戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2022年8月20日土曜日
彼ら在地領主達は、なぜ室町時代になって「国人」と呼ばれるようになったのであろうか。『備後の山城と戦国武士』に大きな気付きがありました。
›
私が続けている、摂津国人池田筑後守勝正について、関係史料を追い続けています。しかし、在野でもあり、いわゆる素人ですので、その道の勉強をされた方とは、まだまだ知識量の足りないところが多々あります。また、基本的な知識も無い場合があります。あるのは、情熱だけです。 そういうところを...
2022年8月15日月曜日
摂津国池田の地域権力と社寺などの宗教勢力について、あれこれ思索(備忘録)
›
自分の中の考えの整理、備忘録として、あれこれと雑感を書いてみます。 先月、20年ぶりくらいに、勝竜寺城(京都府長岡京市)を訪ねました。新たな発掘成果などを元に、復元遺構などがあって、大変興味深く見学させていただきました。中でも、長岡京市の市制50周年事業(2020年)として、勝...
2022年8月13日土曜日
摂津原田城についてのご紹介(城主(土豪)とともに城館の変遷がわかる遺構としては大変貴重)
›
16世紀後半の推定復元図 摂津国豊嶋郡内にあった、原田城について、詳しく取り上げていなかった事に今さら気付き、先ずは記事を作った次第です。 それについて、豊中市教育委員会発行の『原田城跡(豊中市指定史跡)・旧羽室家住宅(国登録有形文化財)』という案内パンフレットが、非常に端的に...
2022年6月5日日曜日
摂津池田家の政治体制の考察
›
応仁・文明頃の勢力図 池田家の惣領が信正の頃(勝正の先々代)になると、摂津国人の中でも一歩抜き出た存在に成長します。信正は畿内地域で活躍していた三好一族と親密になり、当時の管領であった細川晴元重臣三好政長の娘を娶って一族となりました。そのため、管領職であった晴元とも一気に距離が近...
2022年6月2日木曜日
池田筑後守勝正の子とされる「勝恒」が、天正年間に和歌山県東牟婁郡古座川町(旧池口村)に逃れて居住したとの伝承
›
調べ事をしていて見つけました。池田筑後守勝正の子が、和歌山県の東牟婁郡まで逃れて居住したとの伝承があるようです。まだ、掘り下げて調べていないのですが、摂津国からはもの凄い距離があるところです。ここまでは流石に敵も追ってこないでしょう。 『紀伊続風土紀:紀伊国旧家地士中西孫左衛門』...
2022年5月13日金曜日
既知の史料なのに、読み返すと気付いたこと。「もしかして、これって...。」2点。
›
今年初の更新です。新年、明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い致します。永らくの未更新をお許し下さい。 近頃、元亀2年の史料を少し読み返すことがあり、時間が経って、改めて読んでみると「あれ?」ということがありますね。既知であり、既出の史料ですが、それを紹介した...
2021年10月30日土曜日
摂津郡山城(大阪府茨木市新郡山1丁目9付近)について考える
›
大阪府茨木市新郡山1丁目9のあたりにあった、摂津郡山城跡です。天正6年冬の荒木村重謀反の時、織田信長はここにも本陣を置き、対応に腐心しました。11月16日、信長はこの場所で高山右近と会見し、間もなく、茨木の中川清秀も開城。同月26日、織田信長は、この場所で、高山右近・中川清秀に黄...
2021年10月28日木曜日
摂津穂積城(大阪府茨木市中穂積2丁目)が存在したか否かについて
›
久々の更新です。いつも気まぐれですみません。 今回は、大阪府茨木市中穂積2丁目にあった、穂積城についてです。以前から気になっていたのですが、訪ねる事無く数十年が過ぎてしまったことを悔いています。しかし、今も面影は残っており、見ておいて良かったなと思います。町並みが変わる前に、今度...
2021年8月17日火曜日
荒木村重の末裔!?「ポツンと一軒家」の番組を見て。記事訂正です。
›
前記事の訂正です。この番組は、歴史番組では無いので、あまり掘り下げはなかったですね。近日に以下の要素で、訂正と補足を致します。 ★ 「ポツンと一軒家」番組の公式サイト https://www.asahi.co.jp/potsunto/ 【荒木村重の子孫と伝わるお宅】 ◎本家と分家...
2021年8月12日木曜日
荒木村重の末裔!?が、「ポツンと一軒家」に取り上げられる!
›
今度の日曜日(15日)、ポツンと一軒家という番組で、荒木村重の子孫と伝わる旧家が取り上げられるそうです。もし興味のある方は、ご覧下さい。 ★ 「ポツンと一軒家」番組の公式サイト https://www.asahi.co.jp/potsunto/ 番組の概要(ちょっと判りづらい)...
‹
›
ホーム
ウェブ バージョンを表示