための人材、そしてその仕事場や居場所が必要となる。また、社会的な地位にともなう形式と格式をともなった建物や使用品も必要となる。幕府を支えるべく、摂津国守護所としての池田城は、必然的にそれまでとは違う変化を遂げた事と思われる。それはまた、広域的に見れば、京都を守る拠点(都市)としての役割もあったのだろうと考えられる。


<参考史料>
1539年(天文8)------------
閏6月13日 将軍義晴、摂津国人池田筑後守など有力国人へ御内書を送る
       ※摂津市史(資料編1)379頁など
1564年(永禄7)------------
10月頃   宣教師フロイスの編書『日本史』に摂津池田家が紹介される
       ※フロイス日本史3(中央公論社)P192頁など
1566年(永禄9)------------
5月30日  足利義栄擁立派三好義継被官池田勝正、堺へ出陣
       ※大阪狭山市史2(史料編:古代・中世)615頁など
1567年(永禄10)------------
5月17日  足利義栄擁立派三好三人衆方池田勝正勢、奈良油坂の西方寺に布陣
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)13頁など
1568年(永禄11)------------
1月17日  足利義栄擁立派三好三人衆方池田衆、奈良多聞城の付城へ入る
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)50、ビブリア62号60頁(二條宴乗記)など
7月15日  将軍義栄方池田清貧斎正秀、公卿近衛家を訪問
       ※言継卿記4・255頁など
1569年(永禄12)------------
1月5日   足利義栄擁立派三好三人衆勢、将軍義昭の宿所本圀寺を襲撃
       ※言継卿記4・299頁など
1月6日   摂津守護池田勝正など、将軍義昭救援のため山城国乙訓郡西岡方面へ到着
       ※言継卿記4・300頁など
1月8日   摂津守護池田勝正、西岡勝龍寺城へ帰城
       ※言継卿記4・301頁など
1月10日  織田信長、池田勝正一族清貧斎正秀を褒賞
       ※信長公記(新人物往来社)93頁など
1月12日  摂津国池田へ避難中の将軍義昭側近細川輝経、将軍義昭へ参候
       ※ビブリア62号63頁(二條宴乗記)など
1572年(元亀3)------------
11月19日 織田信長衆木下秀吉、将軍義昭側近曾我助乗へ池田衆が幕府方となった事について音信
       ※兵庫県史(史料編・中世9)432頁など
1573年(元亀4・天正元)------------
3月12日  将軍義昭方池田某(知正?)、義昭へ参侯
       ※耶蘇会士日本通信・下・248頁など





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