2009年12月19日土曜日

池田勝正の最後

歴史学を学んだわけでは無いのですが、その真相が知りたくて、もう、10年以上も池田勝正の研究をしています。
 今もわからないところは多くあるのですが、素人とはいえ、10年以上も毎日のように当時の史料や伝聞資料を読んでいると、ぼんやりとその輪郭がわかるようになりました。
 謎の多い人物と言われている勝正ですが、天正6年の死亡説があります。これは、系図などにある記述から通説となっているものですが、今のところ、それを完全否定する要素も見当たらないので、それを元に色々と調べています。
 また、今の兵庫県三田市の小柿というところに、池田勝正の墓と伝わる墓塔があります。これも確定されたものでは無いのですが、近隣のお宅には勝正に関係する言い伝えもある事から、これも特に否定する材料も無いので、今のところそれを手がかりとして研究を進めています。
 それらの要素を集約すると、天正6年小柿で死亡したという事になります。
 また、この小柿という地域は、丹波国の八上城の後背地で、城の防御上非常に重要な場所にあたります。小柿は、摂津・丹波国境で、国境線は時代によって移動していたようです。それゆえに、天正6年頃まで、波多野氏が勢力を保っていた時代は、波多野氏の支配地であったと考えられます。
 天正6年秋、摂津国守護格の荒木村重が織田信長政権から離脱します。この時、信長方の明智光秀方に包囲されていた八上城は、摂津国境とつながり補給線が確保されます。
 さて、池田勝正は、一貫して足利義昭方として働いていました。ですので、天正6年秋以降であれば、足利義昭方波多野・荒木に味方して信長方と戦って死んだのかもしれません。
 天正6年秋以前であれば、波多野方として荒木方と戦って死んだということになるのかもしれません。また、何らかの原因で病死したという事も推定のひとつとして考えられますが、今のところその死因などもわかっていません。
 ぼんやりとした記事になってしまいましたが、天正6年、勝正は足利義昭方として、その有力な協力者である波多野氏を支援するために、八上城守備の為、重要な小柿地域に入った。
 これに対し、何としても先ずは、城の補給路を断って包囲を完成させる必要から、この地域を信長方は特に攻めた。勝正はそれまでの統率力を買われて、その重要な拠点である小柿地域を守備して戦う。また、この動きに永沢寺は波多野氏に協力して物資を運んだ。その伝承がある。母子地域も波多野方が確保していた模様。しかし、勝正は奮戦虚しく戦死、または、病死した。波多野氏は窮地に立たされる。
 しかし、それから間もなく村重は、信長方から離反。補給線は繋がり、波多野氏は、命をつなぐ事ができた。
 シナリオ(1)としては、そういう筋書きも書けるように思います。

 天正6年秋以降の可能性をシナリオ(2)として、この次の記事で考えてみたいと思います。

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