2014年2月15日土曜日

荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その4:三好三人衆の勢力は、依然侮れない影響力があった事)

第十四代室町将軍義栄を支えた三好三人衆は、足利義昭が第十五代将軍になって京都に入っても、依然侮れない影響力を五畿内地域とその周辺に及ぼしていました。

三好長慶など、三好氏の京都での実績は天文年間以前から半世紀にも渡り、広く深く、様々な分野に関係を持っていました。
 義昭が将軍職を任された永禄11年(1568)秋から、摂津国池田家の内訌が起きた元亀元年(1570)6月までの約2年間について、下野した三好三人衆の動きと、その影響力について、考えてみたいと思います。
 
京都の宗教界の視点で、斎藤夏来氏による興味深い研究『織豊期の公帖発給権 -五山法度第四条の背景と機能-』をご紹介します。
 永禄11年6月と元亀元年7月の2度にわたり、京都相国寺住持に補任されている高僧江春瑞超は、その時点で開封披露する入寺式を行わず、元亀2年になって相国寺に入って、公帖を開封披露しているようです。

これは非常に興味深い事です。

公帖とは台帖・公文などとも呼ばれるもので、これは室町幕府足利将軍から与えられる公文書です。これによって、禅宗官寺の住持に補任されて出世する叢林長老は、諸山・十刹・五山の住持を歴任し、最終的には南禅寺住持に補任されて、紫衣着用を許される存在だったようです。
 ただし、室町中期以降は、各地の諸山・十刹寺院は多くが廃壊し、名目的補任がなされる場合もあったようですが、南禅寺住持を頂点とする権威は機能していたようで、これが、将軍からの公認を受ける事と与える事の格式をも維持させていたようです。
 
そういう意味のある公帖を、江春瑞超なる人物は、第14代将軍義栄から永禄11年7月に受けていますが、その開封披露をすぐに行わず、その実力を見極める態度を取っています。
 何らかの事情があったのだろうと思いますが、興味深いのは、義昭は永禄11年10月に正式な将軍となっているにも関わらず、義昭が公帖を発行したのは元亀元年7月です。そして、江春瑞超は、その時点でも将軍の実力を見極めるかのように、公帖の開封披露を見送っています。

そしてまた、雲岫永俊なる人物は、将軍義栄(この時は実際には将軍ではないが、将軍と目される状態ではあった)時代の永禄10年10月付けで、景徳寺・真如寺住持となっています。
 その後、将軍義昭時代の元亀3年11月付けで、再度両寺の住持となっていますが、その折、義昭は永禄10年10月付けで義栄が発行した文書(御判)を破棄して、その立場を誇示していているようです。
  この出来事は、政治的なターニングポイントを示しているといえます。

一方、軍事面での三好三人衆の動きを見てみます。

永禄11年秋、足利義昭が将軍に就き、政権が始動します。しかし、この時の軍事侵攻は、京都を中心として、摂津国東部・河内国・大和国北部を主に制圧したのみで、圧倒的な安定政権とするには程遠い状態でもありました。
 近畿地域では、和泉国は殆ど手をつけていませんでしたし、山城国北部・大和国・丹波国は、敵味方が混在していました。伊勢国もそうです。更に近江国も六角氏などの抵抗があり、完全に制圧はできていませんでした。
 京都に隣接する国でも、また、京都を内包する山城国も完全に制圧できていないのですから、畿内周辺の国になると、権威は及んでいませんでした。将軍義昭政権に対抗する最有力勢力である三好三人衆は、一旦京都を落ちて後退したものの、永禄11年暮れには再び京都への返り咲きを企図して、大規模な行動を開始します。
 12月28日、三好三人衆勢が、和泉国家原城を攻め、数日でこれを落とします。この行動について、三好三人衆方の某が、和泉国人多賀左近大夫に音信しています。
※新修 泉佐野市史4(古代・中世1) P710

