戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2018年2月12日月曜日
奈良市油阪にある草鞋山西方寺と池田勝正について(奈良東大寺合戦)
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西方寺表門 草鞋山(そうあいざん)西方寺は、池田勝正に縁があるお寺でもあります。松永久秀と三好三人衆が激しく争った永禄10年(1567)、勝正は三好三人衆方として、松永久秀の本拠地である奈良へ進攻します。 この時の様子について、『多聞院日記(以下、多聞院)』に詳しく...
2018年2月4日日曜日
永禄12年夏の幕府・織田信長勢による播磨・但馬国侵攻について
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筆者は、但馬・因幡山名氏の事は、池田勝正も従軍したため、関心を持っています。 永禄12年夏の幕府・織田信長勢による播磨・但馬国侵攻は、複合的な目的を持っていたと考えられ、そのひとつに、山名氏の制圧もあったと思います。毛利の要請もあり、幕府の軍事行動は、協力関係を保ちながらの...
2017年12月15日金曜日
先日の研究発表「摂津池田家の政治体制を見る -発展から滅亡までと荒木村重の台頭-」 は盛況でした。
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先日の研究発表「摂津池田家の政治体制を見る -発展から滅亡までと荒木村重の台頭-」 は、大変多くの方にお越しいただきました。女性も多く驚きました。これを機に、地域の歴史や文化にも興味をお持ちいただき、文化財にも関心をお持ちいただけたらと願っています。 また、私自身も励みにな...
2017年11月9日木曜日
摂津池田家の政治体制についての研究発表 その2
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池田勝正を中心とした、摂津池田家の政治体制について研究発表を行います。 日時:平成29年12月10日(日) 午後1時30分より テーマ:摂津池田家の政治体制を見る(発展から滅亡までと荒木村重の台頭) 場所:共同利用施設「池田会館」 池田市新町1-8 文字通り、池田家...
2017年7月30日日曜日
摂津池田家の政治体制についての研究発表
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今年の12月10日に、「摂津池田家の政治体制について」研究発表の機会をさせていただく事になりました。私が所属する池田郷土史学会での会員発表なのですが、ご興味のある方は、どうぞお越し下さい。 詳細が決まれば、また、このブログ上でお知らせ致します。
2017年6月9日金曜日
摂津池田家とその領知内の人々の所属意識について考える(津池田家から荒木村重へ)
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例えば、「大阪人」とか、「○○市民」とか、「日本人」といった、生きるための所属(帰属)意識というのは、その社会の真っ只中に居ればあまり必要ないのですが、個人の本拠(物理的・意識的な)や文化圏は必ずあり、古今東西、絶えたことはありません。自分自身の経験からも、それは必ずあり、状況...
2017年3月29日水曜日
天正4年5月、天王寺砦救援の軍議で織田信長の命令に異儀を立てた荒木村重
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四天王寺 独裁的で、なんびとにも畏れられていたかのような、怖いイメージのある織田信長ですが、そんな信長の命令を荒木村重は、理由を述べて、それを請けなかったエピソードがあります。 天正4年5月、織田信長が出席の上で、軍議が開かれました。本願寺勢に包囲されている天王寺砦...
2017年3月23日木曜日
摂津池田家当主よりも地位の高い池田播磨守正久という人物について
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摂津国内の有力国人であった池田氏は、その活動範囲の広さから様々な史料が残っています。ただ、それらは断片的で、連続性が無いために、関連性の判断が非常に難しいところがあります。 今回ご紹介する、池田播磨守正久の書状もそのひとつです。いつもの様に、先ずその史料からご紹介します。年...
2017年3月20日月曜日
荒木村重の父、若しくは村重の先代にあたる人物(信濃守勝重)の史料が実在する可能性について
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近年、知名度も高くなってきた摂津国の戦国大名荒木村重ですが、それはやはり、織田信長方の武将としての活躍が大きな要因でしょう。もちろん、大河ドラマで取り上げられたり、ゲームや漫画などへの露出もあるでしょう。ここ最近は、加速度的です。 しかし一方で、この荒木村重という人物は、不...
2016年11月26日土曜日
戦国武将荒木村重が、摂津国守護職を任された頃(荒木地域政権)の重臣と被官たち
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戦国武将荒木村重が、織田信長から摂津国守護職を目され、地域政権を始動(後に正式に任される)した天正元年(1573)以降の重臣・被官と思しき人物を、筆者のノートから簡単にとまとめてみました。まだ途中で、初期的なものですが、皆さんの何かの参考になればと思い、アップしてみます。 ...
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