大阪府池田市の五月山頂上にある愛宕神社(綾羽2丁目)の地は、摂津池田城の関連施設であった可能性が非常に高いと思われます。この愛宕社の由緒などについては、公的には以下のように記述されています。
※新修 池田市史5(民俗編)P135
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| 摂津名所図絵にある五月山愛宕神社 |
愛宕神社が京都から勧請された時の次第については、柴田久徳が『愛宕火と八坂の額灯』(市立歴史民俗歴史館図録)の中で詳細に述べているので、以下、この研究を参照しながら説明を進めていきたい。愛宕神社の勧請についての同時代史料は、今のところ確認されていないが、享保12年(1727)ごろ作成された『穴織宮拾要記 末』(伊居太神社蔵)には、次のように記載がある。正保元年(1644)に多田屋・板屋・中村屋・丸屋の四人が、山上で百味の箱を竹に立てて火をともしたところ、人々がその火をみて、池田に愛宕が飛来したといいながら、競って参集したのが当地の愛宕神社の始まりである。その評判があまりに高いために、京都の愛宕神社から抗議があったが、箕面勝尾寺宝泉院は、京都所司代板倉周防守に働きかけ、和解を果たしている。和解後、慶安2年(1649)には、宝泉院は板倉周防守に感謝するため、22人の僧によって護摩を焚いている。それ以後、本格的な社殿の建築が進められている。近世都市においては多くの流行神がみられ、その中には神が飛来するというパターンもみられるが、池田における愛宕神社の創始には、典型的な都市における民衆信仰の発生過程が示されている。
元禄6年(1693)に作られた『池田村寺社吟味帳』(伊居太神社蔵)には、当時池田にあった寺社の明細が記されているが、愛宕権現社は当時皐月山にあった上仙寺境内の一社として記載されている。ただしその説明部分には、「是ハ勝尾寺宝泉院当村高法寺両寺之支配」と書かれていることから、愛宕神社の支配はこの上仙寺ではなく、勝尾寺宝泉院と池田の高法寺の両寺がおこなっていたことがわかる。柴田久徳は高法寺が池田の会所寺としての機能を持っていたことを指摘したうえで、勧請の後、庄屋衆が愛宕神社の利権の一部を貰い受けたために、高法寺が支配権を得たことを述べている。会所寺とは、町民の集会所としての性格の強い寺院である。勧請から50年後には、愛宕神社は池田の町が全体として祭祀するという特別な位置を確かなものとしていたのである。
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| 池田村寺社御吟味帳(部分)より |
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| 現池田市米屋町にある高法寺 |
また、上記引用文中に登場する「高法寺」とは、摂津池田筑後守の祈願所であったとも伝わっており、古くから摂津池田とは関係の深い寺です。以下、その由緒です。
※大阪府全志3-P1109
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【高法寺】
高法寺は米屋町にあり、待兼山と号し、真言宗高野派西禅院末にして十一面観世音を本尊とす。僧正行基の開基なりと伝う。もと待兼山の絶頂にありて、池田城主筑後守祈願所たりしが、後兵燹に罹りて当所に移転し、慶長3年(1598)静辨之を中興せり。境内は141坪を有し、本堂兼庫裏・薬医門を存す。外に不動堂あり。
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ちなみに愛宕社では、大阪府無形民俗文化財「五月山の愛宕火(がんがら火)」も、ここを基点毎年8月24日に催行されます。同日に、地蔵盆行事も行われています。
◎高地性集落があったとみられる愛宕神社遺跡
それからまた、この場所は、弥生時代から古墳時代に渡る「愛宕神社遺跡」として、公的な認知がされてもおり、高地性集落が営まれていたと考えられています。
※新修 池田市史1-P155
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| 摂津名所図絵:鼓ヶ滝 |
愛宕神社遺跡:
五月山の頂上近くの標高210メートル、麓との比高差約150メートルのところにある遺跡である。昭和6年(1931)、愛宕神社の相撲場があったところの付近で、林田良平氏が、弥生土器を採集したが現在は不明である。また、同年秀望台の下にある愛宕神社鳥居近くの旧道において石器が採集されている。その石器の石質は安山岩で有孔磨製石器が1個あり、他の石器は皮剥ぎなどに使用されたと思われる刃噐である。愛宕神社の宮司によって、弥生土器・石器・土師器などが採集保管されている。土器は畿内第五様式を中心に第三様式が一部含まれている。土器の種類は、甕と壺である。その中に中河内産の搬入の土器もある。石器は不定形の刃噐と安山岩片がある。土師器は古墳時代前期の布留式の高杯の完成品が2点ある。この愛宕神社遺跡から南方を望むと、弥生時代中期の加茂大集落が眼下に見え、西方を望むと、弥生前期の木部遺跡と、時代も性格も同じの鼓ヶ滝遺跡が見える。愛宕神社遺跡は、猪名川流域全体を見張ることのできる場所としては最高の高地性集落である。また、出土遺物から古墳時代初めには祭祀などを行っていたかもしれない。
鼓ヶ滝遺跡:
古江丘陵が西に伸びる標高約100メートルのところにある。遺跡の範囲は、尾根上の緩斜面に広がっており、その中心は北側の川西市にある。遺物は個人により採集保管されていた。土器は、畿内第五様式にあたるもので、その種類は、壺・甕・高杯・甑(こしき)などであった。この遺跡の特徴は、猪名川と両岸の山塊とによって関門状になっているところである。遺跡は、左岸の端で比高差約60メートルの古江丘陵の尾根にあり、多田方面をみると矢問遺跡が見え、南方は木部遺跡と加茂大集落が見える。また、この地は、池田地方と多田地方との交通上の要所であることから、人と物の交流に関係のあった遺跡ではないかと推定される。
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この場所は同じ高地性集落の鼓ヶ滝遺跡(標高100メートル)よりも更に高く、標高が210メートル(麓との比高差約150メートル)に位置します。改めて、高地性集落の概要を引用してみます。
※かわにし文化財ウォーキング(川西市教育委員会)P36
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【鼓ケ滝遺跡 古代の狼煙台?】
(前略)
弥生時代中期から後期にかけて、大阪湾沿岸から瀬戸内海沿岸にかけての地域では、鼓ヶ滝遺跡と同じように標高100〜200メートルの山頂に集落をつくることが多くなり、これを高地性集落と呼びます。
高地性集落は、高い山上に集落があるために稲作には適しません。それでは、なぜ、このような所に集落をつくったのでしょうか?
各地の発掘調査例をみてみると、濠や土塁のようなものが集落の回りを巡っていたり、鉄・銅・石鏃や投弾と考えられる石器が多数出土しています。また、中国の歴史書の『後漢書』に「倭国大いに乱れ…」という記載があることから軍事的な役割をもった集落と考えられており、要塞・逃げ込み・狼煙台・みはり台のいずれかの機能を持っていたと思われます。中でも芦屋市の会下山遺跡は有名な高地性集落で、遺構などを現地で見学できるようになっています。
鼓ケ滝遺跡周辺は現在でも但馬・丹後方面へ向かう交通の要衝です。弥生人達も山上から人々の通るのを眺めて、危険がせまると狼煙を上げていたのでしょうか。
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「鼓ヶ滝(山)」の軍事的な要素について、もう一つ資料を見てみましょう。摂津名所図絵の各地の名所解説に以下のようにあります。上記絵図の赤色丸印部分です。
※摂津名所図絵(臨川書店)下巻P71
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【旗指山】
多田村にあり。峰巒高聳(ほうらんこうしょう)にして、一郡の秀嶺なり。曾て満仲公此の峰に御旗を靡かし、諸軍の機を窺い給うとなり。
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江戸時代の伝承ですが、鼓ヶ滝の高みを利用して陣を取っていた様が「旗指山」として使われていたと伝わっています。これは「旗振山」としても使われていた可能性もあります。
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| 五月山頂上の代表的な道(他にも無数にある) |
このように五月山愛宕神社の地は、古くから人の活動が認められ、軍事的、時には精神的な場所でもありました。また、五月山は山頂が比較的に平坦であるためか、多くの山道を通して、その交差点ともなっていました。
半島状の五月山の根本にあたる北東方向には、勝尾寺・箕面寺や茨木方面、北へは高山や能勢・丹波国方面へつながる山間道が通じていました。
近距離では五月山南麓にある池田城とその町などと、細河郷の村々を繋ぐ山間道が多数あり、相互に行き来は盛んに行われたようです。五月山頂上が交通上のロータリー構造になり、分岐点・結節点として、平地を通る西国街道や能勢街道などと同様に、重要な通路になっていました。
