2016年7月30日土曜日

天正6年(1578)の謀反で、荒木村重が多田銀銅山や北摂の鉱山を経済的裏付け要素のひとつとして考えていた可能性について

以前から気になっていたのですが、今後の備忘録代わりに、ちょっと書き留めておきたいと思います。

多田銀銅山の青木間歩の様子
北摂山塊では、主に銅を産出していたため、無数の間歩跡があります。豊能・河辺郡あたりに広がっていて、一部は豊島郡にも見られます。実は、五月山にも秦野鉱山と呼ばれた間歩などの跡があります。詳しくは「池田・箕面市境にある石澄滝と鉱山」をご覧下さい。
 その北摂の鉱山の代表が多田銀銅山(現猪名川町)ですが、この銀銅山の産出量が戦国時代のいつ頃から再び増えるのか、あやふやなままでした。
 天正年間の後期や慶長の頃には、豊臣秀吉の政策による、銀銅山の振興があった事が、ある程度はっきりしている事ですが、もう少し前からそういった政策があって、もしかすると、荒木村重が摂津国を任される頃もその胎動(再興)があったのではないかと考えていました。
参考サイト:多田銀山史跡保存顕彰会公式サイト

先日、『兵庫県の地名1』を読んでいましたら、「天正2年に摂津国河辺郡笹部村から離れた同村内の山下に吹き場が移され、山下町として形成されたとされ、同じく鉱山関係者の居住地として下財屋敷が笹部村枝郷として置かれた。」、との旨の記述を見つけ、この頃には既に、鉱山開発に再び力を入れ始めていた地域政治政策の兆候かもしれないと感じるようになりました。
 この裏づけは、もう少し色々な資料を読まないといけないのですが、このあたりの有力者であった、塩川氏が滅んでいる事から、まとまった史料も無く、また、鉱物採掘史のような分野も確立されていないようなので、わからないままです。
 ただ、当時からこの辺りには鉱山が多いことは知られていましたし、但馬国生野銀山や石見(国)銀山などが盛んに鉱物を産出しており、精錬法なども新たな技術導入で精度も向上していました。
江戸時代の堀場作業の様子(別子銅山にて)
塩川氏は領内にこういった鉱脈を持つ山がある可能性を当然ながら知っていた筈で、鉱山開発も行っていた事と思われます。塩川氏は、多田院の御家人から頭角を現したとされますが、その領地は海からも町場からも遠い立地で、農産物といっても平地はあまり多くはありませんし、林業が有望産業ですが、それだけではこれ程の勢力に育つとは思えないところがあります。
 戦国時代ですから、特に軍事的な面も考慮して婚姻などが行われるでしょうが、やはり中でも大きな要素は「経済」ではないかと思われます。
 京都の中央政治とも結びつきを深めるために、管領家の細川氏とも関係しているようですし、伊丹・池田氏などとも婚姻関係を持っています。

そういう歴史と地域環境の中で、天正14年(1586)頃に塩川氏は隣地の能勢氏と抗争し、上意(豊臣秀吉)により取り潰しとなって、没落するようです。まだ戦国時代の余震が続く時代でしたので、地域領主は大なり小なり、境界争いを抱えています。ですので、こういった地域紛争も珍しいことでは無かった時代です。
 しかし、塩川氏と能勢氏の紛争には、中央政権が積極介入して、仲裁の裁定ではなく、取り潰したのです。これは、塩川氏の領内にある多田銀山を直轄地域にしたいための行動かもしれません。話しが出来すぎたところもあるように思いますが、このあたりの歴史が未だ、正確になっていませんので、作為的なストーリーも工作しながら現代に伝わっている可能性も無いとは言えないように思います。
 
さて、天正6年秋に荒木村重が、織田信長政権から離反した、いわゆる「謀反」ですが、これは、少なくとも総国一揆とも言えるでしょう。荒木村重をトップとして、その他全ての人々が同調して、織田信長政権から離反したのですから。
 ただ、その後直ぐに重要人物が切り崩され、その力が削がれてしまいます。信長も、この動きには非常な危機感を抱き、迅速に、超法規的強行対応を行います。その結果、やはり織田政権に対しては、一国や二国程度の知事(地域統括者)では総力が及びませんでした。

しかし、荒木村重もそのくらいの事はよくよく考えていたと思われます。これ程の人を束ね、しかも広い地域からの同意を得るためには、説得を支える勝算と元手が必要です。加えて、未来想定も提示して、はじめて納得を得られるものであって、あやふやな想定では、同意は得られません。
 私が以前から考えていたのは、その中に、摂津国領内の鉱山も抱えていた事を目算に入れ、これらを元手に本願寺、毛利などの大勢力との交渉、更に足利義昭の返り咲きのための資金、その他近隣への対応なども村重が想定していたのではないかと想像しています。

それから、この時代、「明(みん)の国」が発行する銅貨決済方法が揺らぎ、日本国内では私鋳銭(ニセ銭)が増え、金融不安が起きていて、これをどう安定させるかが課題になっていた時期でもありました。それに代わる策として、国内鉱山から算出される金や銀、銅を始めとした鉱物資源によって、金融安定化を模索していたらしい時期で、それとも重なるように考えています。

この荒木村重が謀反を決する国内の資産として、領内の鉱山を視野に入れていたかどうかは、まだ今のところ、決定的材料に乏しいのですが、伝承記録や技術史を辿る事で、何か見えてくるような気もしています。

今後も続けて、この分野にも注目していきたいと思います。


2016年7月16日土曜日

池田市建石町の竹原山法園寺(ほうおんじ)にあった戦国武将上月十大夫政重の塔婆

1939年(昭和14)3月発行の『池田町史』法園寺の条に、上月(赤松)十大夫政重についての記述があります。これは寺に残る寺伝や過去帳なども調べて紹介されているようです。以下にその記述を抜粋します。
※池田町史 第一篇 風物詩P135

-(資料1)---------------------------------
【法園寺】
建石町にあり、竹原山と号し、浄土宗知恩院の末寺にして本尊は阿弥陀仏なり。創立の年月詳らかでないが、再建せしは天文7年にして、僧勝誉の檀徒と協力経営せし所なりと。(中略)。
 縁起によれば、同寺はもと、池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所であって、池田城主の本願に依り同城羅城(郭外)内に阿波堂を建立し、其の室の冥福を祈りたる処なりと、後この阿波堂は上池田町(現在の薬師堂)に移建されしと伝わる。
 なお当寺には、赤松氏、上月十大夫政重の塔婆がある。其の文に、

赤松氏上月十大夫政重之塔

寛永19年午9月12日卒
法名、可定院秋覚宗卯居士

宗卯居士者、諱政重、十大夫、姓赤松氏(又号上月)蓋し村上天皇之苗裔正二位円心入道嫡子、信濃守範資、摂津国守護職補され自り以来、世々于川辺郡荒蒔(荒牧)城、範資九代之嫡孫豊後守殖範、其の子範政求縁■中三好・荒木両党、父子一族悉く殞命畢ぬ。于時政重3歳也。乳母懐抱而城中逃げ出於、豊嶋郡畑村至り、叔父石尾下野守撫育焉。22歳而又親戚を因み、池田備後守の愛顧を受け、■■池田里(今ここに旧館址有り)後、稲葉淡路守■吉朝臣、寛永17年辰、辞官而て、帰寧ここに本貫、同19年壬年9月12日75歳而卒去。則ち竹原山法園寺に葬り矣。室家妙薫大姉者船越女、歿後同於彼の寺也。

