戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
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戦国武将_池田四人衆
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2024年10月30日水曜日
やはり、摂津池田家当主となった勝正は、先代の長正の嫡子(息子)ではなく、別の家系!
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いま連載中の「 元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状 」テーマに懸かる史料を調べ直しているのですが、その過程で発想があり、少し脱線です。 これまでにも、何度かそれについてお伝えしていたのですが、確たる証拠がなく、また、池田勝正の先代の長正の資料が非常に少なかったこともあって...
2024年6月7日金曜日
摂津池田家惣領池田筑後守長正についてのまとめページ
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池田長正という武将は、摂津国人で池田家の惣領となった人物ですが、時の資料(史料)が少なく、あっても断片的で、不明な点が多くあります。 しかし、その長正の代で、後に池田家中から頭角を現す武将荒木村重の歴史的背景も明確にできる示唆があり、また、畿内地域でも有数の勢力であった池田家中...
2024年6月6日木曜日
摂津国人惣領格の池田長正が、芥川孫十郎と共に活動していたかもしれない史料を発見!
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今のところ不確定要素があるので、断言はできないのですが、可能性としては大いにある史料を見つけました。 私に、何かとご教示下さる「利右衞門」さんからのご連絡で、これまで見えなかった池田家の足跡の一部が見えました。これには不思議な事が起きて、一気に進みました。 私もこれは読まなけれ...
2024年5月17日金曜日
摂津国人池田長正は、最終的に「筑後守」を名乗って惣領となっている証拠史料
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史料が少いのですが、池田家政の画期の一つ、また、荒木村重の出自の一部が明確になる人物としても、池田長正の事跡を追うことは非常に重要です。 この長正という人物は、池田勝正の先代であり、池田家の波瀾万丈の悲劇の中心人物であった当主池田信正の次の代にあたります。 この信正の死後、池田...
2023年7月4日火曜日
摂津国人池田筑後守長正について考える
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池田筑後守長正という人物は、私の研究している池田筑後守勝正の先代で、一世代前にあたります。この長正という人物については、不明な点が多く、史料もそれ程多くないため、その全容把握に難儀しています。強い思い込みで見ていると、行動の表裏反目が多く、残されている史料では、その意味をどのよう...
2022年10月17日月曜日
摂津池田家中の有力な家系、筑後守家と遠江守家について
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1570年(元亀元)6月18日、摂津池田家中で内訌が発生し、官僚機構でもある池田四人衆の内、惣領池田筑後守勝正親派であった、池田豊後守正泰、同周防守正詮が殺害されて、事態は紛糾。勝正自身が城を出る程に深刻化しました。 四人衆の構成員でもあった、豊後守正泰と周防守正詮が死亡したの...
2022年6月5日日曜日
摂津池田家の政治体制の考察
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応仁・文明頃の勢力図 池田家の惣領が信正の頃(勝正の先々代)になると、摂津国人の中でも一歩抜き出た存在に成長します。信正は畿内地域で活躍していた三好一族と親密になり、当時の管領であった細川晴元重臣三好政長の娘を娶って一族となりました。そのため、管領職であった晴元とも一気に距離が近...
2019年6月18日火曜日
中之坊文書に署名している播磨国人らしき藤田橘介重綱について
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年欠の『中之坊文書』について、これまでにも何度か、本ブログにて紹介しているところですが、この文書は摂津池田家の歴史を見る上で、非常に重要な文書の一つです。しかし、そこに署名している人物の出自が不明なところがあって、まだまだ課題の多い史料でもあります。 そんな中、意図せず、ツ...
2013年7月8日月曜日
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その1:三好筑前守政長(宗三)について)
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堺市の善長寺にある三好政長の墓 この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。 三好為三を知ろうと思えば、一世代前か...
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