自分の中の考えの整理、備忘録として、あれこれと雑感を書いてみます。
先月、20年ぶりくらいに、勝竜寺城(京都府長岡京市)を訪ねました。新たな発掘成果などを元に、復元遺構などがあって、大変興味深く見学させていただきました。中でも、長岡京市の市制50周年事業(2020年)として、勝竜寺城の関係資料集(『勝龍寺城関係資料集 -長岡京市歴史資料集成1-』:長岡京市教育委員会)があり、買い求めました。資料中に仁木・馬部両先生の論稿が収められており、私にとっては多くの気づきがありました。
その中の仁木先生の論稿中、「守護方拠点としての勝龍寺」章に、「諸国において、この時代の守護所が固有の建物ではなく、寺院の間借りである事例が多いことは既に論じられている。勝龍寺は、山城一国の守護所ではもちろんないが、守護方の郡レベルの支配拠点であったことは確かであろう。この時点では臨時的なものである可能性も高いが、のちに勝龍寺が帯びる「公的な性格」を既に孕んでいたともいえるだろう。」との一節があり、これには私の疑問に対する、非常なヒントがありました。
摂津池田家が、箕面寺(大阪府箕面市)に対して、惣領の代替わり、地域争乱時(禁制)、何らかの地域関係の通達、等々を出す場合、時代を経ても定型文であったり、宛先が箕面寺(豊嶋郡・政所宛なども)である事が多いのは、箕面寺に郡役所的な性格もあったのではないかと考えました。
前述の仁木氏の論稿中の「寺院の間借り」の概念を知る前から、摂津国豊嶋郡を治めていたと思われる動きを感じており、摂津池田家と箕面寺の関係が非常に深い事に注目はしていました。しかし、それがどんな関係なのかは、理解していませんでした。それが、『勝龍寺城関係資料集』によって、認識のメドが立ちました。
古代寺院や山岳寺院と地域権力の関係や城郭の発展過程は、多くの研究がありますので、これからは、それらを読み進めて、摂津池田での、その動きについても考えてみたいと思います。
現代社会と中世社会の宗教の社会的役割りは全く違います。現代感覚で宗教を見ることはできませんし、通信事情や政治権力、協働関係は、考慮するべき必須要素だと感じます。
勝尾寺・箕面寺の他、摂津池田家の膝元としての大寺院は、久安寺(池田市伏尾)があります。また、時代により盛衰はあるものの、他に大広寺(池田市綾羽)・弘誓寺(同市綾羽)・寿命寺(同市西本町)・常福寺(同市神田)・禅城寺(同市宇保)などの関係も、地域権力としては良好を保つ必要があったと思われますし、一体化的な協働宇関係もあったのではないかと思われます。池田一族の中には、僧も居り、これらとの関係維持も目的化(双方の調整役的な)していたところもあるのではないかと思います。
これらの組織と良好な関係を築く事に、権力は腐心していたと考えるのが自然で、このいかんで、勢力の拡大縮小の趨勢が決まったと感じています。
今後は、こちらの方面も調べを深めたいと思います。
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