2019年4月28日日曜日

人間は二度死ぬ?平成から令和になる今、考えること。

平成の役割りを終え、新しい元号になろうとするその時の言葉として、これが相応しいかどうかはわかりませんが、ひとつの世が変わるその時を目前に控え、時間や人間などといった、半ば宗教的な思いを馳せることも、私の中に時々おきます。

とある漁港(泉佐野市)で見かけた光景も、何だかそういう思いに結びついてしまいます。水槽に、一疋だけの魚が、止まること無く泳ぎ続けていました。


ぐるぐる、ぐるぐる、泳ぎ続けています。たった一疋だけです。

見方を変えれば、これは元気な魚かもしれません。はたまた、この後、大量の仲間がこの水槽に入ってくるのかもしれません。兎に角これは、魚屋さんの水槽だという事は、一瞬忘れて下さいね。

しかし、この光景、私なりに感じたことがあります。一人だけでは生きて行けないし、未来も無い。その光景に見えたのです。

今は元気。だけど、その後です。

動物であれ、植物であれ、継ぐことの不必要は無いはずです。そう言う意味では、お墓は、とっても重要ですし、拠としての意味があったのです。
 しかし、現代日本社会のように、どことも繋がらない状態を続けていては、この水槽の魚のようになってしまうような気がします。今現在も繋がらない。未来を考えて繋がろうともしない。考えようともしない。限度も考えない。これは新しい概念の「自死」だとも思います。大きく見れば、文字通り、社会の自滅でしょうか。

人間は、肉体的に、物理的に滅びます。それが葬式で、それが一度目です。しかし、その後、その人が生きたことと、その行動。更には、それ以前の先祖の繫がりを、目に見えるカタチにしているのがお墓で、今を生きている自分と繫がりを持てる唯一の方策です。それが、現世の苦しみを緩和するための、様々な困難を乗り越える、一つのアイテムとなっているのです。
 しかし、今は、その墓さえも経済的困窮と文化的変質から、物体として残すことを望みません。人の、二度目の死を忌避する方策だったにもかかわらず...。

その「二度目の死」とは何かというと、その人に一番近い人々の心から、その人自体が消えてしまうと言うとです。その連続となれば、今生きているその人は、どこから来たのか、解らなくなるということです。

過去の日本の人々は、それを一番に恐れました。それが無くなる事は、過去も未来も現在も、全てを失うことになったからです。
 それを失えば、物体として人間(の身体)が、そこにあるだけです。それは、モノと同じ事です。戸籍などというものは、記録、データ上のものであって、物体としての証し、がなければ、この世での証明のしようがありません。それは、今も昔も同じ事です。そんな映画もありましたね。

自他の中で生きるから、「己(おのれ)」があります。自分は、人の心の中にあるのです。だから、人の心から自分が消えてしまえば、それが末期(まつご)になるわけです。それが、人間が二度死ぬという意味だと、私は理解しています。

そう言う意味では、新しい元号の「令和」は、昭和が消える、もう一つの新時代を迎えることになるのでしょうね。


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