戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2010年12月29日水曜日
元亀元年の越前朝倉攻めでの幕府・織田軍道程
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また、ちょっと元亀元年越前朝倉攻めについて考えてみます。この時、摂津守護格として、池田勝正が三千の兵を率いたとの記述から、幕府方武力の中核的な存在であったと考えられます。これ程の数を一家で出せるのは、畿内地域でも、そう多くはありません。この時、明智光秀も幕府衆として従軍していま...
2010年12月22日水曜日
元亀元年越前朝倉攻めでの池田勝正の行軍経路
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元亀元年の越前朝倉攻めの折、池田勝正はどんな行軍経路を取ったのか気になります。 この事を取り上げた色々な記事を見ますが、織田信長を含めた一団が一つのルートを使って越前一乗谷を目指したとなっています。 しかし古今東西、軍事行動の正当的には、決戦を挑む直前まで、警戒態勢と敵...
2010年12月10日金曜日
池田勝正も従軍した、元亀元年の金ヶ崎の退き口について考える
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私の思考がそっちに向いているついでに、再度「金ヶ崎の退き口」について考えてみました。 ちょっと、攻める側の幕府・織田信長方と、攻められる側の朝倉・浅井方の立場で各々考えてみてたいと思います。 『言継卿記』を見ると、いわゆる「金ヶ崎の退き口」が開始された直後の4月29日、...
2010年12月8日水曜日
元亀元年の幕府・織田信長の若狭武藤氏及び越前朝倉攻めについて
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金ヶ崎 の退き口で有名な元亀元年の若狭武藤氏及び越前朝倉攻めですが、これに 池田勝正 が幕府守護格として3,000を率いて参陣しています。これは幕府方としては、主力を成す軍勢です。 しかし実は、この遠征は周到に用意され、敵か味方かを知る事が主要目的であり、それを見越した手配...
2010年11月24日水曜日
勝正のエピソードは色々あります
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○キリシタンとの関わりがあり、記述にも頻出する。 ○阿波足利政権を支える。 ○三好三人衆方に加担し、大和国の松永久秀を攻めた時、東大寺大仏の焼失を目撃す。 ○番替で兵を交代制として編成。 ○動員兵力は三千から四千くらいまで可能だった。 ○鉄砲の組織的運用の可能性。 ...
2010年1月30日土曜日
大和信貴山城について
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現在の大阪府と奈良県の境目として、南北に横たわる生駒山地の頂上部が設定されています。 中世の頃もこれと同じく、生駒山地が河内国と大和国の国境でした。室町末期の戦国時代、国境は軍事的にも非常に重要な意味を持っていました。 そのため、その付近には多くの城が作られ、近世概...
2010年1月20日水曜日
奈良県北葛城郡箸尾にあった城
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奈良県北葛城郡箸尾の箸尾城 は、同郡長河荘荘官であった箸尾氏の本拠であったところに城はありました。こちらは、中世の堀や道が今も残っており、すばらしい史跡です。街そのものが資料館のようです。奈良県には環濠集落が多数あり、近年では急激にその数を減らしているとはいえ、今も箸尾のように...
奈良市油阪東町の草鞋山 西方寺
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平成12年(2000)当時の表門 奈良市油阪東町に草鞋山西方寺というお寺があります。非常に古い由緒を持つお寺で、大変趣のある古刹です。 その西方寺は、池田勝正に縁があるお寺で、松永久秀と三好三人衆が激しく争った永禄10年、勝正は三好三人衆方として、松永久秀の本拠地で...
明智光秀も陣を取った、戦国時代の史料に現れる森河内村(現東大阪市)と左専道村(現大阪市城東区諏訪1-2丁目)について
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明治時代中頃の地図 東大阪市森河内(現西・東の長瀬川沿い)というところは、今や都会の一部ではありますが、このあたりは非常に昔の面影の残る貴重な地域です。 この「森河内」は、前近代時代頃まで交通の要衝で、陸路・水運が交差する地域でした。また、戦国時代末期には大坂石山本...
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2009年12月22日火曜日
池田勝正の最後 その2
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2009年12月19日投稿分の続き、その2です。 天正6年の秋以降に小柿地域へ池田勝正が入ったのなら、また、別の想定が必要になります。 今のところ不確定なのですが、現広島県福山市神辺町に池田勝正そ祖に持つと伝わる旧家があります。 私はそちらへお邪魔して色々と資料を見...
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