享保7年壬寅9月12日
※■=欠字
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それから、『池田市内の寺院・寺社摘記』という、いつ頃書かれたのか不明ですが、昭和後半頃と思われる著者不明の冊子があり、そこに法園寺の紹介があります。地元の郷土史家が書かれたようですが、ここにも少し違う謂われがありますので、参考までにご紹介します。但し、原典の記述は無く、その旨ご注意下さい。
※池田市内の自院・寺社摘記P33

-(資料2)---------------------------------
(前略)
創建の年月が詳らかでありませんが、再建せられたのは天文7年(1538)で、山城国洛陽の法園寺4世勝誉が当寺に転任して、現山号を命名。檀徒と協力して経営し、諸堂を完備再興して、宝永年間(1704-11)に池田筑後守勝正が先妣妙玉大姉の冥福のための大修理を加えて、今日に至っております。
(後略)
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池田市建石町にある法園寺の正門
上記で、明らかに違うところがあるので、お知らせしておきます。宝永年間と池田勝正は、全く別の時代ですので、明らかに時日とは一致しません。永禄年間(1558-70)の間違いかもしれません。
 ただ、池田勝正の妻としての「先妣妙玉大姉」が現れますが、より古い『池田町史』では、「池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所」とあって、記述が異なっています。
 多分、後者が正しく、三好越前守政長(入道して宗三)の娘を後妻にもらった信正であれば、史実と合致しますので、こちらが正しいのではないかと思います。
 そもそも、池田氏の正式な菩提寺は大広寺ですので、その城主の妻の墓をこちらに置いているというのは、一族とは少し違う扱いにしていた事になります。

さて、(資料1)に話しを戻します。その文中、上月政重は、寛永19年(1642)に75歳で亡くなったとしてあるので、逆算すると1567年(永禄10)の生まれとなります。また、政重は3歳の時に、三好・荒木両党により、父子一族悉く殺害されたとあり、これは元亀元年(1570)6月の池田家中の内訌である事が判ります。この伝承は、史実をある程度正確に伝えているようです。
 その時、政重はどこに居たのかというと、同じ摂津の川辺郡の「荒蒔城」としており、これは今の伊丹市荒牧に比定されますが、ザッと調べた範囲では、荒牧村には確かに館城の伝承地があり、それなりの勢力を持っていたようです。以下に少しだけ、紹介してみます。
※兵庫県の地名1(日本歴史地名大系29)P429
 
-(資料3)---------------------------------
(前略)
応永26年(1419)11月の上月吉景譲状並置文(上月文書)に「あらまき」とみえ、吉景は荒牧の地頭職を室町将軍から与えられ、守護からも荒牧のうち三分の二の知行を認められた。残りの三分の一は吉景の舎弟則時に与えられ、のち景氏に伝承された。この年吉景は、地頭職と同地の三分の二を子息景久に譲っている。
 文正元年(1466)閏2月、有馬温泉(現神戸市北区)の帰途、京都相国寺蔭凉軒主で、播磨上月氏出身の李瓊真蘂は、荒牧の上月大和守入道宅とその南側の子息太郎次郎館を訪れている。屋敷は足利尊氏から、軍忠によって拝領したという(「蔭凉軒日録」同年閏2月22日条)。
 上月大和守入道は庶子家とみられ、荒牧に居館を構えていた事が確認される。太郎次郎は、200〜300人もの「歩卒、僕従」を率いて湯治中の真蘂を警護したほか、有馬に滞在して種々接待につとめ、またこの頃上月氏は25間もの倉を昆陽野から購入したという(「同書同月11日条・17日条など」)。荒牧上月氏の勢力の一端が知られる。字城ノ前に荒牧館跡があったとされるが、遺構は認められない。
(後略)
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村の歴史としては上記のようにあり、館を持ち、200〜300人の動員力を持つ荒牧上月氏は、確実に存在しています。
 いずれにしても政重は、代々住む荒蒔城で三好三人衆方となった荒木(池田)一党に攻められて、一族郎党の多くが殺されたとしています。その折、政重は乳母に助け出されて、親類(母方の弟か)のある畑村へ逃げ(避難)、そこで育てられたようです。
 政重22歳の時、天正17年(1589)に、親戚を因んで池田備後守知正の被官となりますが、慶長9年(1604)の知正の死去を契機に、稲葉氏へ再仕官したようです。
 ここで、少し気になるのは、上月家と池田知正の家系が親戚であったかのように伝えてある点です。単純に書いてあることを辿ると、政重の母方が畑村の石尾下野守家から出ていて、この石尾家が細河郷の山脇系池田家とも姻戚関係などを持っていれば、接点が見出せます。畑村と東山村は、五月山を経た山道でつながっていますので、不自然な関係ではありません。

また、この政重は、稲葉氏の家臣としての職を辞して、池田に戻り、その2年後の寛永19年(1642)9月に75歳で亡くなると、法園寺で葬られます。上月政重が池田に戻り、なぜ法園寺に葬られたのかについては、理由があるようです。
 この上月氏は、池田家中で家老を務め、法園寺のある建石町に家老屋敷を持っていたとの伝承記録があり、その事にも関係しているためと考えられます。
 それについて『穴織宮拾要記 末』の中に記述があるようです。「五人之家老町ニ住ス」として、池田民部、大西与市右衛門、河村惣左衛門、甲■伊賀、上月角■衛門と記されています。その文を抜粋します。
※参考:池田城関係の図録(池田城域南端)

-(資料4)---------------------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云右五人之家老町ニ住ス。
(後略)
※■=欠字
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摂津池田城の復元イメージ模型より(南端部分)
文中の「池田の城伊丹へ引さる先」の事としてある意味は、天正3年(1575)に荒木村重が、池田から伊丹へ本拠を移す前の様子を描いているようです。ただ、勘ぐり過ぎかもしれませんが、この一節は、民部丞屋敷の事だけにかかる意味なのか、5人の家老屋敷の同時代性を言っているのか、迷うところではあります。
 それから、上月角■(右?)衛門なる人物の屋敷が、建石町の南側より裏の畠ノ字上月かいち(垣内)と云う所にあった、と記述しています。
 上月政重が、稲葉氏の家臣を辞して池田に戻り、その死後、建石町の法園寺に葬られたのは、この事と関係があると思われます。
 多分、池田家中で家老を務めたらしい上月角■衛門とは、政重の一族で、天正3年では、政重が僅か8歳(数えで9歳)であり、家老を務めるという訳にもいきません。上月氏の別の有能な人物が取り立てられたのでしょう。元亀元年の上月氏の惨禍の折、家中が二分され、三好三人衆方荒木氏に味方した一派があったのかもしれません。

一方、上月氏の居城とする荒蒔(荒牧)は、村重系の荒木氏が本拠を構えていたと考えられる栄根・加茂村から西へ進んだ、平井・山本あたりの影響(支配)地の西端あたりで、微妙な位置にあります。塩川氏との勢力境界あたりで、山本村には、喜音寺(きおんじ)という塩川氏ゆかりの寺もあります。
 それ故に、元亀元年は三好三人衆方の勢力が再び増していた時期でもあって、荒木村重や池田家にとって、近接する有力な勢力への備えや有馬街道の確保の観点でも荒牧は、押さえておくべき地域だったのかもしれません。
 
