戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2013年8月29日木曜日
1571年(元亀2)8月29日の白井河原合戦
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前日の28日、白井河原での合戦で、大将の和田伊賀守惟政が戦死し、勝敗が決まりました。その様子をルイス・フロイスの『日本史』-和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛、ならびにその不運な死去について-から抜粋してみましょう。要素を箇条書きにしてみます。 和田殿の息子(惟長)は、...
2013年8月28日水曜日
荒木村重と池田城
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荒木村重が摂津国伊丹城を落し、同城を有岡城と改名して拠点とするまでは、池田城を根城に活動していました。 天正2年11月15日、村重は伊丹城を攻め落とします。そして、その後直ぐに村重は、拠点機能を伊丹へ移します。その頃、池田城は無傷であったため、この資材を伊丹へ移動し...
2013年8月27日火曜日
1571年(元亀2)の白井河原合戦前夜
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今から442年前、1571年(元亀2)の8月28日、摂津国嶋上郡の郡村付近で三好三人衆方の摂津池田勢と幕府方の和田伊賀守惟政勢が、大合戦を行いました。池田方は3,000の兵、和田方は1,000余りの兵で合戦となり、池田方が勝利しました。 ちなみに、この日付は太陰暦ですので、...
2013年8月15日木曜日
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その5:白井河原合戦と三好為三を巡る動き)
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元亀2年(1571)8月28日、三好三人衆方であった摂津池田家と幕府方であった和田伊賀守惟政との決戦が摂津国嶋上郡の「郡(こおり)村」一帯で行われました。これが白井河原合戦と呼ばれています。 この合戦についての詳しくは、白井河原合戦の項目をご覧いただく事として、今回は、同合...
2013年8月12日月曜日
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その4:三好右衛門大夫政勝(為三)について)
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堺市の善長寺 この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。 色々と史料を見ていくと、三好為三の人物像について、非常に執...
2013年7月17日水曜日
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その3:三好下野守(宗渭)について)
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この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。 三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その3:三好下野守(宗渭)について)...
2013年7月12日金曜日
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その2:池田筑後守信正(宗田)について)
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池田筑後守宗田(信正)は、管領細川右京大夫晴元に重用され、その政権を支える国人の一人でした。各地の守護も政権を支える大きな力となってはいましたが、国人はそういった地域の枠を越えて、江戸幕府でいうところの「旗本」のような、守護を通さずに直接指示を受けるような事もあったようです。 ...
2013年7月8日月曜日
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その1:三好筑前守政長(宗三)について)
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堺市の善長寺にある三好政長の墓 この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。 三好為三を知ろうと思えば、一世代前か...
2013年7月6日土曜日
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(はじめに)
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三好為三と同苗下野守について、花押が一致したとの事で、同一人物説があるのですが、私も初めはその説を支持していました。しかし、両者の流れを見ると、必ずしも一致しません。 当然、私も花押を見比べていく必要があり、それをしっかりとすべきですが、今のところ史料の整合性を中心に見てい...
2013年6月24日月曜日
池田四人衆から三人衆へ
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<概要> 元亀元年(1570)6月、摂津国守護所である池田城内において内訌が発生。同国守護職であり、池田家当主でもあった池田勝正は、重臣集団から追放されて城を出ました。 池田衆は、将軍義昭を中心とする幕府方に忠誠を尽くして東奔西走しましたが、過酷な政権維持環境のために家中...
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