摂津国内の有力国人であった池田氏は、その活動範囲の広さから様々な史料が残っています。ただ、それらは断片的で、連続性が無いために、関連性の判断が非常に難しいところがあります。
今回ご紹介する、池田播磨守正久の書状もそのひとつです。いつもの様に、先ずその史料からご紹介します。年記未詳で、無神(10)月20日付けで、今西宮内小輔(春憲)宿所へ宛てたものです。
※池田市史(史料編1)P25、豊中市史(史料編1)P115、春日大社南郷目代今西家文書(本文編)P446
(史料1)----------------------------
前置き:尚々納所仕候様々御馳走所給候。尚此者可申候間、不能懇筆候。
本文:此間不申通御床敷存候。仍去年も以書状申候代物之儀、急度被成御馳走候而可給候。若貴所被仰儀、無同心之体候者、此方へ可被成御引付候。催促付可申候。但寄井筒屋其方へ不被借候哉。こい(乞い)可申候はば、御報に委細可承候。御隙之時進入御奉待候。恐々謹言。
----------------------------(史料1 終わり)
年記未詳の史料という事からその比定なのですが、個人的には『春日大社南郷目代今西家文書』の推定も参考にし、今のところ天文16年(1547)と考えていますが、これについては他の年代の可能性もあります。しかし、確証無く、流動的なところがあります。
それで、その年代比定の理由ですが、宛先である「今西宮内小輔」の活動時期は、天文から天正に渡り活動していて、池田家当主の信正・長正・勝正の3代を跨ぎます。ですので、この視点では、殆ど年代推定の幅を狭めることができません。
次に、文の内容ですが、「尚々納所仕候様に御馳走所給候」や「仍去年も以書状申候」「若貴所被仰候儀無同心之体候者、此方へ可被成御引付候」などの部分は、天文15年に南郷目代今西家から大規模な代官請けを得た池田家が、今西家との関係を繋ごうとしていた行動で、池田信正失脚中の家政に関する動きと考えてみました。
この史料のように池田正久は、家政の一端を担って活動していたのかもしれませんが、残念ながら、他に正久の史料は見当たらず、この件についての詳細は不明です。
更に、正久の官名である「播磨守」ですが、これは山陽道(8カ国)に属する大国(他に上国・中国・小国の区別あり)の扱いです。この大国は、地位にすると「従五位」で、池田家当主の「筑後守」の地位「従五位下」を上回るもので、播磨守は一段地位の高い人物となります。
池田家中には、従五位下を上回る地位の人物は見当たらず、池田正久は家中で一番地位の高い人物という事になります。一般的には、こういう社会的地位を家中の者が得る時には、当主を超えない範囲で地位の配分(栄典授与・論功)が行われますが、何らかの特別な手柄を立てて地位を得ていくという可能性も無い訳ではありません。
しかし、そういった場合は家中が割れて敵味方となり、激しく争う場合や、家を出た者が別の有力者に属して出世したような場合などに見受けられたりします。
いずれにしても、池田正久の地位の高さの実用性は、当主が健在で正常な家政運営が行われている間には、可能性として低いように思われます。
それにあたる時期としては、天文16年6月25日に細川氏綱を擁立した池田家が管領細川晴元に背いて降伏し、恭順していた頃(信正は隠居し、宗田との入道号を名乗ったらしい)、即ち、池田家中が主体的で正常な家政を執り行えなくなっていた時期の正久の行動と考えてみました。
ちなみに、この池田家が細川晴元に対して恭順している時期に、池田家にとって大きな出来事がありました。
池田信正は、義理の父である三好政長を通して晴元に謝罪し、一応は許されていました。政長は、晴元の最側近でもあり、その流れで接点を活かすことは自然な見立ててです。しかし、池田家にとって予想外だったのは、親類として保護するどころか、政長が池田家中の政治に介入を始め、財産なども不当に取り上げる行動に出た事でした。
信正の妻は、三好政長の娘で、それにつながる一派が池田家中に居て、諍いが起きていたようです。
もしかすると、池田正久は三好政長一派である可能性もあるにはあります。何事も有利に運ぶために、社会的地位を高くする方法もあるのかもしれません。そうだとすると、姓名も「三好」だった可能性もありますね。これは今のところ、筆者の空想レベルなのですが...。
それから、個人的には訝しんでいるところもあるのですが、この播磨守正久が池田勝正の父と推定する研究者もあるようです。その根拠も今のところは、希薄ですが、こちらが完全否定する程の材料も無いといったところです。
また、文中に「但寄井筒屋其方へ不被借候哉」との表現が見られます。「井筒屋」とは商人らしき人物ですが、この井筒屋について、関係無いとは思うのですが、池田の郷土史に井筒屋が関連していますので、一応、参考までにあげてみたいと思います。
