摂津国豊嶋郡細河郷内の東山村(現大阪府池田市)は、室町時代の応仁・文明の乱以降、成長し始めた池田家にとって、次第に政治・軍事面においても重要な関係に深化します。その東山村からは、山脇氏が頭角を現し、池田氏と姻戚関係も結び、池田一族として家政の一翼を担っていきます。
また、その拠点としての池田城を守るための防御構成も年々強固なものに成長させていきます。同時に、政治・経済的な支配も拡がり、その意味でも五月山と細河郷、そして東山村は、大変重要な位置付けともなります。
そうなると、自然と城郭化していくものと思われますが、今のところ、公式に城郭に関する調査もされていませんので、想像の域を脱する事はありませんが、全く無かったとは言えない資料も断片的に見出せます。そういった可能性もご紹介できればと思います。
そして、摂津国内の最大勢力を誇った池田家も内紛を繰り返し、遂には解体となりますが、その池田家を継ぐ事になったのが山脇系池田氏であり、池田家の歴史を見る上でも、この東山村の歴史を掘り下げておく事は重要です。
今ある資料や筆者の見聞きした事など、ひとまずそれらを包括的にまとめ、今後の研究に繋げていきたと思います。
<概要>
先ず始めに、他の項目と重複しますが、現在既に論説されている東山村とそれに関する寺社を示してみたいと思います。なお、東山村が含まれるより大きな地域単位としての細河郷(細川庄)については、先に公開しました当ブログの「摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(摂津国豊嶋郡細河庄(郷)とその村々及び社寺)」をご覧下さい。
◎ご注意とお願い:
『改訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。また、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
ただ、近年、文化財の消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ宜しくお願いいたします。
各項目の出典は、○○(県名)の地名【地名】、新修池田市史(○巻)は【新市史○巻】、池田町史(第一篇:風物誌)が【池田町史】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。
(資料1)-------------
◎東山村(池田市東山町)
中河原村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、ほぼ並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域の東部は五月山に連なる山地で、西部に耕地が広がる。
慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕末まで幕府領として続く。
村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると541石余。植木栽培が盛んであった。曹洞宗東禅寺は、行基創建伝承をもち、慶長9年、僧東光の再興という。真宗大谷派円成寺は、天文14年(1545)西念の創建という。【地名:東山村】
◎真宗 東本願寺末 返照山 円城寺(池田市東山町)
◎曹洞宗 大広寺末 瑠璃光山 東禅寺(池田市東山町)
◎愛宕神社(東山神社)
既述のように東山村は、寛永・正保期(1624-48)の摂津国高帳での村高は541石余で、細河郷内では最も大きな石高を有しています。残念ながら人口に関する記録が見当たりませんが、石高に比例した人口であったと思われます。明治期の地図では、近隣の集落と比べても集落範囲が大きく表されています。
また、東山村は五月山山塊北側の一段高くなった段丘に村が拡がっており、寛永・正保期には植木栽培が盛んであった記録があるようです。植木栽培は細河郷では古くから行われており、江戸時代にも絶える事無く行われていた事が判ります。
<交通>
東山村の眼下に余野街道があり、その脇にある余野川を挟んで、北方の低山の尾根上には、妙見道も望む事ができる眺望が開けています。この妙見道を目安として、河辺郡と豊嶋郡の境があり、河辺郡北部には多田源氏の系譜を持つとされる塩川氏が勢力を持っていました。
また、東山村は、その余野街道を北から南下すると、平野部の入口にあたる場所でもありました。更に、村からその背後にあたる五月山には、何本もの山道(やまみち)があり、一旦、山に上がれば、南側の秦野村や新稲(現箕面市)、北東部の勝尾寺や高山村(現豊能町)方面へも行き来できました。
<多田院御家人塩川氏と細河郷>
摂津国河辺郡北部(現兵庫県川西市など)の山下城(一庫城)を本拠とした塩川氏は、多田院御家人の筆頭として、多田庄と能勢郡に影響力を持ちました。同庄は、他にあまり例のない程の広さを持ち、しかもその内に多田銀山(現兵庫県猪名川町)を含みます。また、能勢郡内(現大阪府)にも鉱山があり、その採掘に使われた間歩跡が、今も多数残っています。
鎌倉時代から室町時代の応仁・文明の乱頃までは、塩川氏の勢いが強く、細河郷もどちらかというとその影響を受けていたようで、細河郷内での伝承記録にもその断片が見られます。その頃は、五月山が実質的な河辺郡との境になっていたかもしれません。参考として、多田源氏に関する資料を少しご紹介したいと思います。
(資料2)-------------
◎臨済宗 天龍寺末 薔薇山 松雲寺(池田市中川原町)
細河郷にはこういった、多田院御家人とのつながりが、断片的にいい伝えられています。
また、やはり地勢柄、細河地域は旧河辺郡や能勢郡地域との交流が絶えず、婚姻や商売などで今もつながっており、時代を経ても変わらない、不変の摂理があるようです。
<村の民俗と伝承資料>
東山村はそんな環境と歴史を持ちますが、更に地域を掘り下げ、村の民俗と伝承資料を以下にあげてみます。村の人々が寺院をどのように捉えて信仰しているかがわかる資料をご紹介します。
※新修池田市史 第5巻 P309
(資料3)-------------
【東山村の寺院と民間の信仰】
東山村の寺院には東禅寺と円城寺があり、人々は正月には東禅寺に、盆には円城寺にお参りに行くならわしがあった。
東禅寺は山号を黄梅山といい、つぎのような伝承がある。すなわち、今は余野川上流にある久安寺は、その昔、神亀年代(724〜29)に全国を行脚中の行基僧正が足をとめたことにより開かれ、院内塔頭49坊があった。その内のひとつに瑠璃光寺があり、薬師堂には薬師如来坐像と四天王、十二神将像が安置されていた。
保延6年(1140)の山内の大火の際、焼失を免れ、その後荒廃していたが、慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創されたという。ただし、これを証明する文書は無い。
ムラの中に薬師堂があり、その前の広場を「ドウノマエ(堂の前)」という。2月8日と8月8日の年2回、百姓株で祭を行い、子供を集めてお菓子などを配る。かつては薬師講を作って堂の管理をしていたが、戦後は百姓株の管理となった。
また、国道沿いの村への入口の位置に地蔵堂がある。毎年8月24日の地蔵盆には僧侶を招き、婦人会が御詠歌をあげる。村にはほかに、釈迦堂、金剛、庚申さん、辻堂がある。【新市史5巻:東山】
-------------(資料3 終わり)
もう一つ資料をご紹介します。東山村の人々の生活について、聞き取り調査が行われています。「垣内と講」についてです。もしかすると、東山村は植木栽培など、多様な産業があって、村全体で農業を営むような共同体ではなかったのかもしれません。
※新修池田市史 第5巻 P306
(資料4)-------------
【垣内と講】
本家を「主家」、分家を「インキョ(隠居)」というが、同族による集まりや助け合いは、冠婚葬祭の場合程度であって、日常的にはみられない。
相互扶助を求めて重要な人間関係を形成したのは、近隣集団の「カイチ(垣内)」であった。カイチは、現在でいえば隣組に相当するが、ムカインジョ、ミナミンジョ(南カイチ、ユバジョ(弓場ジョ?)ともいう)、大崎カイチ、タナカンジョ、ヤマシガイ(山新開)の五つのカイチがあり、「ジョ」の名称でよばれることが多かった。カイチの役割としては、普段の暮らしの中での助け合いのほか、葬式の手伝いが大きかった。それぞれのカイチは、主に百姓株の人々による5〜10戸からなっていたが、(近現代の)隣組ができたことによって、弱体化した。現在では、いずれも2〜3戸程度の近所づきあいにとどまっている。
ムラの農民をひとつの百姓株にまとめ、ムラ全体で行事を行うようになったのは、戦後になってからである。かつては、百姓株が大講、喜兵衛講、角右衛門講、五左衛門講の四つに分かれ、それぞれが一反歩ほどの共有田などの財産を持ち、農業にかかわる結びつきを維持していた。昭和初期には大講が20戸ほどで最も多く、その他はいずれも10戸くらいで構成された。その後、講の機能は次第に薄れ、今では名称が残るのみである。
