戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
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研究_1570年(元亀元)8月付、織田信長朱印状文書(細川昭元宛)について
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研究_1570年(元亀元)8月付、織田信長朱印状文書(細川昭元宛)について
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2025年8月27日水曜日
永禄12年頃の播磨国方面の事(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)
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元亀元年(1570)8月付で、織田信長から管領格(家)である細川六郎に送られたであろう朱印状、第二番目の条項、 ” 一、播州之儀、赤松下野守、別所知行分、并寺社本所奉公衆領知方、除之、其躰之儀、申談事。 ” とは、播磨国がどのような状況であったか。それについて、摂津池田家を通し...
2025年7月10日木曜日
細川京兆家(昭元)と典厩(藤賢)について(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)
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地域権力としての摂津国豊嶋郡を支配する池田氏は、その性質上、上位権力と切り離して存在し得ず、どうしても連動してしまうのが本質でした。 池田氏も、それについて無意識であった訳ではなく、その不安定要因のを分散、体制構築を試みた一つは、様々な権威に繋がる事でした。直接的には、将軍や管...
2025年6月25日水曜日
新出の「織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状」が発行された、摂津池田家と細川六郎と三好為三の動き
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永禄7年の三好長慶没後、まだ若年だった後継者義継を支える目的で、「三好三人衆」なる家中の有力者が官僚機構を中心として家を支える方策を打ち出しました。それまでにも、内政機関のようなものは、あったようですが、長慶の巨大な存在感と求心力を維持するために、特に意識して組織されたようです。...
2024年10月5日土曜日
細川六郎と三好三人衆(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)
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京都の中央政権を支えた阿波国に縁を持つ三好家が、三好長慶を筆頭に、歴代最大の版図を築くに至ります。しかし、永禄7年(1564)7月、その三好長慶は失意の内に亡くなります。 その後、間もなく三好長慶を支えた一族家老・重臣同士の争いに発展し、結局は京都周辺に威勢を誇った三好氏も没落...
2024年9月23日月曜日
併せて見るべき関連性の高い史料(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)
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令和6年(2024)8月14日頃に報道された、新出の歴史史料、織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状(以下、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)について、その史料と併せて見るべき関連史料群をご紹介したいと思います。 これにより、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状の...
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