戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2016年2月28日日曜日
落語と城トーク(週風亭昇太×中井均×河内飯盛城)に参加して
›
摂津池田城跡に関する埋蔵文化財の破壊を、あるべきものをあるべくように向けるか。それについての思索の参考に、落語と城トーク(週風亭昇太×中井均×河内飯盛城)に参加してきました。 日時:平成28年(2016)2月28日13:30から16:00 会場:大東市民会館キラリエホール...
2016年2月27日土曜日
中世の摂津国大坂周辺の地形について(東大阪に残る昔の川(新開池・深野池)の跡)
›
江戸時代の宝栄元年(1704)の大和川付け替えで、流路が変わり、現在のような風景になったのですが、今もそれ以前の川と池の境目が残っています。結構な段差があるところもあって、それらの痕跡をその当時の地図と見比べると面白いです。 先に紹介した、大東市立歴史民俗資料館が発行する...
2016年2月13日土曜日
池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (その3:個人的な感想)
›
池田勝正という人物を調べてみて、「歴史」というものについて考える時、私は、決して社会の中の一分野であるべきでないと思うようになりました。 先人の社会は不完全な部分があるように見えますが、そこには原則や真理、また、その営みの連続が現在にも繋がっているのですから、同じ失敗をする...
池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (その2:歴史研究が進む中で期待される地域史)
›
最近、中世時代の研究が進んで様々な分野の解明成果が発表されています。中世は社会が乱れ、移動も少なからずあり、また、戦乱で史料が亡くなっており、まとまった史料がありません。それ故に断片的で散在する史料の検証は進みませんでした。 このために勝者側の比較的まとまった史料だけが研究...
池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (その1:池田勝正の真実を知るための在野研究)
›
(1)池田勝正の真実を知を知るための在野研究 池田筑後守勝正の実像を知るには摂津国人である池田家そのものの歴史をひもとく事が必要です。研究者などによる学問の発展により、その当時の記録には摂津池田家の記述が頻出している事がわかってきました。しかし、摂津池田家についてのまとまった...
池田市で埋蔵文化財の破壊が続く事について (はじめに)
›
池田市は常々、「歴史のまち・文化のまち」と自分自身を形容する事が多いのですが、私個人はそれに対して少々懐疑的です。 ※最近は、その環境を鑑みて、ついにそれを標榜しなくなりつつもあります。 昭和の末期、図書館で見る資料を見れば、その頃の池田市教育委員会は、大変意欲的に文化財...
2016年2月11日木曜日
1570年(元亀元)6月の摂津池田家内訌は織田信長の経済政策失敗も一因するか。
›
近頃の日本の株価平均の急速な下落とか、中国の経済状態やヨーロッパの事などの世界的な経済・金融の動きについて、討論番組を見ていてふと、気づいた事があります。 これまでにご紹介した「 荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治...
2016年2月3日水曜日
中世の摂津国大坂周辺の地形について(はじめに)
›
中世の摂津国大坂周辺は、江戸時代の宝栄元年(1704)の大和川付け替えで、現在のような流路になるまでは少し風景は違っていました。当然、その付け替え以前は、交通を始め、様々な要素が、その後とは違います。摂津池田衆の家運が最盛期だった室町時代末期頃も、その事を踏まえて見ていく必要が...
2016年1月25日月曜日
ミニシンポジウム「天下人三好長慶と飯盛城」を聴講して、城について考えた事
›
去る平成28年1月24日、大東市で「天下人三好長慶と飯盛城」についてのミニシンポジウムがあり、学術的な見地から、以下の項目でお話しがありました。 ◎天下人三好長慶と飯盛城 (天野 忠幸氏) ◎飯盛城跡を国史跡に (中西 裕樹氏) 飯盛山山頂から南西方面を望む ...
2016年1月24日日曜日
池田四人衆の事について(はじめに)
›
摂津国人池田氏が、近年概念化されつつある郡単位を支配する戦国領主となる成長過程で、当主を補佐するための官僚機構を創設した事は、非常に大きな意義があったと思われます。池田家は他の国人と違ってこの点が大きく異なり、これが成長のスピードを高め、勝正が当主となる頃には、近隣勢力とは比較...
‹
›
ホーム
ウェブ バージョンを表示