戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2011年1月22日土曜日
金魚の稚魚が産まれました
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個人的な話しですいません。←このブログの全部が個人的じゃ! 部屋で金魚を育てようと思って去年の春、ホームセンターで金魚すくいの金魚(小赤の名前で出ています)を買いました。全くの素人だったので、何もわからず心配ばかりしながら、育てました。チカラ及ばず何匹かは死んでしまったのです...
2011年1月21日金曜日
池田勝正が、テレビに登場!
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池田勝正研究、苦節十数年、これ程嬉しかった事はありません!つ、遂に、池田勝正が取り上げられました! 関東方面で少し前から放送されている番組で、近畿地方では「おっサンテレビ」で有名な、サンテレビで「 戦国鍋TV 」という番組名で放映されています。 その中で、色々な場面設定が...
2011年1月15日土曜日
摂津国中嶋(堀)城について
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摂津国堀(中嶋)城についてちょっと記事を書いてみましたので、ご覧下さい。 現在でもその所在が特定されていないのですが、中世・近世の畿内の政治史では、重要な場所です。 また、現在では中嶋の嶋の字は、「島」と表記する方がいいのかもしれません。一応、現代版の文字で表記しています...
2011年1月12日水曜日
河内(枚方)街道
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河内街道 について、ちょっとコラムを作ってみましたので、ご覧下さい。 東大阪市加納の旧市街 この河内街道は、今の日常生活でも利用しているのですが、歴史的な道です。1704年に大和川の付け替えが行われるまでは、河内平野を東西に横切る新開池があって、これを渡って枚方から...
2010年12月29日水曜日
元亀元年の越前朝倉攻めでの幕府・織田軍道程
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また、ちょっと元亀元年越前朝倉攻めについて考えてみます。この時、摂津守護格として、池田勝正が三千の兵を率いたとの記述から、幕府方武力の中核的な存在であったと考えられます。これ程の数を一家で出せるのは、畿内地域でも、そう多くはありません。この時、明智光秀も幕府衆として従軍していま...
2010年12月22日水曜日
元亀元年越前朝倉攻めでの池田勝正の行軍経路
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元亀元年の越前朝倉攻めの折、池田勝正はどんな行軍経路を取ったのか気になります。 この事を取り上げた色々な記事を見ますが、織田信長を含めた一団が一つのルートを使って越前一乗谷を目指したとなっています。 しかし古今東西、軍事行動の正当的には、決戦を挑む直前まで、警戒態勢と敵...
2010年12月10日金曜日
池田勝正も従軍した、元亀元年の金ヶ崎の退き口について考える
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私の思考がそっちに向いているついでに、再度「金ヶ崎の退き口」について考えてみました。 ちょっと、攻める側の幕府・織田信長方と、攻められる側の朝倉・浅井方の立場で各々考えてみてたいと思います。 『言継卿記』を見ると、いわゆる「金ヶ崎の退き口」が開始された直後の4月29日、...
2010年12月8日水曜日
元亀元年の幕府・織田信長の若狭武藤氏及び越前朝倉攻めについて
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金ヶ崎 の退き口で有名な元亀元年の若狭武藤氏及び越前朝倉攻めですが、これに 池田勝正 が幕府守護格として3,000を率いて参陣しています。これは幕府方としては、主力を成す軍勢です。 しかし実は、この遠征は周到に用意され、敵か味方かを知る事が主要目的であり、それを見越した手配...
2010年11月24日水曜日
勝正のエピソードは色々あります
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○キリシタンとの関わりがあり、記述にも頻出する。 ○阿波足利政権を支える。 ○三好三人衆方に加担し、大和国の松永久秀を攻めた時、東大寺大仏の焼失を目撃す。 ○番替で兵を交代制として編成。 ○動員兵力は三千から四千くらいまで可能だった。 ○鉄砲の組織的運用の可能性。 ...
2010年1月30日土曜日
大和信貴山城について
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現在の大阪府と奈良県の境目として、南北に横たわる生駒山地の頂上部が設定されています。 中世の頃もこれと同じく、生駒山地が河内国と大和国の国境でした。室町末期の戦国時代、国境は軍事的にも非常に重要な意味を持っていました。 そのため、その付近には多くの城が作られ、近世概...
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