ちょっと気になっているのですが、あまり深く調べる事も無く、時間が過ぎてしまいました。最近また気になり、備忘録として記事にしておきます。
現在は静かな町外れの住宅地ともなっている、大阪府茨木市戸伏町の集落ですが、戦国時代、この村出身の武士がいたようです。
元々は、永禄9年に、池田勝正がこのあたりで合戦をしたという伝承記録があり、それが気になったのがキッカケで戸伏村を知りました。その関連資料を以下にご紹介します。
※よみがえる茨木城(茨木町故事雑記)P163
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永禄9年(1566)10月20日、池田筑後守勝正茨木城に発向し、芥川城主中村新兵衛高次に与して長田河原に陣し、高槻之城主入江左近将監等と相戦う。入江は富田之間に陣し、中村は総持寺村門河堤に陣す。入江・中村等敗北し、勝正は茨木城に帰陣す。
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上記に出てくる人物名は、実在しますし、この頃、ちょうど勝正は「筑後守」を名乗りはじめた時期でもあります。この時、合戦の行われた「長田河原」とは、茨木市大住町付近のようで、この場所は戸伏村(郷)の範囲内です。戸伏村について、いつもの大阪府の地名を以下に抜粋して、ご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P188
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戸伏村(茨木市戸伏町、大住町、末広町)
赤色四角囲みの村が戸伏村を構成する集落(村) |
慶長10年(1605)摂津国絵図には「戸臥村」とあり高63石余。元和初年の摂津一国高御改帳によると高槻藩内藤信正領。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳には「戸伏村(庄村・中村・橋内村・牟礼村)」として1071石余が記され、京都所司代板倉重宗領。以後重宗の子重郷・重形と引き継がれ、天和元年(1681)重形の領地替で幕府領となった。享保19年(1734)以降の領主の変遷は中ノ城村に同じ。なお前記摂津国高帳にみえる庄村以下4村は戸伏村の枝郷で(元禄郷帳・天保郷帳)、戸伏村と郷的に結び付いていた。享保20年の摂河泉石高帳によると戸伏村本村のみの村高141石余。寺院には浄土真宗本願寺派戸伏山光照寺がある。明治16年(1883)庄村・中村・橋之内村・牟礼村が合併して戸伏村となる。
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明治時代後期の戸伏村の様子 |
9月23日、義栄は摂津国武庫郡の越水城に入って、上洛の駒を一つずつ進めていました。12月5日、義栄は総持寺へ入り、その2日後、富田の普門寺へ入っています。同月28日、朝廷から従五位下左馬頭を叙任され、将軍職就任へ向けて、手続きも着々と進めます。
池田勝正の茨木方面の合戦(長田河原)は、そんな動きの中で行われたようで、『茨木町故事雑記』という伝承記録ではありますが、概ねの人物名、時代の流れに沿った時期は順当です。また、それを補完するかのような当時の史料もあります。
年記未詳で、10月18日付け、三好三人衆方足利義栄擁立派と思われる松山彦十郎が、播磨国人別所大蔵少輔安治へ音信(返信)しています。
※戦国遺文(三好氏編3)P231
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御状拝見せしめ候。仍って茨木方不慮之覚悟是非に及ばず候。其れに就き(摂津国豊嶋郡)池田表之儀も万(よろず)伊丹(忠親)申し度くとて色を相立て之由候。然者此の者之儀申し談じ、越ち度無き之様及び断ずべく候条、手前に於いて御気遣い有るべからず候。次に其の表之儀に候はば、西表御在陣之由候。御辛労是非に及ばず、置塩与御方御召し之儀も相調え候由、別使へも御報せ申せしめ候。猶追って申し述べるべく候条せしめ。恐々謹言。
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文中の「仍って茨木方不慮之覚悟是非に及ばず候。」とは、寝返りがあった事を伝えているように思われます。『茨木町故事雑記』にある、戸伏郷内の長田河原合戦は、その2日後の事です。
寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によれば、戸伏村は、庄村・中村・橋内村・牟礼村(この4村は戸伏村の枝郷)を含め、1071石余の生産高があり、小さくない規模です。
その戸伏村には、やはり武士がおり、摂津池田家中から頭角を顕した、中川瀬兵衛尉清秀の家老格に登った人物がいました。
※中川家文書(神戸大学文学部 日本史研究室)P4
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知行配分目録
壱万八千五百石 中川石千代(秀成)
弐千石「四千石(異筆)」 中川平右衞門尉
千五百石 熊野田千介
七百石 寺井弥次右衞門尉
八百石 戸伏助進
以上弐万参千五百石
(包紙)「秀吉様与之御配分付」(朱書)「四十一」」
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また、元亀2年(1571)8月28日早朝、摂津国島下郡宿久河原にて、いわゆる白井河原の大合戦が行われますが、この時、戸伏氏一党は、荒木信濃守村重・中川清秀勢に居て、手柄を立てたようです。
※中川史料集:太祖 清秀公条P22
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一、(9月)欠日 戸伏宗慶兄弟五人並びに、嫡子助之進白井河原合戦以来、御幕下に属し忠戦を励み、茨木御入城の節は近隣を唱呼して、御味方に属け島下郡も悉く、御幕下に属せしむ。その功に依って御人数御預け老職仰せ付けられる。
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この後に、荒木村重や中川清秀が、茨木城に移り、周辺を統治して勢力を拡大させます。茨木城の至近にある戸伏村は、茨木城からすると鬼門でもあり、安威川手前の要衝。また、高槻街道と総持寺を繋ぐ重要な街道も通しています。重要拠点の一つとして、支城的な役割りも持っていた場所だったと考えられます。
戸伏姓を持つ武士が実在した証拠として、当時の史料を上げておきます。『親俊日記』の天文8年(1539)12月28日条、幕府政所代蜷川親俊が、幕府奉行人松田丹後守晴秀などへ音信した中に、戸伏掃部助の名が出てきます。
※親俊日記1(増補 史料大成)P334、大阪府の地名1(平凡社)P154
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また詳しいことが判れば、情報を追加したいと思います。以下、現在の戸伏集落の写真を載せておきます。
【追伸】
戸伏村に含まれる、安威川を渡った先の庄村に長塩家(旧寺田氏)の墓があります。長塩氏といえば、三好長慶や細川管領家に見られる高位の人物です。墓石の形式からしても、五連投ですし、非常に古いので、もしかして、そのあたりに繋がる家が庄村に根付いているのでしょうか。これもとっても気になります。
旧寺田氏 長塩家の墓地として、ポツンと一家だけあります |
様式が無茶苦茶ですが、五輪塔の残欠を重ねてあります |
以下、戸伏村(集落)の様子です。 |
集落の中心部の町並み |
素戔嗚尊神社(戸伏第2児童公園) |
集落の中心部にある浄土真宗本願寺派 戸伏山 光照寺 |
集落の中心地にある城のような旧家1 |
集落の中心地にある城のような旧家2 |
集落の中心部分(左は素戔嗚尊神社:戸伏第2児童公園) |
村の南出入口にあたるところで道は旧高槻街道 |
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