戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
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研究_摂津池田四人衆の事
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2024年10月30日水曜日
やはり、摂津池田家当主となった勝正は、先代の長正の嫡子(息子)ではなく、別の家系!
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いま連載中の「 元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状 」テーマに懸かる史料を調べ直しているのですが、その過程で発想があり、少し脱線です。 これまでにも、何度かそれについてお伝えしていたのですが、確たる証拠がなく、また、池田勝正の先代の長正の資料が非常に少なかったこともあって...
2023年7月4日火曜日
摂津国人池田筑後守長正について考える
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池田筑後守長正という人物は、私の研究している池田筑後守勝正の先代で、一世代前にあたります。この長正という人物については、不明な点が多く、史料もそれ程多くないため、その全容把握に難儀しています。強い思い込みで見ていると、行動の表裏反目が多く、残されている史料では、その意味をどのよう...
2022年10月17日月曜日
摂津池田家中の有力な家系、筑後守家と遠江守家について
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1570年(元亀元)6月18日、摂津池田家中で内訌が発生し、官僚機構でもある池田四人衆の内、惣領池田筑後守勝正親派であった、池田豊後守正泰、同周防守正詮が殺害されて、事態は紛糾。勝正自身が城を出る程に深刻化しました。 四人衆の構成員でもあった、豊後守正泰と周防守正詮が死亡したの...
2022年6月5日日曜日
摂津池田家の政治体制の考察
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応仁・文明頃の勢力図 池田家の惣領が信正の頃(勝正の先々代)になると、摂津国人の中でも一歩抜き出た存在に成長します。信正は畿内地域で活躍していた三好一族と親密になり、当時の管領であった細川晴元重臣三好政長の娘を娶って一族となりました。そのため、管領職であった晴元とも一気に距離が近...
2016年7月8日金曜日
摂津池田家が滅びた理由
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池田勝正を中心に、20年程、摂津池田家の歴史を調べていると、同家がなぜ滅びたのかがわかったような気がします。一つの要素で、また、一人だけがその原因を作った訳ではないのですが、その中でも、最も重要な要素があるように思います。 詳しい分析は、また後日に「 摂津池田家の支配体制 ...
2016年1月24日日曜日
池田四人衆の事について(はじめに)
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摂津国人池田氏が、近年概念化されつつある郡単位を支配する戦国領主となる成長過程で、当主を補佐するための官僚機構を創設した事は、非常に大きな意義があったと思われます。池田家は他の国人と違ってこの点が大きく異なり、これが成長のスピードを高め、勝正が当主となる頃には、近隣勢力とは比較...
2015年7月4日土曜日
信長公記にも登場する、摂津武士池田紀伊守入道清貧斎(正秀)について
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私の調べている期間内で、池田正秀なる人物は池田家政の中心的人物で、非常に重要です。 池田家当主が信正(のぶまさ)の時代、時代の要請や池田家自身の繁栄で、当主だけでは手が足りなくなり、その補佐役として、信頼の置ける人物を一族の中から選抜して、その役に就かせたようです。 江...
2013年6月24日月曜日
池田四人衆から三人衆へ
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<概要> 元亀元年(1570)6月、摂津国守護所である池田城内において内訌が発生。同国守護職であり、池田家当主でもあった池田勝正は、重臣集団から追放されて城を出ました。 池田衆は、将軍義昭を中心とする幕府方に忠誠を尽くして東奔西走しましたが、過酷な政権維持環境のために家中...
2013年6月16日日曜日
池田四人衆について
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<概要> 池田四人衆とは、国人であった摂津国池田家が、戦国大名として成長する過程で生まれた、家政機関です。 四人衆制度は池田信正が当主であった時代に生まれ、長正、勝正の代まで機能していました。 元亀元年6月の池田家内訌で、当主の勝正が追放され、その時に四人衆も再編され...
2012年3月23日金曜日
永禄6年(1563)3月、池田勝正が池田四人衆の内2名を粛正した事
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永禄6年(1563)2月、摂津国池田家の惣領池田長正が死亡した事により、勝正がその跡を継ぎました。 翌月22日、池田勝正は酒宴の席で、同家官僚機構ともなっていた池田四人衆の内2名(池田山城守基好・同苗勘右衛門尉正村)を殺害しました。他にもそれに連なる人物も粛正したようです。...
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