戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2018年10月19日金曜日
【貴重な資料映像】日本陸軍 最前線の中隊本部の様子
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ユーチューブを見ていて見つけました。中国大陸での実際の中隊本部の様子です。この映像の解説には、「中支那派遣軍第11軍。最前線の中隊本部の様子。生々しいドキュメンタリー。」と短くあります。 刻々と変わる様子を把握しながら、必要な手立てを講じるために、控えている将校に次々と...
2018年10月17日水曜日
明智光秀・池田勝正・荒木村重の接点(エピソード)を探る(越前朝倉氏攻めと「金ケ崎の退き口」)
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元亀元年(1570)春、幕府・織田信長の軍勢は、天皇からも勅許をもらい、官軍(皇軍)として越前朝倉氏を攻めたのは、大変有名です。 実際の攻める目的は、以下の複合的な要素を一気に解決する、非常に考え抜かれた行動でした。 (1)若狭武藤氏討伐 (2)若狭武田氏の守...
2018年6月9日土曜日
戦国武将池田勝正の権力構造
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摂津国最大級の国人であった池田衆の惣領、池田筑後守勝正について、永年研究をしているのですが、最近になって何となく気づいた事があり、急に勝正像の輪郭が出てくるようになったような気がします。 その結論を先に言うと、勝正はそれまでの惣領の権力とは異なり、家老(官僚)であった池田四...
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2018年2月12日月曜日
奈良市油阪にある草鞋山西方寺と池田勝正について(奈良東大寺合戦)
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西方寺表門 草鞋山(そうあいざん)西方寺は、池田勝正に縁があるお寺でもあります。松永久秀と三好三人衆が激しく争った永禄10年(1567)、勝正は三好三人衆方として、松永久秀の本拠地である奈良へ進攻します。 この時の様子について、『多聞院日記(以下、多聞院)』に詳しく...
2018年2月4日日曜日
永禄12年夏の幕府・織田信長勢による播磨・但馬国侵攻について
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筆者は、但馬・因幡山名氏の事は、池田勝正も従軍したため、関心を持っています。 永禄12年夏の幕府・織田信長勢による播磨・但馬国侵攻は、複合的な目的を持っていたと考えられ、そのひとつに、山名氏の制圧もあったと思います。毛利の要請もあり、幕府の軍事行動は、協力関係を保ちながらの...
2017年12月15日金曜日
先日の研究発表「摂津池田家の政治体制を見る -発展から滅亡までと荒木村重の台頭-」 は盛況でした。
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先日の研究発表「摂津池田家の政治体制を見る -発展から滅亡までと荒木村重の台頭-」 は、大変多くの方にお越しいただきました。女性も多く驚きました。これを機に、地域の歴史や文化にも興味をお持ちいただき、文化財にも関心をお持ちいただけたらと願っています。 また、私自身も励みにな...
2017年11月9日木曜日
摂津池田家の政治体制についての研究発表 その2
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池田勝正を中心とした、摂津池田家の政治体制について研究発表を行います。 日時:平成29年12月10日(日) 午後1時30分より テーマ:摂津池田家の政治体制を見る(発展から滅亡までと荒木村重の台頭) 場所:共同利用施設「池田会館」 池田市新町1-8 文字通り、池田家...
2017年7月30日日曜日
摂津池田家の政治体制についての研究発表
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今年の12月10日に、「摂津池田家の政治体制について」研究発表の機会をさせていただく事になりました。私が所属する池田郷土史学会での会員発表なのですが、ご興味のある方は、どうぞお越し下さい。 詳細が決まれば、また、このブログ上でお知らせ致します。
2017年6月9日金曜日
摂津池田家とその領知内の人々の所属意識について考える(津池田家から荒木村重へ)
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例えば、「大阪人」とか、「○○市民」とか、「日本人」といった、生きるための所属(帰属)意識というのは、その社会の真っ只中に居ればあまり必要ないのですが、個人の本拠(物理的・意識的な)や文化圏は必ずあり、古今東西、絶えたことはありません。自分自身の経験からも、それは必ずあり、状況...
2017年3月29日水曜日
天正4年5月、天王寺砦救援の軍議で織田信長の命令に異儀を立てた荒木村重
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四天王寺 独裁的で、なんびとにも畏れられていたかのような、怖いイメージのある織田信長ですが、そんな信長の命令を荒木村重は、理由を述べて、それを請けなかったエピソードがあります。 天正4年5月、織田信長が出席の上で、軍議が開かれました。本願寺勢に包囲されている天王寺砦...
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