-史料(1)--------------------------------------------
前置き:
尚々来る13日(1月13日)御礼参るを以て申し入れるべく候。
本文:
先度は、鯛御意に懸けられ候。一段祝着の至り候。尤も御礼参るを以て申すべく候へ共、今夜堺より罷り越し、くたびれ申し候まま、其の儀無く候。昨日三人衆出られ候を見物申し候つる、人数5,000計りと申し候。させる(さ程?)儀は有間敷く候。将亦紀伊国根来寺辺の儀は、如何候や、承り度く存じ候。恐々謹言。
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この三好三人衆の行動には、堺の商人も協力していた事は有名で、様々な便宜を図っていたようです。
 また、三好三人衆方の軍事行動は広域活動で、播磨国方面でも諸勢力が活動していた事がわかります。有馬街道によってつながる、摂津国池田衆がこの方面に対応しています。この時、幕府方摂津国守護池田勝正が、永禄12年正月付けで、播磨国鶴林寺並びに境内へ宛てて禁制を下しています。なお、文体は直状形式といわれるもので、上意(将軍義昭)の下達の役割を務めている事が判ります。
※兵庫県史(史料編・中世2)P432

-史料(2)--------------------------------------------
一、当手軍勢甲乙人濫妨狼藉之事、一、陣取之事付き放火之事、一、竹木剪り採り堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
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同月2日、三好三人衆勢は、河内国出口・中振方面まで北上し、陣を置きます。各所の協力もあって、この軍勢は進軍が早く、同月5日に将軍義昭居所である、京都本圀寺を攻めます。手薄な将軍居所を多数の軍勢で襲われたため、幕府方は苦戦を強いられましたが、急遽支援に駆けつけた池田勝正など京都周辺の幕府勢により、この難を逃れました。
 これが「本圀寺・桂川合戦」といわれる戦いで、将軍義昭は危うく殺害されるところでした。この時、三好三人衆方へ、山城国八幡神宮寺も加担しており、この合戦の後で幕府方に攻められています。同じく摂津国尼崎・兵庫も同様に攻められ、京都近郊であっても、永禄12年春までは三好三人衆へ加担する勢力が非常に多かった事が判ります。

また幕府は、大山崎周辺に徳政令を発し、旧政権との経済的な関係を絶つための政策を施しています。ただ、地域の有力者が貸し付けた金品が、幕府の発した徳政令で損害を受けないように、幕府は抜け目なく保護政策を打ち出しています。大山崎の八幡神人などに対して、2月23日付けで奉書を下し、免除を行っています。
※島本町史(史料編)P443

-史料(3)--------------------------------------------
大山崎八幡神人等、方々輩口に対する入米銭・質物以下事、神物為に依り、徳政法の段に准えるべからず。先(前)御代に任せ御下知の旨に任せ、弥動(働)き之由改めるべからず、所仰せ下され候。仍て下知件の如し。
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それから、有力寺院が幕府方に属す見込みが立てば、矢銭賦課の免除も行っています。こういった行動も、三好三人衆時代の関係を整理するための行動です。
 3月2日付けで、佐久間信盛・坂井正尚・森可成・蜂屋頼隆・柴田勝家、野間長前(三好義継重臣)・竹内秀勝・結城忠正・和田惟政が、摂津国多田院彼者に宛てて音信しています。
※川西市史4(史料編)P460

-史料(4)--------------------------------------------
当院の御事、自余混じえず候て、今度の御用之相除き候。違儀有るべからず候。恐々頓首。
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更に、紀伊国高野山も三好三人衆方に加担する動きがあり、その関連史料があります。織田信長が金剛峯寺惣分沙汰中に宛てて、4月7日付けで音信しています。
※五條市史(史料)P314

-史料(5)--------------------------------------------
当山衆僧連判以って御敵一味せしめ、度々行(てだて:軍事行動)に及び、剰(あまつさ)え要害構え、大和国宇智郡押妨言語道断の次第候。早々開け渡すべく候。然ず者急度御成敗なられるべく候。
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それから物理的に、将軍居所としての施設を京都に造る対応も行います。京都は永年の混乱と政治的な不安定さで、将軍の相応しい居場所がありませんでした。本圀寺・桂川合戦に危うく勝った現実を重く見て、将軍の居城として、急遽二条城を造営する事を決します。
 いざと言う時には城が必要です。京都に将軍が居てこそ、禁裏守護という本来の任務が果たされるというわけです。織田信長は、その事にこだわり続けたようです。
 この工事は2ヶ月程で主要部分は完成し、永禄12年4月14日に将軍義昭は、その新城に入っています。
 
