2016年3月14日月曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(軍事行動の目的と池田家の役割)

近年の、中・近世における交通・物流研究の深化により、戦国時代の権力についても多角的な視点が示めされるようになってきている。また、中世後期は「戦国時代」とも呼ばれ、政治の一部として「武力」が、政治問題の解決方法に用いられていた。軍事的な視点では、節目となる大きな戦争が既に知られている。しかし、それはまだ、その時代の部分的世界の理解であるように思える。
 元亀元年4月、朝廷からも信任された官軍としての幕府軍は、朝倉氏を攻めるために、越前国へ向かった。それは周到に用意され、進軍中に改元も行われている。また、その数も30,000〜50,000という大軍を動員し、その中、池田勝正は3,000名を率いて従軍した。これは、幕府軍の中でも中核ともいえる組織規模(一団)である。

この、話し合いを考慮しない朝倉征伐の目的は、勿論、その本拠地である一乗谷へ侵攻する事であるが、それに加えて政権離反の兆しがある浅井氏の動向確認、また、未完でもある近江国制圧と若狭国内乱の平定も目的にしていたと考えられる。更に、それによる若狭湾から湖北各津を経た京都・奈良・大坂への流通掌握も重要であった。

朝倉氏征伐は、京都を中心とした軍事・経済・交通など、複合的な課題を総合的に解決するための行動であったと考えられる。また、朝倉義景によって拉致されたとする、若狭守護家の武田孫犬丸(元明)の解放も目的の中に組み込まれていたのかも知れない。
 これらの目的に対して池田家は、幕府・織田信長から大きな期待をかけられるに見合う規模と実力、畿内近国でのブランド力を備えていたといえる。

<参考史料>
1568年(永禄11)------------

4月8日   近江国菅浦関係者らしき善応寺など、近江国人浅井長政一族木工助某へ音信
       ※日本中・近世移行期の地域構造64頁など
8月     足利義昭擁立派越前守護朝倉義景、若狭守護武田元明を若狭国から拉致する
       ※朝倉義景(人物叢書)64頁など
8月18日  近江国菅浦惣中、織田信長方近江国人浅井長政一族木工助某へ音信
       ※日本中・近世移行期の地域構造65頁など
11月12日 幕府奉行衆松田頼隆など、若狭国賀茂庄名主百姓中へ宛てて音信
       ※福井県史(資料編2)529頁など
12月12日 幕府・織田信長方浅井久政など、近江国人朽木元綱へ起請文を提出
       ※浅井氏三代(人物叢書)195など
1569年(永禄12)------------
6月23日  近江国人浅井氏、幕府・織田信長方から離反するとの噂が立つ
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)135頁など
1570年(永禄13・元亀元)------------
1月23日  織田信長、摂津守護池田勝正など諸大名へ触れ状を発行
       ※姫路市史8(史料編:古代・中世1)591頁など
3月6日   織田信長、公家の領地旧記の調査を命じる
       ※言継卿記4・396頁など
3月12日  近江国人浅井久政、近江国黒田など御寺地下人中へ宛てて音信
       ※大日本史料10・4・403頁など
4月20日  織田信長幕府軍として、京都を出陣
       ※言継卿記4・407頁など
4月28日  正親町天皇、禁裏・石清水八幡にて戦勝の祈祷を行う
       ※言継卿記4・410頁など
6月20日  織田信長、近江国菅浦へ禁制を下す
       ※大日本史料10・4・532頁など







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