戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
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研究_摂津池田家について
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2022年6月5日日曜日
摂津池田家の政治体制の考察
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応仁・文明頃の勢力図 池田家の惣領が信正の頃(勝正の先々代)になると、摂津国人の中でも一歩抜き出た存在に成長します。信正は畿内地域で活躍していた三好一族と親密になり、当時の管領であった細川晴元重臣三好政長の娘を娶って一族となりました。そのため、管領職であった晴元とも一気に距離が近...
2016年10月22日土曜日
摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?
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大尭山長遠寺 兵庫県尼崎市に大尭山長遠寺(ぢょうおんじ)という古刹があり、そこに甲賀谷又左衛門尉正長夫妻の、特別に顕彰された墓があります。 今のところ不明な事が多いのですが、この人物は同寺を再建した大檀越(おおだんおつ(だんおち):寺や僧に布施をする信者や檀家の事。...
2016年7月8日金曜日
摂津池田家が滅びた理由
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池田勝正を中心に、20年程、摂津池田家の歴史を調べていると、同家がなぜ滅びたのかがわかったような気がします。一つの要素で、また、一人だけがその原因を作った訳ではないのですが、その中でも、最も重要な要素があるように思います。 詳しい分析は、また後日に「 摂津池田家の支配体制 ...
2013年6月24日月曜日
池田四人衆から三人衆へ
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<概要> 元亀元年(1570)6月、摂津国守護所である池田城内において内訌が発生。同国守護職であり、池田家当主でもあった池田勝正は、重臣集団から追放されて城を出ました。 池田衆は、将軍義昭を中心とする幕府方に忠誠を尽くして東奔西走しましたが、過酷な政権維持環境のために家中...
2013年6月16日日曜日
池田四人衆について
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<概要> 池田四人衆とは、国人であった摂津国池田家が、戦国大名として成長する過程で生まれた、家政機関です。 四人衆制度は池田信正が当主であった時代に生まれ、長正、勝正の代まで機能していました。 元亀元年6月の池田家内訌で、当主の勝正が追放され、その時に四人衆も再編され...
2013年6月15日土曜日
荒木村重など、池田一族が署名した『中之坊文書』について
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有馬城跡から有馬の町を見る 摂津国有馬郡湯山年寄中に宛てた、荒木村重など池田家中の諸侍が署名した『中之坊文書*』は、非常に重要な史料です。 しかし、残念ながら年記を欠き、6月24日とのみあるだけで、何時の事なのか不明です。ですので、研究は進んでいません。この史料は神...
2012年10月14日日曜日
白井河原合戦にも従軍した藤井加賀守について
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『陰徳太平記』の記述にも登場する藤井加賀守なる人物についてですが、直接的な史料はあまり無いものの、実在した人物であることは間違い無いようです。 幸福山太春寺の山門 いわゆる、池田二十一人衆の連署状とされる『中之坊文書』に、藤井権大夫数秀なる人物が署名をしています。ま...
2012年8月17日金曜日
元亀2年9月中頃、摂津国吹田へ吹田氏復帰か
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詳しい日時は不明ですが、白井河原合戦の戦況から見ると、元亀2年(1571)の9月中頃には摂津国吹田村を取り戻し、三好三人衆方池田氏に近しい吹田氏が入った(復帰した)と考えられます。 千里丘陵の南側に位置する、水運・陸上交通の要衝である吹田は、同年6月に吹田城を落として制圧し...
2012年8月4日土曜日
摂津国吹田村にも関わった池田正行という武将
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池田勝正の一族で、池田正行なる人物が居ました。何通かの音信が史料として残っていますので、実在の人物です。この正行は、池田家中の政治に深く関わっており、その音信の内容も非常に興味深く、また、重要なものです。 正行は、吹田村について音信の中で触れています。以下はその音信の内容で...
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2012年3月23日金曜日
永禄6年(1563)3月、池田勝正が池田四人衆の内2名を粛正した事
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永禄6年(1563)2月、摂津国池田家の惣領池田長正が死亡した事により、勝正がその跡を継ぎました。 翌月22日、池田勝正は酒宴の席で、同家官僚機構ともなっていた池田四人衆の内2名(池田山城守基好・同苗勘右衛門尉正村)を殺害しました。他にもそれに連なる人物も粛正したようです。...
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