-------------(資料4 終わり)
<東山村と秦村との関係を示す伝承資料>
更に、興味深い伝承資料をご紹介します。今は所在が判らないようですが、法園寺(ほうおんじ:現池田市建石町)というお寺に「赤松氏上月十大夫政重」という人物の塔婆があって、そこに刻まれた碑文が池田町史(1939年発行)に紹介されています。
※池田町史 第一篇 風物詩P135
(資料5)-------------
【法園寺】
建石町にあり、竹原山と号し、浄土宗知恩院の末寺にして本尊は阿弥陀仏なり。創立の年月詳らかでないが、再建せしは天文7年にして、僧勝誉の檀徒と協力経営せし所なりと。(中略)。
縁起によれば、同寺はもと、池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所であって、池田城主の本願に依り同城羅城(郭外)内に阿波堂を建立し、其の室の冥福を祈りたる処なりと、後この阿波堂は上池田町(現在の薬師堂)に移建されしと伝わる。
なお当寺には、赤松氏、上月十大夫政重の塔婆がある。其の文に、
赤松氏上月十大夫政重之塔
寛永19年(1642)午9月12日卒
法名、可定院秋覚宗卯居士
宗卯居士者、諱政重、十大夫、姓赤松氏(又号上月)蓋し村上天皇之苗裔正二位円心入道嫡子、信濃守範資、摂津国守護職補され自り以来、世々于川辺郡荒蒔(荒牧)城、範資九代之嫡孫豊後守殖範、其の子範政求縁■中三好・荒木両党、父子一族悉く殞命畢ぬ。于時政重3歳也。乳母懐抱而城中逃げ出於、豊嶋郡畑村至り、叔父石尾下野守撫育焉。22歳而又親戚を因み、池田備後守の愛顧を受け、■■池田里(今ここに旧館址有り)後、稲葉淡路守■吉朝臣、寛永17年辰、辞官而て、帰寧ここに本貫、同19年壬年9月12日75歳而卒去。則ち竹原山法園寺に葬り矣。室家妙薫大姉者船越女、歿後同於彼の寺也。
享保7年(1722)壬寅9月12日
※■=欠字
-------------(資料5 終わり)
この伝承によると、上月政重が3歳の時(元亀元年:1570)に、三好・荒木勢に居所を襲われて、乳母によって助け出され、母方である豊嶋郡畑村の石尾下野守方へ逃れたとあります。その後、成長した政重は22歳の時、親戚の誼で、池田備後守知正に取り立てられたとの経緯が記されています。
また、この知正は池田家の当主を継いでいますが、慶長9年(1604)3月18日、49歳で死去します。この年に、東山村の東禅寺も再興されており、これはやはり何らかの繋がりがあっての事だと思われます。
<東山村と池田氏との強いつながり>
この知正の死去の前、子がなく無嗣であったために、弟の子三九郎を養子として迎えますが、三九郎は、慶長10年7月28日、18歳の若さで死亡します。
池田家の断絶の憂き目を救うため、三九郎の父(知正弟)である弥右衛門尉光重が家督を継ぎます。光重は、間もなく備後守の官途を名乗り、戦乱で荒廃した池田郷とその周辺の復興にあたります。
さて、池田家の家督を継いだ光重ですが、東山村を本拠としていた人物である事が「池田城主池田系図」などに記されており、東山村での有力者山脇氏に連なる人物と考えられます。
一方、この山脇家には家伝(系図)が残り、池田城主との強いつながりがあった事を記しています。永正5年(1504)の池田合戦を中心に既述されています。
※池田郷土研究 第8号(池田郷土史学会刊)P16
(資料6)-------------
○正棟-池田民部丞、属足利義澄公、忠信篤実無二心、永正5戊辰年夏、大内義興、細川高国等、攻池田城、正棟固守数日、防之術尽城陥、于時託泰松丸、貽謀正能父子、隠同国有馬谷、5月10日正棟登城自殺、東山密葬、謚円月光山居士。
○正重-池田勘右衛門、後号監物、民部丞、生害之時、与母共父之首隠、従城裏山伝移東山村、大山谷之口山林埋葬、密請僧吊、隠住山脇源八郎。【山脇氏系図:昭和26年7月 林田良平假写】
-------------(資料6 終わり)
この永正5年の合戦については『細川両家記』という軍記物に記述があり、内容は、多少の誤差はあるものの、大筋で山脇家の家伝と一致しています。
※細川両家記(群書類従第20号:合戦部)P585
(資料7)-------------
永正5年戌辰4月9日、(前略)。摂津国池田筑後守(貞正)は、細川澄元方をして我城に楯籠也。細河高国聞召、其の儀ならば退治有べきとて、同5月初の頃高国方の細川典厩尹賢を大将にて猛勢推寄ける処に、筑後守は物の数ともせずして戦うといえども、池田遠江守、高国へ参られければ、寄せ手は是れに機を射て、5月10日に堀を埋めさせ、厳しく攻めければ、城の中より思い思いに切って出、同名諸衆20余人腹を切り、雑兵70余人討ち死に也。国中に同心する者無きに、かように振る舞いける事よ。大剛の者哉と感ぜぬ人こそなかりけれ。
-------------(資料7 終わり)
この時の池田家当主は、貞正(さだまさ)ともされますが、今も池田市にある大広寺に貞正以下、主立った武士が逃げ入り、そこで切腹します。重臣などもそこで果てたようです。その貞正が切腹した時の床板を大広寺本堂入口の天井板として使い、それが「血天井」として今に伝わっています。
それから、この時の貞正一行の行動は、自分の家族を非難させるための行動だったと考えられ、大広寺の脇からは、五月山へ上がる山道が幾筋かあり、その道を伝って貞正の妻と子は東山村へ逃れたものと思われます。池田城もこの時、自焼(じやけ)していますので、最後の抵抗をして、時を稼いだのかもしれません。
貞正の妻と長男の三郎五郎、それに弟の正重を叔父の池田正能などが護り、城を出たようです。一行は、東山村の山中(大山谷之口山林)に貞正の首を埋め、妻と弟正重は山脇氏を名乗って隠れ住んだとしています。また、貞正の妻は、山脇家出身ではないかと推定する研究者もおられます。
長男三郎五郎は、その後に東山村を出て、身寄りを頼って有馬郡下田中へ更に逃れたようです。
<別の山脇系池田氏の活動痕跡>
堺商人の今井宗久の音信に、気になる人物が見出せます。これは、永禄12年(1569)のもので、その時の池田家当主であった勝正が、播磨・但馬国方面へ出陣している留守中に池田覚右衛門・秋岡甚兵衛尉某へ宛てて音信したものです。
※堺市史5(続編)P906
(資料8)-------------
態と啓せしめ候。仍て堺五ヶ庄に相付き、摂津国天王寺の内に之有る善珠庵分事、度々御理り申す事に候。織田信長従り丹羽五郎左衛門尉長秀・津田(織田)掃部助一安に仰せ付けられ、勝正並びに各へ御申しの事候。様体於者、黒崎式部丞(今井宗久被官)へ往古従りの段委曲申し含め候。無事儀急度仰せ付けられ於者畏み存ずべく候。尚池田(紀伊守入道)清貧斎正秀・荒木弥介(村重)へ申し候。恐々。
-------------(資料8 終わり)
この池田覚右衛門なる人物は、この史料の他には見当たりませんので詳しくは解らないところもあるのですが、音信の内容からして、当主勝正の重臣であったり、側近的人物であった事は確かです。
そしてこの、覚右衛門なる人物は、先に紹介しました「資料4」にある、「かつては、百姓株が大講、喜兵衛講、角右衛門講、五左衛門講の四つに分かれ、それぞれが一反歩ほどの共有田などの財産を持ち、農業にかかわる結びつきを維持していた。」の角右衛門講に相当する可能性があるかもしれません。それらの講の多くは、人の名前に由来するようですし、「講」とは、そこに縁や利益を共にする人々が集まる組織でもあります。「角」と「覚」の違いはありますが、角右衛門講とは、池田覚右衛門に由来し、そこに関係した人々の集団だったのではないかと思われます。もちろん地縁も含めての事だと思います。
それからまた、西暦2000年頃だったと思いますが、個人的に東山村で、山脇氏や戦国時代の頃の事について何人かにお話しをお聞きした事があります。その時、「先祖は武士だったが、武士を辞めて帰農したり、武士を続ける人は他の場所へ移った。」など、言い伝えがあるようです。
それについては、「資料3」にある、「慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創されたという。」にある伝承と同一線上の要素ではないかと感じます。
慶長9年とは、東山村に縁の池田知正が死去した年ですし、その時に大広寺末の禅寺である東禅寺が、その地の豪族・庄屋の協力で開創(再興)する訳です。これらの複数要素の重なりは、単なる偶然では無いと思います。知正の墓は大広寺に今もあるのですが、その出身地である地元でも知正を弔うような気持ちがあっての動きではないかと思います。
<知正が池田家家督を継いだ理由>
