戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2015年7月22日水曜日
研究用資料を製本して、本棚もスッキリ!
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郷土研究をするのに、色々とコピーを取る事が多く、本棚の多くの面積(容積)を占めるようになってきています。 私のように、限られた時代と人物を研究するだけでも多方面の資料をコピーする必要があるのですから、もっと広範に視点を持つ必要がある研究は相当な量になると思います。 資料...
4 件のコメント:
2015年7月4日土曜日
信長公記にも登場する、摂津武士池田紀伊守入道清貧斎(正秀)について
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私の調べている期間内で、池田正秀なる人物は池田家政の中心的人物で、非常に重要です。 池田家当主が信正(のぶまさ)の時代、時代の要請や池田家自身の繁栄で、当主だけでは手が足りなくなり、その補佐役として、信頼の置ける人物を一族の中から選抜して、その役に就かせたようです。 江...
2015年3月17日火曜日
戦国時代の影と闇(はじめに)
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戦国時代とは、応仁の乱から徳川幕府の樹立で、争乱が一応沈静化するまでの期間を捉えてそう呼ばれています。 基本的には話し合いで問題を解決をしようとはしますが、武力での解決も合法化させていた時代が戦国時代です。殺傷は日常的で、生きることは戦いでした。弱い者は生きていけません。 ...
2015年3月16日月曜日
キリシタンと摂津池田家(はじめに)
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ポルトガル船が日本へ辿り着き、鉄砲の伝来となったとされる年が1543年。続いてキリスト教が日本へ上陸したとされる年が1549年。これらの経緯は学校でも教わり、日本人の多くが知るところです。しかし、その細かな地域との関わりまでは、知らない人が多いと思います。 キリスト教伝道師...
2015年3月15日日曜日
池田教正が関係していた可能性のある永禄10年2月の池田家内訌(はじめに)
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池田丹後守教正は、「正」を持つその諱(いみな)、活動地域からして、摂津池田家出身の武将であろうとする説が有力なのですが、今のところ史料上の決め手が無く、結論が出ないまま、半ば放置状態です。 私も個人的には、それらの説を概ね受け入れてはいますが、断定できる史料を見つけるに至っ...
2015年3月14日土曜日
荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(備考:『荒尾市荒木家文書』天正3年2月付けの織田信長による荒木村重へ宛てた朱印状)
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この史料については、写真があるので、許可や環境が整えば公開したいとも思っている。しかし、今のところ、文字のみをご覧頂く事にする。 史料について、発表時の会報『村重』創刊号でも、若干の考証がされている。加えて、個人的にも専門家に聞いてみたが、「正文ではない」旨の回答だった。 ...
2015年3月13日金曜日
荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:おわりに)
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天正7年10月3日付けのパードレ・ジョアン・フランシスコ書翰に、「其の(織田信長)臣下の一人にして二国の領主(摂津・河内を領せる荒木村重)たる者をして彼に叛起し数年来攻囲せる敵方(石山本願寺)に投ぜしめたり。」とある *20 。この記述は、当時の状況を伝えるものであったのだろう...
2015年3月12日木曜日
荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:二 村重の河内国との関係)
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摂津・河内両国は、直接的に京都と接している事もあり、様々な面で非常に重要である。この点でも織田政権下では「摂河」という一体化した地域として促えられる事 *16 も多々あった。 永禄11年秋、足利義昭が将軍になった時、河内国は二分支配され、中央から北を三好義継が、その南を畠山...
2015年3月11日水曜日
荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:一 摂津国統一過程と周辺環境)
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荒尾市荒木家文書にある天正3年2月頃は、その宛先である荒木村重にとって、どのような環境であったのか考えてみたい。先ず、その背景としての経過と前年の様子を俯瞰してみる。 天正2年は、将軍義昭と織田信長の闘争の余震があり、信長は自らの政権を築くため、体制の整備に注力していた。依...
2015年3月10日火曜日
荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第三章 信長の領国統治体制:二 柴田勝家の場合)
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織田信長は将軍義昭の追放を決して以降、独自に「天下」を掌握しようとした頃から、一職支配・守護補任をし始める。長岡(細川)藤孝に山城国桂川西岸地域の一職を与え、塙(原田)直政に山城・大和国の守護を与えている。直政の両国守護は、当時でも前代未聞としている。 天正3年9月、信長は重...
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