2012年2月15日水曜日

摂津原田氏とその城について考える(はじめに)

摂津国の有力国人であった池田氏と、関係の深い同国の豪族原田氏、そして、その原田氏の居城であった原田城については、中々資料がありませんね。
 幸い、豊中市の教育委員会が原田城の発掘を続けてくれているので、そういった報告書が発行されるたびに、考古学の観点から進展しているように思います。また、今西家文書などもしっかりと再検討の視角を設けて、新たな手法で提起したりするなど、大変すばらしい活動を続けていると私は感じています。また、発掘も地道に続けられ、成果も積み上げられています。

私は池田勝正との関係で、原田城と原田氏を見ているのですが、その時代の動向については、直接的な史料は、あまり多くはありません。しかし、その数少ない史料を見ると、興味深い事が判ります。
 勝正が当主となるころには、家格の差と共に経済的な差も開き、池田周辺の豪族はそこに引き寄せられるカタチで被官化していたようですので、原田氏もそういった関係となっていたのだろうと思います。

先に述べたように、原田城は原田氏の城ですので、その大きさやカタチは、原田氏の立場や役割に相対しています。ですので、物理的な発掘で判ることと、文献から見える原田氏の活動の両方を見る事で、正確にその事象や事柄(発掘された遺物も含め)の意味が捉えられるという訳です。

原田城と原田氏は、池田家との関係も深いため、その動きを追う中で、原田氏とその城の事も少し様子が判るようになると思います。
 それらを順に説明したいと思いますが、分かりやすくするために城と原田氏を分けて、私の調査結果(終わり無く進行中ですが...)をご紹介したいと思います。ご興味のある方はご覧下さい。

それらの説明を、以下の要素から説明したいと思います。
 
(1)摂津原田城について その1:元亀4年(1574)以前
(2)摂津原田城について その2:天正元年(1574)以降
(3)考古学・発掘調査から見た原田城
(4)摂津原田氏について
(5)戦国大名中川清秀に仕官した原田氏について



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