池田家本流からは少し離れた一族であったと考えられる山脇系池田氏が、なぜ名族池田家を継ぐ事になったかといえば、天正年間の2度の大乱が、非常に致命的で、池田とその周辺を破壊し尽くし、人も社会も全て失う程の戦争であったためと考えられます。
徹底した破壊は、人同士のつながりも絶ち、恨みすらも生まれます。人が死に、財産も失えば、人を束ねる事も難しくなり、組織も財力もある外来勢力に太刀打ちできなくなります。
実際にはどうだったのか、まだまだ判らない事もありますが、感状の縺れもあり、それまでの統治者であった池田氏の本流が、逆に戻りづらい環境になっていたのかもしれません。若しくは、池田氏の本流が本当に滅びてしまったのか。
とは言え、復興にあたっては、地域を束ねる求心力は必要ですので、本流よりは少し離れますが、他の候補よりはより本流に近い血脈を持つ東山村の山脇系池田氏から知正が選ばれたのかもしれません。
本流の池田家当主は代々「筑後守」を名乗りましたが、知正は「備後守」を名乗り、明らかにそれまでの池田氏のつながりとは区別されています。知正の後を継いだ弟の光重も、同じく備後守です。
知正や光重は、荒廃した池田を復興させようと色々と手を尽くそうとしていた事も史料を読めばわかります。大広寺を旧地に戻し、少しずつ整備を行おうとしていたと思われ、その頃の建物や梵鐘、肖像画などが残っています。他にも色々な行動をしているのですが、ここでは書き切れませんので、別項で紹介したいと思います。
知正が池田家を継いだ頃は、時代が大きく変わろうとしていた時であり、大乱でヒト・モノ・コトを立ち直れない程に失い、それでも地域の求心力として当主を努めた人物であったのかもしれません。
実質的にこの2人が、最後の池田氏だったと言えます。その後の池田郷と細河郷は、徳川幕府の直轄地として統治されるようになり、商業の町となって、地域の主導者排除されるようになって、忘れられていきます。
<出土遺物からの戦国時代細河郷の想像>
少し遡って、細河郷は、永禄・元亀年間(1558-73)頃になると、池田氏の影響下に入っていた事と思われます。それ以前の天文年間(1532-55)には同地で影響力を強めていた可能性も十分にあります。その裏付けとも考えられるのが、いくつかの寺の寺伝に「兵火による焼失」が見えます。また、昭和46年(1571)4月2日に、吉田町310番地で市道の拡張工事中に、主に室町時代に流通していた多量の古銭が出土しています。(総合計18,317枚)「伝承」は、ある程度、正確に記述されているのではないかと思われます。
やはり、この遺物の出土状況からみても、細郷が戦乱に遭っていた事が想定できます。これらは当時としては資産であり、地中に埋められていたのは、戦乱を避けるための「避難」のためであったと考えられます。
<細河郷に伝わる戦国時代の痕跡>
東山村の向かい側、西側に吉田村があり、ここにも戦国時代の痕跡を示す伝承があります。吉田村にある細川神社付近には、本は武士であったと伝わるお宅もあり、個人的に色々お話しを伺った時には、槍なども見せてもらった事があります。
村の北西側に山塊が拡がり、その尾根上に妙見道が通ります。この道が河辺郡と豊嶋郡の境で、非常に重要な場所でもありありました。
※新修池田市史 第5巻 P318
(資料9)-------------
【集落】
植木・盆栽の生産の集落があるのは、祠堂の南あたりである。ヒノミヤグラ(火の見櫓)の立つ所に吉田町公民館がある。そこが、このあたりの集落の中心である。この集落の入口にあたる所には、地蔵堂があり、トンドバともいう。付近には吉田公園があり、大きな椋の木がある。この土地はモレチ(漏れ地)である。
集落のある場所から久安寺川にかけては、松などの植木の苗木が栽培されている。その苗床をノラとよぶ。このあたりは、オシロダニ(お城谷)とよばれ、織田信長の城があったと伝えられる。織田信長が治めていた時代の遺構とされる「信長の手水鉢」があった。いずれも現在は、道路拡張のため埋まってしまっている。またオダノカイチ(織田の垣内)とよばれる土地がある。そこにも織田信長が治めていた時代の城の遺構と伝えられる石垣の跡があったが、これも伏尾台の住宅開発ですっかりなくなってしまった。
-------------(資料9 終わり)
また、伏尾村のあたりから吉田村を経て山塊が伸びて、その終端の南面に古江村があります。その途上に片岡集落があります。
この古江・片岡集落付近では、余野川と猪名川が合流し、妙見道と多田道、能勢街道(篠山道)も村内に通す要所です。また、既述の通り、妙見道が河辺郡と豊嶋郡の境でした。
こういった環境ですので、やはりここには、戦国時代の痕跡があり、言い伝えられています。
※新修池田市史 第5巻 P333
(資料10)-------------
【古御坊】
村の墓のもう一つ高い所に、古御坊というお寺があったという。今でもそこは、古御坊と伝えられている。戦国時代に池田城が焼かれた時、この古御坊も焼かれた。そこに寺男としておった人が片岡某という人で、寺が焼かれて行き場が無いので、ここに降りてきて住み着いたという。その片岡某の名前からここを片岡といっていた。江戸時代は古江村字片岡といわれていた。
-------------(資料10 終わり)
この伝承にある古御坊といわれたお寺の詳しい事はわかりませんが、池田城と何らかのつながりがあったものと思われます。
同じような例で、今の大阪大学のあるあたりに待兼山という丘陵部があり、ここに能勢街道が通っていました。その場所に高法寺(現池田市綾羽)というお寺があったのですが、このお寺は池田城主とのつながりが深く、天正年間(1573-92)の荒木村重の乱で、織田信長方に焼かれたとの伝承を持ちます。このお寺は、平時はやはり、池田・伊丹城の施設の一部として機能していたと考えられます。
その例にもあるように、古江の「古御坊」も交通の要衝で、郡境にあり、しかも一方の河辺郡には常に争っている塩川氏の勢力下ですので、軍事施設ではない「寺」を於いて、緩衝対策を取って警戒していたものと想像もできます。
<寛永諸家系図伝に見られる池田知正と光重>
最後に、系図に見られる池田知正をご紹介してみます。江戸時代には、幕府によって公的系譜の編纂事業を2回(こまかなものも色々ある)行っていますが、『寛永諸家系図伝(家譜)』は、その最初です。
寛永18年(1641)から事業に着手され、同20年9月に完成しています。これを経て、更に幕府はその精度を高めるべく寛政11年(1799)に『寛政重修諸家譜』が編纂が始められ、文化9年(1812)に完成して将軍に献上されました。これらは、幕府運営(統治)の基礎資料とすべく作成されましたが、それぞれに特徴や利点、不備があります。
この資料を見比べてみると、『寛政重修諸家譜』には、摂津池田家の記載がありません。これは既に没落した家である事と、地方豪族の系譜はあまり重視しない分類方針であったためのようです。この頃、時代的に身分制度が定着し、武家社会優位の風潮になっていた事もあるのかもしれません。
さて、もう一方の 『寛永諸家系図伝』には、あまり詳細ではないものの、摂津池田氏の記載があります。中でも今回は、知正の家系の記述を見てみます。ちなみに、この中では「清和源氏頼光流」の「池田」姓として伝えています。
(資料11)-------------
【重成(知正)】
久左衛門 備後守 生国 摂州。
摂州豊嶋郡のうち神田村・細川村にて2,780余石を領す。
織田信長の命により、荒木摂津守村重に属して与力となる。村重敗亡の後、秀吉、重成を召し出され、本領神田村・細川村を領して、従五位下に叙し、備後守に任ぜらる。其の後東照大権現(徳川家康)に仕え奉る。
慶長5年(1600)、奥州御陣に供奉の時、上方の騒動により、大権現小山より上方へ御進発の御供いたし、御帰陣の後、御加増ありて5,100余石の地を領す。同8年、病死。
【重信(光重)】
弥右衛門 備後守 生国 同国。
父重成(知正)と同じく秀吉に仕う。
慶長5年、奥州御陣の時、重成と同じく供奉す。同8年、大権現(家康)の命により、父の遺跡を継ぎ、従五位下に叙し、備後守に任ぜらる。駿州府中にひとりの神子(みこ)あり。人を誑かして金銀を多く借り取る。重信(光重)が家人の関弥八郎にも又借りて是れを与う。その後、金銀を貸したる主より神子に返弁すべきの由はたり(?:諮り。ルビは徴とあり、糾明の意。)ければ、、我借る所の金銀は悉く弥八郎これを取りて、神子が元にはこれなしと云うにより、各々此の事を重信も知るべきの由を訴ふる時、大権現御鷹野あそばされ、江戸に趣(赴)かしめたまふ時、重信供奉す。駿府に還御の後、この事の評議ある故、重信いささか知らざるの旨じき(直)に訴訟を捧ぐる故、その難を免かるると雖も、直訴致したる罪により御勘気を蒙り、所領を没収せらる。その後も大権現これを哀れみ給いて、重信が旧領の古米並びに家財等を給いて、富士のふもと法命寺に籠居す。
