2013年8月15日木曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その5:白井河原合戦と三好為三を巡る動き)

元亀2年(1571)8月28日、三好三人衆方であった摂津池田家と幕府方であった和田伊賀守惟政との決戦が摂津国嶋上郡の「郡(こおり)村」一帯で行われました。これが白井河原合戦と呼ばれています。
 この合戦についての詳しくは、白井河原合戦の項目をご覧いただく事として、今回は、同合戦に関する別の要素を見たいと思います。
 
それは白井河原合戦に至るまでの三好為三を巡る動きです。

初めに概況からです。元亀元年4月以降、近江国大名の浅井氏が幕府・織田信長方(以下、幕府方で統一)から離反したのを初めとして、敵対する連合勢力が一斉に京都を目指して進んだ事から窮地に陥ります。これにより幕府方は、一旦反発勢力と和睦を結ばざるを得なくなります。幕府方は天皇の権威を頼み、軍事的失策を挽回しようと画策していました。
 幕府方は辛うじて京都を保持しつつも、四方八方から敵に囲まれ、軍事的には非常に苦しい状況にありました。そしてそれが、翌2年には更に深刻となり、余談を許さない状況に陥り、幕府方にとっては、どん底の状態が続きます。
 当然、幕府方は、軍事的優位に立とうとあれこれと手を尽くしました。どんな要素からも、挽回の糸口を掴もうと調略や奇襲など、色々と積極的に行っていました。

特に元亀元年6月から、幕府方がなぜこれ程までに苦戦したかというと、反勢力側に本願寺宗が加わった事も、その大きな要因です。宗教勢力が加わった事により、各地の反幕府勢力を繋ぐ役目を果たし、また、社会に深く入り込んだ信者が、地域社会に動揺をもたらすようになったからでもあります。
 それが何らかの、区別し易い単位になれば、それなりの対策を講じる事ができますが、人の心までは、見た目で区別する事はできません。心の拠り所が自分なのか、他者(敵)なのか、それが判り易く政権の利益を侵す因子となれば、排除する方向へ動きますが、点在しつつ、その区別がつかない以上、成す術がありません。
 つまり、幕府方領内の住人にも敵を抱える事となり、税の徴収、軍事動員、情報管理などに困難を来すようになります。
 
さて、元亀元年春頃から翌年秋にかけて、そんな状況の中で、幕府方は白井河原合戦を迎える事となります。
 そして三好為三は、元亀元年8月から三好三人衆方を離れ、同3年4月頃まで幕府方として活動していました。その間の為三に関する動きを見ていくと、興味深い背景が浮かび上がってきます。

以下、経年でそれらの資料をご紹介しようと思います。

元亀元年6月、幕府方摂津池田家の内訌を合図に、反幕府勢の三好三人衆方が、京都奪還を目指して軍勢を五畿内地域で大挙蜂起させます。
※言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

-(史料1)-----------------------
『言継卿記』6月19日条:摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞、(後略)。
『多聞院日記』6月22日条:去る18・9日比(頃)歟。摂津国池田三十六人衆として、四人衆の内二人生害せしめ城取り了ぬ云々。則ち三好日向守長逸以下入り了ぬと。大略ウソ也歟。
『細川両家記』:一、織田信長方一味の摂津国池田筑後守勝正を同名内衆一味して違背する也。然らば、元亀元年6月18日池田勝正は同苗豊後守・同周防守2人生害させ、勝正は立ち出けり。相残り池田同名衆一味同心して阿波国方へ使者を下し、当城欺(あざむ)き如く成り行き上は、御方へ一味申すべく候。不日に御上洛候儀待ち奉り由注進候也。並びに摂津国欠郡大坂へも信長より色々難題申し懸けられ条、是も阿波国方へ内談の由風聞也。旁以て阿波国方大慶の由候也。然らば先ず淡路国へ打ち越し、安宅方相調え一味して、今度は和泉国へ摂津国難太へ渡海有るべく也と云う。先陣衆は細川六郎(昭元)殿、同典厩(細川右馬頭藤賢)。但し次第不同。三好彦次郎殿の名代三好山城守入道咲岩斎、子息同苗徳太郎、又三人衆と申すは三好日向守入道北斎、同息兵庫介、三好下野守、同息、同舎弟の為三入道、石成主税介。是を三人衆と申す也。三好治部少輔、同苗備中守、同苗帯刀左衛門、同苗久助、松山彦十郎、同舎弟伊沢、篠原玄蕃頭、加地権介、塩田若狭守、逸見、市原、矢野伯耆守、牟岐勘右衛門、三木判大夫、紀伊国雑賀の孫市。将又讃岐国十河方都合其の勢13,000と風聞也。
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※但し、『細川両家記』に三好三人衆方として登場する細川典厩は、この頃幕府方として行動しており、事実と異なる。また、死亡している三好下野守も含まれています。

