五月山から北には無数の鉱山跡があります。五月山は北摂山塊の南端にあたり周辺には「間歩(まぶ)」跡も多く見られます。近くでは多田銀山が有名ですね。
しかし、池田市域にも間歩跡がいくつかあります。五月山の連なりで頭頂部にあたる六個山(396メートル)の西側に、間歩跡が残っています。貞享3年(1686) に鉱山が開発され、京都の浅川三郎兵衛という人が8年間に渡って銅を中心に採掘したようです。
更にこの鉱山からは、銅の他銀も採れたらしく、貞享4年の資料(吉田家文書:大谷用水番水手形)には「銀山」と記述されているそうです。
その後、写真の場所から少し南で、太平洋戦争中にも採掘していたようです。そこは秦野鉱山と呼ばれ、主に鉛を採掘していたようです。
写真は、一番大きな間歩です。中には入れませんが、入り口は2メートル程あり、下向きに数十メートルはあろうかと思える、怖いくらいの穴があいています。
また、ここには石澄滝があり、落差は15メートル程でしょうか。落ちたら死ぬくらいの高さです。周辺は岩場で、道具が無いと、登るのは難しいところです。
そんな立地からこのあたりは修行の場で、その跡も沢山残っています。箕面寺や勝尾寺が近くにありますが、真言宗系の寺院(山伏の格好をする)が付近には多く、五月山は修行の山でもありました。ですので、池田の畑から高山、余野、止々呂美、勝尾寺、箕面寺方面へつながる山道もありました。
また、この六個山の南側、石澄滝が流れ出る丘陵地あたり、現在の箕面市新稲にある曹洞宗栄松寺は、池田一族の関係者が創建したお寺です。更に六個山の草地は、池田一族出身者が中心となって開いた新稲村の草地でもありました。今もその辺りは新稲の住所表示です。
ちなみに、この石澄滝に発した流れは、南流し、石澄川となって箕面市瀬川地域で箕面川と合流。池田市井口堂地域を経て、猪名川へ注ぎます。
鉱山開発される前にも当然、池田城やその町とは関係の深い地域でしたが、その後もこのように池田と深い関係を持っていた地域です。
参考サイト1:大萱原鉱山(大阪府の鉱物産地を訪ねて・その14)
参考サイト2:鉱物趣味の博物館
参考サイト3:五月山遠望(わが街池田:池田城関係の図録)
◎摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)
しかし、池田市域にも間歩跡がいくつかあります。五月山の連なりで頭頂部にあたる六個山(396メートル)の西側に、間歩跡が残っています。貞享3年(1686) に鉱山が開発され、京都の浅川三郎兵衛という人が8年間に渡って銅を中心に採掘したようです。
更にこの鉱山からは、銅の他銀も採れたらしく、貞享4年の資料(吉田家文書:大谷用水番水手形)には「銀山」と記述されているそうです。
その後、写真の場所から少し南で、太平洋戦争中にも採掘していたようです。そこは秦野鉱山と呼ばれ、主に鉛を採掘していたようです。
写真は、一番大きな間歩です。中には入れませんが、入り口は2メートル程あり、下向きに数十メートルはあろうかと思える、怖いくらいの穴があいています。
一番大きな間歩の跡 |
また、ここには石澄滝があり、落差は15メートル程でしょうか。落ちたら死ぬくらいの高さです。周辺は岩場で、道具が無いと、登るのは難しいところです。
石澄滝 |
そんな立地からこのあたりは修行の場で、その跡も沢山残っています。箕面寺や勝尾寺が近くにありますが、真言宗系の寺院(山伏の格好をする)が付近には多く、五月山は修行の山でもありました。ですので、池田の畑から高山、余野、止々呂美、勝尾寺、箕面寺方面へつながる山道もありました。
また、この六個山の南側、石澄滝が流れ出る丘陵地あたり、現在の箕面市新稲にある曹洞宗栄松寺は、池田一族の関係者が創建したお寺です。更に六個山の草地は、池田一族出身者が中心となって開いた新稲村の草地でもありました。今もその辺りは新稲の住所表示です。
ちなみに、この石澄滝に発した流れは、南流し、石澄川となって箕面市瀬川地域で箕面川と合流。池田市井口堂地域を経て、猪名川へ注ぎます。
鉱山開発される前にも当然、池田城やその町とは関係の深い地域でしたが、その後もこのように池田と深い関係を持っていた地域です。
参考サイト1:大萱原鉱山(大阪府の鉱物産地を訪ねて・その14)
参考サイト2:鉱物趣味の博物館
参考サイト3:五月山遠望(わが街池田:池田城関係の図録)
◎摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)
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