大坂両度の御陣に、仰せによりて有馬玄蕃頭豊氏手に属して彼の地に赴く。大坂御帰陣以後、大権現しばしば御無礼の御気色ある故、遂に御前へ召し出されず。
寛永5年(1628)5月19日、病死。法名同休。
【重長】
久左衛門 生国 摂州。
父と共に流浪して、有馬豊氏に付き従う。豊氏、重長が事を酒井雅楽頭忠世並びに大僧正天海を以って言上しければ、則ち御免を蒙る。
寛永11年(1634)より、将軍家(家光)へ召し使はる。同12年、御小姓組となる。同15年、御切米を給わる。
家紋 三木瓜。
-------------(資料11 終わり)
それぞれ諱(いみな)が歴史史料とは違って記述されているのですが、その内容は直ぐにそれと判ります。また、知正について、この系図では「民部丞」を名乗っていない事になっています。
それともう一つ、気になるところがあります。この池田知正の家系を「清和源氏頼光流」としてあり、藤原流では無い事です。池田家本流の家系は「藤原」である事が史実として明白ですので、やはり細河郷東山村の池田氏は、別系譜である事が明確にされているようです。
こうなるとやはり、家紋というのも自ずとメボシが立ち、これまで流布されている、摂津池田家の家紋は「三木瓜」ではなく、本紋としてはやはり「藤」をモチーフにした家紋であろうと思われます。つまり、『寛永諸家系図伝』の清和源氏頼光流の摂津池田重成(知正)系の紋が三木瓜であって、本流の池田家系はそれとは別の紋、藤原を示す家紋を使用してものと考えられます。
それからまた、参考までに、知正の行動についてですが、羽柴(豊臣)秀吉時代にも各地に転戦しており、さ程多くはありませんが、兵を率いて出陣しています。天正10年(1581)5月からの備中高松城攻めでは、蛙ヶ鼻付近に布陣し、天正12年3月からの美濃国小牧・長久手の戦いでは、秀吉軍の後ろ備(合計10,000)の右翼に90程の兵を率いて参陣しています。
<まとめ>
このように、東山村にそのものが残っていなくとも、忘れられるなどして、特に意識される遺物が無いとしても、その周辺地域には少なくない戦国時代の痕跡が残っています。もちろん、これまで見たように、僅かながら東山村にも、池田城と池田氏とは、細くない、いや、強いつながりを持つ痕跡を残しています。また、村から輩出される人物も、少なからず史料上に見られ、池田家の歴史に深く関わっています。
やはり筆者は、戦国時代には東山村にも、村を護るための施設や仕組み、組織などがあったと感じます。「資料4」にもあるように、実際に東山村の垣内の一つのミナミンジョを「ユバジョ」とよんでいる習慣があり、これは「弓場所」ではないかとする消極的な推定がされています。
ちなみに池田城跡の字名で「ユンバ」とよばれるところがあり、ここは「弓場」であったと伝えられています。弓は戦国時代の主力武器でしたので、練習をするための広場があったと考えられます。
細河地域は、その北側の止々呂美地域に新名神高速道路の出入口が設置され、この先、開発が急速に進む事と思われます。その事で、益々時代に必要な発展をしていくのだろうと思います。そういった状況の中で、この思索が、今後の研究の何かの役に立てばと願います。
また、その拠点としての池田城を守るための防御構成も年々強固なものに成長させていきます。同時に、政治・経済的な支配も拡がり、その意味でも五月山と細河郷、そして東山村は、大変重要な位置付けともなります。
そうなると、自然と城郭化していくものと思われますが、今のところ、公式に城郭に関する調査もされていませんので、想像の域を脱する事はありませんが、全く無かったとは言えない資料も断片的に見出せます。そういった可能性もご紹介できればと思います。
そして、摂津国内の最大勢力を誇った池田家も内紛を繰り返し、遂には解体となりますが、その池田家を継ぐ事になったのが山脇系池田氏であり、池田家の歴史を見る上でも、この東山村の歴史を掘り下げておく事は重要です。
今ある資料や筆者の見聞きした事など、ひとまずそれらを包括的にまとめ、今後の研究に繋げていきたと思います。
<概要>
先ず始めに、他の項目と重複しますが、現在既に論説されている東山村とそれに関する寺社を示してみたいと思います。なお、東山村が含まれるより大きな地域単位としての細河郷(細川庄)については、先に公開しました当ブログの「摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(摂津国豊嶋郡細河庄(郷)とその村々及び社寺)」をご覧下さい。
◎ご注意とお願い:
『改訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。また、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
ただ、近年、文化財の消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ宜しくお願いいたします。
各項目の出典は、○○(県名)の地名【地名】、新修池田市史(○巻)は【新市史○巻】、池田町史(第一篇:風物誌)が【池田町史】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。
(資料1)-------------
◎東山村(池田市東山町)
東山村の見取図(新修池田市史より) |
慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕末まで幕府領として続く。
村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると541石余。植木栽培が盛んであった。曹洞宗東禅寺は、行基創建伝承をもち、慶長9年、僧東光の再興という。真宗大谷派円成寺は、天文14年(1545)西念の創建という。【地名:東山村】
◎真宗 東本願寺末 返照山 円城寺(池田市東山町)
- 東山字森の下にあり、返照山と号し、真宗本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とする。天文14年(1545)4月西念の創立なり。慶応4(1868)1月29日、火災に罹り焼失し、明治元年住職知成檀家と協力して、之を再建せり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:円城寺】
- 細河谷と呼ばれ、久安寺川の両側に広がる一帯の植木の郷の起源は、350年から400年に遡る正保年間(1644-48)及び更に天文年間(1532-55)にも至ると言われています。
その東北山側に東山(町)があります。日照時間の短い湿度と日陰と赤土を生かした「東山の鉢挿」は、有名なサツキ・ツツジの特産地として知られています。(サツキツツジは池田の市花となっています。)この様な集落の佇まいに、円城寺の古寺がひっそりと歴史を刻んでいます。
東山バス停の地蔵堂を過ぎ、しばらくして右折れし、なだらかな山麓の坂道を数分登ると左手に石垣を巡らせた円城寺があります。その裏手には、同寺の経営される細河保育園があって、元気な子ども達が寂しさを和らげてくれます。
円城寺の開創は天文14年(1545)、僧西念によると伝えられます。当主(住職)は17代目となるので、少なくとも500年以上になる寺です。しかし残念な事に、明治元年、この寺に仮寓していた乞食の失火によって堂宇全てが焼失し、貴重な文書・遺物が失われてしまいました。けれども本尊の阿弥陀仏と仏画は辛うじて持ち出され、現在拝むことができます。
本尊・仏画はよく修復されて、仮本堂ながらも立派に祀られています。秘められた歴史の遺品として、まだまだ調査の必要な寺院です。特に本尊の台座は、他に見られない重厚な造りとなっています。【改訂版 池田歴史探訪:円城寺】 - 東山字森の下にあり、返照山と号し、真宗東本願寺末である。天文14年僧西念の創立なりと伝へらる。【池田町史:円城寺】
◎曹洞宗 大広寺末 瑠璃光山 東禅寺(池田市東山町)
- 字上条にあり。瑠璃光山と号し、池田町(市)曹洞宗大広寺末にして、釈迦牟尼仏を本尊とする。僧正行基の創建に係り、紫雲寺と号せしが後、屢々兵燹(へいせん)に罹りて廃絶せしを、慶長9年(1604)2月、僧東光、其の旧蹟に一草庵を結びて再興し、今の寺名に改む。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:東禅寺】
- 東禅寺へは少々体力が必要です。円城寺から上へ右手(南へ)にとると、少し下って薬師堂のある広場に出ます。ここから左手(山手)を更に集落の急な坂道を登りつめた台場にひっそりと古寺が佇みます。
