現在の大阪府と奈良県の境目として、南北に横たわる生駒山地の頂上部が設定されています。
中世の頃もこれと同じく、生駒山地が河内国と大和国の国境でした。室町末期の戦国時代、国境は軍事的にも非常に重要な意味を持っていました。
そのため、その付近には多くの城が作られ、近世概念が芽生え始める頃には、それらがネットワーク関係を以って構成されていたようです。
永禄年間には、大和領有を目論む三好長慶勢の最前線となり、生駒山地の北端部に飯盛山城を大城郭に変貌させます。
それに先立って、松永久秀が生駒山地の南端付近に信貴山城を根拠地として、大規模に改修を行っていました。
この事は、京都と大阪、和泉方面から大和国への流通について監視や管理が可能となり、三好勢にとっては、大和への進攻のための補給をその西側の大坂湾から安定的に受ける事ができます。
また、生駒山地の頂上部はほぼ平坦で、道を通して南北の移動が可能です。そのことは、生駒山地を東西に貫く、いくつかの街道管理のためにも必要な事でもあります。要するに、生駒山地を利用すると非常に迅速に大和・河内両国の有事に対応する事が可能になります。
この事から、飯盛山城と信貴山城は、生駒山地を利用して、相互関係を保持していたと考えてもいいように思います。両城ともに、兵や物資を大規模に備蓄が可能なつくりとなっていますし、有事への機動性を確保する意図があったと考えてもいいように思います。
また、生駒山地(津田城・二上山城)や摂津国北部の山地(池田城・芥川山城)を支配する事は、大阪平野を取り囲む広域の情報ネットワークを活用する事が十分可能で、実際にそれぞれの山城に登ってみると、その事が考慮されていたと考えざるを得ません。
それぞれの城は目視が可能な位置にあり、それぞれを伝えば、京都へも奈良へも神戸へも簡単な伝達が可能になっていますし、交通の拠点にあたる位置には、大規模な城が存在している点から考えても、連絡を迅速に行い、素早く行動できるようにできるネットワークと仕組みになっていたと考えられます。
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