戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2013年9月22日日曜日
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その7:三好下野守と為三が同一人物と考えられている史料群)
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このブログ上でこれまでは、史料上において、三好下野守と右衛門大夫政勝(為三)が別人であるとの論拠を示しました。しかしながら、両者が同一人物である可能性を示す要素が無くなった訳ではありません。 それについて京都大徳寺内の『大仙院文書』に収録されている両者の花押を見ると、ほぼ同じ...
2013年9月2日月曜日
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その6:三好為三と下野守が別人であると考える要素)
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三好下野守と同苗為三が別人だという事は、史料上では明らかです。その一方で、同一人物であるとの要素(説)も検証しつつ、別人であるとの考えの精度を、更に高める必要もあろうかと思います。 また、くどい様ですが、両者の前提は、下野守は政勝の兄で、政勝は入道して為三と名乗ったと考えて...
2013年8月29日木曜日
1571年(元亀2)8月29日の白井河原合戦
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前日の28日、白井河原での合戦で、大将の和田伊賀守惟政が戦死し、勝敗が決まりました。その様子をルイス・フロイスの『日本史』-和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛、ならびにその不運な死去について-から抜粋してみましょう。要素を箇条書きにしてみます。 和田殿の息子(惟長)は、...
2013年8月28日水曜日
荒木村重と池田城
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荒木村重が摂津国伊丹城を落し、同城を有岡城と改名して拠点とするまでは、池田城を根城に活動していました。 天正2年11月15日、村重は伊丹城を攻め落とします。そして、その後直ぐに村重は、拠点機能を伊丹へ移します。その頃、池田城は無傷であったため、この資材を伊丹へ移動し...
2013年8月27日火曜日
1571年(元亀2)の白井河原合戦前夜
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今から442年前、1571年(元亀2)の8月28日、摂津国嶋上郡の郡村付近で三好三人衆方の摂津池田勢と幕府方の和田伊賀守惟政勢が、大合戦を行いました。池田方は3,000の兵、和田方は1,000余りの兵で合戦となり、池田方が勝利しました。 ちなみに、この日付は太陰暦ですので、...
2013年8月15日木曜日
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その5:白井河原合戦と三好為三を巡る動き)
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元亀2年(1571)8月28日、三好三人衆方であった摂津池田家と幕府方であった和田伊賀守惟政との決戦が摂津国嶋上郡の「郡(こおり)村」一帯で行われました。これが白井河原合戦と呼ばれています。 この合戦についての詳しくは、白井河原合戦の項目をご覧いただく事として、今回は、同合...
2013年8月12日月曜日
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その4:三好右衛門大夫政勝(為三)について)
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堺市の善長寺 この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。 色々と史料を見ていくと、三好為三の人物像について、非常に執...
2013年7月17日水曜日
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その3:三好下野守(宗渭)について)
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この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。 三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その3:三好下野守(宗渭)について)...
2013年7月12日金曜日
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その2:池田筑後守信正(宗田)について)
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池田筑後守宗田(信正)は、管領細川右京大夫晴元に重用され、その政権を支える国人の一人でした。各地の守護も政権を支える大きな力となってはいましたが、国人はそういった地域の枠を越えて、江戸幕府でいうところの「旗本」のような、守護を通さずに直接指示を受けるような事もあったようです。 ...
2013年7月8日月曜日
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その1:三好筑前守政長(宗三)について)
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堺市の善長寺にある三好政長の墓 この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。 三好為三を知ろうと思えば、一世代前か...
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