当寺の開創は、慶長9年(1604)、僧「東光」と伝えられます。また、元「紫雲寺」で、行基菩薩の開創とも伝えられています。現在の建物は古いものではありませんが、今の住職が中興の祖から7世にあたりますので、開創からは20世にもなり、400年を越える歴史のある古寺と言えます。本堂の釈迦如来のほかに、この寺の宝物は観音堂に安置されている四躯の仏像です。何れも池田市重要文化財として指定されています。(中略)。
本堂の鬼瓦に揚羽蝶が見られますので、織田氏・尾張池田氏との関わりがあるかもしれません。池田の埋もれた歴史がこの寺にもあると思います。境内に引かれた涌水は、渇き疲れを癒やす甘露として、知る人ぞ知る名水です。墓地の歴代の住職の墓石は重厚感があります。また、同寺には石造美術品として、宝篋印塔があり、応永2年(1395)の銘が刻まれています。【改訂版 池田歴史探訪:東禅寺】 - 東山字上絛にあり、瑠璃光山紫雲寺と号し、曹洞宗総持寺末である。【池田町史:東禅庵】
※池田町史の編纂当時、東禅寺は「東禅庵」であったらしい。表記は東禅庵としている。
◎愛宕神社(東山神社)
- 東山の氏神は、普段は「愛宕さん」と愛情を込めてよばれている愛宕神社で、白馬にまたがった神神像のご神体(元禄8・1695の作という)がある。しかし、一方で吉田にある細川神社の氏子でもあって、人々は二重氏子になっていることになる。
愛宕神社には禰宜講があり、勧請の状況や宮座の存在をうかがわせるが、詳細な記録は残されていない。禰宜は現在11人で、かつては終身であったが、昭和56年以降は、80歳定年制に切り替えられた。禰宜になるには百姓株の男子であれば誰でも良いとはいえ、年配者である事が求められ、推挙を受けて禰宜になる時には婚礼のような儀式を行った。禰宜講に入る事を「イリクー(入組)」とよぶ。
愛宕神社の祭祀日は、昭和55年の申し合わせにより、原則として毎月24日に決められた。村祭や正月、2月の節分、4月と6月の節供などで祝祭日が重なる時は、それに合わせて変更する事になっている。24日の祭祀は、当番の禰宜が祭主となって勤め、神主を招く事はしない。したがって、禰宜の奉仕は年間12回にもなる。(中略)。
直会(なおらい)は、禰宜講で行い、昭和50年(1975)頃まで続いた。正月、節分、麦初穂(7月5日)、愛宕(9月21日)、松立て(12月24日)の年に5回であった。
現在、初穂料として、百姓株の氏子は年間に麦初穂200円、米初穂300円を納める。財産による年貢は、若干の相違はあるが、7,000円ぐらいである。【新修池田市史:東山(氏神と祭)】
既述のように東山村は、寛永・正保期(1624-48)の摂津国高帳での村高は541石余で、細河郷内では最も大きな石高を有しています。残念ながら人口に関する記録が見当たりませんが、石高に比例した人口であったと思われます。明治期の地図では、近隣の集落と比べても集落範囲が大きく表されています。
また、東山村は五月山山塊北側の一段高くなった段丘に村が拡がっており、寛永・正保期には植木栽培が盛んであった記録があるようです。植木栽培は細河郷では古くから行われており、江戸時代にも絶える事無く行われていた事が判ります。
<交通>
東山村の眼下に余野街道があり、その脇にある余野川を挟んで、北方の低山の尾根上には、妙見道も望む事ができる眺望が開けています。この妙見道を目安として、河辺郡と豊嶋郡の境があり、河辺郡北部には多田源氏の系譜を持つとされる塩川氏が勢力を持っていました。
また、東山村は、その余野街道を北から南下すると、平野部の入口にあたる場所でもありました。更に、村からその背後にあたる五月山には、何本もの山道(やまみち)があり、一旦、山に上がれば、南側の秦野村や新稲(現箕面市)、北東部の勝尾寺や高山村(現豊能町)方面へも行き来できました。
<多田院御家人塩川氏と細河郷>
摂津国河辺郡北部(現兵庫県川西市など)の山下城(一庫城)を本拠とした塩川氏は、多田院御家人の筆頭として、多田庄と能勢郡に影響力を持ちました。同庄は、他にあまり例のない程の広さを持ち、しかもその内に多田銀山(現兵庫県猪名川町)を含みます。また、能勢郡内(現大阪府)にも鉱山があり、その採掘に使われた間歩跡が、今も多数残っています。
鎌倉時代から室町時代の応仁・文明の乱頃までは、塩川氏の勢いが強く、細河郷もどちらかというとその影響を受けていたようで、細河郷内での伝承記録にもその断片が見られます。その頃は、五月山が実質的な河辺郡との境になっていたかもしれません。参考として、多田源氏に関する資料を少しご紹介したいと思います。
(資料2)-------------
◎臨済宗 天龍寺末 薔薇山 松雲寺(池田市中川原町)
- 字下門にあり。薔薇山と号し、臨済宗天龍寺末にして、釈迦牟尼仏を本尊とす。観応2年(1351)10月の創立なり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:松雲寺】
- JA大阪北部細河支店の裏側を山手に少し登ると、松雲寺があります。細い参道へ入ると、苔むす石垣の上に真っ白な築地が続きます。しっとりとした石畳を踏んで進むと、すぐ山門に着きます。
苔と下草に覆われた境内は、静寂そものです。正面に五月山を借景に本堂がひっそりと佇んでいます。「天龍寺派居士林道場」と書かれた木札が掛けられ、いかにも禅宗の寺らしく心落ち着く雰囲気です。
現在の本堂は、昭和46年に建てられたものですが、創建は南北朝時代の禅僧夢想国師(疎石)で、600年以上の歴史を持つ古刹です。ご本尊は釈迦牟尼仏で、江戸時代末期の作と伝えられています。
当寺は地元旧家である一樋家(多田御家人の系譜を持つ)の菩提寺としても関わりがあります。南側にある墓地には、歴代住職の墓石をはじめ、歴史を感じさせる古い墓石が並び、夜には怖くて近付けないような昔のままの雰囲気もあります。
境内で心を静めて「禅定」の瞑想に、ひととき浸るのもここまで足を運ぶ甲斐があるのではないでしょうか。【改訂版 池田歴史探訪:松雲寺】 - 中河原字下門にあり、薔薇山と号す。臨済宗天龍寺末なり。【町史:松雲寺】
- 古江字片岡にあり。八幡山と号し、真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とする。本地住人岡本源之丞(了信)、本願寺良如法主に帰依し、寛文2年(1662)檀徒と協力して創立せり。(大阪府全志)
- 八幡山と号し、寛文元年3月、開基釈了信の所有地に創立。(同寺所蔵 如来寺寺院規則)
- 第1代寛文元年(1661)8月19日、亡 了信 創立時の如来寺は「片岡惣道場」であって、寺号は宝暦・明和(1751-72)頃に成立したらしい。(歴代住職表)
良如法主(1612-62) 真宗本願寺派13世 諱は光円。12世准如上人第7子。 - 八幡山 豊能郡伏尾村久安寺山内にあり。往昔、応神帝影向の山頭を以て、八幡山を称す。【池田市内の寺院・寺社摘記:如来寺】
- 如来寺は、江戸前期の寛文元年(1661)本願寺13世の良如上人に帰依し、僧「了信」となった岡本源之丞ほか10数人の檀徒が建立した寺です。本堂は建立当時のもので、修復を重ねつつ300年以上も護持されて現在に至っています。(中略)。
お寺のすぐ上は妙見街道となっています。「能勢の妙見さん」へのお参りの人々が絶えず往来しました。今は池田市立児童館となっている所に、古江の旧家森家の屋敷がありました。森家は肥後熊本細川藩の家老を先祖とする家柄で、この場所で漢方薬院として施薬・医療を業としました。妙見さんへ参る人々などの憩いの茶店が軒を並べ、中には体調を崩す人もあり、薬院は重宝され随分と流行りました。こうしてこの辺りは森家ゆかりの人、多田源氏落ち武者「ふるごんぼう」と呼ばれた古江御坊信仰の人等が集まり、邨が出来て賑やかになりました。やがて森家の財力によって檀那寺が建てられ、如来寺の前身となりました。この寺の殆どのものが森家の寄進によるもので、屋根瓦には森家の家紋である九曜星(肥後細川家の家紋)の紋が使われています。森家の菩提寺としての如来寺の墓地には歴代住職をはじめ、森家累代の墓があります。
ちなみに箕面公園滝道に「森 秀次」の銅像があります。氏は、府会議員時代に、箕面山を密教の神聖な山として公園化に反対する人々を説得し、尽力されました。銅像は、公園の生みの親としての功績を讃えられたものです。氏はその後、国会議員となられ、大正15年(1926)に72歳で逝去されました。【改訂版 池田歴史探訪:如来寺】
※参考サイト:森秀次像は三度作られた - 古江字片岡にあり、八幡山と号し、真宗西本願寺にあり。【町史:如来寺】
- 字南絛にあり。大雲山と号し、真宗東本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とす。万治2年(1659)正貞の創立なり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:専行寺】