※『わたしたちの郷土 -文学に現れた遺跡と人物-』より
(資料2)----------------------------
【井筒屋跡】
本町いづつやの2階に住む豊年の新米坊主呉春(自筆の大黒天図署名より)
天明元年(1781)当時、存充白と名乗っていた松村呉春は京都から蕪村門の先輩、川田田福の好意に甘え池田の本町にあるその出店井筒屋の2階に移り住むこととなった。
翌天明2年の年頭に当たり全てを新しくしようと考え、池田の古名、呉服で春を迎えるのだから呉服の呉と春とを結びつけて、呉春と呼ぶことにした。時に31才。
本町井筒屋云々の署名は天明2年9月、呉春が池田荒城氏(満願寺屋)の転居祝いに贈った大黒天図に残されたものであるが、その頃はまだ丸坊主になって日が浅かったので、自分でも珍しくこんな称えをしたものらしい。一説には本町通、現紅屋呉服店ともいう。
【川田田福】
田福は、井筒屋庄兵衛と称した京都の人で呉服商を営み、池田本町に出店を持っていたので、池田と因縁が深い。田福は蕪村について俳諧を学び、その門下の中でも尊敬に値する人物であった。田福は謡曲、蹴鞠にも興味を持ち、また絵画をもよくしたようである。池田の高法寺に川田祐作居士遺愛碣というのが建っているが、これは荒木李𧮾の撰木で弟の荒木梅閭の筆である。
----------------------(資料2 終わり)
さて、史料1の文の内容は、少し音信が途絶えたが、去年も書状で伝えた「代物」の事、必ずの取り計らいを期待する。もし、そちらでそれに同意しない者があれば、催促を行うので、こちらへ報せてもらいたい。ただし、井筒屋よりそちらへ借りられるか。乞う事があれば、報せにより承る。状況次第に進めてもらい、それを待つ。、というような旨で伝えており、「代物」についての用件のようです。代物とは「銭」の事なのかもしれません。
この音信の時期は、10月ですので、米の収穫時期です。前置きにある文は、その事のようです。しかし、それとは別に、去年から代物の事について伝えているようです。それを南郷目代の今西宮内少輔にも協力を求めているのは、上位の権力からの用件なのかもしれません。
池田正久についての史料は、この1点しか見当たらず、不明なところも多いのですが、今後も調査を続けていきたいと思います。
今回ご紹介する、池田播磨守正久の書状もそのひとつです。いつもの様に、先ずその史料からご紹介します。年記未詳で、無神(10)月20日付けで、今西宮内小輔(春憲)宿所へ宛てたものです。
※池田市史(史料編1)P25、豊中市史(史料編1)P115、春日大社南郷目代今西家文書(本文編)P446
(史料1)----------------------------
前置き:尚々納所仕候様々御馳走所給候。尚此者可申候間、不能懇筆候。
本文:此間不申通御床敷存候。仍去年も以書状申候代物之儀、急度被成御馳走候而可給候。若貴所被仰儀、無同心之体候者、此方へ可被成御引付候。催促付可申候。但寄井筒屋其方へ不被借候哉。こい(乞い)可申候はば、御報に委細可承候。御隙之時進入御奉待候。恐々謹言。
----------------------------(史料1 終わり)
年記未詳の史料という事からその比定なのですが、個人的には『春日大社南郷目代今西家文書』の推定も参考にし、今のところ天文16年(1547)と考えていますが、これについては他の年代の可能性もあります。しかし、確証無く、流動的なところがあります。
それで、その年代比定の理由ですが、宛先である「今西宮内小輔」の活動時期は、天文から天正に渡り活動していて、池田家当主の信正・長正・勝正の3代を跨ぎます。ですので、この視点では、殆ど年代推定の幅を狭めることができません。
次に、文の内容ですが、「尚々納所仕候様に御馳走所給候」や「仍去年も以書状申候」「若貴所被仰候儀無同心之体候者、此方へ可被成御引付候」などの部分は、天文15年に南郷目代今西家から大規模な代官請けを得た池田家が、今西家との関係を繋ごうとしていた行動で、池田信正失脚中の家政に関する動きと考えてみました。
この史料のように池田正久は、家政の一端を担って活動していたのかもしれませんが、残念ながら、他に正久の史料は見当たらず、この件についての詳細は不明です。
更に、正久の官名である「播磨守」ですが、これは山陽道(8カ国)に属する大国(他に上国・中国・小国の区別あり)の扱いです。この大国は、地位にすると「従五位」で、池田家当主の「筑後守」の地位「従五位下」を上回るもので、播磨守は一段地位の高い人物となります。
