摂津池田家の事とは、直接的な関係が薄いのですが、接点が無くもありません。摂津国内の東南端の地域で新開池に沿う、水際の港町であり、「渡し」がありました。
また、ここは元亀元年(1570)の本願寺宗蜂起の折に、支城があった場所とも伝わります。川沿いに、南東に一里程先の摂津国森河内村の砦と連携していたと思われます。
こんな要地ですので、大坂の陣の時もここに陣所が置かれ、それを巡って合戦もありました。
これらの要素について、遠からず、近からず、摂津池田との関係も無くはありません。
さて、この鴫野という場所は、私が子供の頃によく行った場所であり、様子をよく知っています。友達もいました。八剱(やつるぎ)神社のお祭りにも行き、地蔵盆にも行き、楽しい思い出もあります。
令和3年(2021)の正月の初詣に、思い立って、久しぶりに八剱神社を詣でました。子供の頃とは違う視点で色々なものを見ると、何と!八剱神社に隣接する大日寺は、松永久秀が崇拝していた毘沙門天像が安置されているとのこと。とても驚きました。
新開池は、深野池を経て、河内国飯盛山城につながっており、城から直接的に大阪湾に出る事ができる大動脈を活用して、戦国時代には、周辺地域が大変栄えました。
松永久秀が崇拝した毘沙門天(像)とは、そういった情況によるご縁があったての事でしょう。
以下、大日寺に掲示してある、城東区役所による看板の内容です。
-------------------------------------
弘仁年間(810〜824)、弘法大師様巡錫(じゅんしゃく)の折、鴫野に園女という女性がおり、既に二児を出産したものの、再び難産を経ねばならぬことは死の思いがいたしますと、お大師様にお助けを願ったところ、世の女性の難産を除くために一刀三礼の大日如来の像を刻み、大日寺を建立されたといわれています。
大日寺は鴫野の村寺として、村の人達に大切に守られてきました。豊臣秀吉も大坂城築城の折、鬼門除けにお詣りをし、境内で休憩を取ったと伝えられています。江戸時代に編纂された書物「摂陽群談」「摂津名所図会大成」にも「大日堂」としてその名が見え、「子安の大日」として広く信仰されたことが記されています。摂津の国中の人が参拝して賑わい、毎月二十一日にはお大師様詣りの人々が一日中絶えなかったそうです。
本堂にはご本尊子安大日如来(秘仏)のほか、如意輪観音、弘法大師、不動明王、阿弥陀如来、釈迦如来、役小角行者、女神等が並び、戦国時代の武将松永弾正少弼久秀崇拝の毘沙門天も安置されています。
境内には小ぶりながら大坂冬の陣時代よりさらに古い時代のものではないかといわれる宝篋印塔もあります。
ご宝物に徳川五代将軍綱吉の息女がお産の折、安産のお礼に奉納したと伝わる葵紋入りの戸帳、紀州徳川家より寄進されたと伝わる、お香入れ江戸時代の大般若経六百巻などがあります。
-------------------------------------
それから、この大日寺のある鴫野村について、基本的な情報をいつもの様に、平凡社の地名シリーズから抜粋してご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)城東区鴫野村条
-------------------------------------
(現)城東区鴫野西1〜5丁目、鴫野東1〜3丁目、中浜1丁目、東中浜1丁目
