戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2016年4月28日木曜日
摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(摂津国豊嶋郡細河庄(郷)とその村々及び社寺)
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細郷(細川庄)は、古くから開け、久安寺を始めとした、非常に古い開基を持つ寺が多くあります。また、江戸時代の開基であっても、再興としての意味合いを持つ寺も多く、非常に古い時代の寺宝を持つ寺も多くあります。神社も然りです。 細郷内には曹洞宗の寺院が多く、大広寺末寺及び同寺に関わ...
2 件のコメント:
2016年4月13日水曜日
戦国時代の摂津国池田氏に関わる寺社
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現代社会のように、個人の生命と財産を守る権利や義務が客観的には遠く、多分に主観的であった時代には、個人の基本的人権を守るためには集団に属する外無く、そういう社会単位の中で、精神的な欲求を満たす様々な要素が存在します。それは、現在社会よりも深くて広く、それを求める苦しい時代だった...
2016年4月10日日曜日
戦国時代の摂津国池田氏の支配及び軍事に関わる周辺の村々
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戦国時代という、後世のその名付けの通り、日常的に武力行使の政治解決が行われていた時代には、政治的機構と設備、体制は軍事と一体化しているため、分けることが難しいのですが、かといって一緒にしてしまうと、膨大になってしまい、思考と理解の集中が効率的では無くなるので、一旦、分けて考える...
2016年4月9日土曜日
戦国時代の摂津国池田城と支城の関係を考える
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どこで、どのように確認すれば良いのかわからないまま、個人的には「城」というのは、軍事・政治的に展開するためには、本城と支城で構成されている事が、必要不可欠であったと考えています。更に踏み込んだ言い方をすると、「郡」単位を支配領域に持つ、いわゆる戦国領主にとっても、それは当然の原...
2016年3月26日土曜日
中岡嘉弘氏著 改訂版 池田歴史探訪(寺社・史跡・遺跡見所のすべて)という本
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中岡嘉弘氏は、私と同じく池田郷土史学会の会員でもあり、池田の郷土史について、色々と教えていただいています。中岡さんは1930年のお生まれで、京都のご出身。1950年代から池田にお住まいです。 京都出身という事もあるのだと思いますが、生活の中で身についた歴史的知識というものが...
2016年3月20日日曜日
摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(はじめに)
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古江橋を経て多田へ続く道(1970年頃か) 政治的問題を解決するため、武力行使が一般化していた戦国時代には、摂津国豊嶋郡細河庄(郷)は、摂津国人池田氏にとっても重要な地域でした。 しかし、そういう場所でありながら、研究や解明がほとんど進んでいません。今も池田市域内は...
2016年3月17日木曜日
浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(三好三人衆方に復帰後の池田衆の動き)
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元亀元年6月の池田家内訌後、当主勝正を放逐し、特別な旧誼もある三好三人衆方へ復帰した。三好方にとって、この事は大利であった。港のある摂津国尼崎方面から、いくつかの要所を押さえれば池田領内を利用して、そのまま丹波国とも連絡がつけられるようになった。また、池田衆の将軍義昭政権からの...
2016年3月16日水曜日
浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(内訌の様子とその後の勝正の動き)
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織田信長は、阿波・讃岐国の大名三好氏の勢力が西から迫る事は早くから想定しており、金ヶ崎城から京都へ戻った時には、暫くとどまって、その動きを観察していたらしい。 しかし、信長にとっての最大の誤算は、近江国の姉川方面での決戦が見え始めた重要な時に、摂津国池田家中で内訌が起きた事...
2016年3月15日火曜日
浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(金ヶ崎の退き口から第二次浅井・朝倉攻め(姉川合戦)に至るまで)
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越前国の南西の防衛は、敦賀郡にある天筒山が最も重要と考えられている。そのため、天筒山を要塞化し、更に木ノ芽峠までも要塞化して防衛に力を注いでいたらしい。その天筒山から海側に伸びた尾根の先端に有名な金ヶ崎城がある。 この要塞を池田勝正を含む幕府・織田信長の軍勢は、海と陸から攻...
2016年3月14日月曜日
浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(軍事行動の目的と池田家の役割)
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近年の、中・近世における交通・物流研究の深化により、戦国時代の権力についても多角的な視点が示めされるようになってきている。また、中世後期は「戦国時代」とも呼ばれ、政治の一部として「武力」が、政治問題の解決方法に用いられていた。軍事的な視点では、節目となる大きな戦争が既に知られて...
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