戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
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戦国武将_荒木村重
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2024年7月8日月曜日
摂津池田家中の対外血縁関係
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気になっていたことを、備忘録として、また、自分の頭の中の整理として記事にしておきたいと思います。 どの氏族でもそうですが、一族内に様々な系譜を持ちます。長い歴史の中で主従関係も変わりますし、政治・経済・軍事など、様々な状況により、生き残りを計るための対外的な血縁関係を結ぶようにな...
2024年5月10日金曜日
天正年間初期に、荒木村重が勧請した摂津古曽部日吉神社(大阪府高槻市)について
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荒木村重についての発見やそれに関連する池田長正につながる大きな発見があったので、備忘録的に、記事にしておきたいと思います。後日、しっかり検証して、レポートとして書き直します。 この5月の連休に、ちょっとブラブラしようと思い、永年気になっていた高槻市の上宮天満宮周辺を見て回ろうと計...
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2023年5月31日水曜日
ブログ「戦国大名荒木村重研究所」を開設しました!
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ブログ「戦国大名荒木村重研究所」を開設しました。「戦国大名池田勝正研究所」ブログは、記事が多くなり、荒木村重の知名度も近年高まっていることから、記事を分けて解りやすくしていきたいと思います。 未だに謎の武将とされている荒木村重について、社会的認知のお役に立てたらと思います。派手な...
2023年3月14日火曜日
摂津国河辺郡(現兵庫県川西市)にあった、上津城を考えてみる
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先に紹介した 新田(多田)城について の関連記事です。この上津(うえつ)城は、塩川氏の拠点であった新田(多田)城と対を成す城で、両城の間には、主要道である能勢街道を南北に通しています。 この至近でもあり、豊嶋郡にあった池田城は、発掘調査等から、その発展の過程で最晩年には能勢街道...
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2023年1月14日土曜日
摂津国河辺郡(現兵庫県川西市)にあった、新田(多田)城を考えてみる
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ずっと気になっていた地域を訪ねました。令和5年の初詣に兵庫県川西市平野にある、平野神社を訪ねました。気持ちの良い素晴らしい神社でした。その折のブラ歩きで、新田城跡も知る事ができました。 荒木村重の統治や天正6年の村重の織田信長政権から離叛した事による争乱について知るための非常に...
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2021年8月12日木曜日
荒木村重の末裔!?が、「ポツンと一軒家」に取り上げられる!
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今度の日曜日(15日)、ポツンと一軒家という番組で、荒木村重の子孫と伝わる旧家が取り上げられるそうです。もし興味のある方は、ご覧下さい。 ★ 「ポツンと一軒家」番組の公式サイト https://www.asahi.co.jp/potsunto/ 番組の概要(ちょっと判りづらい)...
2021年7月13日火曜日
えびす様の総本社、西宮神社(兵庫県西宮市)に残る荒木村重の書状
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令和3年(2021)7月11日の日曜日に、西宮神社を訪ねました。西宮神社は、荒木村重との接点があります。同社は近いのに、初めて訪ねました。この日は暑かったのですが、境内は涼風が通り、藤棚の下にある休憩所に居るととても心地よく感じました。 この西宮神社は、えびす様の総本社として全...
2020年3月8日日曜日
明智光秀も度々利用した余野街道上に存在した、池田市伏尾町の八幡城が巨大であった可能性について
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現在の池田市伏尾町にあった八幡城について、詳細は判っていないのですが、その城が巨大であった可能性を考えている方がいます。 池田郷土史学会会員の岩垣 正氏による調査で、縄張り図が描かれ、それによる全容想定図も描かれています。氏は学生時代に日本画を専攻され、それ故にこのよう...
2019年8月25日日曜日
此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察(摂津池田出身の甲賀谷氏の出自が武士であったであった可能性)
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池田家中(若しくは荒木家中)にあった甲賀谷正長も、その流れの中で、自身の役割りと能力を生かして活動していたと思われます。甲賀谷氏と深い繫がりがあると考えられる「甲賀伊賀守」についての記述を参考までにご紹介しておきます。 ※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 197...
2019年6月18日火曜日
中之坊文書に署名している播磨国人らしき藤田橘介重綱について
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年欠の『中之坊文書』について、これまでにも何度か、本ブログにて紹介しているところですが、この文書は摂津池田家の歴史を見る上で、非常に重要な文書の一つです。しかし、そこに署名している人物の出自が不明なところがあって、まだまだ課題の多い史料でもあります。 そんな中、意図せず、ツ...