それから、この上月政重の塔婆ですが、1999年頃に私自身も建石町の法園寺さんを訪ねて聞いてみたのですが、1995年の阪神大震災で寺地に小さくない被害が出てもいて、その時には所在が判らなくなっていました。その時はあまり詳しく聞くこともできなかったのですが、またこれも、再度尋ねてみようと思います。

上月氏と言えば、やはり、播磨国人で赤松氏一族としての上月氏が有名ですよね。この城での攻防戦は、荒木村重の織田信長からの離反を巡る動きの中で、注目される歴史です。この荒牧上月政重の系譜もやはりそこにつながるのですが、池田との接点はどこかというと、池田には有馬街道が通っており、文字通り有馬(有馬郡は赤松氏が入り、分郡守護を代々伝領。)を経て、三木や加古川方面ともつながっていた、当時としての主要道路があったためです。官道であった西国街道にも匹敵する脇往還道で、交通量も大変多かったともされている道で、政治・経済ともに播磨国方面と池田は、有馬街道を通じてつながりを深く持っていました。


2016年7月8日金曜日

摂津池田家が滅びた理由

池田勝正を中心に、20年程、摂津池田家の歴史を調べていると、同家がなぜ滅びたのかがわかったような気がします。一つの要素で、また、一人だけがその原因を作った訳ではないのですが、その中でも、最も重要な要素があるように思います。
 詳しい分析は、また後日に「摂津池田家の支配体制」などの研究を通じてご紹介したいと思いますが、ここではその前哨としての記事にしておきたいと思います。

摂津国内において、最も大きな勢力として成長した池田家が、実質的に当主勝正を最後に、伝統的独自文化を保持した組織としては、終焉を迎えます。
 室町将軍第十四代義栄や同十五代義昭政権の樹立と運営に大きく貢献し、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの報告書にも「(池田)家は天下に高名であり、要すればいつでも五畿内において、もっとも卓越し、もっとも装備が整った一万の軍兵を戦場に送り出す事ができた。」などとも、紹介される程でした。
 
それ程までの組織が、なぜ崩れ、滅びたか。少し時間を巻き戻して、簡単に経過を見てみます。

勝正の先々代の当主は信正で、この人物が他の国人衆に先がけて、今でいう官僚制、江戸時代でいう家老制を採り入れます。これは、信正が将軍の宰相であった管領の細川晴元重臣として、京都に居ることが多かったための措置だったようですが、この制度が池田家の活動のスピードを早め、その範囲を拡げる事に寄与して、急速に成長していきます。
 その証左として、池田家は代を重ねる毎に成長し、勝正の代には、前記の如く、五畿内の誰もが認める大勢力に成長していました。フロイスの記述に現れる池田家が、勝正の代の様子です。

しかし、これが活力でありながら、池田家にとっての最大の課題であった訳です。

つまり、活動するために関わる人数が増えるのですが、組織の柱となる人々(一族)と、外来の勢力との差を池田家主導部が、上手く制御できなかった事に、組織崩壊の最大の理由があったと見られます。家の存在意義の核を見失ったと言えるのかもしれません。
 近年まで日本の伝統的習慣であった、一族結合(家制度)ですが、室町時代にも当然この感覚を中心に組織が作られています。
 しかし、組織が大きくなれば一族だけでは人数が足りず、有能な人材登用を継続していく事になりますが、この過程での人間関係と組織体制作りに失敗した事が、池田家の滅んだ原因だと思われます。加えて、家老組織(四人衆と呼んでいた)が、別の権力体となり、代替わりの度に当主との関係が難しくなります。
 こういった背景もあり、内輪もめの回数も増え、またその間隔も狭くなり、元亀元年(1570)6月に大きな内訌を発生させ、当主勝正は、池田家を追われる事となりました。これが池田家崩壊の始まりとなりました。その3年後、更に四人衆と荒木村重が内訌を起こし、組織が二分され、元亀4年夏、将軍義昭政権と共に池田家も機能停止し、実質的な組織の解体となりました。その後は主従が逆転します。ご存知の通り、荒木村重が摂津国を制圧して、守護格の扱いを受けるに至ります。
※個人的にはこの時村重は、摂津国の他、河内国中北部も領地を任されたと考えています。詳しくは「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について」をご覧下さい。
 
これらは何も池田家の事、室町時代の事として終わる話しでは無いと思います。今でも同じですよね。会社や地域自治、国のあり方など、全く同じ事が今でも起きています。
 義務と権利をうまく使い分け、運命共同体の向かう方向をしっかりと指し示し、主導的人物と支援組織を有機的に組み上げられるかどうかが理想だと思いますが、これが一番難しいですよね。
 
そういう意味では、江戸時代というのは、凄い社会だったのでは無いかと思います。善悪を法によって規定し、これに社会が収まって、内乱を起こさずに何百年も社会として機能していたのですから。


2016年6月29日水曜日

戦国武将の戦い方

政治問題の解決方法の一つとして、武力による解決が日常的に行われていた戦国時代、武士は常に「戦い」の研究を行って、備えを怠りませんでした。そんな内乱の時代、摂津国豊嶋郡を本拠とする池田氏も、武士として度々戦場へ出ています。
 軍勢を出し、互いに想定した場所が合戦場になり、戦うのですが、勝敗を決めるのは「後巻き(うしろまき)」または「後詰め(ごづめ)」と呼ばれる手立て(勢力)が非常に重要でした。これによって勝敗が決まると言っても良い程です。これは不変の真理で、現代戦でも非常に重要な要素です。

「後巻き」とは、前線・本隊を支援や補完する軍勢で、これが適切な位置にあれば、敵は攻めることができません。動けば、後ろや横を取られて、挟まれたり、囲まれるからです。当然、相手も後巻きはしますが、互いに、より適切な場所に後巻きの陣を取った方が勝利します。
 実際に、池田衆が後巻きをした合戦の記述が、様々な資料に見られます。中でも有名な『信長公記』御後巻信長、御入洛の事の条に見られる例をご紹介します。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P93
 
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1月6日、美濃国岐阜に至って飛脚参着。其の節、以外の大雪なり。時日を移さず御入洛あるべきの旨、相触れ、一騎懸けに大雪の中を凌ぎ打ち立ち、早御馬にめし候らひつるが、馬借の者ども御物を馬に負候とて、からかいを仕り候。(中略)。以ての外の大雪にて、下々夫以下の者寒死(ここえじに:凍死)も数人これある事なり。3日路の所、2日に京都へ、信長馬上10騎ならでは御伴なく、六条へ懸け入り給う。堅固の様子を御覧じ、御満足斜ならず。池田せいひん今度の手柄の様体聞こしめし及ばれ、御褒美是非に及ばず。天下の面目、此の節なり。(後略)。
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この時、当主の池田筑後守勝正を始め、池田紀伊守清貧斎、荒木弥介(村重)など主要な池田家中は出陣していますが、池田から京都へ向かう途中、高槻で敵(三好三人衆方入江春景?)に道を塞がれていました。そのため、北側の山道へ入って迂回し、西岡地域(現長岡京市あたり)へ出て、桂川西岸へ向かいました。
桂橋(西詰から南を望む)
敵の三好三人衆勢は、5,000程の軍勢で京都へ入り、仮御所(居所)として六条本圀寺に座した将軍義昭を襲います。当然、将軍を護衛する武士団はいたのですが、そう長く持ちこたえられる数と装備ではありません。
 その将軍義昭救援に、河内半国守護三好左京大夫義継が、軍勢を率いて南方向から淀あたりを経由し、本圀寺へ向かいます。この間、三好三人衆勢は、西からも池田を始めとした軍勢が、本圀寺を目指して進んでいるとの報に接して、一部を割き、七条村あたりへ置きます。
 桂川西岸から京都へ入ろうとする池田衆と、入れさせまいとする三好三人衆勢が交戦したようです。この前線に池田勝正は居たようで、他にも伊丹・茨木・細川兵部大輔藤孝なども共同で三好三人衆勢と交戦したようです。
 ちなみに、桂川は深く、流れも早いために徒渉はできず、しかもこの時は真冬ですので、川の中には入れなかったでしょう。池田衆などの軍勢は、桂川に架かる橋を使ったか、桂付近の村から徴用した舟で対岸に渡るしかありません。橋は付近に、何本かあったようです。どちらにしても、攻める側が先に動けばそれなりの犠牲が出る状況でした。
 結局、桂川と本圀寺の両所では激戦となり、三好義継が戦死したなどと噂が出る程でした。池田・伊丹衆などが川を渡って、攻めた模様です。
※当時の日本人は、殆どが泳げません。一部の武士くらいが水練をしていたようですが、池田家中はどうだったでしょうか。

