戦国大名池田勝正研究所
世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ
2011年8月28日日曜日
元亀2年の白井河原合戦について
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今から440年前、元亀2年(1571)8月28日、白井河原にて三好三人衆方に加担する池田衆と幕府方摂津守護職であった和田伊賀守惟政勢とで、大きな合戦がありました。場所は現在の茨木市中河原町一帯で、茨木川と勝尾寺川の合流するあたりだったと伝わります。また、当時のこの戦争の呼...
2011年8月10日水曜日
東大寺大仏殿の戦いに登場するマメ山とはどこ?
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「東大寺大仏殿の戦い」などと呼称される永禄10年10月10日に至る、一連の奈良市街の戦いについてですが、これに池田勝正も参戦していました。この流れの中で気になるのが「マメ山」です。 Wikipediaなどには、戦国合戦大事典(新人物往来社)の記述を元にした、マメ山を 多聞山城...
2011年6月26日日曜日
池田勝正も従軍した、元亀元年の幕府・織田信長による越前朝倉攻め(はじめに)
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元亀元年に幕府が行った、越前朝倉討伐には、幕府勢の主力勢力ともいえる3,000の軍勢を率いて池田勝正は出陣しています。 この時の軍勢の中には、飛鳥井・日野氏など公家もおり、禁裏公認の幕府軍として行動しています。ですので、この軍勢に対する敵対行為は、禁裏に弓を引く事と同じで、...
2011年6月15日水曜日
元亀元年の朝倉攻めでは、なぜ幕府軍が湖東の浅井領内を進まなかったのか。
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元亀元年の幕府による朝倉攻めでは、なぜ安全な湖東の浅井氏領を進軍ルートに選ばなかったのでしょうか。ふと、そんな事を考えました。 一方で、浅井方は味方である事は疑いの余地がないので、ここは安全地帯として、湖西の敵方を制圧するためにルート設定を行ったとの考えも可能です。 現...
2011年6月8日水曜日
元亀元年、浅井氏は自衛的戦争に踏み切ったのではないか?
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戦国大名というか、国人というか、近江国北部の有力者であった浅井長政などその一族については、織田信長と姻戚関係を持った事から、歴史の表舞台に取りざたされる事が比較的多いのですが、しかし、じっくり知りたいと思って調べてみると、意外と研究が進んでいない様な印象も受けます。 最近は...
2011年5月24日火曜日
金魚の稚魚の続報
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今年の1月下旬に生まれた金魚の稚魚の続報 です。 あれから、4ヶ月。20疋程が生き残り、元気に泳いでいます。けっこう、個体差があって、小さなものは1センチ程、大きなものは金魚すくいの金魚くらいの大きさになっています。色もバラバラで、フナの様な色のもの、黄色い色、透明のような色...
2011年5月19日木曜日
福井県一乗谷遺跡で、鎧兜を着用してみました!
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ちょっと取材に、福井県の一乗谷を訪ねました。平成17年に水害があって、どうなってしなったのか心配もあったのですが、しっかりと復興されていました。安心しました。また、研究と発掘も進んでいるようで、大変見応えのある名所になっていました。 平成13年(2001)にもこちらを訪ねた...
2011年5月12日木曜日
池田家中の荒木村重
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最近は、 荒木村重 の知名度が上がってきたようです。インターネット上の検索では、それについての記述が非常に増えています。 しかし、現実的には、知らない人も多多いようですね。やはり、謎の部分が多いため、正式な取り上げられ方があまりされないからなのかもしれません。 織田信長...
2011年5月10日火曜日
元亀元年の浅井氏謀反は、織田信長に「突然」の認識が本当にあったのか。
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最近、元亀元年の織田信長(幕府)による、朝倉攻めの事が気になって、色々と調べています。 ふと思ったのですが、永禄13年(元亀元)の1月23日に発行した、諸大名への触れ状を見ると、そこに朝倉氏の名前は無く、また、朝倉氏に連れ去られた若狭守護家筋の武田孫犬丸元明の名がそこに記さ...
2011年4月11日月曜日
元亀元年の摂津守護池田勝正の金ヶ崎・天筒山城攻めについて
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7月にちょっと池田勝正について講演させていただく機会を得ていまして、現在色々と資料の整理をしています。「朝倉・浅井攻めと池田勝正」というような方向性で、内容を考えています。 普段は、仕事が終わって寝る前とか、休みの日などに、ひたすら資料を読んで調べるのですが、時々、現地に出...
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