池田家中には、従五位下を上回る地位の人物は見当たらず、池田正久は家中で一番地位の高い人物という事になります。一般的には、こういう社会的地位を家中の者が得る時には、当主を超えない範囲で地位の配分(栄典授与・論功)が行われますが、何らかの特別な手柄を立てて地位を得ていくという可能性も無い訳ではありません。
しかし、そういった場合は家中が割れて敵味方となり、激しく争う場合や、家を出た者が別の有力者に属して出世したような場合などに見受けられたりします。
いずれにしても、池田正久の地位の高さの実用性は、当主が健在で正常な家政運営が行われている間には、可能性として低いように思われます。
それにあたる時期としては、天文16年6月25日に細川氏綱を擁立した池田家が管領細川晴元に背いて降伏し、恭順していた頃(信正は隠居し、宗田との入道号を名乗ったらしい)、即ち、池田家中が主体的で正常な家政を執り行えなくなっていた時期の正久の行動と考えてみました。
ちなみに、この池田家が細川晴元に対して恭順している時期に、池田家にとって大きな出来事がありました。
池田信正は、義理の父である三好政長を通して晴元に謝罪し、一応は許されていました。政長は、晴元の最側近でもあり、その流れで接点を活かすことは自然な見立ててです。しかし、池田家にとって予想外だったのは、親類として保護するどころか、政長が池田家中の政治に介入を始め、財産なども不当に取り上げる行動に出た事でした。
信正の妻は、三好政長の娘で、それにつながる一派が池田家中に居て、諍いが起きていたようです。
もしかすると、池田正久は三好政長一派である可能性もあるにはあります。何事も有利に運ぶために、社会的地位を高くする方法もあるのかもしれません。そうだとすると、姓名も「三好」だった可能性もありますね。これは今のところ、筆者の空想レベルなのですが...。
それから、個人的には訝しんでいるところもあるのですが、この播磨守正久が池田勝正の父と推定する研究者もあるようです。その根拠も今のところは、希薄ですが、こちらが完全否定する程の材料も無いといったところです。
また、文中に「但寄井筒屋其方へ不被借候哉」との表現が見られます。「井筒屋」とは商人らしき人物ですが、この井筒屋について、関係無いとは思うのですが、池田の郷土史に井筒屋が関連していますので、一応、参考までにあげてみたいと思います。
※『わたしたちの郷土 -文学に現れた遺跡と人物-』より
(資料2)----------------------------
写真:昭和30年代の池田本町の井筒屋跡 |
本町いづつやの2階に住む豊年の新米坊主呉春(自筆の大黒天図署名より)
天明元年(1781)当時、存充白と名乗っていた松村呉春は京都から蕪村門の先輩、川田田福の好意に甘え池田の本町にあるその出店井筒屋の2階に移り住むこととなった。
翌天明2年の年頭に当たり全てを新しくしようと考え、池田の古名、呉服で春を迎えるのだから呉服の呉と春とを結びつけて、呉春と呼ぶことにした。時に31才。
本町井筒屋云々の署名は天明2年9月、呉春が池田荒城氏(満願寺屋)の転居祝いに贈った大黒天図に残されたものであるが、その頃はまだ丸坊主になって日が浅かったので、自分でも珍しくこんな称えをしたものらしい。一説には本町通、現紅屋呉服店ともいう。
【川田田福】
田福は、井筒屋庄兵衛と称した京都の人で呉服商を営み、池田本町に出店を持っていたので、池田と因縁が深い。田福は蕪村について俳諧を学び、その門下の中でも尊敬に値する人物であった。田福は謡曲、蹴鞠にも興味を持ち、また絵画をもよくしたようである。池田の高法寺に川田祐作居士遺愛碣というのが建っているが、これは荒木李𧮾の撰木で弟の荒木梅閭の筆である。
----------------------(資料2 終わり)
さて、史料1の文の内容は、少し音信が途絶えたが、去年も書状で伝えた「代物」の事、必ずの取り計らいを期待する。もし、そちらでそれに同意しない者があれば、催促を行うので、こちらへ報せてもらいたい。ただし、井筒屋よりそちらへ借りられるか。乞う事があれば、報せにより承る。状況次第に進めてもらい、それを待つ。、というような旨で伝えており、「代物」についての用件のようです。代物とは「銭」の事なのかもしれません。
この音信の時期は、10月ですので、米の収穫時期です。前置きにある文は、その事のようです。しかし、それとは別に、去年から代物の事について伝えているようです。それを南郷目代の今西宮内少輔にも協力を求めているのは、上位の権力からの用件なのかもしれません。
池田正久についての史料は、この1点しか見当たらず、不明なところも多いのですが、今後も調査を続けていきたいと思います。
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