戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
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研究_1570年(元亀元)の越前金ケ崎の退き口
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2016年3月4日金曜日
1570年(元亀元)の「金ケ崎の退き口」の池田勝正の退路
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このテーマについて、長い間考えているのですが、最近ちょっと福井県小浜市を訪ねる機会があって、いくつか購入した資料を見ていると、再度考えるヒントが色々ありましたので、この機に少し思索をしてみたいと思います。 今も勝正の退路を見極める事ができずにいるのですが、私の頭の中には以下...
2011年6月26日日曜日
池田勝正も従軍した、元亀元年の幕府・織田信長による越前朝倉攻め(はじめに)
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元亀元年に幕府が行った、越前朝倉討伐には、幕府勢の主力勢力ともいえる3,000の軍勢を率いて池田勝正は出陣しています。 この時の軍勢の中には、飛鳥井・日野氏など公家もおり、禁裏公認の幕府軍として行動しています。ですので、この軍勢に対する敵対行為は、禁裏に弓を引く事と同じで、...
2011年6月15日水曜日
元亀元年の朝倉攻めでは、なぜ幕府軍が湖東の浅井領内を進まなかったのか。
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元亀元年の幕府による朝倉攻めでは、なぜ安全な湖東の浅井氏領を進軍ルートに選ばなかったのでしょうか。ふと、そんな事を考えました。 一方で、浅井方は味方である事は疑いの余地がないので、ここは安全地帯として、湖西の敵方を制圧するためにルート設定を行ったとの考えも可能です。 現...
2011年6月8日水曜日
元亀元年、浅井氏は自衛的戦争に踏み切ったのではないか?
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戦国大名というか、国人というか、近江国北部の有力者であった浅井長政などその一族については、織田信長と姻戚関係を持った事から、歴史の表舞台に取りざたされる事が比較的多いのですが、しかし、じっくり知りたいと思って調べてみると、意外と研究が進んでいない様な印象も受けます。 最近は...
2011年5月10日火曜日
元亀元年の浅井氏謀反は、織田信長に「突然」の認識が本当にあったのか。
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最近、元亀元年の織田信長(幕府)による、朝倉攻めの事が気になって、色々と調べています。 ふと思ったのですが、永禄13年(元亀元)の1月23日に発行した、諸大名への触れ状を見ると、そこに朝倉氏の名前は無く、また、朝倉氏に連れ去られた若狭守護家筋の武田孫犬丸元明の名がそこに記さ...
2011年4月11日月曜日
元亀元年の摂津守護池田勝正の金ヶ崎・天筒山城攻めについて
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7月にちょっと池田勝正について講演させていただく機会を得ていまして、現在色々と資料の整理をしています。「朝倉・浅井攻めと池田勝正」というような方向性で、内容を考えています。 普段は、仕事が終わって寝る前とか、休みの日などに、ひたすら資料を読んで調べるのですが、時々、現地に出...
2010年12月29日水曜日
元亀元年の越前朝倉攻めでの幕府・織田軍道程
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また、ちょっと元亀元年越前朝倉攻めについて考えてみます。この時、摂津守護格として、池田勝正が三千の兵を率いたとの記述から、幕府方武力の中核的な存在であったと考えられます。これ程の数を一家で出せるのは、畿内地域でも、そう多くはありません。この時、明智光秀も幕府衆として従軍していま...
2010年12月22日水曜日
元亀元年越前朝倉攻めでの池田勝正の行軍経路
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元亀元年の越前朝倉攻めの折、池田勝正はどんな行軍経路を取ったのか気になります。 この事を取り上げた色々な記事を見ますが、織田信長を含めた一団が一つのルートを使って越前一乗谷を目指したとなっています。 しかし古今東西、軍事行動の正当的には、決戦を挑む直前まで、警戒態勢と敵...
2010年12月10日金曜日
池田勝正も従軍した、元亀元年の金ヶ崎の退き口について考える
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私の思考がそっちに向いているついでに、再度「金ヶ崎の退き口」について考えてみました。 ちょっと、攻める側の幕府・織田信長方と、攻められる側の朝倉・浅井方の立場で各々考えてみてたいと思います。 『言継卿記』を見ると、いわゆる「金ヶ崎の退き口」が開始された直後の4月29日、...
2010年12月8日水曜日
元亀元年の幕府・織田信長の若狭武藤氏及び越前朝倉攻めについて
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金ヶ崎 の退き口で有名な元亀元年の若狭武藤氏及び越前朝倉攻めですが、これに 池田勝正 が幕府守護格として3,000を率いて参陣しています。これは幕府方としては、主力を成す軍勢です。 しかし実は、この遠征は周到に用意され、敵か味方かを知る事が主要目的であり、それを見越した手配...
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