戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2012年1月5日木曜日
宣教師ルイス・フロイスの記述に登場する、河内国讃良郡の三箇城
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河内国飯盛山城 に三好長慶が拠点を置いた頃、同国讃良郡内に 三箇城 が重要な役割を持って存在していました。 三箇城は深野池の中にある島にありました。島は主要な3つをもって名付けられ、三箇とよばれるようになったともされています。 この付近の荘園の関係もあって、それらは九...
2011年11月15日火曜日
白井河原合戦に至るまで(その4 完結:合戦の意味を考える)
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結果を構成する要素というか、出来事の背景を見る事は、非常に重要だと思いますし、それがいわゆる「歴史科学」だと思います。 本来、「武力」と「政治」は共に存在し、どちらが上とか下とか、先とか後ではなく、それらに宿る権力は表裏一体であり、あたりまえの構成要素です。 太平洋戦争...
2011年10月8日土曜日
白井河原合戦に至るまで(その3:合戦の頃の周辺戦況と関連性)
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元亀2年(1571)8月28日、三好三人衆方である摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。 この戦いに至るには、その前段階があります。その過程について、いくつかに分けてご紹介しますが、白井河原合戦を中心として、そこ...
2011年9月10日土曜日
白井河原合戦に至るまで(その2:和田惟政の池田領侵攻の動き)
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元亀2年(1571)8月28日、摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。総大将である和田伊賀守惟政は、この合戦で戦死し、池田衆にその首を取られてしまいます。惟政の首は彼の拠点である高槻城に晒され、池田衆は勝利に歓喜しま...
2011年9月7日水曜日
白井河原合戦に至るまで(その1:合戦中の戦況とその直前の摂津中部地域の状況)
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元亀2年(1571)8月28日、摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。総大将である和田伊賀守惟政は、この合戦で戦死し、池田衆にその首を取られてしまいます。惟政の首は彼の拠点である高槻城に晒され、池田衆は勝利に歓喜しま...
2011年9月3日土曜日
郷土史を勉強して見えてきた現代の日本
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郷土史という人間の歴史を勉強して、見えてきた今の日本社会があるのですが、皆さんが思うように、やっぱり私も将来が不安です。 私が勉強している摂津池田家も地域権力として滅んだ一族ですが、権力の統合過程で、同じように滅んでしまった家も無数にあります。最近は織田信長とか豊臣・徳川な...
2011年8月28日日曜日
元亀2年の白井河原合戦について
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今から440年前、元亀2年(1571)8月28日、白井河原にて三好三人衆方に加担する池田衆と幕府方摂津守護職であった和田伊賀守惟政勢とで、大きな合戦がありました。場所は現在の茨木市中河原町一帯で、茨木川と勝尾寺川の合流するあたりだったと伝わります。また、当時のこの戦争の呼...
2011年8月10日水曜日
東大寺大仏殿の戦いに登場するマメ山とはどこ?
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「東大寺大仏殿の戦い」などと呼称される永禄10年10月10日に至る、一連の奈良市街の戦いについてですが、これに池田勝正も参戦していました。この流れの中で気になるのが「マメ山」です。 Wikipediaなどには、戦国合戦大事典(新人物往来社)の記述を元にした、マメ山を 多聞山城...
2011年6月26日日曜日
池田勝正も従軍した、元亀元年の幕府・織田信長による越前朝倉攻め(はじめに)
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元亀元年に幕府が行った、越前朝倉討伐には、幕府勢の主力勢力ともいえる3,000の軍勢を率いて池田勝正は出陣しています。 この時の軍勢の中には、飛鳥井・日野氏など公家もおり、禁裏公認の幕府軍として行動しています。ですので、この軍勢に対する敵対行為は、禁裏に弓を引く事と同じで、...
2011年6月15日水曜日
元亀元年の朝倉攻めでは、なぜ幕府軍が湖東の浅井領内を進まなかったのか。
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元亀元年の幕府による朝倉攻めでは、なぜ安全な湖東の浅井氏領を進軍ルートに選ばなかったのでしょうか。ふと、そんな事を考えました。 一方で、浅井方は味方である事は疑いの余地がないので、ここは安全地帯として、湖西の敵方を制圧するためにルート設定を行ったとの考えも可能です。 現...
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