戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2019年2月26日火曜日
新撰組屯所となった京都壬生の八木家は、但馬国守護代八木氏の系譜!?
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先日、梅を見に京都へ行ってきました。その日、壬生の新撰組関連の旧蹟も巡ってきました。昔、幕末に興味を持っていた頃、新撰組の史跡を巡っていましたが、京都の壬生寺周辺には行っていませんでした。大阪の生まれ育ちですので、隣県の京都はスグに行けますが、今回初めての訪問となりました。 ...
2019年1月13日日曜日
文化とは何か - 摂津池田家滅亡から考える(文化形成・権威と権力) -
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近年、世界中で移民や国のあり方に、大きな課題が投げかけられています。地域社会共通の認識といえる「文化」や国境の意味について、改めて考えるようになっています。 技術の発展で、人やモノの移動、通信・金融の交換が容易になり、いわゆるグローバル化が進んだ結果です。 池田勝正...
2019年1月5日土曜日
明智光秀・池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)を探る(はじめに)
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2020年の大河ドラマは「明智光秀」が取り上げられますので、それに向けて、池田勝正・荒木村重との接点を取り上げた特集を組んでみたいと思います。 明智光秀は将軍となった足利義昭をその流浪時代から支えた人物で、将軍となった義昭からも信頼を得ていたようです。 義昭が将軍となっ...
2018年10月19日金曜日
【貴重な資料映像】日本陸軍 最前線の中隊本部の様子
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ユーチューブを見ていて見つけました。中国大陸での実際の中隊本部の様子です。この映像の解説には、「中支那派遣軍第11軍。最前線の中隊本部の様子。生々しいドキュメンタリー。」と短くあります。 刻々と変わる様子を把握しながら、必要な手立てを講じるために、控えている将校に次々と...
2018年10月17日水曜日
明智光秀・池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)を探る(越前朝倉氏攻めと「金ケ崎の退き口」)
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元亀元年(1570)春、幕府・織田信長の軍勢は、天皇からも勅許をもらい、官軍(皇軍)として越前朝倉氏を攻めたのは、大変有名です。 実際の攻める目的は、以下の複合的な要素を一気に解決する、非常に考え抜かれた行動でした。 (1)若狭武藤氏討伐 (2)若狭武田氏の守...
2018年6月9日土曜日
戦国武将池田勝正の権力構造
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摂津国最大級の国人であった池田衆の惣領、池田筑後守勝正について、永年研究をしているのですが、最近になって何となく気づいた事があり、急に勝正像の輪郭が出てくるようになったような気がします。 その結論を先に言うと、勝正はそれまでの惣領の権力とは異なり、家老(官僚)であった池田四...
4 件のコメント:
2018年2月12日月曜日
奈良市油阪にある草鞋山西方寺と池田勝正について(奈良東大寺合戦)
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西方寺表門 草鞋山(そうあいざん)西方寺は、池田勝正に縁があるお寺でもあります。松永久秀と三好三人衆が激しく争った永禄10年(1567)、勝正は三好三人衆方として、松永久秀の本拠地である奈良へ進攻します。 この時の様子について、『多聞院日記(以下、多聞院)』に詳しく...
2018年2月4日日曜日
永禄12年夏の幕府・織田信長勢による播磨・但馬国侵攻について
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筆者は、但馬・因幡山名氏の事は、池田勝正も従軍したため、関心を持っています。 永禄12年夏の幕府・織田信長勢による播磨・但馬国侵攻は、複合的な目的を持っていたと考えられ、そのひとつに、山名氏の制圧もあったと思います。毛利の要請もあり、幕府の軍事行動は、協力関係を保ちながらの...
2017年12月15日金曜日
先日の研究発表「摂津池田家の政治体制を見る -発展から滅亡までと荒木村重の台頭-」 は盛況でした。
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先日の研究発表「摂津池田家の政治体制を見る -発展から滅亡までと荒木村重の台頭-」 は、大変多くの方にお越しいただきました。女性も多く驚きました。これを機に、地域の歴史や文化にも興味をお持ちいただき、文化財にも関心をお持ちいただけたらと願っています。 また、私自身も励みにな...
2017年11月9日木曜日
摂津池田家の政治体制についての研究発表 その2
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池田勝正を中心とした、摂津池田家の政治体制について研究発表を行います。 日時:平成29年12月10日(日) 午後1時30分より テーマ:摂津池田家の政治体制を見る(発展から滅亡までと荒木村重の台頭) 場所:共同利用施設「池田会館」 池田市新町1-8 文字通り、池田家...
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