桂橋西詰から北東を望む
この難しい状況でも的確な後巻きが勝敗を決したようで、池田清貧斎(正秀)が、織田信長から特別に賞されています。
 広義の後巻きとしての視点で見れば、護るべき本圀寺に対して、三好義継と桂川西岸の池田衆の双方が後巻きといえますが、本圀寺の友軍と三好義継の軍勢では、数が多い三好三人衆勢を圧倒できなかったようです。
 また一方、この時、京都周辺にも三好三人衆方に同調する勢力があって、これらが将軍義昭方にとっては、敵方の後巻きとなっていました。ですので、池田衆が桂川方面からも攻め込んだのは、本圀寺を攻囲する三好三人衆勢を更に攻める必要がある、と判断したのだと思います。後巻きは、「そこに居る」だけでも良い場合が結構あるようです。

機を逃せば、将軍義昭が討ち捕られてしまう、一刻を争う中での判断と、行動だったと思われます。難しい局面で、老練な池田清貧斎が機転を利かし、的確に後巻きを行った事で、文字通り、将軍義昭は窮地を脱する事ができたのだと思います。
 織田信長は、この池田衆(池田清貧斎)の抜群の功に対して特に賞し、その記録にも残されたのだと思われます。

この合戦で、三好三人衆方は大打撃を受け、多くの名だたる武将を亡くしたようです。三好三人衆の中心人物であった三好下野守は、この時の合戦で重傷を負ったのか、この年の5月に死亡しているようです。
※この合戦に、三好三人衆方がどんな気持ちで挑んだのかという一幕が、先にご紹介した「古典『信長記』を読んで繫がる過去と現代、そして未来!」にご紹介した記述です。

最近は機会が減ってしまいましたが、将棋を指してみればわかります。駒は攻めも守りも連携していないと全く意味が無く、戦いもそれと同じです。勝つための采配は、状況を把握し、何を、どのように使い、それをどこに置くか、が重要になるという訳です。

【追伸】この六条本圀寺・桂川の戦いについては、「研究_1569年(永禄12)正月の京都六条本圀寺・桂川合戦について」にて、詳しくご紹介する予定です。



2016年6月24日金曜日

池田知正の他にも見られる、山脇系池田氏の人物について

先日ご紹介した、「池田勝正の跡職を継いだ、知正は山脇系池田氏か!?」の項目ですが、以前から気になっていた事とも結びついて、知正の他にも、細河郷東山の山脇系池田氏らしき人物が存在する可能性に気づきました。
 この事は、近日公開予定の「細河庄内の東山村と武将山脇氏について」でも詳しくご紹介できればと思いますが、その前哨として、少し散文的に思索をしたいと思います。

最近、池田市史など、池田の歴史の中心部分を読み直すようになり、『新修池田市史 第5巻 民俗編』の「東山」についての項目を読んでいると、気になるところがありました。
※新修池田市史 第5巻 P306

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【垣内と講】
本家を「主家」、分家を「インキョ(隠居)」というが、同族による集まりや助け合いは、冠婚葬祭の場合程度であって、日常的にはみられない。
 相互扶助を求めて重要な人間関係を形成したのは、近隣集団の「カイチ(垣内)」であった。カイチは、現在でいえば隣組に相当するが、ムカインジョ、ミナミンジョ(南カイチ、ユバジョ(弓場ジョ?)ともいう)、大崎カイチ、タナカンジョ、ヤマシガイ(山新開)の五つのカイチがあり、「ジョ」の名称でよばれることが多かった。カイチの役割としては、普段の暮らしの中での助け合いのほか、葬式の手伝いが大きかった。それぞれのカイチは、主に百姓株の人々による5〜10戸からなっていたが、(近現代の)隣組ができたことによって、弱体化した。現在では、いずれも2〜3戸程度の近所づきあいにとどまっている。
 ムラの農民をひとつの百姓株にまとめ、ムラ全体で行事を行うようになったのは、戦後になってからである。かつては、百姓株が大講、喜兵衛講、角右衛門講、五左衛門講の四つに分かれ、それぞれが一反歩ほどの共有田などの財産を持ち、農業にかかわる結びつきを維持していた。昭和初期には大講が20戸ほどで最も多く、その他はいずれも10戸くらいで構成された。その後、講の機能は次第に薄れ、今では名称が残るのみである。
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この中で、村の中に4つに分かれた百姓株があって、「角右衛門講」が存在したとの事。「講」というのは、その目的(テーマ)に縁や利益を持った人々が、地域を越えて集う協働の意味合いもあり、東山にそういう集団が存在していたという事は、以下の別の私の記憶に結びつきました。

年記を欠きますが、『堺市史』の説を採りつつ、個人的にも永禄12年(1569)と比定している8月27日付けの史料があります。堺商人今井(納屋)宗久が、堺の五ヶ庄という場所の権利について、池田覚右衛門某・秋岡甚兵衛尉某へ宛てて音信したものです。
※堺市史5(続編)P906

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態と啓せしめ候。仍て堺五ヶ庄に相付き、摂津国天王寺の内に之有る善珠庵分事、度々御理り申す事に候。織田信長従り丹羽五郎左衛門尉長秀・津田(織田)掃部助一安に仰せ付けられ、勝正並びに各へ御申しの事候。様体於者、黒崎式部丞(今井宗久被官)へ往古従りの段委曲申し含め候。無事儀急度仰せ付けられ於者畏み存ずべく候。尚池田(紀伊守入道)清貧斎正秀・荒木弥介(村重)へ申し候。恐々。
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音信の内容は、五ヶ庄というところの天王寺善珠庵が持つ土地(代官請けなど)について、池田勝正が得ていたのですが、これを今井宗久へ返還せよ、と迫るものです。これは、この五ヶ庄あたりに鉄砲の生産工場を作るため、権利の集約が必要で、その動きがこの音信に見られるという訳です。
 ちなみに、この時、当主の勝正は軍勢を率いて播磨・但馬国方面に出陣中で、その留守にこのような音信を行っています。しかも、何度も同じような内容で迫っています。それに先方(池田家)の人物を呼び捨てにするなど、非礼な態度です。
 またこの件、別に一元化しなくても、権利を持っている者が協力して当たればいいのですが、政商の今井宗久がこの役を一手に任されており、バラバラになっている権利を強制的に集約し、一元化しようとしていいたようです。

