戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2012年5月6日日曜日
永禄11年の足利義昭上洛戦と摂津池田城(はじめに)
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永禄11年秋、足利義昭を奉じた織田信長が、みごとに上洛を果たしたことは、日本史上ではあまりに有名な出来事です。 しっかりと周辺状況を分析し、勝算を立てた上での戦略と戦術は、それまでの他の武将とは大きく違いました。多少の無理があったとしても、致命的な要素では無く、計算と準備が...
2012年5月2日水曜日
奈良多聞山城の守備
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永禄10年春から翌年夏までの奈良多聞山城攻めに参加した池田勝正は、その守備をどのように考えていたのかが気になっていました。 永禄11年9月、遂に多聞山城は落ち、松永久秀は、そこから北に2里程の鹿背山城へ移ります。逃げる事ができたと言う事は、そういう縄張りになっていて、その領...
2012年3月23日金曜日
永禄6年(1563)3月、池田勝正が池田四人衆の内2名を粛正した事
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永禄6年(1563)2月、摂津国池田家の惣領池田長正が死亡した事により、勝正がその跡を継ぎました。 翌月22日、池田勝正は酒宴の席で、同家官僚機構ともなっていた池田四人衆の内2名(池田山城守基好・同苗勘右衛門尉正村)を殺害しました。他にもそれに連なる人物も粛正したようです。...
2012年2月15日水曜日
摂津原田氏とその城について考える(はじめに)
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摂津国の有力国人であった池田氏と、関係の深い同国の 豪族原田氏 、そして、その原田氏の居城であった 原田城 については、中々資料がありませんね。 幸い、豊中市の教育委員会が原田城の発掘を続けてくれているので、そういった報告書が発行されるたびに、考古学の観点から進展しているよ...
2012年1月5日木曜日
宣教師ルイス・フロイスの記述に登場する、河内国讃良郡の三箇城
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河内国飯盛山城 に三好長慶が拠点を置いた頃、同国讃良郡内に 三箇城 が重要な役割を持って存在していました。 三箇城は深野池の中にある島にありました。島は主要な3つをもって名付けられ、三箇とよばれるようになったともされています。 この付近の荘園の関係もあって、それらは九...
2011年11月15日火曜日
白井河原合戦に至るまで(その4 完結:合戦の意味を考える)
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結果を構成する要素というか、出来事の背景を見る事は、非常に重要だと思いますし、それがいわゆる「歴史科学」だと思います。 本来、「武力」と「政治」は共に存在し、どちらが上とか下とか、先とか後ではなく、それらに宿る権力は表裏一体であり、あたりまえの構成要素です。 太平洋戦争...
2011年10月8日土曜日
白井河原合戦に至るまで(その3:合戦の頃の周辺戦況と関連性)
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元亀2年(1571)8月28日、三好三人衆方である摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。 この戦いに至るには、その前段階があります。その過程について、いくつかに分けてご紹介しますが、白井河原合戦を中心として、そこ...
2011年9月10日土曜日
白井河原合戦に至るまで(その2:和田惟政の池田領侵攻の動き)
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元亀2年(1571)8月28日、摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。総大将である和田伊賀守惟政は、この合戦で戦死し、池田衆にその首を取られてしまいます。惟政の首は彼の拠点である高槻城に晒され、池田衆は勝利に歓喜しま...
2011年9月7日水曜日
白井河原合戦に至るまで(その1:合戦中の戦況とその直前の摂津中部地域の状況)
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元亀2年(1571)8月28日、摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。総大将である和田伊賀守惟政は、この合戦で戦死し、池田衆にその首を取られてしまいます。惟政の首は彼の拠点である高槻城に晒され、池田衆は勝利に歓喜しま...
2011年9月3日土曜日
郷土史を勉強して見えてきた現代の日本
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郷土史という人間の歴史を勉強して、見えてきた今の日本社会があるのですが、皆さんが思うように、やっぱり私も将来が不安です。 私が勉強している摂津池田家も地域権力として滅んだ一族ですが、権力の統合過程で、同じように滅んでしまった家も無数にあります。最近は織田信長とか豊臣・徳川な...
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