戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
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典厩_細川藤賢(右馬頭)
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2025年9月18日木曜日
元亀2年に細川(典厩)藤賢が、摂津国島下郡の戦国武将野辺(部)弥次郎へ下した感状について
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摂津堀城跡伝承地 摂津国欠郡に存在したと考えられる中嶋城について調べる内に、気になる史料もありますので、取り上げたいと思います。 先ず郡名なのですが、ここは元々西成郡でしたが、戦国時代には欠郡(かけのこおり、けつぐん)と呼ばれていました。江戸時代になると、神崎川以南のこの地域は...
2025年7月10日木曜日
細川京兆家(昭元)と典厩(藤賢)について(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)
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地域権力としての摂津国豊嶋郡を支配する池田氏は、その性質上、上位権力と切り離して存在し得ず、どうしても連動してしまうのが本質でした。 池田氏も、それについて無意識であった訳ではなく、その不安定要因のを分散、体制構築を試みた一つは、様々な権威に繋がる事でした。直接的には、将軍や管...
2025年6月25日水曜日
新出の「織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状」が発行された、摂津池田家と細川六郎と三好為三の動き
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永禄7年の三好長慶没後、まだ若年だった後継者義継を支える目的で、「三好三人衆」なる家中の有力者が官僚機構を中心として家を支える方策を打ち出しました。それまでにも、内政機関のようなものは、あったようですが、長慶の巨大な存在感と求心力を維持するために、特に意識して組織されたようです。...
2024年9月23日月曜日
併せて見るべき関連性の高い史料(元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)
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令和6年(2024)8月14日頃に報道された、新出の歴史史料、織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状(以下、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状)について、その史料と併せて見るべき関連史料群をご紹介したいと思います。 これにより、元亀元年8月付け細川六郎への信長朱印状の...
2024年9月14日土曜日
新出の「織田信長から細川六郎(昭元)へ宛てられた朱印状」が発行された、元亀元年当時の戦況
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元亀元年8月付で発行された、織田信長から細川六郎(昭元)宛の新発見史料が、どんな状況で作成されたのかを見てみます。元亀元年は、西暦にすると1570年ですが、同年4月23日に改元があり、「元亀」と改まりました。 また、この改元は、有名な越前朝倉・近江浅井氏攻めの最中に行われ、また...
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