さて、今井宗久が音信の宛て先にしている池田家の人物ですが、池田覚右衛門と秋岡甚兵衛尉です。あと、文中に池田紀伊守正秀と荒木弥介(村重)が見られます。これらは、勝正の側近です。
 中でも「池田覚右衛門」が気になります。そうです、東山村にあった講の名前にある、「角右衛門講」とは、「覚」の字は違いますが、この人物が関係するのではないかと考えたのです。
 それだけではありません。この今井宗久が宛てた、もう一人の人物である「秋岡甚兵衛尉」は、荒木美作守宗次という人物の奉行人(家老的重臣)です。荒木宗次は、池田家当主の池田長正の家老でした。整理すると、池田当主の家老であった荒木宗次の重臣が、秋岡甚兵衛尉というわけです。
 永禄12年当時は、当主が池田勝正に代が替わり、前当主であった長正の重臣も新たな体制の下に再編成され、秋岡甚兵衛尉もその重臣衆として活動していたようです。
 
それで、この今井宗久の音信が宛てられた池田覚右衛門と秋岡甚兵衛尉という単位(コンビ)ですが、やはり偶然ではなく、勝正の重臣衆の中でも何か近しい関係とか、同じ所属といったような共通性があったものと思われます。
 この後、元亀元年(1570)6月に池田家の内訌となり、その後間もなく、池田家中と荒木村重の内訌が起き、荒木村重の時代になりますが、ここまでの流れを池田知正と共に、池田覚右衛門と秋岡甚兵衛尉の両人は、荒木与党として活動したものと思われます。
 ただ、池田覚右衛門は、この今井宗久の音信のみで確認される人物ですので、証明するにはやや安定性を欠きますが、秋岡甚兵衛尉は荒木村重の与党として、いくつかの資料に見られます。

それから、既述の『新修池田市史 第5巻 民俗編』の「東山」についての項目に、もう一つ気になるところがありました。
※新修池田市史 第5巻 P309

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【寺院と民間の信仰】
寺院には東禅寺と円城寺があり、人々は正月には東禅寺に、盆には円城寺にお参りに行くならわしがあった。
 東禅寺は山号を黄梅山といい、つぎのような伝承がある。すなわち、今は余野川上流にある久安寺は、その昔、神亀年代(724〜29)に全国を行脚中の行基僧正が足をとめたことにより開かれ、院内塔頭49坊があった。その内のひとつに瑠璃光寺があり、薬師堂には薬師如来坐像と四天王、十二神将像が安置されていた。保延6年(1140)の山内の大火の際、焼失を免れ、その後荒廃していたが、慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創されたという。ただし、これを証明する文書は無い。
 ムラの中に薬師堂があり、その前の広場を「ドウノマエ(堂の前)」という。2月8日と8月8日の年2回、百姓株で祭を行い、子供を集めてお菓子などを配る。かつては薬師講を作って堂の管理をしていたが、戦後は百姓株の管理となった。また、国道沿いの村への入口の位置に地蔵堂がある。毎年8月24日の地蔵盆には僧侶を招き、婦人会が御詠歌をあげる。村にはほかに、釈迦堂、金剛、庚申さん、辻堂がある。
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西から東山(村)を望む
上記は村に残る伝承ですが、その中に「東禅寺は、慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創された。」とあります。この慶長9年は、知正が死亡した年であり、また、この年以前までに知正によって、大広寺を池田の旧地に復して本格的に池田郷が復興する時期でもありました。
 東山で昔、私が何人かにお聞きしたところによると、武士を止めて帰農した人もあったとの事も聞いていましたので、それが池田市史の記述にある「豪族・庄屋らの協力を得た」という要素に結びつくのでしょう。
 また、地名としても「ミナミンジョ」という場所は「ユバジョ」ともいい、これは「弓場ジョ」かもしれないとの推定がなされているところもあります。
 ちなみに、池田城跡にも「弓場(ユンバ)」と呼ばれた場所があります。やはり、東山の村自体が城や砦のような機能を持っていた可能性を感じます。
 
これらの要素から、東山を中心とした地域から出た山脇氏を始め、他にも武士として活動する人々が居て、その中に池田姓を名乗る一派があったのでは無いかと考えるようになった訳です。

◎参考ページ:池田氏関係の図録(池田市東山地区)

2016年6月17日金曜日

古典『信長記』を読んで繫がる過去と現代、そして未来!

古文書や古典を読んでいると、現代にも通じる出来事や感覚、言葉を随所に見かけ、ハッとすることがあります。そんな時は親近感も覚え、また、深く感じ入ります。

ちょっと一息というか、歴史研究の面白さの一端として、そういう記述を抜き出して、時々ご紹介してみようと思います。今回は、小瀬甫庵が記した『信長記』にあるフレーズをご紹介しようと思います。

「六条本圀寺の事」の条にあるものです。その状況は、永禄11年(1568)秋、それまで中央政権の構成者であった三好三人衆が、足利義昭を奉じた織田信長勢に京都を追われます。三好三人衆方は一旦都落ちをし、体制を立て直した上で、再び京都を奪還する算段を立てていました。
 三好三人衆はその年の内に、大軍で京都を奪還すべく堺方面に上陸し、京都へ攻め上るべく準備を行いました。その折に軍議を行いましたが、空転、行き詰まる事もあった場面の中で、三好三人衆方の武将奈良左近、同じく吉成勘介が、発言します。以下、その台詞です。
※信長記 上(現代思潮新社)P94

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(前略)。それ人の世の末に成って、亡ぶべき験(しるし)には、必ず軍を起こすべきに当たって起こさず、罰すべきを罰せず、賞すべきを賞せず、或いは佞人(ねいじん:こびへつらう人。)権に居り、或いは賢臣職を失し、善人は口を閉じ、陪臣のみ威を専(ほしまま)にし、唯長詮議のみに年月を過ごし、徒らに酒宴を長(とこしな)へにし、終いに善に止まり、悪を去る事もなき物と承り及び候。今又此の如く、加様の不順なる事を見んよりは、いざ京都六条に懸け入って、討ち死にせばやと思うはいかに、と憚る所もなく申しければ、各も其の言にや恥じたりけん、(後略)。
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小瀬甫庵が記した『信長記』は、その時代の最中に書かれた記録では無く、後年に書かれた、いわゆる「軍記物」ですので、内容には多少脚色があります。ですので、史料として見る場合は、その点に注意して扱うことになっています。
 しかし、そこにある感覚や部分的な記述は、証言的な示唆もあって参考になることもあります。ましてや、古典として見る分には、倫理観や人としての生の感覚は新鮮にも感じますので、楽しめます。

さて、上記にご紹介した、奈良左近・吉成勘介の発言は現代にも通じる、大変興味深い一節です。元和8年(1622)初版となるこの古典は、江戸時代を通じて改訂が繰り返され、読み続けられています。人と社会の不変のあり方も交えながら、歴史を見るというアカデミックな欲求を満たす、いわば名著として多くの人が支持し、現代に受け継がれています。
 