- 国道から少し入るだけで旧街道は交通もまばらで、気持ちを落ち着きます。この中川原は、細河植木の集散地で、近くには細河園芸農協市場もあります。街道に沿う専行寺は、日当たりが良く、明るい境内は夏には、蓮の花が咲き、仏心が和みます。
このお寺の創建は、万治2年(1659)、僧「正貞」と伝えられ、340年を越える古刹です。本堂も再建されていますが、修復を重ね270年を経る建物です。本尊は阿弥陀如来立像で、室町時代後期の作と思われます。(中略)。
当寺の紋は笹りんどうで、多田源氏の紋と同じです。多田神社または、多田源氏家人と関わりがあるものと思われます。古江「如来寺」の建立に功績のあった、森家の先祖、肥後熊本細川藩家老であった人が、はじめは「専行寺」に入り、間もなく古江の片岡で森家を興して、如来寺を建てたと伝わります。
昔、専行寺は門徒の信仰の寺としてだけではなく、寺子屋としても一円の郷の子ども達が集まり、学びました。この寺子屋は、明治7年(1874)、細郷小学校として、現在の細河小学校の前身として移転しました。浄土真宗の寺院は、世俗的で、民衆に慕われやすい道場の色彩があります。門徒が心を合わせ、苦労を重ねて寺を建て、何百年も維持されてきた努力は、美しく、尊いものです。【改訂版 池田歴史探訪:専行寺】 - 字南條にあり、大小(雲?)山と号し真宗東本願寺末なり。【町史:専行寺】
細河郷にはこういった、多田院御家人とのつながりが、断片的にいい伝えられています。
また、やはり地勢柄、細河地域は旧河辺郡や能勢郡地域との交流が絶えず、婚姻や商売などで今もつながっており、時代を経ても変わらない、不変の摂理があるようです。
<村の民俗と伝承資料>
東山村はそんな環境と歴史を持ちますが、更に地域を掘り下げ、村の民俗と伝承資料を以下にあげてみます。村の人々が寺院をどのように捉えて信仰しているかがわかる資料をご紹介します。
※新修池田市史 第5巻 P309
(資料3)-------------
かつてのドウノマエの様子(新修池田市史より) |
東山村の寺院には東禅寺と円城寺があり、人々は正月には東禅寺に、盆には円城寺にお参りに行くならわしがあった。
東禅寺は山号を黄梅山といい、つぎのような伝承がある。すなわち、今は余野川上流にある久安寺は、その昔、神亀年代(724〜29)に全国を行脚中の行基僧正が足をとめたことにより開かれ、院内塔頭49坊があった。その内のひとつに瑠璃光寺があり、薬師堂には薬師如来坐像と四天王、十二神将像が安置されていた。
保延6年(1140)の山内の大火の際、焼失を免れ、その後荒廃していたが、慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創されたという。ただし、これを証明する文書は無い。
ムラの中に薬師堂があり、その前の広場を「ドウノマエ(堂の前)」という。2月8日と8月8日の年2回、百姓株で祭を行い、子供を集めてお菓子などを配る。かつては薬師講を作って堂の管理をしていたが、戦後は百姓株の管理となった。
また、国道沿いの村への入口の位置に地蔵堂がある。毎年8月24日の地蔵盆には僧侶を招き、婦人会が御詠歌をあげる。村にはほかに、釈迦堂、金剛、庚申さん、辻堂がある。【新市史5巻:東山】
-------------(資料3 終わり)
もう一つ資料をご紹介します。東山村の人々の生活について、聞き取り調査が行われています。「垣内と講」についてです。もしかすると、東山村は植木栽培など、多様な産業があって、村全体で農業を営むような共同体ではなかったのかもしれません。
※新修池田市史 第5巻 P306
(資料4)-------------
【垣内と講】
本家を「主家」、分家を「インキョ(隠居)」というが、同族による集まりや助け合いは、冠婚葬祭の場合程度であって、日常的にはみられない。
相互扶助を求めて重要な人間関係を形成したのは、近隣集団の「カイチ(垣内)」であった。カイチは、現在でいえば隣組に相当するが、ムカインジョ、ミナミンジョ(南カイチ、ユバジョ(弓場ジョ?)ともいう)、大崎カイチ、タナカンジョ、ヤマシガイ(山新開)の五つのカイチがあり、「ジョ」の名称でよばれることが多かった。カイチの役割としては、普段の暮らしの中での助け合いのほか、葬式の手伝いが大きかった。それぞれのカイチは、主に百姓株の人々による5〜10戸からなっていたが、(近現代の)隣組ができたことによって、弱体化した。現在では、いずれも2〜3戸程度の近所づきあいにとどまっている。
ムラの農民をひとつの百姓株にまとめ、ムラ全体で行事を行うようになったのは、戦後になってからである。かつては、百姓株が大講、喜兵衛講、角右衛門講、五左衛門講の四つに分かれ、それぞれが一反歩ほどの共有田などの財産を持ち、農業にかかわる結びつきを維持していた。昭和初期には大講が20戸ほどで最も多く、その他はいずれも10戸くらいで構成された。その後、講の機能は次第に薄れ、今では名称が残るのみである。
-------------(資料4 終わり)
<東山村と秦村との関係を示す伝承資料>
更に、興味深い伝承資料をご紹介します。今は所在が判らないようですが、法園寺(ほうおんじ:現池田市建石町)というお寺に「赤松氏上月十大夫政重」という人物の塔婆があって、そこに刻まれた碑文が池田町史(1939年発行)に紹介されています。
※池田町史 第一篇 風物詩P135
(資料5)-------------
【法園寺】
建石町にあり、竹原山と号し、浄土宗知恩院の末寺にして本尊は阿弥陀仏なり。創立の年月詳らかでないが、再建せしは天文7年にして、僧勝誉の檀徒と協力経営せし所なりと。(中略)。
縁起によれば、同寺はもと、池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所であって、池田城主の本願に依り同城羅城(郭外)内に阿波堂を建立し、其の室の冥福を祈りたる処なりと、後この阿波堂は上池田町(現在の薬師堂)に移建されしと伝わる。
なお当寺には、赤松氏、上月十大夫政重の塔婆がある。其の文に、
赤松氏上月十大夫政重之塔
寛永19年(1642)午9月12日卒
法名、可定院秋覚宗卯居士
宗卯居士者、諱政重、十大夫、姓赤松氏(又号上月)蓋し村上天皇之苗裔正二位円心入道嫡子、信濃守範資、摂津国守護職補され自り以来、世々于川辺郡荒蒔(荒牧)城、範資九代之嫡孫豊後守殖範、其の子範政求縁■中三好・荒木両党、父子一族悉く殞命畢ぬ。于時政重3歳也。乳母懐抱而城中逃げ出於、豊嶋郡畑村至り、叔父石尾下野守撫育焉。22歳而又親戚を因み、池田備後守の愛顧を受け、■■池田里(今ここに旧館址有り)後、稲葉淡路守■吉朝臣、寛永17年辰、辞官而て、帰寧ここに本貫、同19年壬年9月12日75歳而卒去。則ち竹原山法園寺に葬り矣。室家妙薫大姉者船越女、歿後同於彼の寺也。
享保7年(1722)壬寅9月12日
※■=欠字
-------------(資料5 終わり)
この伝承によると、上月政重が3歳の時(元亀元年:1570)に、三好・荒木勢に居所を襲われて、乳母によって助け出され、母方である豊嶋郡畑村の石尾下野守方へ逃れたとあります。その後、成長した政重は22歳の時、親戚の誼で、池田備後守知正に取り立てられたとの経緯が記されています。
また、この知正は池田家の当主を継いでいますが、慶長9年(1604)3月18日、49歳で死去します。この年に、東山村の東禅寺も再興されており、これはやはり何らかの繋がりがあっての事だと思われます。
<東山村と池田氏との強いつながり>
この知正の死去の前、子がなく無嗣であったために、弟の子三九郎を養子として迎えますが、三九郎は、慶長10年7月28日、18歳の若さで死亡します。
池田家の断絶の憂き目を救うため、三九郎の父(知正弟)である弥右衛門尉光重が家督を継ぎます。光重は、間もなく備後守の官途を名乗り、戦乱で荒廃した池田郷とその周辺の復興にあたります。
さて、池田家の家督を継いだ光重ですが、東山村を本拠としていた人物である事が「池田城主池田系図」などに記されており、東山村での有力者山脇氏に連なる人物と考えられます。
一方、この山脇家には家伝(系図)が残り、池田城主との強いつながりがあった事を記しています。永正5年(1504)の池田合戦を中心に既述されています。
※池田郷土研究 第8号(池田郷土史学会刊)P16
(資料6)-------------
○正棟-池田民部丞、属足利義澄公、忠信篤実無二心、永正5戊辰年夏、大内義興、細川高国等、攻池田城、正棟固守数日、防之術尽城陥、于時託泰松丸、貽謀正能父子、隠同国有馬谷、5月10日正棟登城自殺、東山密葬、謚円月光山居士。
○正重-池田勘右衛門、後号監物、民部丞、生害之時、与母共父之首隠、従城裏山伝移東山村、大山谷之口山林埋葬、密請僧吊、隠住山脇源八郎。【山脇氏系図:昭和26年7月 林田良平假写】
-------------(資料6 終わり)
