戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2017年7月30日日曜日
摂津池田家の政治体制についての研究発表
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今年の12月10日に、「摂津池田家の政治体制について」研究発表の機会をさせていただく事になりました。私が所属する池田郷土史学会での会員発表なのですが、ご興味のある方は、どうぞお越し下さい。 詳細が決まれば、また、このブログ上でお知らせ致します。
2017年6月9日金曜日
摂津池田家とその領知内の人々の所属意識について考える(津池田家から荒木村重へ)
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例えば、「大阪人」とか、「○○市民」とか、「日本人」といった、生きるための所属(帰属)意識というのは、その社会の真っ只中に居ればあまり必要ないのですが、個人の本拠(物理的・意識的な)や文化圏は必ずあり、古今東西、絶えたことはありません。自分自身の経験からも、それは必ずあり、状況...
2017年3月29日水曜日
天正4年5月、天王寺砦救援の軍議で織田信長の命令に異儀を立てた荒木村重
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四天王寺 独裁的で、なんびとにも畏れられていたかのような、怖いイメージのある織田信長ですが、そんな信長の命令を荒木村重は、理由を述べて、それを請けなかったエピソードがあります。 天正4年5月、織田信長が出席の上で、軍議が開かれました。本願寺勢に包囲されている天王寺砦...
2017年3月23日木曜日
摂津池田家当主よりも地位の高い池田播磨守正久という人物について
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摂津国内の有力国人であった池田氏は、その活動範囲の広さから様々な史料が残っています。ただ、それらは断片的で、連続性が無いために、関連性の判断が非常に難しいところがあります。 今回ご紹介する、池田播磨守正久の書状もそのひとつです。いつもの様に、先ずその史料からご紹介します。年...
2017年3月20日月曜日
荒木村重の父、若しくは村重の先代にあたる人物(信濃守勝重)の史料が実在する可能性について
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近年、知名度も高くなってきた摂津国の戦国大名荒木村重ですが、それはやはり、織田信長方の武将としての活躍が大きな要因でしょう。もちろん、大河ドラマで取り上げられたり、ゲームや漫画などへの露出もあるでしょう。ここ最近は、加速度的です。 しかし一方で、この荒木村重という人物は、不...
2016年11月26日土曜日
戦国武将荒木村重が、摂津国守護職を任された頃(荒木地域政権)の重臣と被官たち
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戦国武将荒木村重が、織田信長から摂津国守護職を目され、地域政権を始動(後に正式に任される)した天正元年(1573)以降の重臣・被官と思しき人物を、筆者のノートから簡単にとまとめてみました。まだ途中で、初期的なものですが、皆さんの何かの参考になればと思い、アップしてみます。 ...
2016年11月10日木曜日
荒木村重の重臣であった瓦林越後守は、池田育ち(生まれ)か!?
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天正7年(1578)12月16日、京都六条河原で行われた荒木村重一族・重臣家族の処刑に、瓦林越後守娘(北河原与作女房)の名が見られます。以下、その処刑の時の様子についての資料をご紹介します。 ※信長公記(新人物往来社)P280 (資料1)---------------...
2016年10月26日水曜日
元亀元年(1570)8月13日、摂津国河辺郡の猪名寺付近(現尼崎市)で行われた「猪名寺合戦」について
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元亀元年(1570)6月18日、摂津守護池田家中で内訌が発生し、池田家は三好三人衆方となりました。幕府は有力勢力を失いましたが、この敵である三好三人衆にとっては、その真逆の力を得る事となりました。 しかし、三好三人衆方の池田衆は、南への連絡路が無く、当初はこれを早急に開く必...
2016年10月22日土曜日
摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?
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大尭山長遠寺 兵庫県尼崎市に大尭山長遠寺(ぢょうおんじ)という古刹があり、そこに甲賀谷又左衛門尉正長夫妻の、特別に顕彰された墓があります。 今のところ不明な事が多いのですが、この人物は同寺を再建した大檀越(おおだんおつ(だんおち):寺や僧に布施をする信者や檀家の事。...
2016年10月4日火曜日
近江国佐々木一族にゆかりの河内国河内郡の霊松山西光寺(現東大阪市)
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浄土真宗本願寺派 霊松山 西光寺 筆者の住んでいるところに、浄土真宗本願寺派の霊松山西光寺というお寺があります。同寺は室町時代にその興りを持つ古いお寺で、その創建に近江国の名族佐々木氏につながる伝承があります。 先ず西光寺について、公式な研究に基づく資料をご案内しま...
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