戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
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2024年6月7日金曜日
摂津池田家惣領池田筑後守長正についてのまとめページ
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池田長正という武将は、摂津国人で池田家の惣領となった人物ですが、時の資料(史料)が少なく、あっても断片的で、不明な点が多くあります。 しかし、その長正の代で、後に池田家中から頭角を現す武将荒木村重の歴史的背景も明確にできる示唆があり、また、畿内地域でも有数の勢力であった池田家中...
2023年7月4日火曜日
摂津国人池田筑後守長正について考える
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池田筑後守長正という人物は、私の研究している池田筑後守勝正の先代で、一世代前にあたります。この長正という人物については、不明な点が多く、史料もそれ程多くないため、その全容把握に難儀しています。強い思い込みで見ていると、行動の表裏反目が多く、残されている史料では、その意味をどのよう...
2023年5月21日日曜日
摂津国人池田信正が、天文16年に摂津国榎並庄にあった大金剛院(赤川寺)の「大般若経六百巻」を同国豊嶋郡の久安寺に寄進した事についての考察
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偶然の出会いであった、大坂本願寺五十一支城の一つとされている伝葱生(なぎう)城を調べる内に、その付近にあった赤川寺と摂津池田家との関わりが浮かび上がり、これまた電撃的な、嬉しい出会いとなった事、非常に驚いています。 赤川寺にしても葱生城にしても、両要素は摂津国榎並庄にあります。...
2 件のコメント:
2022年10月14日金曜日
摂津池田家惣領家(筑後守)の幼名は「太松丸」である可能性
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数年間、サボっていた調べ事も、最近また、気持ちが向くようになり、このやりかけた調べ事をなんとか終わらせて、後世の役に立つカタチにしなければと思うようになりました。 自分自身の興味を書き綴り、自分の頭の中を整理しつつ、皆さんに紹介するというスパイラルを作るのも、良いように思います...
2013年7月12日金曜日
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その2:池田筑後守信正(宗田)について)
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池田筑後守宗田(信正)は、管領細川右京大夫晴元に重用され、その政権を支える国人の一人でした。各地の守護も政権を支える大きな力となってはいましたが、国人はそういった地域の枠を越えて、江戸幕府でいうところの「旗本」のような、守護を通さずに直接指示を受けるような事もあったようです。 ...
2013年7月8日月曜日
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その1:三好筑前守政長(宗三)について)
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堺市の善長寺にある三好政長の墓 この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。 三好為三を知ろうと思えば、一世代前か...
2013年7月6日土曜日
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(はじめに)
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三好為三と同苗下野守について、花押が一致したとの事で、同一人物説があるのですが、私も初めはその説を支持していました。しかし、両者の流れを見ると、必ずしも一致しません。 当然、私も花押を見比べていく必要があり、それをしっかりとすべきですが、今のところ史料の整合性を中心に見てい...
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