この永正5年の合戦については『細川両家記』という軍記物に記述があり、内容は、多少の誤差はあるものの、大筋で山脇家の家伝と一致しています。
※細川両家記(群書類従第20号:合戦部)P585
(資料7)-------------
永正5年戌辰4月9日、(前略)。摂津国池田筑後守(貞正)は、細川澄元方をして我城に楯籠也。細河高国聞召、其の儀ならば退治有べきとて、同5月初の頃高国方の細川典厩尹賢を大将にて猛勢推寄ける処に、筑後守は物の数ともせずして戦うといえども、池田遠江守、高国へ参られければ、寄せ手は是れに機を射て、5月10日に堀を埋めさせ、厳しく攻めければ、城の中より思い思いに切って出、同名諸衆20余人腹を切り、雑兵70余人討ち死に也。国中に同心する者無きに、かように振る舞いける事よ。大剛の者哉と感ぜぬ人こそなかりけれ。
-------------(資料7 終わり)
この時の池田家当主は、貞正(さだまさ)ともされますが、今も池田市にある大広寺に貞正以下、主立った武士が逃げ入り、そこで切腹します。重臣などもそこで果てたようです。その貞正が切腹した時の床板を大広寺本堂入口の天井板として使い、それが「血天井」として今に伝わっています。
大広寺入口の天井にある「伝血天井」 |
貞正の妻と長男の三郎五郎、それに弟の正重を叔父の池田正能などが護り、城を出たようです。一行は、東山村の山中(大山谷之口山林)に貞正の首を埋め、妻と弟正重は山脇氏を名乗って隠れ住んだとしています。また、貞正の妻は、山脇家出身ではないかと推定する研究者もおられます。
長男三郎五郎は、その後に東山村を出て、身寄りを頼って有馬郡下田中へ更に逃れたようです。
<別の山脇系池田氏の活動痕跡>
堺商人の今井宗久の音信に、気になる人物が見出せます。これは、永禄12年(1569)のもので、その時の池田家当主であった勝正が、播磨・但馬国方面へ出陣している留守中に池田覚右衛門・秋岡甚兵衛尉某へ宛てて音信したものです。
※堺市史5(続編)P906
(資料8)-------------
態と啓せしめ候。仍て堺五ヶ庄に相付き、摂津国天王寺の内に之有る善珠庵分事、度々御理り申す事に候。織田信長従り丹羽五郎左衛門尉長秀・津田(織田)掃部助一安に仰せ付けられ、勝正並びに各へ御申しの事候。様体於者、黒崎式部丞(今井宗久被官)へ往古従りの段委曲申し含め候。無事儀急度仰せ付けられ於者畏み存ずべく候。尚池田(紀伊守入道)清貧斎正秀・荒木弥介(村重)へ申し候。恐々。
-------------(資料8 終わり)
この池田覚右衛門なる人物は、この史料の他には見当たりませんので詳しくは解らないところもあるのですが、音信の内容からして、当主勝正の重臣であったり、側近的人物であった事は確かです。
そしてこの、覚右衛門なる人物は、先に紹介しました「資料4」にある、「かつては、百姓株が大講、喜兵衛講、角右衛門講、五左衛門講の四つに分かれ、それぞれが一反歩ほどの共有田などの財産を持ち、農業にかかわる結びつきを維持していた。」の角右衛門講に相当する可能性があるかもしれません。それらの講の多くは、人の名前に由来するようですし、「講」とは、そこに縁や利益を共にする人々が集まる組織でもあります。「角」と「覚」の違いはありますが、角右衛門講とは、池田覚右衛門に由来し、そこに関係した人々の集団だったのではないかと思われます。もちろん地縁も含めての事だと思います。
それからまた、西暦2000年頃だったと思いますが、個人的に東山村で、山脇氏や戦国時代の頃の事について何人かにお話しをお聞きした事があります。その時、「先祖は武士だったが、武士を辞めて帰農したり、武士を続ける人は他の場所へ移った。」など、言い伝えがあるようです。
それについては、「資料3」にある、「慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創されたという。」にある伝承と同一線上の要素ではないかと感じます。
慶長9年とは、東山村に縁の池田知正が死去した年ですし、その時に大広寺末の禅寺である東禅寺が、その地の豪族・庄屋の協力で開創(再興)する訳です。これらの複数要素の重なりは、単なる偶然では無いと思います。知正の墓は大広寺に今もあるのですが、その出身地である地元でも知正を弔うような気持ちがあっての動きではないかと思います。
<知正が池田家家督を継いだ理由>
池田家本流からは少し離れた一族であったと考えられる山脇系池田氏が、なぜ名族池田家を継ぐ事になったかといえば、天正年間の2度の大乱が、非常に致命的で、池田とその周辺を破壊し尽くし、人も社会も全て失う程の戦争であったためと考えられます。
徹底した破壊は、人同士のつながりも絶ち、恨みすらも生まれます。人が死に、財産も失えば、人を束ねる事も難しくなり、組織も財力もある外来勢力に太刀打ちできなくなります。
実際にはどうだったのか、まだまだ判らない事もありますが、感状の縺れもあり、それまでの統治者であった池田氏の本流が、逆に戻りづらい環境になっていたのかもしれません。若しくは、池田氏の本流が本当に滅びてしまったのか。
とは言え、復興にあたっては、地域を束ねる求心力は必要ですので、本流よりは少し離れますが、他の候補よりはより本流に近い血脈を持つ東山村の山脇系池田氏から知正が選ばれたのかもしれません。
本流の池田家当主は代々「筑後守」を名乗りましたが、知正は「備後守」を名乗り、明らかにそれまでの池田氏のつながりとは区別されています。知正の後を継いだ弟の光重も、同じく備後守です。
知正や光重は、荒廃した池田を復興させようと色々と手を尽くそうとしていた事も史料を読めばわかります。大広寺を旧地に戻し、少しずつ整備を行おうとしていたと思われ、その頃の建物や梵鐘、肖像画などが残っています。他にも色々な行動をしているのですが、ここでは書き切れませんので、別項で紹介したいと思います。
知正が池田家を継いだ頃は、時代が大きく変わろうとしていた時であり、大乱でヒト・モノ・コトを立ち直れない程に失い、それでも地域の求心力として当主を努めた人物であったのかもしれません。
実質的にこの2人が、最後の池田氏だったと言えます。その後の池田郷と細河郷は、徳川幕府の直轄地として統治されるようになり、商業の町となって、地域の主導者排除されるようになって、忘れられていきます。
<出土遺物からの戦国時代細河郷の想像>
少し遡って、細河郷は、永禄・元亀年間(1558-73)頃になると、池田氏の影響下に入っていた事と思われます。それ以前の天文年間(1532-55)には同地で影響力を強めていた可能性も十分にあります。その裏付けとも考えられるのが、いくつかの寺の寺伝に「兵火による焼失」が見えます。また、昭和46年(1571)4月2日に、吉田町310番地で市道の拡張工事中に、主に室町時代に流通していた多量の古銭が出土しています。(総合計18,317枚)「伝承」は、ある程度、正確に記述されているのではないかと思われます。
やはり、この遺物の出土状況からみても、細郷が戦乱に遭っていた事が想定できます。これらは当時としては資産であり、地中に埋められていたのは、戦乱を避けるための「避難」のためであったと考えられます。
<細河郷に伝わる戦国時代の痕跡>
東山村の向かい側、西側に吉田村があり、ここにも戦国時代の痕跡を示す伝承があります。吉田村にある細川神社付近には、本は武士であったと伝わるお宅もあり、個人的に色々お話しを伺った時には、槍なども見せてもらった事があります。
村の北西側に山塊が拡がり、その尾根上に妙見道が通ります。この道が河辺郡と豊嶋郡の境で、非常に重要な場所でもありありました。
※新修池田市史 第5巻 P318
吉田村の見取図(新修池田市史より) |
【集落】
植木・盆栽の生産の集落があるのは、祠堂の南あたりである。ヒノミヤグラ(火の見櫓)の立つ所に吉田町公民館がある。そこが、このあたりの集落の中心である。この集落の入口にあたる所には、地蔵堂があり、トンドバともいう。付近には吉田公園があり、大きな椋の木がある。この土地はモレチ(漏れ地)である。
集落のある場所から久安寺川にかけては、松などの植木の苗木が栽培されている。その苗床をノラとよぶ。このあたりは、オシロダニ(お城谷)とよばれ、織田信長の城があったと伝えられる。織田信長が治めていた時代の遺構とされる「信長の手水鉢」があった。いずれも現在は、道路拡張のため埋まってしまっている。またオダノカイチ(織田の垣内)とよばれる土地がある。そこにも織田信長が治めていた時代の城の遺構と伝えられる石垣の跡があったが、これも伏尾台の住宅開発ですっかりなくなってしまった。
-------------(資料9 終わり)
また、伏尾村のあたりから吉田村を経て山塊が伸びて、その終端の南面に古江村があります。その途上に片岡集落があります。
この古江・片岡集落付近では、余野川と猪名川が合流し、妙見道と多田道、能勢街道(篠山道)も村内に通す要所です。また、既述の通り、妙見道が河辺郡と豊嶋郡の境でした。