2019年6月5日水曜日
天正6年(1578)秋、摂津・丹波国境と明智光秀・荒木村重・池田勝正のこと
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明治期の地図(+-+-+線が県境であり旧国境) 1576年(天正4)初頭、丹波国内の最大勢力であった波多野秀治の、織田信長政権離叛により明智光秀は、丹波国平定を目前にして、敗走します。この時、光秀は、現兵庫県三田(さんだ)市を通り、池田を経て、京都へ戻ったようです。 ...
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2019年1月5日土曜日
明智光秀・池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)を探る(はじめに)
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2020年の大河ドラマは「明智光秀」が取り上げられますので、それに向けて、池田勝正・荒木村重との接点を取り上げた特集を組んでみたいと思います。 明智光秀は将軍となった足利義昭をその流浪時代から支えた人物で、将軍となった義昭からも信頼を得ていたようです。 義昭が将軍となっ...
2017年3月29日水曜日
天正4年5月、天王寺砦救援の軍議で織田信長の命令に異儀を立てた荒木村重
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四天王寺 独裁的で、なんびとにも畏れられていたかのような、怖いイメージのある織田信長ですが、そんな信長の命令を荒木村重は、理由を述べて、それを請けなかったエピソードがあります。 天正4年5月、織田信長が出席の上で、軍議が開かれました。本願寺勢に包囲されている天王寺砦...
2017年3月20日月曜日
荒木村重の父、若しくは村重の先代にあたる人物(信濃守勝重)の史料が実在する可能性について
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近年、知名度も高くなってきた摂津国の戦国大名荒木村重ですが、それはやはり、織田信長方の武将としての活躍が大きな要因でしょう。もちろん、大河ドラマで取り上げられたり、ゲームや漫画などへの露出もあるでしょう。ここ最近は、加速度的です。 しかし一方で、この荒木村重という人物は、不...
2016年7月30日土曜日
天正6年(1578)の謀反で、荒木村重が多田銀銅山や北摂の鉱山を経済的裏付け要素のひとつとして考えていた可能性について
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以前から気になっていたのですが、今後の備忘録代わりに、ちょっと書き留めておきたいと思います。 多田銀銅山の青木間歩の様子 北摂山塊では、主に銅を産出していたため、無数の間歩跡があります。豊能・河辺郡あたりに広がっていて、一部は豊島郡にも見られます。実は、五月山にも秦...
2016年5月21日土曜日
摂津池田城下にあった万願寺屋は荒木村重と関係する!?
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大正時代頃の酒造家の万願寺屋跡(池田町史より) 満願寺屋は池田の歴史を語る上では、避けて通れない要素で、その歴史は広くて深いので、これだけを取り上げても相当なボリュームになります。詳しくはまた後日に譲るとしまして、戦国時代と万願寺屋の関係についてご紹介したいと思...
2015年2月20日金曜日
荒木村重も関わった、当主池田筑後守勝正追放のクーデター(その7.1:池田勝正追放後に別の当主を立てたか「続報」)
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同テーマ内のその7「池田勝正追放後に別の当主を立てたか」でも提起した概念ですが、その続報です。 その7での記事中でご紹介しました、史料3から5までの署名者である民部丞某は、同一人物である事が、判明しました。それら全ての花押が一致しました。再度、以下にその史料を掲示します。 ...
2014年12月11日木曜日
荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その7:池田勝正追放後に別の当主を立てたか)
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池田勝正とその時代の池田家について見ていくと、気になる事(人物)があります。後世に創作(全くの事実無根と考えている訳では無い)された家伝で、『陰徳太平記』や『中川家記』などには、元亀元年6月の池田家内訌で勝正を追った後に、別の当主を立てたかのような記述があります。これが、事実か...
2014年2月15日土曜日
荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その4:三好三人衆の勢力は、依然侮れない影響力があった事)
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第十四代室町将軍義栄を支えた三好三人衆は、足利義昭が第十五代将軍になって京都に入っても、依然侮れない影響力を五畿内地域とその周辺に及ぼしていました。 三好長慶など、三好氏の京都での実績は天文年間以前から半世紀にも渡り、広く深く、様々な分野に関係を持っていました。 義昭が...
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