歴史研究では、解らないことが判る楽しさもありますが、こういった当時の人の思いや感覚に近づくこともまた、楽しさです。

また面白いネタがあれば、ご紹介していきたいと思います。



2016年6月14日火曜日

摂津池田とも接点があった加賀国豪商銭屋五兵衛の活動

栄根寺跡にある銭屋五兵衛の顕彰碑
川西市寺畑にある栄根寺廃寺遺跡史跡公園に、加賀国宮腰の豪商銭屋五兵衛の顕彰碑があります。この栄根寺跡には、銭屋五兵衛の事を知りたくて訪ねたのでは無く、荒木村重の本拠地が、この近くの栄根村でその周辺を治めていたという伝承があって、その立地を見ようと訪ねたのでした。ここは、以前にも何度か訪ねた事があったのですが、今年のゴールデンウイークに状況が調ったので、再び訪ねてみました。

荒木村重の事は、別のコラムで詳しくお伝えしたいと思います。色々と今回も感じる事がありました。やはり、現地を訪ねる事は大事だなと思いました。

ちょっと栄根寺についてご紹介します。その縁起によれば、753年(天平勝宝5)聖武天皇の夢想により行基に命じて薬師堂と薬師如来を作らせたのがはじまりと伝わり、その後、兵火にかかるなどして廃れてしまい、江戸時代には、池田の西光寺から留守の僧を置く程度に縮小していました。
 近年まで寺跡に残された薬師堂には、平安時代前期の様風を伝える硬木一材の薬師如来座像がありましたが、平成7年(1995)の兵庫県南部地震によりこの薬師堂も壊滅しました。しかし、薬師如来ほか19体は損害を免れ、市の文化財資料館に保管されています。
 震災後からの発掘調査により、栄根寺廃寺の境内から白鳳・奈良時代の瓦等が多数出土しており、奈良時代の建立が確認されました。
 詳しくは、「摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(池田氏の支配及び軍事に関わる周辺の村々)」の「栄根村と栄根寺跡(川西市栄根及び寺畑)」項目をご覧下さい。
 
この栄根寺は、池田とも以下の要素で関係(接点)を持ちます。
  • 栄根寺は、1631年(寛永8)から同じ浄土宗の西光寺(現池田市)の支配をうけ、留守僧を置いた。
  • 栄根寺は荒木村重系の荒木家支配地域にあった。
  • 西光寺は天文15年(1546)に池田に再建されたとの伝承を持つ。
  • 西光寺は、江戸時代になって池田に戻ってきた、荒木村重に関係する荒木家など、元池田武士であった家を檀家に持つ。
  • 在郷集落であり、商都でもあった池田の中心地に西光寺があった。
  • 栄根寺あたりの集落からすると、池田郷との経済的・文化的結びつきが強い。
  • 近世には同じ浄土宗であったらしいが、それ以前からの宗派的繋がりがあるか。
  • 池田にも来訪した儒学者広瀬旭荘(広瀬淡窓の弟)と銭屋五兵衛との交流がある。旭荘は池田で没する。
    ※参考:幕末の池田関係の図録(広瀬旭荘)
そんな栄根寺跡公園に、銭屋五兵衛の碑があることも知っていたのですが、それまでは特に調べる事も無く過ごしましたが、今回訪ねるにあたって、ちょっと気になったので、調べてみました。中でも、この本一冊を読めば、銭屋五兵衛の全てが解ります。五兵衛に興味を持った方は、一読をお勧めします。

表紙:銭屋五兵衛と北前船の時代
書名:銭屋五兵衛と北前船の時代
著者:木越 隆三(きごし りゅうぞう)
発行:2001年11月30日 第1版第1刷
発行所:北国新聞社

この銭屋の商売は、材木商を元に海運業にも手を拡げて、大変発展しますが、船に乗せる荷物もうまく扱う、多角経営のビジネススタイルだったようです。その中に、池田で集散される池田炭の取扱も一覧に見られるようです。
 私自身が銭屋五兵衛の事を調べていないので、直接的に資料に行き当たっていないのですが、手広く商品を扱っているようなので、やはり池田の主要生産品である池田酒などもあったのではないかと思います。
 銭五と西光寺や池田との関わりは、池田市の広報誌の裏表紙にある企画「わがまち歴史散歩 -市史編纂だより-」のNo.20(平成18年9月)「銭屋五兵衛の碑と池田の西光寺」に紹介されています。ここから、少し引用させていただき、詳しくは、出典をご覧下さい。
※参考:池田市公式サイト わがまち歴史散歩 「市史編纂だより」

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【三代にわたる努力】
遠地の豪商の碑がこの地に建てられた経緯を、明治41年(1908)の新聞記事では次のように紹介しています。
 池田の西光寺の住職は能登出身で、父の代から懇意であった銭屋五兵衛の死を伝え聞き、功績を伝えるべく、西光寺の住職預かりとなっていた栄根寺の境内に彼の記念碑を建てようと思い立ちます。しかし、経済的な面から、意志を継いだ次の住職の代になっても、建立は実現しませんでした。
 当初から3代目の住職のとき、ようやく転機が訪れます。阪鶴鉄道(今のJR宝塚線)の敷設による一部境内地の売却資金を元手に、栄根寺境内の整地まで進めます。
(後略)
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また、時代は違いますが、もの凄く意外なところで銭五と池田の接点があります。太平洋戦争後、池田市は世界の都市と友好関係を結び、オーストラリアのタスマニア州ローンセストン市とも結んでいます。同州は、タスマニア島にある街なのですが、この島に「かしうぜにやごへいりようち(加州銭屋五兵衛領地)」と刻まれた石があり、これについては『 幻の石碑 』(遠藤雅子氏著)という本で詳しく検証されているようです。驚きです。お互いにそれを知っていて、友好都市提携をした訳では無いと思うのですが、どこまでご縁があるのやら...。

この銭五について、どんな人物だったのか、詳しくは『銭屋五兵衛と北前船の時代』をお読みいただければと思いますが、そのダイジェストとして、同書の「はじめに」を少し紹介します。

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【伝説の銭五】
銭屋五兵衛ほど毀誉褒貶の著しい人物はいない。銭屋五兵衛の晩年は、金沢および近郊の民衆から「藩権力と結んだ政商」として批判された。銭五(銭屋五兵衛の略称)の「成功」は民衆から憎まれ、抜荷・海外密貿易の噂まで立てられ、飢饉になると騒動の標的にされた。嘉永5年(1852)の銭屋疑獄事件があれほどの大事件に発展したのも、実は当時の世評が要因であった。
 ところが、明治時代になると、銭屋五兵衛の評価は一変する。徳川幕府が墨守した鎖国体制の犠牲者として慰霊され、また検証された。つまり、銭五が密かに鎖国の国禁を犯し海外密貿易を行ったらしいという、不確かな伝承を素材に今度は賞賛した。銭五は徳川幕府の悪政である鎖国に反抗し、海外貿易を率先した偉人であり、時代遅れの加賀藩の保守政治の犠牲になったと、その悲劇性を誇張した。そして、銭五処罰の本当の理由は、河北潟への投毒容疑では無く密貿易だったと、銭屋疑獄事件の本質がすり替えられた。銭屋一族に投毒の疑いをもって罵声を浴びせた民衆は、やがて、銭屋処罰の理由は、藩首脳が密貿易の発覚を恐れての事だと合理化した。こうして明治のジャーナリズムと民衆は、銭五を海外貿易の先駆者として讃えることに熱中した。
 明治20年代は、国粋主義が台頭した時代であり、その傾向を帯びた偉人伝が多く刊行された。銭五伝も、その頃数多く刊行され、銭五の名前は全国に知られるようになった。なかでも、石川県士族の岩田以貞が、明治20年(1887)3月に東京尚書堂出版から刊行した『商人立志寒梅遺薫 -銭屋五兵衛伝-』は、数ある銭五伝の元祖といってよいもので、以後の銭五伝は、多かれ少なかれ、本書に影響された。(後略)。
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銭五の生涯は、現在にも通じる事で、決して過ぎたことではありません。現代を生きる私たちにも、これを知ることで導きになることが多くあります。
 また、この著者である木越隆三氏は、歴史の専門家でもあり、この著作を記すにあったって、歴史調査の心構えも述べられていて、この調査全体の姿勢も知ることがでます。「あとがき」を引用します。
 