五月山の山間道の利用を考える上で参考になる史料があります。欠年2月14日付、楢葉宗祐なる人物が、摂津国豊嶋郡勝尾寺年行事へ宛てた音信で、池田への連絡(夜間の移動)のため、その使者である「中間(ちゅうげん)」の道案内を依頼しています。この宗祐なる人物は、摂津国人芥河孫十郎常信の被官であり、年代比定は天文21年と嶋中佳輝先生は述べられています。以下、その史料をご紹介します。
※勝尾寺文書1139号(箕面市史:史料編2)P379、歴史研究(戎光祥出版)724号-P79+83
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前置:寺納候。御油断候ては然るべからず候。
本文:急度申し入れ候。仍って此の中間は「芥新十」より池田まで急用候て参り候。池田へ案内者御添へ候て、遣わされるべく候由「新十」より申しかへの由申され候。今夜中に遣わされるべく候。詳しくは此の者申すべく候。恐々謹言。
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| 五月山愛宕神社の地形 |
それ故に、戦国時代にあっては、これらの街道の監視・管理などを目的とした場所として、五月山愛宕社の地に要害を設けていたと考えられます。五月山の北から西及び南側の警戒や連絡場所として機能していたと思われます。ここからは、それらを一望することができます。
今の五月台展望台は、観光用も兼ねて広くなっていますが、ここは太平洋戦争中には防空監視所があったようで、この頃に手が加えられているのかもしれません。
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| 要害性のある西側からの入口 |
◎古江村方面の郡境の警戒
摂津池田領内の北端にあたる、古江から吉田村に至る小丘陵は河辺郡との境にあたり、比較的長期間に亘り敵対していた塩川氏との最前線となっていた重要な場所です。また、ここには能勢街道など複数の重要街道を交差させています。
この半島状のいわゆる「鼓ヶ滝」は、古江丘陵と呼ばれます。この丘陵は、猪名川を挟んで西側にある、より標高の高い釣鐘山(約200メートル)・石切山(約284メートル)から見下ろされる立地にあります。したがってその不利を補うために付近の要所と連携を取って同半島を守る必要があり、その意味でも、五月山愛宕社に示威的な建造物などを置きつつ、その見通しにより、警戒・監視・補完を常時行う必要があったと考えられます。
余談ながら、古江丘陵の南側、猪名川を越えて、河辺郡小戸村や栄根村、賀茂村、久代村へも池田氏が影響力を持っており、これらも塩川・伊丹氏など河辺郡勢力への対応を行っていたと思われます。
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| 五月山愛宕神社の周囲にある何本もの深谷 |
現代のように、水道の蛇口を捻れば、いつでも安全な水を当たり前のように得られる時代は、つい最近の事で、生命線である水の確保については、非常な労力が必要でした。戦国時代は、水の取り合いでもありましたが、山を支配する事は水の確保の面でも、必要な課題でした。
生活の水はもちろん、農産物生産にも水は欠かせません。谷の上、尾根の最上部など、用水のための谷から、最適な所にある池を管理するためにも、要所に何らかの屯所は必要でした。そういう意味でも五月山愛宕社には、何本もの深い谷があり、水源管理(分水嶺)としても重要な場所でした。
この後の近世徳川時代には、分水嶺と交通の要衝は、全て幕府直轄地に指定しています。池田・細河郷も然りで、重要な場所だったからこその対策です。幕府の安定政権のための必須要素、交通と水を掌握することは、戦国時代を経た、知的政策でもありました。一方で、「水」争いなど、直轄化してその種を摘む事で、治安維持にも役立ちました。
それら幾つもの重要要素を持つ五月山愛宕社の地は、やはり戦国時代には軍事的な性格を帯びた施設がなければならない場所であった事が解ります。
時代は降り、江戸時代となっても、やはり池田村としての重要な場所で、日照りが続くと同地で「雨乞い」が行われています。その場所が高法寺の支配地でもあり、同寺は池田郷の寄り合い場所ともなっていて、町政運営を話し合うために年寄り衆の集う寺でもありました。
五月山愛宕神社のある場所は、時代により意味合いが変化するのですが、重要な場所である事は変わらず、現在に至っています。







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