新喜多新田の南にある。宝永元年(1704)に大和川が付け替えられ、新喜多新田が開発されるまでは、村の東から北へ大和川が流れ、北は今福村・蒲生村に対していた。村域東端の旧川沿いに集落がある。また、村西端で平野川・猫間川が合流、鴫野橋の下手で寝屋川に注ぐ。村北の川筋には剣先船の船着き場があった。「熊野詣日記」に、応永34年(1427)足利義満の側室北野殿の一行が熊野参詣の帰路「しきののわたり」を船で渡ったことがみえ、水上交通の要津であったことをうかがわせる。天文20年(1551)2月16日、本願寺証如の一行は「シキノツツミ」へ土筆取りに出かけており(天文日記)、当地付近は石山本願寺(跡地は現東区)の勢力下にあったとみられる。元亀元年(1570)に始まった石山合戦の時には本願寺側の五十一ヵ所の端城のひとつが置かれ(信長公記・陰徳太平記)、城中では食糧の時給が図られ、付近の門徒農民は本願寺に兵糧を献じたと伝える(城東区史)。しかし城の位置・守将などは不詳。慶長19年(1614)大坂冬の陣には、今福堤とともに鴫野堤にも西軍の柵が設置され、大野治長の銃隊長井上頼次の兵二千余人が守った。11月26日、東軍上杉景勝は四千人の兵を率いて鴫野口に迫り、井上頼次は戦死、柵は東軍が奪った。しかし今福堤の後藤基次隊の援護により西軍は再び柵を奪回、更に28日には東軍堀尾勢が鴫野口を攻撃、29日、西軍は鴫野・今福の営舎を焼き払って備前島(現都島区)に退いた(大坂御陣覚書・長沢聞書ほか)。
文禄3年(1594)に検地が行われ、当時の村高714石余・段別51町3反余(田方47町5反余・畑方2町8反余・屋敷地8反余)、総反別に占める上田・中田の割合約8割(延宝7年「村検地帳」八剱神社蔵)。元和元年(1615)から同5年まで大坂藩松平忠明領、その後幕府領のまま幕末に至ったとみられる。元和初年の摂津一国高御改帳には「志宜野村」とみえ高736石余。延宝7年(1679)の検地帳によると、同年の新検により村高は991石余・反別73町2反余となった。また名請人102人のうち隣村中浜村からの入作21人。当村百姓81人のうち100石以上の高持ちが1人、20石から100石が11人、5石から20石が29人、5石以下40人(うち1石以下15人)。なお村高はこの後若干減少。寛政4年(1792)5月、大雨で田が冠水、役所へ報告したところ、排水用の惣踏車人足調達法の不備を指摘され、高持・小作126人が始末書を提出した(川原家文書)。周2町以上の池に角田池・ツキウス池・新五郎池など41池があり、池底の泥土は肥料となったという(東成郡誌)。鴫野橋付近には悪水状樋があったが、慶応2年(1866)の大雨で破損した時には、奈良街道(暗峠越)以北の平野川・寝屋川に囲まれた村々が浸水した(近来年代記)。鴫野橋(現東区の新鴫野橋)は長さ29間余・幅2間の公儀橋で(文化3年増修改正摂州大阪地図)、京橋から筋鉄門を経てこの橋を渡ると当村と一部地続きの弁天島(明治2年当村に編入。現東区)に至る。弁天島から寝屋川南堤を通って当村集落部に至る道からは、北西方面に有馬富士が見え(浪花のながめ)、「浪華の一奇」(摂陽奇観)といわれた。
鎮守社の八剱神社は、速素戔嗚命ほか五神を祀る。大坂冬の陣では、東軍佐竹義宣の陣所が置かれ、兵火で社殿を焼失したという。真言宗御室派大日寺は同社の神宮寺と考えられ、空海の創立と伝える。本尊大日如来は安産の守りとされ、子安の大日と号した。至徳山聞通寺は真宗大谷派で霊松寺とm号したという。梅影山来通寺も真宗大谷派、松樹山光曜寺は真宗仏光寺派。「摂陽群談」には村内に源頼光が戦勝を祈願したという袋中庵を記すが、「摂津名所図会大成」には廃されて旧跡もわからないとある。
-------------------------------------
本当に、この出会いには驚き、年初から縁起の良い発見とご縁でした。しかも、宝栄山 大日寺の宗旨は、真言宗御室派で、私の家の宗派です。これが、一番のご縁だった...。
この小さな記事が、またどこかと繫がり、次第に大きな縁になって行くのでしょう。どんな事でも結局は、ひとつの流れになっていますね。これからもコツコツと目標に向かって糸を紡いでいきたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