続いて、翌月27日、摂津国中嶋へ入った三好為三などの軍勢が軍容を整えて幕府方を待ち構えます。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P634、信長公記P108

-(史料2)-----------------------
『細川両家記』:
一、7月27日、右(『同記』8月18日条)人数摂津国欠郡中嶋の内天満森へ陣取り也。阿波国にて相定まり如く、同郡野田・福嶋に猶以て堀を掘り、壁を付け、櫓を上げさせ、河浅き所に乱株・逆茂木引き、此の両所へ楯て籠られ也。東国勢相待たれ候由候也。然るに此の処は昔387年以前に源判官平家御退治の時、御陣取りの処也。是れより御船に召され候て、四国西国まで御理運に成り由候也。
『信長公記』:
野田福島御陣の事条、(前略)。御敵、南方諸牢人大将分の事。細川六郎殿(昭元)、三好日向守、三好山城守、安宅、十河、篠原、石成、松山、香西、三好為三、斉藤龍興、永井隼人、此の如き衆8,000ばかり野田・福島に楯籠りこれある由に候。
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この時、本願寺宗の幕府方からの離反は顕在化しており、三好三人衆勢は、摂津国野田・福島などの本願寺宗の影響力の強い地域で陣を取ったり、城を構築するなどしていました。

そんな状況下では、各地で三好三人衆方に連絡を取り始める勢力が増えていきます。また、本願寺宗の中興の祖である親鸞は、公卿日野家に縁を持つ人物でもあり、その日野家と近衛家の近しい関係から、将軍義昭から追われた近衛前久が大坂本願寺に身を寄せていました。この前久も反幕府方勢力の糾合に加担しており、本願寺宗のネットワークを使って、活発な活動を行っていました。それからまた前久は、三好三人衆が推す第14代将軍足利義栄を共に養護していた事から、両者は反幕府勢力として共闘していました。

さて、史料です。三好三人衆方の三好日向守入道宗功(長逸)・石成主税助長信・塩田若狭守長隆・奈良但馬守入道宗保・加地権介久勝・三好一任斎為三が、欠年8月2日付けで、山城国大山崎惣中へ宛てて音信しています。
※島本町史(史料編) P435

-(史料3)-----------------------
当所制札の儀申され候。何れも停止の条、之進めず候。前々御制札旨、聊かも相違在るべからずの間、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
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これは、顔ぶれ、史料の内容、その対象地域からして、個人的に元亀元年の史料ではないかと考えています。
 三好為三は、それまでの経緯から阿波系三好氏と折り合いが悪かったのか、三好三人衆方から離反します。準備を整え、これからという矢先に三好三人衆方から中核的な人物が、幕府方に寝返ります。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P636、言継卿記4-P441、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、信長公記P109

-(史料4)-----------------------
『細川両家記』:一、同8月30日に三好下野守の舎弟為三入道は信長へ降参して野田より出、御所様へ出仕申され候なり。『言継卿記』8月29日条、明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
『多聞院日記』9月1日条:(前略)三好為三・香西以下帰参云々。実否如何。『信長公記』野田福島御陣の事条、(前略)さる程に、三好為三・香西両人は、御味方に調略に参じ仕るべきの旨、申し合わせられ候と雖も、近陣に用心厳しく、なり難く存知す。8月28日夜中に、為三・香西、摂津国天王寺へ参らせられ候。
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この時点では、為三が幕府方へ寝返ったとの事は、未確認情報の噂の範囲でしたが、それは事実でした。三好三人衆の中枢に居て、重要な情報を持っていると思われる為三が寝返ったのですから、幕府方は非常に期待し、破格の条件も呑む事を為三に伝えていたのでしょう。
 それについての史料があります。元亀元年9月20日付けで、織田信長が為三へ摂津国豊嶋郡の知行希望について音信しています。
※織田信長文書の研究-上-P417

-(史料5)-----------------------
摂津国豊嶋郡の事、扶助せしめ候。追って糺明遂げ、申し談ずべく候。疎意有るべからず候。
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この時、豊嶋郡を根拠地として大きな勢力を誇った池田家の当主池田勝正が、三好三人衆方の調略から家中の内訌に発展させた事で城を出、幕府方へ身を寄せていました。なお、勝正は幕府から公式に摂津守護を任されていた人物でもありました。
 この頃、勝正は、摂津池田家の内訌を治めて、復帰を果たすために活動している最中でしたので、この為三の要求について、幕府は頭を悩ませたようです。しかし、幕府方への多方面からの一斉蜂起もあって、僅かな失策が内部崩壊にもなりかねない、幕府にとって非常に苦しい時期でもありました。
 
