戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2014年9月30日火曜日
永禄12年正月の京都六条本圀寺・桂川合戦について(はじめに)
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永禄12年正月に行われた京都六条本圀寺・桂川合戦は、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、中央政権にを樹立して最初の試練でした。また、この合戦は日本史上でも有名な合戦です。 これに池田勝正も積極的に参戦し、重要な役割を果たしているのですが、家が滅んでいるだけに、記録的に滅茶苦茶...
2014年8月15日金曜日
京都六条本圀寺跡を訪ねる
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永禄12年(1569)正月、就任したばかりの将軍義昭居所で起きた京都六条本圀寺・桂川合戦は、池田勝正にとっても大きな出来事でした。 このテーマについても何れ詳しく取り上げたいと思います。このエピソードは、諸家の伝承で取り上げられていますが、多くが間違えて取り上げられており...
2014年6月28日土曜日
戦国時代に池田市木部町にあった木部砦(城)跡
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久しぶりに更新します。ちょっと時間が無くて、テーマの途中で止まったままですいません。まとまった時間が取れないので、思索を深める事ができず、まだまとまっていません。残りは必ずアップしますので、もう少々お待ち下さい。 それで、今回はその償いという訳ではないのですが、池田市の木部...
2014年3月15日土曜日
摂津原田氏とその城について考える(その1:元亀4年以前の摂津国原田城について)
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原田城は池田氏の本拠地である摂津国豊嶋郡の中南部にあって、非常に重要な地域でした。そしてここには重要な街道も多くあり、また、その西側には猪名川、南側には神崎川も流れていて、それらの川は郡境で、原田は「境」に囲まれた地域でもありました。 さて、少し史料上に出てくる原田城を見て...
2014年2月15日土曜日
荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その4:三好三人衆の勢力は、依然侮れない影響力があった事)
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第十四代室町将軍義栄を支えた三好三人衆は、足利義昭が第十五代将軍になって京都に入っても、依然侮れない影響力を五畿内地域とその周辺に及ぼしていました。 三好長慶など、三好氏の京都での実績は天文年間以前から半世紀にも渡り、広く深く、様々な分野に関係を持っていました。 義昭が...
2014年1月29日水曜日
荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その3:幕府(織田信長)が五畿内など諸勢力に対して人質を出すよう命じた事について)
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将軍義昭を中心とする幕府は、信用できるに足る実力があるのかどうか、京都周辺の大名や権門など、諸勢力が注意深く見、観察していました。 一方で、その幕府に敵対する勢力、三好三人衆などを中心とする反幕府勢力の動きも侮れないものがありました。諸勢力は家名を保つために、どちらに加担す...
2014年1月27日月曜日
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その7:補遺3 (幣久良山とその周辺の要害性について))
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キリシタン武将高山右近と白井河原合戦についての補足を「補遺」としていくつかご紹介しています。今までの資料に加えて、最近、新たな研究成果が公的に発表されたりしていますので、それらを全体の流れに組み入れて考える必要があります。 可能性を再度精査し、精度を上げる事で、その時何があ...
2014年1月22日水曜日
荒木村重も関わった、当主池田勝正追放のクーデター(その2:越前国朝倉氏攻めについて)
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越前国朝倉攻めは、将軍義昭・織田信長方にとって、当初から目的化されていた事です。有無を言わせず、潰す予定だった事が、当時の史料からも判ります。 一方、将軍義昭は、幼い頃に奈良興福寺一乗院に入り、僧として生活してきた人物であり、将軍としての帝王学を学んでいないばかりか、武家と...
2014年1月10日金曜日
座間市栗原神社火災は、在日米陸軍軍属の三男(15才)による放火
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2013年3月7日未明に起きた、神奈川県座間市栗原中央の住宅6棟が全焼し、栗原神社の神楽殿や社務所も全焼しました。 その後、これに放火したとして、キャンプ座間(座間、相模原市)内のアメリカンスクールに通っていた、在日米陸軍軍属の三男の少年(15才)が、非現住建造物等放火容疑...
2014年1月6日月曜日
軍師官兵衛、見ませんでした。
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今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」が始まりました。ね。私は今年も見ません(でした)。大河ドラマって、何のために作っているのかもう解りません。内容を見ても、1年もかけてやる必要があると思えません。 番組宣伝企画を放送開始前に色々やっていて、見ていたのですが、 その合間に流れる映像...
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