戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2010年11月24日水曜日
勝正のエピソードは色々あります
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○キリシタンとの関わりがあり、記述にも頻出する。 ○阿波足利政権を支える。 ○三好三人衆方に加担し、大和国の松永久秀を攻めた時、東大寺大仏の焼失を目撃す。 ○番替で兵を交代制として編成。 ○動員兵力は三千から四千くらいまで可能だった。 ○鉄砲の組織的運用の可能性。 ...
2010年1月30日土曜日
大和信貴山城について
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現在の大阪府と奈良県の境目として、南北に横たわる生駒山地の頂上部が設定されています。 中世の頃もこれと同じく、生駒山地が河内国と大和国の国境でした。室町末期の戦国時代、国境は軍事的にも非常に重要な意味を持っていました。 そのため、その付近には多くの城が作られ、近世概...
2010年1月20日水曜日
奈良県北葛城郡箸尾にあった城
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奈良県北葛城郡箸尾の箸尾城 は、同郡長河荘荘官であった箸尾氏の本拠であったところに城はありました。こちらは、中世の堀や道が今も残っており、すばらしい史跡です。街そのものが資料館のようです。奈良県には環濠集落が多数あり、近年では急激にその数を減らしているとはいえ、今も箸尾のように...
奈良市油阪東町の草鞋山 西方寺
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平成12年(2000)当時の表門 奈良市油阪東町に草鞋山西方寺というお寺があります。非常に古い由緒を持つお寺で、大変趣のある古刹です。 その西方寺は、池田勝正に縁があるお寺で、松永久秀と三好三人衆が激しく争った永禄10年、勝正は三好三人衆方として、松永久秀の本拠地で...
明智光秀も陣を取った、戦国時代の史料に現れる森河内村(現東大阪市)と左専道村(現大阪市城東区諏訪1-2丁目)について
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明治時代中頃の地図 東大阪市森河内(現西・東の長瀬川沿い)というところは、今や都会の一部ではありますが、このあたりは非常に昔の面影の残る貴重な地域です。 この「森河内」は、前近代時代頃まで交通の要衝で、陸路・水運が交差する地域でした。また、戦国時代末期には大坂石山本...
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2009年12月22日火曜日
池田勝正の最後 その2
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2009年12月19日投稿分の続き、その2です。 天正6年の秋以降に小柿地域へ池田勝正が入ったのなら、また、別の想定が必要になります。 今のところ不確定なのですが、現広島県福山市神辺町に池田勝正そ祖に持つと伝わる旧家があります。 私はそちらへお邪魔して色々と資料を見...
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2009年12月19日土曜日
池田勝正の最後
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歴史学を学んだわけでは無いのですが、その真相が知りたくて、もう、10年以上も池田勝正の研究をしています。 今もわからないところは多くあるのですが、素人とはいえ、10年以上も毎日のように当時の史料や伝聞資料を読んでいると、ぼんやりとその輪郭がわかるようになりました。 謎の...
2009年12月14日月曜日
中世国人の研究って...
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大阪府池田市に住んだことがきっかけで、摂津国人池田氏の事を調べ始めました。 最初は全くの素人からのスタートでした。私は造形やデザインの勉強をしていましたので、 歴史学というかそちらの分野の事は全くわらないまま、興味だけで進んでいました。 しかし、10年以上もやっている...
2009年7月22日水曜日
今後は少しずつ記事を増やします
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ブログを使って池田勝正の情報を公開してみようと思います。 呉江舎 のホームページにも勝正のコーナーはあるのですが、夫々の利点を活かして、 ご紹介していきたいと思います。
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