翌2年も、その緊張は解ける事がありませんでした。再び五畿内地域とその周辺地域から、幕府方を攻めようとする勢力が京都を目指して動きを活発にさせます。

そんな中、京都に一番近い三好三人衆方の勢力であった池田家は、京都の防衛上、当面の制圧目標となり、和田惟政が中心となってこれに当たりました。同時に惟政は、大和国の松永久秀などへの対応も行っており、苦しいやり繰りを迫られていました。

しかし、惟政は、三好三人衆方池田衆に対して、優位に戦闘を展開し、順調に勢力図を塗り替えていました。池田衆は収入基盤の一つである、西牧南郷地域までも失い、池田城近くにまで攻め入られます。
 個人的には、今の箕面川辺りまで惟政の率いる幕府勢が進んでいたと想像しています。ですので、西国街道も幕府方が支配していただろうと考えています。
 
しかしながら、惟政にとっては苦しい戦いが続いています。奈良方面へも出陣しながらの対応ですので、兵も物資も余裕は無かったでしょう。京都の防衛も、イザという時のために戦力と物資を保持しておく必要があります。
 そんな環境の中、地域支配の手隙を埋めるために、めぼしい武将の活用を考え始めるのは自然な事です。幕府は、池田方の領地を一旦欠所にして、再編する事も可能になった事から、三好為三の要求を聞き入れる事が可能となりました。
 そういう状況下で発行されたと思われる史料があります。欠年6月16日付けで、織田信長が、為三の領知について将軍義昭側近の明智十兵衛尉光秀へ音信します。
※織田信長文書の研究-上-P392

-(史料6)-----------------------
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知の旨に任せ、榎並の事、為三申し付け候様にあり度く候。然者伊丹兵庫頭(忠親)近所に、為三へ遣し候領知在りの条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なきの様に、兵庫頭へ了簡される事肝要候。
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その信長の決定について、京都の中央政権トップである将軍義昭も、元亀2年7月31日付けで、正式に為三へ通知を行います。
 この頃には、和田勢が更に池田領の中核部分まで進んで優位となり、池田勝正も和田方として、細川藤孝と共に池田城を攻めていました。
※大日本史料10-6-P685

-(史料7)-----------------------
舎兄三好下野守跡職並びに自分当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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お気づきとは思いますが、為三へのこの幕府の正式通知には、信長に要求した、為三の要望は盛り込まれておらず、その対案としてなのか、為三の兄である下野守の知行について、それを認めると伝えています。
 これに加えて、信長から先に提示のあった、為三の本来の所領である摂津国東成郡榎並庄領有は、手柄を立て次第に認める旨、幕府としても相違無いと伝えています。

上記の一連の史料は、幕府の池田勝正への配慮が窺われます。為三の要求に対して、幕府と信長は、明らかに勝正の立場とのバランスを考慮した結果を導いています。
※一方で、幕府としての領地接収の伏線もあったと思われます。

しかし、元亀2年の7月から8月にかけて、池田勝正も加えて和田惟政は、伊丹忠親と共同で三好三人衆方の池田城を攻めていましたが、8月18日、和田・伊丹連合軍は敗走し、この地域での軍事バランスが予想外に大きく崩れました。
 池田衆は200余名を討ち取って勝利したのですが、これは和田・伊丹方にとって大きな損害だったらしく、直ぐに体制を立て直す事が出来ない程だったようです。池田衆はこの隙を見逃す事無く、和田領内へ攻め入るべく大挙東進を始めます。同月22日頃、3,000という大軍を出陣させます。
 和田惟政はこれに対応する事ができず、慌てて本拠の高槻城に戻り、策を講じますが間に合わず、結果は「白井河原合戦」の歴史が示す通りとなりました。

その一連の流れとしての決戦となった白井河原合戦は、いわば象徴的な結果としての歴史的要素ですが、この大合戦に至る要因が必然的に醸成されていた事が判ります。

元亀元年8月、幕府方に寝返ってから、その要求が実現するまでに1年程かかって、やっとその兆しが見え始めたのですが、残念ながら為三は、願望を遂げられませんでした。
 しかし、連続した出来事で見ると、この白井河原合戦に至る過程で、為三にとって大きな転機があった事は、これら一連の史料から窺い知る事ができるように思います。





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