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たった一人の人物伝を書くため、彼を取り巻くどれだけの人物を知らねばならぬのか、その手間と苦労を思い知った。銭屋五兵衛を総合的に理解するには、家族のほか、奥村栄実ら藩の重臣たち、(加賀国)宮越の商人集団や木谷藤右衛門など影響を受けた北前船主、娘の嫁ぎ先や息子達が作った人脈、青森の滝屋善五郎をはじめとする県外各地の取引商人など、あげたらきりがない。
 彼の生きた時代の制度・習慣・常識なども理解しなければならない。五兵衛の日記と古文書を頼りに書き始めた「銭五伝」だが、随所で暗礁に乗り上げた。文献資料でわかることは多かったが、肝心な所がわからず困った。しかし、古文書の言葉の一字一句の背景を考証する事で、少しづつ解きほぐれてきた。これが古文書を読む楽しみだ。(後略)。
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本を読み進め、この言葉に行き着いた時、なんだか救われた気持ちにもなりました。私も池田勝正の事について、永年調べていますが、全く同じ状況です。レベルは違いますが、専門家でもこのようにされているのですから、私のやっている事も間違いがなかったし、それしかないのだという摂理をも知ったように思いました。「その方法しかない。だから、できるところまでやるしかない。」と、そう感じました。
 いずれ、池田勝正の事も本にしたいと思っていたので、この本を読んで、木越さんのようでありたいと思うようになりました。

このように、人物を知る叢書としての優れた著作です。私はこれを主に仕事の移動中に読んだ本だったのですが、車中で夢中になって、乗り過ごしそうになる程でした。すばらしい本でした。銭屋五兵衛の事を知りたい方は、是非同書をお読み下さい。


2016年6月13日月曜日

池田勝正の跡職を継いだ、知正は山脇系池田氏か!?

詳しくはまた、東山町と戦国武将山脇氏でご紹介できればと思いますが、永年気になっていた、池田知正について、最近何となく解ってきたような気がしています。

以下のような点について、気になる要素がありました。

  1. 池田知正は民部丞を名乗ったか。
  2. 池田久左衛門尉と荒木久左衛門尉は同一人物か。
  3. 池田知正は、勝正の弟か。
  4. 知正は正式な池田家惣領か。

以下、上記の要素の答えです。

  1. 知正が民部丞を名乗ったとする記述は、系図に見られるが、その他の摂津池田氏に関する全てに同一の記述は見られない。また、知正の画像が大広寺に残るが、その絵の上部の賛に民部丞についての記述は見られない。
     池田家中に民部丞は史料上で確認でき、実在した事は確実ではあるが、池田久左衛門尉知正とは別人と考えられる。また、久左衛門尉と民部丞では、社会的地位も多少上下してしまうので、史料を追うと身分が上がったり下がったりするという矛盾も起きる。
  2. 池田久左衛門尉と荒木久左衛門尉は、同一人物と考えられる。史料上では、荒木村重との同僚的活動が見られ、その心安さから、村重が台頭した時にも池田家中から離れて、グループに参加したと考えられる。これはまた、この久左衛門尉が行動する基準の一つには、池田家本流の血の濃さも関係し、本流から遠い関係にあったからとも考えられる。
  3. 池田知正は、勝正の同じ母からの弟では無いと思われる。知正が勝正の弟される記述の主なものは系図で、それらの照合と資料的裏付けは未完のままではあるが、今のところ、史料上で見ると、同母で同じ系譜の兄弟である裏付けは得られていない。異母兄弟、従兄弟、義理の弟などではないかと考えられる。
  4. 元亀元年の池田勝正追放に端を発した池田家中の内部抗争(実はそれ以前にも何度か内訌はあるが、家の解体に繫がる決定的な内訌という意味で)は、天正元年の再抗争経て、荒木村重の乱で池田家は、跡形も無く消え去る事となる。
     天正年間後期から慶長年間前半にかけて、池田知正は池田地域のとりまとめ役として、池田家再興の中心となり、官位も得てそれを名乗るが、池田家惣領としての伝統である「筑後守」ではなく「備後守」である。
      この事を見ても、別系統の家系の人物である事が判る。池田家の菩提寺である大広寺の再興や梵鐘の寄進、人物の絵の奉納などの動きやこの頃の再興 の動きを合わせて見れば、別系統ではあるが、池田家の当主としての正当性を印象づけるための意図も持ちつつ、旧ブランドの再結集も意図して活動しているようにも思われる。
     知正は池田家の中心人物、すなわち、当主という事で間違い無いと思われるが、時代が変わった事も有り、「惣領」としての意味合いはそれまでとは少々違う感覚があったかもしれない。また、その当主時代の支配は、それまでの池田家とは、大きく縮小・後退している。
     

2016年5月21日土曜日

摂津池田城下にあった万願寺屋は荒木村重と関係する!?

大正時代頃の酒造家の万願寺屋跡(池田町史より)
満願寺屋は池田の歴史を語る上では、避けて通れない要素で、その歴史は広くて深いので、これだけを取り上げても相当なボリュームになります。詳しくはまた後日に譲るとしまして、戦国時代と万願寺屋の関係についてご紹介したいと思います。

この万願寺屋は、荒木村重とも関係するとされているのですが、その詳しい事はわかっていません。伝えによると、応仁年間(1467-69)頃から池田郷で酒造業を営み始めたと伝わっています。

この万願寺屋の当主は「荒城」を名乗り、このあたりがやはり荒木村重との系譜を連想させる主因となっているようです。また、万願寺屋当主の代々の墓が池田では無く、現在の伊丹市大鹿の妙宣寺にあって、このあたりのところも何だかミステリアスな要素です。

荒城九郎右衛門の銘
満願寺屋は、池田郷の酒造業では最も多く生産していました。池田酒の最盛期(醸造家38軒)でもある元禄10年(1697)の記録によれば、1135石を醸造しています。
 しかし、江戸時代に酒造家同士の訴訟に負け、没落していきます。その最後の姿が、写真に残されています。取り壊される前の様子だそうです。以下、昭和14年(1939)4月1日に発行された、池田町史にある「満願寺屋九郎右衛門の旧址」についての記述をご紹介します。
※池田町史(第一篇:風物詩)P113

