戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2012年9月24日月曜日
組織と個人を結びつけ、維持する事
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組織と個人を結びつけ、維持する事について、個人的に関心を持っています。それを維持し続ける要素とその中心たる核。また、それを維持し、発展させて行く要素とは何でしょうか? これは、現在にも通じるテーマです。 池田勝正が生きた時代の日本には「家」制度があり、その中心は血族の結...
2012年9月14日金曜日
千年以上前のナビ
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仕事でちょこちょこと京都にも行くのですが、交差点を渡る時にふと思いました。 「ナビだ」と。 東西南北を把握し、通りと筋の名前がわかれば、いつでも自分の位置が把握できます。学校でも習った碁盤の目の都市づくりですね。 こんな仕組みが千年以上前からあったとは、凄いな〜、と...
2012年8月28日火曜日
元亀2年8月28日の白井河原合戦の事
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元亀元年(1571)8月28日の早朝、今の大阪府茨木市郡付近で三好三人衆方池田衆と幕府・織田信長方和田伊賀守惟政勢の合戦があり、池田衆が勝利しました。今から441年前です。 詳しくは昨年、「 白井河原合戦に至るまで 」として詳しく書いてみました。ご興味のある方は、ご覧下さい...
2012年8月17日金曜日
元亀2年9月中頃、摂津国吹田へ吹田氏復帰か
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詳しい日時は不明ですが、白井河原合戦の戦況から見ると、元亀2年(1571)の9月中頃には摂津国吹田村を取り戻し、三好三人衆方池田氏に近しい吹田氏が入った(復帰した)と考えられます。 千里丘陵の南側に位置する、水運・陸上交通の要衝である吹田は、同年6月に吹田城を落として制圧し...
2012年8月4日土曜日
摂津国吹田村にも関わった池田正行という武将
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池田勝正の一族で、池田正行なる人物が居ました。何通かの音信が史料として残っていますので、実在の人物です。この正行は、池田家中の政治に深く関わっており、その音信の内容も非常に興味深く、また、重要なものです。 正行は、吹田村について音信の中で触れています。以下はその音信の内容で...
2 件のコメント:
2012年7月28日土曜日
摂津国吹田城(大阪府吹田市)の事
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摂津国嶋下郡にあった吹田城については、不明な点が多く、発掘調査もあまり行なわれていない状況にあって今も所在地不明なままです。 この吹田城は、在地土豪の吹田氏にも関係が深いと考えられ、また、その吹田氏は池田氏とも関係を深くしていました。特に池田勝正の時代には結びつきを強くして...
2012年5月6日日曜日
永禄11年の足利義昭上洛戦と摂津池田城(はじめに)
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永禄11年秋、足利義昭を奉じた織田信長が、みごとに上洛を果たしたことは、日本史上ではあまりに有名な出来事です。 しっかりと周辺状況を分析し、勝算を立てた上での戦略と戦術は、それまでの他の武将とは大きく違いました。多少の無理があったとしても、致命的な要素では無く、計算と準備が...
2012年5月2日水曜日
奈良多聞山城の守備
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永禄10年春から翌年夏までの奈良多聞山城攻めに参加した池田勝正は、その守備をどのように考えていたのかが気になっていました。 永禄11年9月、遂に多聞山城は落ち、松永久秀は、そこから北に2里程の鹿背山城へ移ります。逃げる事ができたと言う事は、そういう縄張りになっていて、その領...
2012年3月23日金曜日
永禄6年(1563)3月、池田勝正が池田四人衆の内2名を粛正した事
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永禄6年(1563)2月、摂津国池田家の惣領池田長正が死亡した事により、勝正がその跡を継ぎました。 翌月22日、池田勝正は酒宴の席で、同家官僚機構ともなっていた池田四人衆の内2名(池田山城守基好・同苗勘右衛門尉正村)を殺害しました。他にもそれに連なる人物も粛正したようです。...
2012年2月15日水曜日
摂津原田氏とその城について考える(はじめに)
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摂津国の有力国人であった池田氏と、関係の深い同国の 豪族原田氏 、そして、その原田氏の居城であった 原田城 については、中々資料がありませんね。 幸い、豊中市の教育委員会が原田城の発掘を続けてくれているので、そういった報告書が発行されるたびに、考古学の観点から進展しているよ...
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