さて、三好三人衆の動きです。

永禄12年10月頃、三好三人衆方の調略で河内国高屋城内で騒動が起きているようですが、この年は、幕府方が優勢で、五畿内で三好三人衆方の目立った動きは見られません。播磨・淡路国などでの動きが主でした。
 11月21日、堺商人今井宗久が細川藤孝や織田方佐久間信盛に、三好三人衆方の軍勢が阿波国から淡路国へ渡ったと伝えており、その数は3,000と報告しています。

年が明けて永禄13年、前年末に動きのあった三好三人衆勢力は動きを活発にします。三人衆方の重要人物である、加地権介久勝が大阪辺に居ると、今井(納屋)宗久が、2月19日付けで、将軍義昭側近の祐阿弥陀仏へ報告しています。
※堺市史5(続編)P927

-史料(6)--------------------------------------------
御折紙畏みて拝見致し候。仍て諸牢人当津(堺)に至り、相集まり由、何れ共只今迄者事ならず候。従何方申し上げられ候哉。(三好三人衆方)加地権介委細摂津国大坂辺之在る由、大略実儀候。其の外の儀者取り沙汰無く候。猶々承り儀候者、御注進申すべく候。今朝、淡路国表の儀申し上げ候。漸く為すべく。恐惶。
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それから間もなく、奈良興福寺一乗院の坊官二條宴乗が、元亀元年6月1日付けで、堺へ牢人衆が集まっている旨を日記に書き留めています。この牢人衆とは三好三人衆の軍勢です。
 また、同じ興福寺の多聞院坊官英俊も、同月2日付けで、その旨を日記に書き留めています。
※ビブリア53号-P148(二條宴乗記)、多聞院日記2(増補 続史料大成)P189

-史料(7)--------------------------------------------
『二條宴乗記』6月1日条:
進左(近衛前久諸大夫、進藤左衛門大夫長治)、大坂より帰。三人衆・足軽衆在津由。
『多聞院日記 』6月2日条:
牢人衆堺へ着き歟の由沙汰之在り。指したる儀有るべからず歟。
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6月28日の姉川合戦に先立って、近江守護の六角承禎父子の勢力が近江国野洲方面へ出陣。同月4日に、織田信長方の軍勢と合戦となりますが、六角方は破れて敗走します。この六角方は、三好三人衆と連絡を取り合っており、且つ、朝倉・浅井方とも連動していました。
※言継卿記4-P420、信長公記(新人物往来社)P105

-史料(8)--------------------------------------------
『言継卿記』6月4日条:
近江国小浜於合戦午時(午前11〜午後1時)に之有り云々。近江守護六角入道承禎(義賢)・嫡子義治以上2,000〜3,000人討死、敗軍云々。申刻(午後3時〜5時)武家へ方々自り注進之有り云々。織田信長内佐久間信盛・同柴田勝家・近江国衆進藤・同永原等勝軍云々。珍重珍重。
『信長公記』落窪合戦の事条:
6月4日、佐々木承禎父子、近江国南郡所々に一揆を催し、野洲川表へ人数を出し、柴田勝家・佐久間信盛懸け合い、野洲川にて足軽に引き付け、落窪の郷にて取合い、一戦に及び、切り崩し、討ち取りし首の注文。三雲父子、高野瀬、永原、伊賀・甲賀衆究竟の侍780討ち取り、近江国過半相静まる。
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永禄11年秋、稔りの時期を狙って、電撃的に上洛戦を展開し、足利義昭の将軍就任となったものの、その政権の課題は山積で、不安定なものでした。
 京都の周辺でさえ、有力勢力が反幕府的な動きを見せる中で、三好三人衆勢力も中央政権復帰に向けての軍事行動を盛んに行っていました。決して、織田信長が支える将軍義昭政権が、圧倒的であった訳ではありません。
 更に、将軍義昭政権発足から間もなく、その両者の不和も表沙汰となる程で、禁裏や諸権門などから見れば、この政権も何とも不安定な要素を孕んでいました。

次回は、三好三人衆に加担する、反幕府勢力を束ねる人物について、見て行きたいと思います。





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