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慶長以来、近畿に並ぶものなき我が郷土の酒造王、満願寺屋九郎右衛門の旧址は、池田町東本町池田警察署東隣の一角であって、其の旧址は西は警察曙より東溝(小蟹川)に限り、南部は本町より北は甲ヶ谷町に亘る広大な屋敷であった。現今は我が郷の素封家北村元一郎氏の所有地となって居て、数年前その旧址荒廃を極めし為、取り壊ちて借家と化って仕舞った。取り壊たれるまでは、永い間荒倉のまま風惨雨蝕に委して居たけれども、池田名物の一として八ツ棟造りの昔の遺影を存して居た。
 満願寺屋は荒城九郎右衛門と呼んだ。されど其の伝は詳らかでない。其の名の示す如く、古く川辺郡満願寺村より移住したものと伝えられて居る。そして我が郷土で酒造業を営んだのは遠く戦国の初期(応仁時代)に在りと伝えられて居る。世々醸造業を以て天下に知られた当地の旧家である。

『摂陽落穂集』
東武将軍家御前酒は、満願寺屋九郎右衛門より送り出せるなり。熊野田村の米を以て元米となし、水を清め道具を改め造り出せるなり。江戸表にて「満願寺」と呼ぶ酒之なり。

と記して居る。当時、一商人の分限を以て将軍の臺命を蒙り、破格の恩命に浴したものである。そして当時我が郷土の清酒醸造業者には一大特権を付与せられ、期年より運上、冥加銀、御免は勿論且つ、御朱印を下附され、また犯罪其の他其の業を継承すべきものなき以上休業を命ぜられざる特典があった。(後略)。
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妙宣寺にある歴代万願寺屋の墓群
万願寺屋は、池田城があった頃にもう既に城下にあったのかもしれません。発掘などは行われていませんので、定かではありませんが、戦国時代には大きな都市に成長していましたので、あったと想定した方が自然だと思います。池田は交通の要衝でもあったため、戦国時代にも宿場であり、やはり酒の需要もありました。
 ちなみにこの万願寺屋の系譜は、今の「剣菱」ブランドで全国的に有名な剣菱酒造株式会社に引き継がれているようです。
 
この万願寺屋については、近年、研究の進展無く、旧来のフレーズを繰り返すだけになっているのですが、城という狭い要素だけでも万願寺屋の関係を深めてみたいとは考えていますので、何れまた詳しくご紹介できればと思います。


2016年5月20日金曜日

摂津池田城の縄張り概念は、五月山山上にまで及んでいた!?

戦国大名池田筑後守勝正研究の核心である、勝正そのものの事実や家の事、また、その本拠たる池田城の事をしっかりとご紹介する事をそろそろしないといけません。
 摂津池田氏については、滅びた家だけに、総合的な検証もなければ、史料も無いため、これまでは、史料集めを兼ねたその外郭部分を見てきたのですが、少しずつ中心部分のことも見えるようになってきています。かといって、今日明日にご紹介いただけるような状態でもないのですが、兎に角、池田勝正についての細部をご紹介できる段階に入りつつあります。
 
それらは、このブログで先ず紹介し、ゆくゆくは、本にでもまとめられたらと考えています。ご興味のある方は、お楽しみにお待ち下さい。

それで、最近、池田城の支城について考えていますが、肝心の池田城そのもののテーマを立てていないことに気づき、それもやらなければならないと考えている次第です。
 それで今回は、ちょっと古い資料にある池田城の口伝・記述をご紹介して、後便に精を入れるための吉書はじめにしておきたいと思います。
 宇保町の荒木藤市郎氏を中心として池田町史編纂室を設け、昭和14年(1939)4月1日に、発行された池田町史にある、「池田城址」についての記述です。
※池田町史(第一篇:風物詩)P21

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昭和14年以前の様子(左奥の森が伊居太神社か)
一、城址
城址は五月山の南麓にあって、俚俗は城山と呼んで居る。周囲十余町歩に亘り、回字形をなして居る。近時城址の高台に2・3住宅等が造られて居るが、一度■(日の下に邛)を曳いて荒城の址に立てば、千古を語る老樹松鬱に和し、なんとなく在りし昔の偲ばれて荒城の歌でも唱いたくなる。
 廃墟の中央に一段高い平面の台地がある。俚俗は天守閣の跡だと呼んで居る。其前面東南下に谷の様に凹んだ所は堀と字して居る。濠址であろう。城は世々土豪池田氏の拠りし処であるが、池田氏の伝は詳らかでない。

一、城下町
今池田町の町の辻々を見るとひとつとして直線をなすものはない。悉く中途で屈折した枡形の町並みである。近時市街整理の為め其の2・3主要路線は屈折を除かれたが...。この屈曲した町並みが池田城を繞城下町として発達した遺址である。そうして伝へらるる池田城の遺墟を見るに、当時は未だ自然の険を恃んで造られた山城制の時代であって、現在の池田城址より稍々(やや)山上の大広寺付近か其の遺址の一部の様に思われる、と某将軍(元37連隊長)は話された
 知性は、西は猪名川の断崖に臨み、北は峻嶺の五月山を負い、東南部は杉ヶ谷川の自然濠を控え、南部は恵那堀の第2次濠があった様である。今この堀は林口町と田中町両界の溝渠となって居るが『細川両家記』を見ると、永正5年5月10日、細川高国の為に埋められた様である。そして山脚は城山より南東部の高台、附属小学校より建石町法園寺に至り、其れより東部に屈曲して、上池田町に亘る一帯の高台は羅城(外郭)を廻らして居た様である。

『永禄記』
 永禄11年10月2日池田へ御手遣い、大軍を以て外構放火せられ云々
 
又建石町回生病院付近では『弓場』の地名を存し、又陽春寺登山路の下より小阪前に至る区域は『的場』と呼んで居る。思うに当時武道教練に設けられた射場の地であろう。当時は常備の武士を城内の館舎に置いて、非常に備えしと謂えば其の地勢より見て、建石町及び上池田町の高台の地は屋敷町の地であって、下町方面は主として商業地区として発達したものの様である、かの俚謡に

山家なれども池田は名所。月に十二の市が立つ。

と謡われた場所は下町に当たる、東西本町より仲之町方面に亘れる地区に限定されて居た様である。
(後略)
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ちなみに、同月29日に池田市が誕生しています。市に昇格するにあたって、これまでの基礎になる要素をまとめて、今後に役立てようとしたのでしょう。そうだとすれば、大変賢実で、立派な考えだと思います。

昭和40年代初期頃の写真(池田市史 史料編より)
さて、町史にある上記の記述で興味深いのは、この町史が発行された時代は大東亜(太平洋)戦争前で、軍人が日常的に多数おり、その軍人に池田城についての所見を聞いて、城の縄張りの概念復元を試みている点です。全国の村や町に帝国在郷軍人会が必ずあって、活動をしていました。
 この記述を見た事もきっかけの一つだと感じていますが、私自身が色々調べる内に、やはり池田城防備の概念は、五月山山上にも及び、大広寺もその一部を担っていたと考えるようになっています。現在山上にある「五月山愛宕神社」もその関係地だと思います。ここに立つと、北東方面以外は全て俯瞰できます。いわゆる270度の視野です。河内飯盛山城もそうですが、山城の立地はだいたいこういう条件のところに造られています。
 池田城は山城ではなく、その中腹に造られていますが、池田城は時代時代の中で重要な拠点の地位でもあり、こういった事から考えても、視野を確保して備える要素は、不可欠であり、必ず求められただろうと考えています。同時に、五月山北側の細川地域との連絡や通路接続についても、頂上は結節点として機能していたと思われます。
 
詳しくはまた、池田城の項目で考えてみたいと思います。では、また。