戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2016年10月26日水曜日
元亀元年(1570)8月13日、摂津国河辺郡の猪名寺付近(現尼崎市)で行われた「猪名寺合戦」について
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元亀元年(1570)6月18日、摂津守護池田家中で内訌が発生し、池田家は三好三人衆方となりました。幕府は有力勢力を失いましたが、この敵である三好三人衆にとっては、その真逆の力を得る事となりました。 しかし、三好三人衆方の池田衆は、南への連絡路が無く、当初はこれを早急に開く必...
2016年10月22日土曜日
摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?
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大尭山長遠寺 兵庫県尼崎市に大尭山長遠寺(ぢょうおんじ)という古刹があり、そこに甲賀谷又左衛門尉正長夫妻の、特別に顕彰された墓があります。 今のところ不明な事が多いのですが、この人物は同寺を再建した大檀越(おおだんおつ(だんおち):寺や僧に布施をする信者や檀家の事。...
2016年10月4日火曜日
近江国佐々木一族にゆかりの河内国河内郡の霊松山西光寺(現東大阪市)
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浄土真宗本願寺派 霊松山 西光寺 筆者の住んでいるところに、浄土真宗本願寺派の霊松山西光寺というお寺があります。同寺は室町時代にその興りを持つ古いお寺で、その創建に近江国の名族佐々木氏につながる伝承があります。 先ず西光寺について、公式な研究に基づく資料をご案内しま...
2016年10月1日土曜日
戦国時代に河内国河内郡へ移住した信州の人々(大和川付け替え前の地形を探る)
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筆者の住んでいるすぐ近くに、「中新開(なかしんかい)」というところがあります。そこは、古くからある村で、村には諏訪神社が祀られています。 諏訪神社があるという事からも判るように、この中新開村は信濃の国の諏訪大社とつながりがあります。この村は信州から移ってきた人々が開いた土地...
2016年9月17日土曜日
摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(細河庄内の東山村と武将山脇氏について)
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摂津国豊嶋郡細河郷内の東山村(現大阪府池田市)は、室町時代の応仁・文明の乱以降、成長し始めた池田家にとって、次第に政治・軍事面においても重要な関係に深化します。その東山村からは、山脇氏が頭角を現し、池田氏と姻戚関係も結び、池田一族として家政の一翼を担っていきます。 また、そ...
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2016年7月30日土曜日
天正6年(1578)の謀反で、荒木村重が多田銀銅山や北摂の鉱山を経済的裏付け要素のひとつとして考えていた可能性について
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以前から気になっていたのですが、今後の備忘録代わりに、ちょっと書き留めておきたいと思います。 多田銀銅山の青木間歩の様子 北摂山塊では、主に銅を産出していたため、無数の間歩跡があります。豊能・河辺郡あたりに広がっていて、一部は豊島郡にも見られます。実は、五月山にも秦...
2016年7月16日土曜日
池田市建石町の竹原山法園寺(ほうおんじ)にあった戦国武将上月十大夫政重の塔婆
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1939年(昭和14)3月発行の『池田町史』法園寺の条に、上月(赤松)十大夫政重についての記述があります。これは寺に残る寺伝や過去帳なども調べて紹介されているようです。以下にその記述を抜粋します。 ※池田町史 第一篇 風物詩P135 -(資料1)-------------...
2016年7月8日金曜日
摂津池田家が滅びた理由
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池田勝正を中心に、20年程、摂津池田家の歴史を調べていると、同家がなぜ滅びたのかがわかったような気がします。一つの要素で、また、一人だけがその原因を作った訳ではないのですが、その中でも、最も重要な要素があるように思います。 詳しい分析は、また後日に「 摂津池田家の支配体制 ...
2016年6月29日水曜日
戦国武将の戦い方
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政治問題の解決方法の一つとして、武力による解決が日常的に行われていた戦国時代、武士は常に「戦い」の研究を行って、備えを怠りませんでした。そんな内乱の時代、摂津国豊嶋郡を本拠とする池田氏も、武士として度々戦場へ出ています。 軍勢を出し、互いに想定した場所が合戦場になり、戦...
2016年6月24日金曜日
池田知正の他にも見られる、山脇系池田氏の人物について
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先日ご紹介した、「 池田勝正の跡職を継いだ、知正は山脇系池田氏か!? 」の項目ですが、以前から気になっていた事とも結びついて、知正の他にも、細河郷東山の山脇系池田氏らしき人物が存在する可能性に気づきました。 この事は、近日公開予定の「細河庄内の東山村と武将山脇氏について」で...
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