こういった環境ですので、やはりここには、戦国時代の痕跡があり、言い伝えられています。
※新修池田市史 第5巻 P333
(資料10)-------------
【古御坊】
村の墓のもう一つ高い所に、古御坊というお寺があったという。今でもそこは、古御坊と伝えられている。戦国時代に池田城が焼かれた時、この古御坊も焼かれた。そこに寺男としておった人が片岡某という人で、寺が焼かれて行き場が無いので、ここに降りてきて住み着いたという。その片岡某の名前からここを片岡といっていた。江戸時代は古江村字片岡といわれていた。
-------------(資料10 終わり)
古江村の見取図(新修池田市史より) |
同じような例で、今の大阪大学のあるあたりに待兼山という丘陵部があり、ここに能勢街道が通っていました。その場所に高法寺(現池田市綾羽)というお寺があったのですが、このお寺は池田城主とのつながりが深く、天正年間(1573-92)の荒木村重の乱で、織田信長方に焼かれたとの伝承を持ちます。このお寺は、平時はやはり、池田・伊丹城の施設の一部として機能していたと考えられます。
その例にもあるように、古江の「古御坊」も交通の要衝で、郡境にあり、しかも一方の河辺郡には常に争っている塩川氏の勢力下ですので、軍事施設ではない「寺」を於いて、緩衝対策を取って警戒していたものと想像もできます。
<寛永諸家系図伝に見られる池田知正と光重>
最後に、系図に見られる池田知正をご紹介してみます。江戸時代には、幕府によって公的系譜の編纂事業を2回(こまかなものも色々ある)行っていますが、『寛永諸家系図伝(家譜)』は、その最初です。
寛永18年(1641)から事業に着手され、同20年9月に完成しています。これを経て、更に幕府はその精度を高めるべく寛政11年(1799)に『寛政重修諸家譜』が編纂が始められ、文化9年(1812)に完成して将軍に献上されました。これらは、幕府運営(統治)の基礎資料とすべく作成されましたが、それぞれに特徴や利点、不備があります。
この資料を見比べてみると、『寛政重修諸家譜』には、摂津池田家の記載がありません。これは既に没落した家である事と、地方豪族の系譜はあまり重視しない分類方針であったためのようです。この頃、時代的に身分制度が定着し、武家社会優位の風潮になっていた事もあるのかもしれません。
さて、もう一方の 『寛永諸家系図伝』には、あまり詳細ではないものの、摂津池田氏の記載があります。中でも今回は、知正の家系の記述を見てみます。ちなみに、この中では「清和源氏頼光流」の「池田」姓として伝えています。
(資料11)-------------
【重成(知正)】
久左衛門 備後守 生国 摂州。
摂州豊嶋郡のうち神田村・細川村にて2,780余石を領す。
織田信長の命により、荒木摂津守村重に属して与力となる。村重敗亡の後、秀吉、重成を召し出され、本領神田村・細川村を領して、従五位下に叙し、備後守に任ぜらる。其の後東照大権現(徳川家康)に仕え奉る。
慶長5年(1600)、奥州御陣に供奉の時、上方の騒動により、大権現小山より上方へ御進発の御供いたし、御帰陣の後、御加増ありて5,100余石の地を領す。同8年、病死。
【重信(光重)】
弥右衛門 備後守 生国 同国。
父重成(知正)と同じく秀吉に仕う。
慶長5年、奥州御陣の時、重成と同じく供奉す。同8年、大権現(家康)の命により、父の遺跡を継ぎ、従五位下に叙し、備後守に任ぜらる。駿州府中にひとりの神子(みこ)あり。人を誑かして金銀を多く借り取る。重信(光重)が家人の関弥八郎にも又借りて是れを与う。その後、金銀を貸したる主より神子に返弁すべきの由はたり(?:諮り。ルビは徴とあり、糾明の意。)ければ、、我借る所の金銀は悉く弥八郎これを取りて、神子が元にはこれなしと云うにより、各々此の事を重信も知るべきの由を訴ふる時、大権現御鷹野あそばされ、江戸に趣(赴)かしめたまふ時、重信供奉す。駿府に還御の後、この事の評議ある故、重信いささか知らざるの旨じき(直)に訴訟を捧ぐる故、その難を免かるると雖も、直訴致したる罪により御勘気を蒙り、所領を没収せらる。その後も大権現これを哀れみ給いて、重信が旧領の古米並びに家財等を給いて、富士のふもと法命寺に籠居す。
大坂両度の御陣に、仰せによりて有馬玄蕃頭豊氏手に属して彼の地に赴く。大坂御帰陣以後、大権現しばしば御無礼の御気色ある故、遂に御前へ召し出されず。
寛永5年(1628)5月19日、病死。法名同休。
【重長】
久左衛門 生国 摂州。
父と共に流浪して、有馬豊氏に付き従う。豊氏、重長が事を酒井雅楽頭忠世並びに大僧正天海を以って言上しければ、則ち御免を蒙る。
寛永11年(1634)より、将軍家(家光)へ召し使はる。同12年、御小姓組となる。同15年、御切米を給わる。
家紋 三木瓜。
-------------(資料11 終わり)
それぞれ諱(いみな)が歴史史料とは違って記述されているのですが、その内容は直ぐにそれと判ります。また、知正について、この系図では「民部丞」を名乗っていない事になっています。
それともう一つ、気になるところがあります。この池田知正の家系を「清和源氏頼光流」としてあり、藤原流では無い事です。池田家本流の家系は「藤原」である事が史実として明白ですので、やはり細河郷東山村の池田氏は、別系譜である事が明確にされているようです。
こうなるとやはり、家紋というのも自ずとメボシが立ち、これまで流布されている、摂津池田家の家紋は「三木瓜」ではなく、本紋としてはやはり「藤」をモチーフにした家紋であろうと思われます。つまり、『寛永諸家系図伝』の清和源氏頼光流の摂津池田重成(知正)系の紋が三木瓜であって、本流の池田家系はそれとは別の紋、藤原を示す家紋を使用してものと考えられます。
それからまた、参考までに、知正の行動についてですが、羽柴(豊臣)秀吉時代にも各地に転戦しており、さ程多くはありませんが、兵を率いて出陣しています。天正10年(1581)5月からの備中高松城攻めでは、蛙ヶ鼻付近に布陣し、天正12年3月からの美濃国小牧・長久手の戦いでは、秀吉軍の後ろ備(合計10,000)の右翼に90程の兵を率いて参陣しています。
<まとめ>
このように、東山村にそのものが残っていなくとも、忘れられるなどして、特に意識される遺物が無いとしても、その周辺地域には少なくない戦国時代の痕跡が残っています。もちろん、これまで見たように、僅かながら東山村にも、池田城と池田氏とは、細くない、いや、強いつながりを持つ痕跡を残しています。また、村から輩出される人物も、少なからず史料上に見られ、池田家の歴史に深く関わっています。
やはり筆者は、戦国時代には東山村にも、村を護るための施設や仕組み、組織などがあったと感じます。「資料4」にもあるように、実際に東山村の垣内の一つのミナミンジョを「ユバジョ」とよんでいる習慣があり、これは「弓場所」ではないかとする消極的な推定がされています。
ちなみに池田城跡の字名で「ユンバ」とよばれるところがあり、ここは「弓場」であったと伝えられています。弓は戦国時代の主力武器でしたので、練習をするための広場があったと考えられます。
※参考:池田城弓場跡(池田城関係の図録)
細河地域は、その北側の止々呂美地域に新名神高速道路の出入口が設置され、この先、開発が急速に進む事と思われます。その事で、益々時代に必要な発展をしていくのだろうと思います。そういった状況の中で、この思索が、今後の研究の何かの役に立てばと願います。
【参考記事】
【項目追加情報】
2016.9.22:「寛永諸家系図伝に見られる池田知正と光重」の項目を追加しました。
2016.9.22:「寛永諸家系図伝に見られる池田知正と光重」の項目を追加しました。
山脇家の血を引く(と思われる)者です。
返信削除母親が池田市東山の山脇家出身です。池田城のお姫様から山脇家のお墓に植木の苗をもらった話などを聞いていて、興味を持っていました。
昨年末に縁あって池田市近くに引っ越してきたこともあり、図書館などで山脇家の史料を探していてた時にこのサイトに巡り合えました。
非常に興味深く読ませてもらっています。
本当にありがとうございます。
気づくのが遅くなり、申し訳けありません。
削除そうでしたか。お役に立ててうれしいです。他にも池田にゆかりの山脇さんからもお声をかられたりして、機会がありましたら、探訪ツアーみたいな事ができたら楽しいかもしれません。
ただ、この地域の北側に高速道路が開通しますので、この牧歌的な景色も急速に変化するかも知れませんので、そう遠くない内にそういう機会があればとも思います。
この細河地域は、あまりまとまった深い研究が無く、結局自分で調べるしかありません。取りあえず、基礎的な資料集がてら、現時点の細河地域に関するものをこのブログに集めています。
今後とも何とぞ、宜しくお願い致します。